宝物 その10   (2012年5月)

著者写真
『造化機論』の千葉繁
─幻の性科学者にとっての近代
赤川 学
( 【行動文化学科】社会学専修課程 ;
【社会文化研究専攻】社会学専門分野 )

知られざるベストセラー、造化機論をご存じですか

たいへん重いバトンを渡されて、恐縮している。

私自身は、社会学者としてトレーニングを受け、現在でも社会調査実習や演習では、社会調査の方法論について講義している。それはそれで楽しいのだが、個人的には、十数年前に博士論文(『セクシュアリティの歴史社会学』勁草書房、1999、写真1)で手がけたような、日本におけるセクシュアリティの歴史研究に邁進しているときが、もっとも心やすらぐ。

昨今の大学事情では、なかなかその種の趣味的研究に没頭することは難しい。しかしここ半年間ほど、幕末から明治の激動期を生き、日本のセクシュアリティ言説に大きな影響を与えた一人の男――『造化機論』の翻訳者・千葉繁――について調べる時間をもてた。新たな発見もあった。今回は、その途中経過を報告させていただきたい。

造化機論は、明治期に一世を風靡した性科学書で、日本のセクシュアリティの歴史を語る上では欠かすことのできないテクスト群である。「造化」は「造化の妙法」「造化の神」など、造物主や自然を意味する言葉で、生殖器・性器のことを当時、「造化機」と呼んだ。「造化機」について論じた書物は明治期には大量に刊行され、類本・異本・二番煎じを含めれば、優に100種類以上の「造化機論」が存在している。『解体新書』(1774)の生殖器版といってよいかもしれない。

その中でも、明治8(1875)年11月に版権免許を獲得し、表紙に「米国善亜頓撰 千葉繁訳述」とある『造化機論』は、その嚆矢となるテクストである(図1参照)。


表紙 図1.『造化機論』の表紙

『造化機論』は、明治期の風俗史家や性教育の歴史に興味をもつ人には、それなりに知られていた。たとえば記念碑的名著『オナニーと日本人』(1976)の著者・木本至氏は、「健康法の一部としか扱われなかった人間の性は、ようやく明治八年に『造化機論』(乾坤二冊)が刊行されるに及び、はじめてプロパーな専門書をもつことができた」、「『造化機論』こそは、近代の言葉と論理で性を解きあかしたモニュメンタリーな書物として是非とも記録されねばならない」と、最大限の賛辞を送っている(同書69頁)。

また同時代の史料をみても、やはり造化機論に対する注目は高い。たとえば明治期のさまざまな事物の起源を編纂した石井研堂は、「性の訳書の先鞭」という項目で、「明治九年十二月、千葉繁、米国善亜頓の原著を訳出し、『通俗造化機論』と題して発行し、同十一年四月第二篇を続出す。これ性の訳書の先鞭にして一時非常に売れたれば、同種の類書続続世に出たり。[東京新誌]明治一二年事物盛衰記に『春画本廃れて造化史興れり』とあるものこれなり」(『明治事物起原』 1944→1969、520頁)と記していた。春画や春本に取って代わるほど、造化機論がブームになっていたというのである。

さらに『造化機論』については、すでに科学史家の斎藤光氏による精巧な調査がある。その原著はJames Ashtonなる人物による、”The Book of Nature”(1865)である。斎藤氏によれば、千葉繁は正確に英語を日本語に置き換えており、千葉自身が「かなりの英語力の持主であった」(「解説」『近代日本のセクシュアリティ1』ゆまに書房、2006、7頁)ことが判明している。

しかしその翻訳者である千葉繁についての情報は少ない。

千葉は生涯、

という4冊の本を出版している。その奥付をみると、③に「神奈川県士族」という肩書きがあり、住所について①・②では、「神奈川県下横浜伊勢山町四十五番地」、③では「第一大区一小区横浜大田町六丁目九十五番地」、④では「横浜区野毛区四丁目三百五拾弐番地」となっている。しかし、それ以外のことは全くわからない。「訳者の千葉繁の姿は霧に包まれており、いまだようとしてその行方はつかめていない」(斉藤光「解説」、9頁)。

私自身、博士論文を執筆して以降、千葉繁のことが気にかかっていた。なんとか彼の履歴に関する手がかりをつかめないものかと思案した時期もある。しかしその片鱗をなかなかつかめなかった。今回、近世史の山本英二・教授(信州大学人文学部)、ならびに私の親友である中島一仁氏(朝日新聞社)のご指導とご協力のおかげで、その一端を明らかにすることができた。改めてお二人に感謝の意を申し上げたい。

というわけでしばらくの間、千葉繁というミステリーに、おつきあいいただきたい。


千葉繁は千葉欽哉だった

2004年10月、私は千葉繁のことを当時同僚だった山本英二教授に相談した。すると早速、国立公文書館の公文書検索サブシステム(現在は閉鎖し、国立公文書館デジタルアーカイブに移行)で、一件ヒットするとご教示いただいた。『太政類典・外編・明治四年~明治十年・保民・戸籍・衛生・救済・警察』(作成部局・太政官)に、「神奈川県十一等出仕千葉繁通称欽哉ヲ廃ス」(作成年月日:明治6年09月24日)なる文書があるという。喜び勇んで国立公文書館に出向いてコピーをとった文書には、次のように記載されていた。


「 千葉欽哉願 神奈川県宛
私儀昨壬申五月迄通称欽哉実名繁ニ有之候処同月十日以後可為一名旨御布告ニ付実名ノ方ニ相改候儀ノ処其節別段御届不仕候ニ付当御県ヨリハ其御筋ヘ矢張欽哉ヲ以御届相成候趣承知仕候然ル処本貫ノ庁ヘハ総テ繁ヲ以諸御届仕来候事故自然両名ニ相成不都合ニ候間以来繁ノ字ニ御改被下度此段奉願候以上 九月二十四日編」

つまり千葉繁は、壬申5(明治5=1872)年まで通称・欽哉、実名・繁であった。しかし明治5(1872)年以降、実名に統一すべしという方針が出されたので、今後は「繁」に統一したいという。どうやら千葉繁は、別名・欽哉であり、「神奈川県十一等出仕」として勤務する公務員であるらしい。

ただ慎重に考えれば、「神奈川県十一等出仕」の千葉繁が、『造化機論』の千葉繁と同一人物とは限らない。単なる同姓同名の人物が同時期に神奈川県に存在した可能性が、100%ないとはいえないからだ。

しかしこの二人の千葉繁が、地理的に非常に近接していた場所にいたことはたしかである。

というのも『造化機論』の奥付には、千葉繁の住所は「横浜伊勢山町四十五番地」とある。これを『改正横濱分見地図 全』(1877=明治10年、尾崎富五郎、図2)で確認すると、現在の伊勢山皇大神(横浜市西区宮崎町64)の近辺である。そして伊勢山神社の周囲には、「カンシャ」という文字をいたるところに見いだせる。いうまでもなく神奈川県庁の官舎である。神奈川県に出仕する千葉繁が官舎、あるいはその近辺に住んでいた可能性は高い。つまり神奈川県庁職員の千葉繁と、『造化機論』の千葉繁は、極めて近いところに住んでいた。


分見地図 図2. 『改正横濱分見地図 全』より「横浜伊勢山町四十五番地」近辺

しかしこのあと、私は長らく千葉繁を見失っていた。個人的に他の仕事(雑用)が忙しくなったことが主たる理由だが、これ以上の探索手段を欠いていたこともたしかだ。しかし2011年10月、大学時代の学友でもあり、学生時代には近世史を研究していた中島一仁氏と酒宴を行なった時、たまたま千葉繁のことを話題にしたら、彼は即座にこういうのだった。国立公文書館で、神奈川県の「官員履歴」をみてみろ、と。これは現在で言うところの、公務員職員録のようなものである。明治初期の神奈川県庁の「官員履歴」は、なぜか公文書館に存在するのだった。

数日後、私は公文書館を訪ね、明治初頭から10年代までの、神奈川県の官員履歴をひたすら「めくった」。数十分後、『神奈川県史 付録 旧官員履歴書』(明治元年四月廿日ヨリ十年一月十五日マテ)のなかに、ついに「千葉繁」の文字を発見した。息をのんだ。そこには次のようにあった。


「判任部
中属四等属 相当
三等訳官
木更津県貫属士族 元鶴舞県 旧名 欽哉
千葉繁 壬申三十九歳
明治五年壬申四月晦日
一 神奈川県十四等出仕申付候事
同六年八月廿八日
一 補同県十等出仕 上等月給下賜候事
同八年十月廿二日
一 雇ニ転ス
満三ヶ年以上奉職ニ付月給一ヶ月半分下賜」

この史料から何を読みとくべきか。

第一に、ここに登場する千葉繁(旧姓・欽哉)が、明治6年に通称・欽哉を廃して繁を名乗った、神奈川県十一等出仕の千葉繁であることは間違いない。

第二に、千葉繁が神奈川県に出仕していた役柄と時期が判明する。「三等訳官」とあるから、英語の行政文書を翻訳したり、通訳的な業務を担当したのであろう。出仕日は明治5(1872)年4月30日、3年後の明治8(1875)年10月22日に「雇ニ転ス」とある。勤務期間は3年6ヶ月だ。

小学館国語辞典編集部『日本国語大辞典』によると「やとい=雇・傭」とは、「③官庁などで、任官していない臨時の職員」のことである(第2版、13巻、2006、153頁)。「雇ニ転ス」とは、一種の人員整理により、正規雇用から臨時雇用に身分変更がなされたという意味であろう。

ところで『造化機論』の千葉繁が版権許可を得たのは、同11月12日。神奈川県・三等訳官の千葉繁が事実上退職したのは、明治8年10月22日。約1ヶ月のタイムスパンがあるが、「雇ニ転ズ」という事実と、『造化機論』の版権取得とは、時期的にも符合する。

空間的にも時間的にも、ここまで偶然の一致がありうるだろうか。ちょっと考えづらい。とりあえずここでは、「神奈川県十一等出仕」の千葉繁と、『造化機論』の千葉繁は同一人物であるとして話を進めたい。


千葉繁は、浜松藩(鶴舞藩)に所属していた!

再び官員履歴の記載に戻る。さらに注目すべきは、千葉繁が「壬申39歳」で、木更津県(元・鶴舞県)の貫属士族であったということである。ここで千葉繁の生年と出身藩が判明する。

まず「壬申39歳」は、「壬申・明治5(1972)年に数え年で39歳」と解釈できる。つまり天保5(1834)年生まれ、ということになる。同年に生まれた著名人には福澤諭吉(1835-1901)、新撰組の近藤勇(1834-1868)らがいる。坂本龍馬(1836-1867)は2歳年下。これら幕末有名人とほぼ同世代だ。

つぎに木更津県(元・鶴舞県)は、現在の千葉県の前身にあたる。鶴舞県は明治維新後、浜松藩から転封となった鶴舞藩(当主・井上正直、1869年6月~1871年7月)が、廃藩置県に伴い鶴舞県となったものである。現在の千葉県市原市鶴舞を中心とする地域であり、明治4(1871)年11月に木更津県に統合された。つまり千葉繁は、鶴舞県の前身の鶴舞藩、すなわち浜松・井上藩出身の士族ということになる。

ここまでの考察が正しければ、千葉繁が神奈川県に出仕した明治5(1872)年には満38歳、『造化機論』の版権許可を得た明治8(1875)年には満41歳だったことになる。厚生労働省が公開している簡易生命表によると、少し下った明治24-31(1891-1898)年の男性の平均寿命(余命)は42.8才。明治初頭にあって「遅咲きの花」といえば、いいすぎだろうか。


浜松藩の分限帳における千葉繁

それはさておき。ここまでわかったら、次に何をすればよいのか。中島一仁氏のアドバイスはひとこと、「分限帳をみろ」であった。

分限帳とは藩士・家臣団の名簿のようなものだが、鶴舞藩(浜松藩)井上家については1960年代以降、南総郷土文化研究会による精力的な史料収集が行われており、現在は『南総郷土文化研究会叢書』上で、活字化した10冊の分限帳を読むことができる。この叢書を編集した小幡重康氏によると、井上藩の歴代の記録、古文書類、宝物類は1930年代の失火により灰塵と化し、分限帳にしても完全なものは残っていない。特に年代の古いものは上級藩士に限られ、全藩士を含んでいないという。

したがって分限帳のリストは完璧とはいえない。だが、その10冊のうち4冊から、千葉繁(欽哉)と関連すると思われる人物の記載を発見できた。これも嬉しい驚きであった。

表1では、分限帳の名称、成立時期、人数、ならびに分限帳にみえる千葉姓を有する人物に関する記載を記した。なお静岡県・浜松では、江戸期全体を通して、当主が何回も交代しており、井上藩自身も転封を繰り返している。その動向は複雑で、わかりにくい。そこで表1では井上藩の入転封の情報を付加しておいた。ここから千葉繁を含む千葉氏が、いつごろ浜松井上藩の家臣団に加わったかをある程度特定できる。


表1 表1


分析を進める前に、何点か留保を。

まず分限帳の網羅性である。①から⑤の分限帳は、人数が110~140人で、それ以降のものとくらべると明らかに家臣数が少ない。これは知行取50石ないし150石以上の上級武士のみを掲載しているからである。つまり中級以下の武士は、この名簿には記載されていない。他方、⑥・⑧・⑨は人数が多く、網羅性も高い。特に⑥は江戸詰の藩士を除くほとんどの藩士、⑨は鶴舞に点封した家臣全員が掲載されている。鶴舞藩では家臣の数を「七○○かまど」といったらしく、⑨の数字はその事実とも対応する。

次に、表1に明らかなように、千葉という姓をもつ人物は、⑦~⑩以外には登場しない。⑦にはじめて「千葉銕哉」という形で登場し、⑧に「千葉繁」、⑨に「千葉欽哉」、⑩に「千葉欣哉」がそれぞれ1回登場するだけだ。むろんこれは、①から⑥の分限帳が作成された時期に、井上藩のなかに千葉姓をもつ人物が存在しなかったことを意味しない。特に①~⑤では、記載もれが生じている可能性がある。

ただし、次のように考えることはできるはずだ。今後、(千葉姓をもつ人物が始めて登場する)⑦の分限帳が成立する以前に作成された井上藩の古文書に、千葉姓をもつ人物が藩士や家来として登場したならば、それは⑦~⑩の千葉とかなり強い関連をもつ人物、具体的には祖先である可能性が高い、と。のちにみるように、このことは大きな意味を持つ。


4人の千葉

しかしまずは、⑦から⑩に登場する千葉がいったい何者なのかを確認せねばならない。はたして千葉銕哉、繁、欽哉、欣哉は、同一人物なのか、それとも異なる人物、たとえば親子や親類縁者なのか。

⑦から⑩における千葉の記述は、以下の通りである。


⑦「七、井上藩御家中中小姓以上名前帳
 (略)
 西高町 東高町 清水 半頭町
 (略) 
      千葉 銕哉   」


⑧「八、従四位井上河内守家臣名簿
 (略)
 二十石高 旧高(従拾人扶持至二百九十九石 百七十一家)
 (略)
      千葉 繁    」


⑨「九、明治五壬申二月士族卒順席人名記
(略)
      千葉 欽哉   」


⑩「南総市原郡鶴舞領主君臣神名録
(略)
            千葉欣哉   」

謎の多い史料は、⑦である。その考察に入る前に、⑧から⑩の記載をチェックしてみよう。

小幡重康氏によると、⑧「従四位井上河内守家臣名簿」には作成年次の記載がない(小幡、1979、p.36)。しかし藩主の(従四位)井上河内守・正直を「旧臣」と称していることから、作成は明治初期と考えられる。「千葉繁」の名は、二十四石高を得ている17人に次いで、二十石高171人のうち158番目にみえる。つまり全622名のうち通算175番目に登場する。この「千葉繁」は『造化機論』の千葉繁と同一人物と断定してよかろう。そして浜松(鶴舞)藩で千葉繁は中級以上の家格であったと考えられる。

⑨「明治五壬申二月士族卒順席人名記」は、明治5(1872)年の家臣団名簿である。ここに登場する「千葉欽哉」も、実名・千葉繁の通称であり、『造化機論』の千葉繁と同一人物と断定してよい。ちなみに全720名の藩士のうち155番目に登場し、藩士内の序列は⑧や⑩と酷似する。

⑩「南総市原郡鶴舞領主君臣神名録」は、鶴舞神社(市原市)に蔵する掛け軸であり、藩士720名が記載されている。明治13(1880)年1月、旧鶴舞藩士・倉垣愛氏の筆致と確認されている(小幡、1982、26頁)。「千葉欣哉」は151番目にある。⑧や⑨と比較してもほぼ同様の位置にあり、「欣哉」は「欽哉」の誤記と考えるのが自然である。すなわちこれも、『造化機論』の千葉繁と断定できる。

以上、⑧~⑩に登場する千葉繁・欽哉・欣哉は、『造化機論』の千葉繁と同一人物とみてよい。つまり明治期に入ってからの分限帳には、千葉繁は必ず顔を出している。明治元(1868)年、千葉繁は推定34歳。人生50年の時代にあって、働きざかりの時期ともいえるし、後戻りできない年齢ともいえる。


写し 図3

「千葉銕哉」とは誰か


さらに⑦に登場する「千葉銕哉」について考察してみよう。⑦は、千葉という姓を持つ人物が井上家の分限帳に初めて登場する史料であり、さまざまな想像をかきたてられる。「銕哉」は千葉繁と同一人物なのか、それとも繁と近親関係にある人物、たとえば父親なのか。

これを検証するためには、⑦の現物をみてみるのが手とり早い。そこで2011年11月、私は新幹線に乗って、浜松市立図書館の史編纂室・郷土資料室を訪れた。当の史料は、浜松市東伊場町に在住の故・岡部厳夫氏が所蔵していたものだが、残念ながら現在、その所在を確認することはできなかった。散逸した可能性が高いとのことである。

しかし幸いなことに、現物を正確にペンで筆写したノートが浜松市立図書館・郷土資料室に残されていた。このノートを確認すると、「千葉銕哉」は右の写真(図3)のように記載されていた。私の目にはどうみても「銕哉」ではなく「欽哉」に読める。もしこれが「欽哉」だとするなら、このノートを活字化するさいに転記ミスが起こったと考えられる。つまり「千葉銕哉」という人物は実在せず、千葉欽哉(繁)の誤記だったのではないか。この見立てが正しければ、結局のところ4人の千葉--銕哉、繁、欽哉、欣哉は1人の千葉繁、すなわち『造化機論』の千葉繁であったということになる。


図3. 「御家中中小姓以上名前帳」の筆写ノート、千葉の部分(撮影:2011年11月)

「井上藩御家中中小姓以上名前帳」の成立年代

だが『造化機論』の千葉繁が、いつ頃から歴史上の記録に名を残すようになったのか。これは重要なポイントだ。注視すべきは、⑥と⑦の分限帳である。

小幡重康氏によれば、⑥の成立年代は、井上藩が棚倉にいた文化14(1817)年から天保7(1836)年のいずれかである。小幡氏は文政2(1819)頃と推定しているので、私もこの説に従いたい。

問題の史料⑦も年次の記載を欠いている。しかし小幡氏によると、井上藩が2度目の浜松に転封となった弘化2(1845)年から、明治元(1868)年にかけての23年間のある時期を起点として作成が開始され、人名や情報が逐次添加されたと考えられる(小幡、1979、 p.31)。この説に従うならば千葉繁は、⑥が成立してから⑦で加筆が行われていく間のどこか、すなわち文政2(1819)年から明治元(1868)年のいずれかの時点で、井上藩の家来になったと推定できる。

小幡氏の考察は、たいへん慎重なものであり、学ぶべきところが大きい。しかし私はもう少しだけ踏み込んで、この筆写ノートをみつめてみたい。というのもこの筆写ノートは、(A)台帳の基本となる部分(以降、基本部分)と、(B)役職の交代が行われるたびに、前者の上方に人物名や役職を追加した部分(以降、追加部分)に分かれているからだ。「基本部分」に書かれている名前は、この名前帳の作成が開始された当初から記載されていたと考えられる。そしてこの基本部分に浜松藩士の誰が登場し、誰が登場しないかをみていけば、さらに成立年代を特定できる可能性がある。

そのような目論見で『浜松市史』や『三百藩家臣人名事典』(新人物往来社、1988)を読んでみると、浜松藩士のなかに二人、重要人物がいる。

一人は、賀古(加古)公斎(1819-1889)である。公斎の息子は、森鴎外の無二の親友、あるいは鴎外の小説『ヰタ・セクスアリス』における「古賀鵠介」のモデルとして有名な賀古鶴所(1855-1931)である。公斎は大阪で生まれ、長崎に遊学して蘭学を学び、安政6(1859)年11月から浜松藩に召し抱えられた。賀古公斎は、⑦の基本部分に書かれている。すなわち⑦の作成開始時期は、早くとも1859(安政6)年以降と推定できる。

もう一人は、岡村義理(1802-1873)である。9代藩主正春の側用人、旗奉行を経て家老となる。弘化4(1847)年、『海防私考』を表して国防力の強化を主張し、安政2(1855)年には「御為筋申上げ覚書」なる財政打開策を献上した。しかし岡村は文久元(1861)年、藩の軍事改革として西洋流火器を唱えて、蟄居閉門の憂き目にあう(以上、『三百藩家臣人名事典』「浜松藩」の項より抜粋)。この岡村義理の名前は、⑦にみえない。浜松藩史上これほどの重要人物が、名前帳に書かれていないことを重視するならば、⑦の作成開始時期はさらに遅く、文久元(1861)年以降となる。


さて千葉欽哉(誤字で銕哉)は、⑦にどのように登場するか。実は図4のように、茂呂弥次郎、同?次郎とともに追加部分に登場する。したがって千葉欽哉の名前は、⑦が作成開始された1859年ないし61年以降に、この名簿に書き込まれたと考えられる。千葉繁は1834(天保5)年の生まれだから、⑦の成立が1859年なら千葉は満25歳以上、1861年以降なら満27歳以上である。つまり千葉繁は早くとも20代半ばを過ぎてから、家臣の列に加わったと考えられる。


ノート 図4. 御家中中小姓以上名前帳・筆写ノート(浜松市立図書館・所蔵のコピー)

井上家文書における千葉

分限帳からわかることは、このあたりが限界だ。ここからはいよいよ近代の活字化された資料を離れて、近世古文書の世界に足を踏み入れなければならない。

浜松藩・井上家に関する文書、通称、井上家文書は、京都大学文学部博物館古文書室に収蔵されている。そのほとんどは、安永9(1790)年から断続的に明治9(1876)年まで保存されている『諸向御届』である。その中身はよくわからないのだが、2011年12月、とりあえず体当たりで「千葉」という文字列をローラー作戦でめくってみた。

すると再び幸運なことに、千葉欽哉を慶応4年の『諸向御届』に1件、明治2年の『寓殿目録』に5件、他の千葉氏を3件発見することができた。6回登場する千葉欽哉についての本格的な分析は後日を期すとして、ここでは、千葉欽哉以外の千葉氏に注目したい。

千葉繁(欽哉)以外に『諸向御届』に登場する千葉氏は3人。千葉道三郎、千葉忠詮、千葉忠作(忠詮の息子)である。このうち千葉道三郎は、慶応2(1866)年の『諸向御届』に、文久2(1862)年に出奔した大谷貞八郎が、「釼術修行仕千葉道三郎方ニ罷在候」という形で出てくる。道三郎は江戸の剣術師範と思われるが、井上家とは関係のない人物だろう。


あえていおう、千葉繁は千葉忠詮の次男である、と

ここで着目すべきは『諸向御届』、安政3(1856)年9月19日付の文書である。

「    井上河内守家来
       千葉忠詮悴
        千葉忠作  当辰弐拾五歳

右之者兼々身持不宜ニ付度々異見
差加候得共不相用難見届御座候ニ付
今度追出申候右体不覚悟者ニ付
先々如何様之悪事可仕茂難計候
依之父忠詮始諸親類一同致久離
度旨相願候ニ付願之通申付候間為後日
御帳江御記置可被下候以上

      御名使者
       小嶋新助
辰九月十九日」
 (現代語訳)
「右の者(千葉忠作)、かねてより身持ちが良くないので、度々意見をしてきたのですが、それを受け入れず、見届けがたく思いますので、この度、追い出しました.右の者(忠作)は覚悟のない者です。先々、どんな悪事をするかもわかりません。そこで父・忠詮をはじめ親類一同、永久に別離したい旨をお願いしてきたので、願いの通りに申しつけました。後日のため、御帳に記し置きくださるようお願いします。以上。」


この文章は、井上正直の家来・小島新助が、井上家の家来である千葉忠詮・忠作父子の間に起こった事件を、江戸の奉行に申告したものと考えられる。父・忠詮が25歳の息子・忠作を絶縁した事情が書かれている。その中身にはこれ以上立ち入らないが、重要なことは、浜松井上藩に、千葉繁以外にも、千葉姓をもつ家来が存在したという事実である。しかも江戸詰の藩士である。江戸詰めの藩士であるならば、それなりに網羅的な分限帳⑥にも、千葉姓をもつ人物が登場しないことにも合点がいく。

そして、この千葉忠詮をgoogleで検索すると1件ヒットする。それによれば、下総・千葉家の33代当主とされる千葉胤邑(1801-1864)の幼名が、「忠詮」なのだ。


【千葉胤邑(1801-1864)】

千葉氏三十三代。三十二代・千葉権介倚胤の子。幼名は忠詮。別名は皇胤。

倚胤より医学の手ほどきを受けており、天保12(1841)年、父のあとをうけて医師となり、本所の診療所を継いだ。元治元(1864)年11月5日に本所で亡くなり、東京の本所法恩寺に葬られた。法名は本光院殿相意忠詮日礼大居士。

●参考文献「下総千葉氏末葉考」山田勝治郎(『千葉文華』第十五 所収)
(http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/souke40.htm)

このウェブサイトに参照されている山田勝治郎の論文「下総千葉氏末葉考」には、さらにこう書いてある。


「◎千葉胤邑
胤邑は千葉権介倚胤の嫡子にして幼名を忠詮と云ひ天保一二年家督相続して千葉権介胤邑又の名を皇胤と称す。父の職を嗣ぎて医師となり江戸本所に住し元治元年十一月五日同所にて没す六十三才 本所法恩寺に葬す。 法名本光院殿相意忠詮日礼大居士 嗣子続胤長女聟長男弥一郎、二男常太郎あり続胤元治元年家督相続」

千葉忠詮は、千葉胤邑(皇胤)であり、江戸の本所で医師を開業していた。

さらに成田市史を繙いていくと、下総千葉家の系図を詳しく記した「海保弥兵衛家系図」には、胤邑(忠詮)の父である千葉倚胤の記述のなかに、「然処二男忠詮胤邑江府ニ住ミ、天保歳中同人事館林侯ニ被雇大阪城ニ登番之砌、両親共江府江引取致養介置候、干時天保十一子年四月廿八日星霜六七歳ニ而卒ス」という記述がみえる(大野(1979))。

「天保歳中同人事館林侯ニ被雇大阪城ニ登番之砌」という記述、ここが重要である。というのも井上家第9代の井上正春(1806-1847)は、天保7(1836)年から弘化2(1845)年まで9年間にわたり、館林の地に転封された。そして天保9(1838)から11(1840)年までのあいだ、大阪城代を勤めていた。つまり千葉忠詮は、井上正春が館林領主である間に、井上家に雇用されたと考えられる。これを要するに、下総千葉家33代当主とされる千葉忠詮(胤邑)は、『諸向御伺』に登場する井上河内守(正春)の家来、千葉忠詮と同一人物であり、忠詮は、天保7(1836)年から同9(1838)年の間のどこかの時点で、浜松藩に医師として召し抱えられた、ということである。


縷縷述べてきたように、井上藩の分限帳には、千葉繁(欽哉)以外に、千葉の姓を有する人物は存在しない。したがって仮に、千葉繁以外に千葉姓を有する人物が、井上藩の家来と確認されたならば、その人物は千葉繁の係累である可能性がきわめて高い。この仮説を千葉忠詮と繁の間柄にも適用できるのではないか。千葉忠詮(胤邑)は享和1(1801)年、千葉繁(欽哉)は天保5(1834)の生まれで33歳違いだから、ありうるとすれば父子の関係だろう。つまり下総千葉家の末裔・忠詮は、『造化機論』の千葉繁の父親ではないか。


無論まだいくつか検証しなければならない事柄もある。たとえば井上家の家臣、特に江戸詰や大阪詰めの藩士に、忠詮・繁以外の千葉氏が存在する可能性がないとはいえない。また千葉忠詮とは無関係に、千葉繁(欽哉)が一本釣りで井上家に雇用された可能性も現時点では排除できない。実のところ、ここまで私を悩ませてきた最大の謎は、千葉欽哉の名前が、井上藩の分限帳に江戸末期(1860年前後)になって突然登場してきたことだった。実は私自身、繁がよほどの英語の才能の持主で、英学需要の波に乗って、その能力を買われて藩に雇用されたと考えた時期もあった。福澤諭吉は、「江戸の方では開国の初とはいいながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷というものがあって、西洋の新技術を求むることが広く且つ急である。従って、いささかでも洋書を解すことの出来る者を雇うとか、あるいは翻訳をさせればその返礼に金を与えるとかいうようなことで、書生輩がおのずから生計の道に近い。極都合の宜い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は百石の侍になったということもまれにはあった」(『福翁自伝』111頁)とのべているが、千葉繁が「極都合の宜い者」として侍になった可能性もあると思われたのだ。

しかしだとすれば、浜松藩士のなかでもかなり重要な人物として、藩の記録や藩士の記憶に、千葉繁の名が刻まれていてもおかしくない。だが現時点では、浜松市史、静岡県史、市原市史、千葉県史においても井上藩史を研究してきた人の間でも、千葉繁はほぼノーマークの存在である。  しかしこうした諸々の疑問や矛盾は、「千葉忠詮が千葉繁の父親」という仮説を置くことによって、春の氷のように氷解していくのである。だから私はギレン・ザビの口吻で述べてみたい、「あえていおう。千葉忠詮は、千葉繁の父親である」と。

このような仮定を置くと、千葉繁は忠詮の次男ということになる。先の記事によるならば、忠詮の勘当された息子・忠作は安政3(1856)年の時点で数え25歳。1834年生まれの千葉繁は1856年には数え23歳であるから、繁は忠作より2歳年少である。「下総千葉氏末葉考」には「嗣子続胤長女聟長男弥一郎、二男常太郎あり」とあるので、長男弥一郎が忠作、二男常太郎が繁ということになる。


千葉繁の前半生――誰か千葉繁を知らないか

おおむねここまでが、今回の謎解きの主要部分である。


千葉忠詮が、千葉繁の父親である。――これだけのことをいうために、干支も一回りした。ずいぶんと時間がかかったものである。しかも、完全に証明できたというわけではなく、現時点ではもっとも蓋然性の高い仮説であるにすぎない。いずれ反証される機会があるなら、それはそれでよい。ただ本稿では、ここまでの推理と仮定から、千葉繁の前半生を、以下のように年表風にまとめてみたい。

千葉繁(通称・欽也)は、天保5(1834)年、かつて上総国を統治した戦国大名・下総千葉家の末裔を名乗る、江戸本所の医師・忠詮の二男として生まれた。父・忠詮こと千葉胤邑は、天保7(1836)-9(1838)年のどこかで、浜松井上藩に医師として召し抱えられた。このとき繁は満2歳から4歳のいずれか。医師であった忠詮から、医学に関する知識を得ていたであろう。

浜松藩校・克明館が浜松城内に設置されるのは、弘化3(1846)年。繁はこのとき12歳。千葉胤邑は元治元(1864)年に本所・法恩寺で葬られているので、おそらく江戸藩邸に通う医師であったと考えられる。したがって繁が、浜松の克明館で学んだかどうかは不明だが、江戸藩邸でも江戸詰めの子弟には浜松と同じような教育が施されていたので、10代の青年期を、浜松藩の教育体制のなかで過ごしたことは確実である。克明館の教授からも少なからぬ影響を受けたであろう。

安政3(1856)年、父・忠詮は長男・忠作を勘当する。このとき繁22歳。ここから繁が井上藩に仕える道筋が開けてくる。

繁が分限帳に登場し、井上藩に仕官したことが確認できるのは安政6(1859)年か安政8(1861)年以降、繁は25歳か27歳以降。父・忠詮は元治元(1864)年になくなる(繁・30歳)。

激動の幕末を経て明治政府が誕生した明治元(1868)年、浜松井上藩は鶴舞6万石に転封となる。繁はこの転封につき従い、鶴舞の地を踏んだ。この頃から繁の名前は、井上家の記録に現れるようになる。今回は省略せざるをえないが、千葉繁は、種痘医の小菅純清や、藩医の賀古公斎としばしば行動をともにしている。おそらく浜松井上藩のなかでも、父と同じ医学畑を歩み、この過程で洋学の素養を身につけたのであろう。

明治5(1872)年、鶴舞藩・鶴舞県は消滅、繁は、おそらく英語力を買われて神奈川県庁に三等訳官として勤務する(38歳)。しかし明治8(1875)年、わずか3年で退職するのとときを同じくして、『造化機論』を出版し、ベストセラーとなる(41歳)。

 謎めいた、しかし劇的な人生といえよう。


ここまでが、私の推測込みによる千葉繁の前半生だ。いまだ、千葉繁本人の肉声といえるべき史料、日記や手紙の類はみつかっていない。遺族がいるかどうかもわからない(この原稿をみたひとのなかに、千葉繁について何らかの情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひ赤川学(akagawa@l.u-tokyo.ac.jp)までご連絡ください。

しかし今回の謎解きにおつきあいいただいたことで、私たちの眼前には、さらなる謎が広がりつつある。

箇条書きで述べれば、

などである。これらの謎解きについても、現在、それなりに捜査進行中だが、その結果については、幕末から明治の激動を生きた一人の武士のライフヒストリーとして、いずれ描いてみたいと思っている。


 誰か千葉繁を知らないか。


引用文献
赤川 学, 1999, 『セクシュアリティの歴史社会学』勁草書房.
千葉県教育会, 1936, 『千葉県教育史 巻1』千葉県教育会.
福澤諭吉, 1899=1978,『福翁自伝』岩波書店.
木本 至, 1976, 『オナニーと日本人』インタナルKK.
石井研堂, 1944→1969, 『改定増補 明治事物起原 上巻』春陽堂,『明治文化全集 別巻』所収,pp.520.
浜松史跡調査顕彰会, 1977, 『遠州産業文化史』浜松史跡調査顕彰会.
小幡重康編, 1966, 「鶴舞藩之沿革(前編)(後編)」『南総郷土文化研究会叢書5・6』南総郷土文化研究会.
小幡重康編, 1979, 「井上藩分限帳集成」『南総郷土文化研究会叢書12』南総郷土文化研究会.
小幡重康編, 1982, 「鶴舞藩拾遺」『南総郷土文化研究会叢書13』南総郷土文化研究会.
家臣人名事典編纂委員会, 1988, 『三百版家臣人名事典 第4巻』新人物往来社.
大石 学, 2006, 『近世藩制藩校大事典』吉川弘文館.
斉藤 光, 2006, 「『通俗造化機論』『通俗造化機論二編』『通俗造化機論三編』解説」斎藤光編『<性>をめぐ
    る言説の変遷 近代日本のセクシュアリティ1』ゆまに書房, pp.1-13.
下中 弘編, 1993, 『日本史大事典』平凡社.
山田勝治郎, 1981, 「下総千葉氏末葉考」『千葉文華』第15号. 
大野政治, 1979, 「江戸時代における千葉氏再興運動」『成田市史研究』第8号.
書き手からのコメント

私が専門とする歴史社会学では、お恥ずかしい話ながら、ふだん調べたことを恒常的に発表できる媒体が多くありません。今回の原稿も掲載のアテがなく、宙に浮いていたところですが、今回のお話をいただき、渡りに舟とばかりに楽しんで書かせて頂きました。たくさんスペースを使わせていただきありがとうございました。

次回の登場人物
次は、東洋史学の吉澤誠一郎先生に、バトンを渡したいと思います。  吉澤先生のことは、大学時代の語学クラスのときから存じており、私がこちらの学部に赴任してからも、種々の機会でお世話になっています。そのご縁で今回、お引受けいただきました。東洋史にまつわる貴重な文献をご紹介くださることと存じます。
c東京大学文学部・大学院人文社会系研究科