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第60回美学会全国大会
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東京都文京区本郷7-3-1

東京大学大学院
人文社会系研究科
美学芸術学研究室内

TEL&FAX: 03-5841-8958
MAIL: bigaku60@gmail.com
研究発表《タイムテーブル》


10月10日(土)  研究発表Ⅰ
@法文一号館(113、212教室)、法文二号館(一番大教室、二番大教室)
開始/終了 分科会A.
美学
<一番大教室>
分科会B.
音楽とドイツ
<212教室>
分科会C.
ルネサンス美術
<二番大教室>
分科会D.
日本の諸芸
<113教室>
13:00/13:40 A-1 津上英輔
(成城大学)
B-1 朝山奈津子
(沖縄県立芸術大学)
C-1 林克彦
(慶應義塾大学)
D-1 土田耕督
(大阪大学)
13:45/14:25 A-2 櫻井一成
(東京大学)
B-2 上山典子
(東京藝術大学)
C-2 池田郁
(同志社大学)
D-2 細田明宏
(帝京大学)
14:30/15:10 A-3 西欣也
(甲南大学)
B-3 西田紘子
(東京藝術大学)
C-3 江藤匠
(女子美術大学)
D-3 和賀圭史
(奈良芸術短期大学)
10月11日()  研究発表Ⅱ
@法文一号館(113教室)、法文二号館(一番大教室、二番大教室)
開始/終了 分科会A.
音の思考
<一番大教室>
分科会B.
モダン・アート
<二番大教室>
分科会C.
映像論
<113教室>
12:40/13;20 A-1 三河隆之
(東京大学)
B-1 永澤桂
(横浜国立大学)

都合により、辞退されました。
C-1 鈴木恒平
(神戸大学)
13:25/14:05 A-2 山根千明
(慶應義塾大学)
B-2 桝田倫広
(早稲田大学)
C-2 土山陽子
(早稲田大学)
14:10/14:50 A-3 吉田寛
(立命館大学)
B-3 譽田大介
(慶應義塾大学)
C-3 小野智恵
(京都大学)
10月11日()  研究発表Ⅲ
@法文一号館(113教室)、法文二号館(一番大教室、二番大教室)
開始/終了 分科会A.
空間とテクスト
<一番大教室>
分科会B.
都市表象
<二番大教室>
分科会C.
「日本的なるもの」
<113教室>
15:00/15:40 A-1 岩佐愛
(武蔵大学)
B-1 池野絢子
(京都大学)
C-1 山本佐恵
(筑波大学)
15:45/16:25 A-2 小澤京子
(東京大学)
B-2 玉井貴子
(早稲田大学)
C-2 町田理樹
(大阪大学)
10月12日()  研究発表Ⅳ
@法文一号館(113教室)、法文二号館(一番大教室、二番大教室)
開始/終了 分科会A.
美学史
<一番大教室>
分科会B.
音楽のモダニズム
<二番大教室>
分科会C.
デザインと生活
<113教室>
10:00/10:40 A-1 関村誠
(広島市立大学)
B-1 太田峰夫
(東京大学)
C-1 北田聖子
(日本学術振興会)
10:45/11:25 A-2 岡本源太
(京都造形芸術大学)
B-2 内藤李香
(早稲田大学)
C-2 川口佳子
(京都工芸繊維大学)
11:30/12:10 A-3 金子智太郎
(東京藝術大学)
B-3 日比美和子
(東京藝術大学)
C-3 蘆田裕史
(日本学術振興会)

都合により、辞退されました。


研究発表《要旨》


10月10日(土) 研究発表Ⅰ

分科会A. 美学


A-1 津上 英輔(成城大学)

感性的質の生成構造,または感性史の試み

 Frank Sibley は,dynamic, balancedのような感性的質(aesthetic quality)の生成を,語を他領域から感性の領域に持ち込むmetaphorの働きによって説明し(1959),佐々木健一(『美学辞典』,1995)やMalcolm Budd(BJA 46-2, 2006)もこれを支持している.しかしそのmetaphorの構造や作用については,これまで明らかにされてこなかった.これを文法規則から解明するのが本発表の第一の狙いである.
 英語における感性的質の生成構造の一つとして,動詞feel(部分的にはtaste, smellなども)の「(~を)感じる」という他動詞用法から「(~と)感じられる」という繋辞的(copular)用法への転移(meta-phora)を考えることができる.たとえば帰郷痛を原義とするnostalgiaが感性的質になったと判断できるのは,I feel nostalgia in this picture.という文型しかありえなかった状態から,This picture feels nostalgic(この絵は懐かしいと感じられる).の文が違和感なく許容されるようになったときである(それゆえこれは感性的質の十分条件の一つである)と私は考える.なぜなら,このとき,nostalgicは,①主語(this picture)を形容する述語として,対象(this picture)の属性,質を表わしながら,②This picture isに続く字義通りの述語(である)ではなく,feelの内容として,感性の積極的な関与を含意する.③しかもこの構文ではfeelにto meのような判断主体が前提され(それゆえ価値の契機を含み)つつも,あえてそのような限定が加えられず端的に言われることで,この語は芸術作品の普遍的価値に向かっている.
 日本語では,名詞に断定の助動詞「だ」を付けた形(男性だ)が形容動詞(静かだ)に近似・連続していることから,感性的内容をもった名詞に「だ」が添えられ形容動詞化することによって,新たな感性的質が生成する道が開けている.たとえば「シュールだ」がそれであるが,この場合,形容動詞としての「シュールだ」は,名詞シュール(レアリスム)に断定の助動詞「だ」が付いたものから,「シュールという性格を持っている」へと意味がずれている.すなわちここにもmetaphorを認めることができる.ところで,まさに今,この形容動詞化すなわち感性的質への変化の過程を辿っていると見られるのが,「ヘンタイ」である.現代日本の若者言葉においてこの語は本来の「性欲」の意味契機を弱め,もともと変態性欲に含まれていた異常性が,ある肯定的なものととらえ換えられて,作品批評のような場面で,まさに感性的質として言われることがある.言い換えれば,現代の若者は「ヘンタイ」という新たな感性的判断を獲得しつつあるのである.
 このような変化は,個々の語に堆積する.したがって,感性的質を表わす語の歴史を辿ることで,国語単位の感性の歴史を編むことができるはずである.この感性史の雛型を提示するのが本発表の第二の狙いである.その例が上記のnostalgiaであり,「ヘンタイ」である.興味深いことに,この2語のように,心理的,道徳的異常を表わす語は,感性的には肯定的質を意味する傾向がある(他に,おかしい,妙,melancholic,grotesque,capriccioなど).


A-2 櫻井 一成(東京大学)

リクール解釈学の統合的理解の試み
――解釈における時間と想像力――

 本発表では、解釈における想像力と時間の関わりという観点から、ポール・リクールの解釈学の統合的理解を試みる。そのことで従来理解されていたのよりも広い射程を有するものとして、リクール解釈学を浮かび上がらせることが本発表の目的である。
 リクール解釈学は、まず詩的言語(隠喩、フィクション物語)の解釈学として体系化される。詩的言語の解釈をめぐる考察は、1970年代に発表された著作や論文において主題的に論じられ、リクールはそこで、初期からの関心であった自己理解の問題と詩的言語の解釈を接続させている。つまり解釈を通じた実存の地平の拡大、解釈と企投の結びつき(テクストから行動へ)というテーゼがリクール解釈学の核を構成することとなる。
 この70年代の解釈学と、『時間と物語』(1983-5)の関係はやや複雑である。『時間と物語』の主題はそのタイトルが示すとおり、時間と物語(歴史物語とフィクション物語)の相関関係にあり、そこには主題の変化が認められる。人間的時間を出現させるのは物語であり、またその限りにおいて物語は十全な意味作用を獲得するというのがその基本テーゼである。ただし『時間と物語』にも、詩的言語と自己理解の結びつきや、解釈行為についての重要な記述が認められ、それらは70年代解釈学の批判的発展としてとらえられる。したがって、共通の主題のもとに変化の諸相を明らかにしつつ、二つの主題のあいだの内在的な連関を考えることがリクール解釈学を統合的に理解する際に不可欠の作業となる。
 『時間と物語』において、物語は「ミメーシスの循環」のうちにおかれる。既に形象化された現実についての先行理解にもとづいて、物語世界が形象化され理解される。そしてこの新たに構築された物語世界が現実を再形象化し、現実を更新する。これがミメーシスの循環である。そこでわれわれの生は前物語的性格を有するものとされ、物語が生を明確に構造化することによって、時間上の変化をも包含したものとして自己同一性が実現される。リクールはこうして理解される自己を「物語的自己」という概念で言い表すが、物語的自己とは既に生きられた過去の自己である。このことは詩的言語の解釈が企投という未来に結びつけられていたことと対照をなす。「詩的言語」から「物語」へと主題が移行したことによって、解釈が志向する時間は未来から過去へと移行したと言えるだろう。
 しかし、ミメーシスの循環は単に過去志向なのではない。物語的自己の理解は新たな自己理解であり、むしろそこでは過去が企投されていると言うことができる。本発表ではリクールの隠喩論やイデオロギー論を参照することによって、リクール解釈学を根底において支える解釈学的想像力の存在を浮かび上がらせ、ミメーシスの循環がその働きの現れにほかならないことを示す。言い換えれば、他者の言語との出会いによって想像力が賦活される場として、また想像力が過去と未来を生き生きと交叉させる場として、リクールが解釈の現在を構想していることを明らかにする。


A-3 西 欣也(甲南大学)

美学イデオロギー再考

 美学芸術学理論に内在するイデオロギーの分析は、これまでもっぱらフェミニズムや反ヨーロッパ中心主義の問題意識に立ってなされてきた。それらは、一見中立的なものに思われる立論が(男性や欧米人の)特定の利害関心を基盤としている事実を指摘することにより、より多面的な考察のための視点を提供してきた。
 しかし、こうした問題意識が広く共有される以前、1980年代末から1990年代初頭にかけて、特に英米圏のマルクス主義的思想家達が提出した一連の考察は、現代社会における感性的経験が理論化される仕方のイデオロギー性について、早くもいっそう根本的な省察を加えるものであったと言える。 イーグルトンの『美学イデオロギー』(1990)、ハーヴィの『ポストモダニティの条件』(1990)、ジェイムソンの『ポストモダニズム、あるいは後期資本主義の文化の論理』(1991)に代表されるそれらの考察は、1970年前後を境として現れる新しい価値体系が、ラディカルにシステムや制度を否定しながらも自ら組織的に制度化していく皮肉を見据え、その逆説的な構造の基盤を解明しようとするものであった。その多くが〈ポストモダニズム〉批判というかたちをとっていたことに表れているように、モダニズムの一元的・合理的・進歩主義的な論理に対する反撥の論理がもっている制約とその条件を粘りづよく考究しようとする姿勢が、そこにはあった。
 一方、日本においては、言論界が記号論や構造主義を大々的に移入するなかで、新たな思考法は旧来の方法論に対する革新的な思想としてほとんど無批判に受容され制度化された。美学芸術学においては、いわゆる「現代思想」は豊かで洗練された理論形成をもたらしたものの、その導入に際しては「パスティシュ」や「主体の消滅」といったキー・タームを紹介することで最新の文化現象を要約記述することに重点が置かるにとどまった。一般に日本では、消費社会や情報社会の論理とも通底する新しい論理構造の内的問題性を全体として探究しようとする発想は打ち棄てられてきた感がある。このため上述の一連のテクストについても、発表からほぼ20年が過ぎた今もなお十分な咀嚼検討がなされていないのが現状である。
 本発表では、こうした反省を踏まえ、20世紀後半のグローバルな現象として「歴史的進歩」「全体性」「普遍性」「絶対的真理」「統一された主体」のようなカテゴリーの有効性が疑われてきたことの意味を問い直し、そうした価値変容において「感性」をめぐる議論や芸術作品解釈がいかなる役割を果たしてきたかを、美のイデオロギー批判の構造転換に着目しつつ思想史的に検証する。さらにその際、戦後日本においてヨーロッパ産の反ヨーロッパ的言説が「感性」をめぐる理説に関わってきた歴史的文脈の特殊性についても考察したい。


分科会B. 音楽とドイツ


B-1 朝山 奈津子(沖縄県立芸術大学)

C.リーデルの「歴史演奏会」における「新ドイツ派」

 本発表は、19世紀後半にライプツィヒで活動したリーデル合唱団の公演を、この世紀における「歴史演奏会」の展開として位置づけた上で、指揮者の独特の史観を解明する試みである。
 カール・リーデル(1827-1888)は1854年、ライプツィヒに合唱団を設立し、以後30年間に200回近い演奏会を行った。定期公演は教会を会場とし、過去の無伴奏宗教声楽を主たるレパートリーとした。1860年頃からはF. リストの絶大な信頼を得、その大規模オラトリオやいわゆる「新ドイツ派」の新作を積極的に取り上げた。「新ドイツ派」との関係は深く、F.ブレンデルがリストと共に創設した「全独音楽協会(ADMV)」の大会に頻繁に参加し、68年からはブレンデルの後任として会長を務めた。ADMVでは「あらゆる意義深い芸術の旗手」と称えられ、『音楽新報(NZ)』は定期公演ごとに好意的な批評を掲載した。88年リーデル死去の際には、5頁におよぶ追悼文を主記事としている。
 しかし、この合唱団の全演目の演奏回数において、「新ドイツ派」を含めた19世紀以降の作品はわずか3割である。他方、12世紀から17世紀までの作品が6割を超え、18世紀の作品は1割にも満たない。こうした極端なまでの偏りは、何を意味するのか。そしてなぜ、リーデルの活動は「新ドイツ派」に全面的に支持されたのか。
 リーデルは毎回、演目を地域ごと時代順に並べ、「ローマ楽派」、「プロイセン楽派」などの見出しの下にまとめた。前半に17世紀以前、後半に19世紀の最新作品を配し、新旧の音楽を一度に取り上げることもあった。また、プログラム冊子には過去の作品についての解説を書いた。冊子の記述と、ライプツィヒに現存するリーデル合唱団旧蔵楽譜を調べると、各作品、作曲家がどのように捉えられていたかを再構築できる。それは、パレストリーナからバッハまで、すなわちローマ・カトリックからドイツ・プロテスタントまでのキリスト教音楽の系譜を矛盾なく繋げようとする試みである。リーデルは、バッハからベートーヴェンを経てリストへと集大成されるドイツ音楽の「正史」を、演奏を通じて描き出そうとしたのである。
 こうした史観は「新ドイツ派」の存在理由を保証するものであった。合唱団は、ADMVの年次大会においても定期公演と同様の構成で教会コンサートを行っている。カール・リーデルが「新ドイツ派」から「芸術の旗手」と認められたのは、最新作品の貴重な演奏者としてのみならず、むしろその歴史観においてである。
 従来、先行研究や事典項目においては、リーデルがリストの盟友であったことに簡単に言及するのみで、その具体的な活動についてほとんど語られてこなかった。本発表では、リーデルの歴史観と「新ドイツ派」およびADMVの理念との接点を、プログラム解説、演奏譜、批評を用いて明らかにする。


B-2 上山 典子(東京藝術大学)

リスト擁護派による交響詩評価
――ベートーヴェン交響曲の遺産継承問題をめぐる意見の不一致――

 1850年代初頭からいわゆる進歩派と保守派の間で繰り広げられてきたドイツの音楽論争は、1854年の4月、リストの交響詩の出現によって新たな局面を迎えた。その中心課題はベートーヴェンの交響曲の遺産継承問題で、リストの創作の歴史的正統性をめぐり激しい議論が交わされていった。進歩派のスポークスマン、フランツ・ブレンデルは、自身が編集する『音楽新報』でプロパガンダ戦略を展開、リストへの全面支持を表明すると同時に、交響詩をベートーヴェン交響曲の継承ジャンルと認定した。このリスト擁護派の筆頭による公言は、交響詩に対する評価とベートーヴェンの後継者問題に関する進歩派の見解を代表するものと考えられてきた。しかしそれは本当に一派の一致した意見だったのだろうか。
 当時の最も注目すべき批評の一つに数えられるのが、13回にわたって雑誌に掲載されたフェーリクス・ドレーゼケの「リストの9曲の交響詩」(1857-1859年)である。詳細な楽曲分析を含み、作品の普及に大きな役割を果たしたその記事は、リストの作曲家としての力量、交響詩の音楽的内容の重要さに十分な光を当てている。形式、オーケストレーション、標題など、交響詩のあらゆる要素をベートーヴェン作品によって正当化するドレーゼケだが、にもかかわらず、複数の国民様式の融合という観点においてリストは「モーツァルトの後継者」であると触れ、ベートーヴェンの後継問題に関しては明確な答えを避けている。また、交響詩12曲すべてのスコアが出揃った後の批評としては、エドゥアルト・クルケの「交響曲と交響詩」(1862年)、ルイス・ケーラーの「リストの交響詩――一考察」(1863年)が挙げられる。両者が共に強調したのは、交響詩と従来の交響曲とは異なるものであり、交響詩を交響曲と比較すべきではないという点である。リストの創作の独自性を認めながらも、結局は双方とも、交響詩がベートーヴェン交響曲の継承ジャンルであることを否定している。
 本発表はリストを擁護する進歩派陣営による批評を取り上げ、一派の交響詩に対する評価を再考する。そして、交響詩の固有価値を評価しつつも、それをベートーヴェン交響曲の遺産継承とみなすかどうかという論争の核心部分については、派内の意見は一致していなかったことを明らかにする。交響詩の歴史的地位を断固として否定した反対派の一貫した姿勢とは対照的に、擁護派は決して一枚岩の結束を誇っていたわけではなかった。むしろ、彼らに共通する防衛的・弁明的口調は、交響詩を取り巻く当時の論争がもっぱら反対陣営の主導の下で進められていたこと、そしてリスト支持者の中にさえ、交響詩に対する疑念がくすぶっていたことを伝えている。事実、「交響曲第10番」への期待は、進歩派を自認する者の間にも少なからず存在していたのである。


B-3 西田 紘子(東京藝術大学)

ハインリヒ・シェンカーの音楽作品論における「無意識」
――初期受容を手がかりに――

 本発表は、音楽理論家ハインリヒ・シェンカー(Heinrich Schenker, 1868-1935年)の音楽作品論における「無意識」(unbewusst)に関する後世の議論を参照することから出発して、シェンカー自身の言説における無意識という概念の役割を明らかにすることを目的とする。
 シェンカーが提出した有機体論的な音楽作品論は、「ウアザッツ」(Ursatz)をはじめとする音楽の「諸法則」(Gesetze)を基に構築されたものである。シェンカーの作品論に対しては、「作曲家は法則を意識した上で創作していたのか」どうかについてシェンカーの生前から多くの疑問や批判が寄せられており、シェンカーの唱える「無意識」が彼の理論の受容史における最大の争点となってきた。近年の研究においても作曲家の創造における無意識性が注目され、ショーペンハウアーやヴァーグナーないしフロイトをはじめとする同時代・前代の思想家たちとシェンカーとの思想上の共鳴が指摘されてきた(Pastille 1984, Eybl 1988, Korsyn 1988, Keiler 1993, Snarrenberg 1994, Eybl 2006 etc.)。しかしながら、シェンカーの作品論の発展過程を追うならば、作曲家と作品における音の関係は、そうした一義的な無意識の概念では捉えきれない面があり、そのことはシェンカーの初期受容における無意識という語の曖昧な使用からも窺える。例えばO.ヨナスやF.ザルツァーといったシェンカーの弟子たちは、第二次世界大戦後のアメリカにシェンカーの理論を伝える過程において、周囲の疑問や批判に答える形で、作曲家の無意識ないし意識に関する議論を行った。彼らはそうしてシェンカーの音楽作品論を新たに捉え直してきたわけだが、このような初期のシェンカー受容における議論をみると、無意識・意識とは、作曲家の「創造」の直観性、無意識性に関してのみならず、「聴取」の意識に関する概念としても言及されてきたことが分かる。
 発表者は、上述の初期受容における意識・無意識の議論を手がかりにした上で、こうした批判を生むことになったシェンカー自身の「無意識」という概念の複雑さに光を当てる。まず、シェンカーが用いた語彙を整理するため、無意識(unbewusst)と意識(bewusst)、意図(Absicht)、即興(Stegreif)、聴取(Hören)といった語がいかなるコンテクストの下に用いられているかや各語の含意を、シェンカー初期の論考「音楽技法の精神」(1895年)から最後の著作『自由作法』(1935年)に至るまでの諸言説に目配りしつつ明らかにする。そこではまた、同時代の他分野における議論を比較材料とし、シェンカーによる「無意識」の用語法をより多角的に検討する。例えば、同時代の解釈学とシェンカーの作品論との接点として、作品と作者の意識の切り離しが行われるということが挙げられるが、その過程を通して作品構造そのもの、あるいは音そのものの無意識性も言説のうちに現れてくることになる。こうしてシェンカーによる「無意識」にまつわる言説は、作曲家や聴き手、音の関係の変化に影響を受けつつ、それらの布置の中で一定の位置を占め続けたと捉えられるだろう。


分科会C. ルネサンス美術


C-1 林 克彦(慶應義塾大学)

ピエロ・デッラ・フランチェスカ中期の編年と《聖十字架伝》の制作年代をめぐる一試論

 一九八〇年代以降に発見された複数の史料はピエロ・デッラ・フランチェスカ(一四一二頃~一四九二)の画家としての本格的な活動がそれまで考えられていた一四四〇年代ではなく一四三〇年代に始まっていたことを明らかにした。その結果として、我々はピエロ中期以前の編年の見直しを迫られているように思われる。なぜなら、今日までのピエロ研究はその作品の大多数を一四五〇年代以降に位置づけているため、従来の編年の前半期に空白が生じてしまったからである。
 アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂主礼拝堂を飾る《聖十字架伝》は、現存するピエロ作品中で最も大規模なものであり、他の諸作品の編年とその様式変遷を考察する際の重要な基準作となっている。ところが、この壁画は一四六六年の史料がその作者としてピエロに言及している点を除いて制作年代を限定する手がかりを欠く。一四四七年に注文主バッチ家が同礼拝堂の装飾を引き受けた画家に支払いを行なったことを伝える史料が残されているものの、この画家は先に礼拝堂の装飾を手がけていたビッチ・ディ・ロレンツォであるとされてきた。その結果、多くの研究者が、ピエロはこのビッチが死去した一四五二年に制作を引き継ぎ、その制作は一四五八年に始まるピエロのローマ滞在の直前、あるいは一四六〇年代まで続いたと考えており、ベルテッリが一九九一年の著書で提示した一四四〇年代末と一四五〇年代中頃の間という本作の年代設定はこれまであまり検討されていない。
 しかし、バンカーが二〇〇四年の論考で指摘したとおり、チェンタウロが二〇〇〇年の著書で公にしたバッチ家の一四五七年のカタストは《聖十字架伝》の完成を示すものである可能性がある。実際、近年の研究はピエロが一四五〇年代中頃以降に他の複数の大きな仕事に着手したことを明らかにしている。一方で、当時のビッチ工房の状況とバッチ家に関する複数の史料を確認するかぎり、一四四七年の史料の言う画家がピエロである可能性も否定することはできず、少なくとも、本作の制作開始を一四五二年に設定する見解が今や蓋然性を伴うものではなくなっていることがわかる。対するに、《聖十字架伝》の上限を一四四〇年代末まで引き上げるならば、本作との様式的類似を根拠にピエロ中期に位置づけられてきた他の作品の年代設定を早めることも不可能ではなく、その前半期の空白は解消されうる。
 十九世紀後半にミラネージらが発掘した一群の史料は体系的なピエロ研究の開始を用意した。ピエロ諸作品の現在の一般的な編年もそれらの史料に基づいて当時なされた編年に概ね拠っている。本発表は先行研究においてまだ十分に検討されていない《聖十字架伝》の早い年代設定を試論として推すものであるが、その目的はここ数十年で明らかになった多くの新事実を考慮したときに浮き彫りになる従来のピエロ編年がもつ問題点を指摘し、その再考を促すことにある。


C-2 池田 郁(同志社大学)

マンテーニャ作《サン・ゼーノ祭壇画》に関する一考察

 北イタリアの画家アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna,1431-1506)は、触覚的なリアリズムや卓抜した空間表現、考古学的な古代研究によって広く知られる。本発表ではマンテーニャ中期の大作《サン・ゼーノ祭壇画》(1456末-1460)を取り上げ、祭壇枠組み形式および祭壇画の図像的着想源、そして注文主が祭壇画成立に果たした役割を明らかにすることを目的とする。
 《サン・ゼーノ祭壇画》は、ヴェローナのサン・ゼーノ聖堂修道院長グレゴリオ・コッレール(Gregorio Correr,1411-1464)の注文によりマンテーニャが制作した大型祭壇である。当時の北イタリアでは、小さな尖塔飾りを伴ったゴシック的な祭壇枠組みが一般的であった。それに対して、本祭壇画は古代神殿の玄関部を模した枠飾りを採用し、さらには、それが中央画面の聖会話図中の空間と連関していることがきわめて特徴的である。また中央画面の<聖会話>も、ほぼすべての聖人が書物を携える特殊な図像である。
 先行研究においては、本祭壇画は先行し、主題を同じくするドナテッロの《サンタントニオ主祭壇》やニコロ・ピッツォロの《オヴェターリ家礼拝堂祭壇》に倣ったものであると考えられてきた。確かに、神殿形式の枠組みや人物の配置などは両祭壇画に共通する。しかし、先行するこれらの作品は彫刻作品であり、絵画作品である《サン・ゼーノ祭壇画》とは空間表現をはじめとして異なる点も多い。そこで本発表では、本祭壇画の着想源を再検討し、ドナテッロ、ピッツォロの祭壇に加えて、さらなる源泉を指摘したい。
 ドナテッロからの影響が指摘される一方で、マンテーニャの細密な描写や画中の彫刻描写、「プラトー構図」などは、しばしば北方美術と関係付けられてきたところである。そこでまず発表者は、本祭壇画において祭壇画枠組みと絵画空間との一体化が計られていることに着目し、そこにフランドル絵画からの展開を指摘したい。さらに、発表者はアルベルティの存在にも注目する。アルベルティとマンテーニャとの影響関係は多くの研究者が指摘してきたが、マンテーニャがマントヴァに滞在する以前の接触については未だ議論の余地が残る。発表者は、従来看過されてきたモチーフの類似性や注文主とアルベルティとの親密な関係に注目し、本祭壇画におけるアルベルティからの影響を検証する。同時に、注文主がアルベルティ受容の媒介として、また特殊な聖会話図像の発案者として重要な役割を担っている可能性を示唆したい。


C-3 江藤 匠(女子美術大学)

ギルランダイオ初期作、ブロツィの壁画《聖会話》におけるフランドル絵画の影響
――ペトルス・クリストゥス作、プラド美術館の《聖母子》との関係について――

 ドメニコ・ギルランダイオは、その修業過程でヴェロッキオ工房と関係があったため、早くからフランドル絵画の影響を強く受けていた。その例証として、フィレンツェのオニッサンティ教会のヴェスプッチ礼拝堂の1470年代の壁画《哀悼》がある。この人物の姿態や背景に、メディチ家のカレッジの別荘にあったロヒール・ファン・デル・ウェイデン《哀悼》の影響が認められている。本発表では、ギルランダイオがそれとほぼ同時代の1470年代半ばにフィレンツェ西郊のサンタンドレア・ア・ブロッツィ教会に制作した《聖会話》の壁画にも、フランドル絵画の影響を確認しようというのである。
 この《聖会話》の構図は、聖母子と脇侍とを風景を遠望するテラスに配しており、ポライウォーロ作のフランドル絵画の影響の濃い1468年頃の油彩画《ポルトガル枢機卿の祭壇画》と似た構成をとっている。また二体の脇侍についてはカスターニョからの引用で、左の聖セバスチアヌスは、カスターニョの《聖母被昇天》から、左の聖ユリアヌスはカスターニョの《著名人》の壁画からの引用で、ギルランダイオの帰納法的制作を裏付けている。しかもやや先行してギルランダイオがチェルチーナの教会に描いた壁画では、中央部の《聖バルバラ》もコジモ・ロッセルリの《聖会話》から引用している。従って、ブロッツィの壁画の中央ニッチに着座した聖母と、その膝に立って祝福するポーズの幼児キリストについても、何らかのプロト・タイプがあったと仮定される。このタイプの聖母子像は、14世紀のシエナ派では多く制作されたが、15世紀のトスカーナ派ではむしろ稀である。
 そこで発表者は、当時のギルランダイオがフランドル絵画から多く引用していることを考慮して、この聖母子像はペトルス・クリストゥス作のプラド美術館蔵《ポルティコの玉座の聖母子》を参考にしたのではないかと推断した。両者は、ポルティコの背後から望まれる風景の構成や、聖母の膝に立って祝福する幼児キリストの姿態など類似点が多いのである。しかもこのクリストゥスの《聖母子》のコピーが、ジェノヴァにあったことが確認されており、フィレンツェにも1492年のメディチ家の目録に、クリストゥス作のフランス婦人の記録が残っている。ギルランダイオは、オニッサンティ教会の《書斎の聖ヒエロニムス》の壁画を描くに際しても、同じメディチ家の目録に記載されたヤン・ファン・エイクの《書斎の聖ヒエロニムス》を手本にした事は良く知られている。
 このことから、ギルランダイオのブロッツィの壁画《聖会話》に、クリストゥスの《聖母子》の影響を看取するという発表者の仮説には、一定の妥当性があるといえる。この検証によって、ギルランダイオは、1470年代の最初期の作例から、ヴェスプッチ礼拝堂の《哀悼》の壁画同様、フランドル絵画の影響を受けていたことが証明されることになる。


分科会D. 日本の諸芸


D-1 土田 耕督(大阪大学)

継承される<ことば>と更新される<心>
――中世和歌における「本歌取り」の諸様相――

 たとえば西欧の詩や漢詩、あるいは現代詩において、過去に用いられた表現がほぼ半分に及ぶ分量で引用されている作品があったなら、それは先行作品の単なる「盗作」であると見なされ、幾許の価値も与えられないだろう。しかし日本伝統の定型詩である和歌の世界において、このような引用は一般的に、それどころか新たなる価値創出を達成しうるものとして、積極的に遂行されていた。すなわち「本歌取り」である。先達のすぐれた作品を引用することと、自身の作品において独創的な価値を創出すること。この二つの要素は、本歌取りという詠法によって、同一次元で結びつくことになる。
 本歌取りに対する意識が先鋭化したのは、いわゆる「新古今時代」であると考えられている。この時代を牽引した歌人たちが自讃の歌を集めて編んだ自歌合には、本歌取りによって詠み出だされたものが多く採られている。その中の一人、つまり本歌取りという詠法に対してきわめて意欲的であった歌人が、藤原定家(1162-1141)であった。定家によれば、本歌取りとは「古きをこひねがふにとりて、昔の歌の詞を改めずよみすゑ」ることである(『近代秀歌』)。過去の「秀歌」を価値判断の基準とする歌壇の意識に鑑みて、先達のすぐれた表現をそのまま自詠に取り入れるという方法が自覚されることは、和歌史上の必然でもあったとも言える。
 新古今時代以降、歌壇における二条派と京極派の対立とも相俟って、本歌取りの様相は実践においても規範においても錯綜の一途を辿った。自らの<心>を絶対的な詠歌主体とし、<ことば>の独創性を先達の表現に依存しない京極派の和歌によって、本歌取りは言わばその存在意義を試されることになる。このような状況の中で、14世紀半ばに頓阿(1289-1372)と二条良基(1320-88)があらわした歌論書『愚問賢注』は、和歌世界において蓄積されてきた<ことば>を<心>の有機的構成要素と見なす二条派を正統とすることによって、両派の対立に決着をつけた記念碑的な歌論書であった。和歌世界は<心>の新しさを古き<ことば>に託したのである。この『愚問賢注』や頓阿の歌論『井蛙抄』において、それまでの本歌取り論は集大成され、様々な様相を見せる本歌取り詠は価値序列にしたがって分類されている。この分類意識から導き出せる問題は、本歌取りという詠法が<ことば>と<心>とをどのように扱うか、もっと具体的に言えば、いかにして<ことば>が過去の「秀歌」の<心>を保存し、それを更新するか、ということである。
 以上の問題設定にもとづき、本論ではこれらの歌論書の内容を詳細に分析しながら、新古今時代以降の本歌取り詠を主な考察対象とする。中世和歌において特に顕著に見られる本歌取りという詠法の変遷を辿り、詠まれた和歌をその表現意識や本歌との関係性から照射することによって、引用という方法が表現行為の中でいかに価値創出を達成するかについて解明したい。


D-2 細田 明宏(帝京大学)

文楽式人形操法の成立について

 人形浄瑠璃は、語り物の一種である浄瑠璃と人形操りとが結びついたもので、17世紀初頭に成立した。こんにちでは大阪を拠点とする文楽座が代表的な上演団体であることから、「文楽」という言葉が人形浄瑠璃芝居の通称として用いられることもある。
 この人形浄瑠璃文楽で用いられる人形操法(「文楽式三人遣い」)は、3人の人形遣いが1体の人形を操作する、他に例をみない極めて高度な人形操法として知られている。すなわち人形の頭部と右手を操作する「主遣い」と、人形の左手を操作する「左遣い」、および人形の両足を操作する「足遣い」の3人によるもので、享保19年(1734)に成立したと伝えられている(それまでの人形は一人遣いで演じられていた)。3人のうち中心となるのは主遣いであり、左遣いと足遣いは主遣いの出す指示(「ズ」や「ホド」といわれる)に従って操作を行う。
 さて文楽式三人遣いについて考察するに当たって、文楽式三人遣いの人形を一人で遣う試み(「特殊一人遣い」)や、文楽式とは別系統の三人遣い(「別系の三人遣い」)について検討することは有効だろう。
 特殊一人遣いは遣い手の不足などの理由により編み出された操法だが、三人遣いの人形を一人で操作するには当然ながらかなりの無理が伴う。しかしそれにもかかわらず、実際には特殊一人遣いは複数存在する。このことは、文楽式操法にそれだけの利点があることを示すと思われる。
 また別系の三人遣いは、遣い手の数は文楽式と同じだが操法が異なる。すなわち人形の両手を「手遣い」が、人形の胴と頭部とを「胴遣い」が操作するのである(足遣いは文楽式と同様)。このことにより、文楽式操法に比べて左右対称の動きがはるかに容易となる。逆にいえば文楽式三人遣い操法においては、左右対称の動きは必ずしも重要視されていないのだといえる。では文楽式操法が目指している表現とはどのようなものなのだろうか。
 その問題を考えるためには、浄瑠璃との関係について注目する必要がある。これまで三人遣い操法については技法そのものに関心が集まりがちだった。しかし文楽式三人遣いは(義太夫節)浄瑠璃と組み合わされた状態で成立、発展してきたのであり、決して人形操法のみが独立して存在していたわけではない。つまり文楽式三人遣い操法の成立やその表現方法を考えるに当たっては、義太夫節浄瑠璃の芸論なども参照する必要があるだろう。特に義太夫節浄瑠璃において「情」という言葉が重要なキー・ワードとされるようになったことが文楽式操法の成立とも関わると思われるのだ。


D-3 和賀 圭史(奈良芸術短期大学)

キリスト教布教における茶の湯の役割
――建築空間における光と陰について――

 16世紀の日本においてキリスト教の布教が瞬く間に日本中に広がったことに関して、キリスト教と茶の湯の関係に着目した研究は少なくない。日本人が嗜む茶の儀礼とキリスト教のミサの儀礼に関係性を見出し、そこに共通した美、あるいは聖なるものに関する概念を見出そうとするのである。そのような考えから、「侘び茶」の大家である千利休のキリシタン説も唱えられている。茶人がキリシタンであったかどうか、その点に関しては依然、判然としていない。ただ、日本に布教に訪れた宣教師たちが、「茶の湯」の中になにか共通した感覚を見出し、布教に利用した可能性は少なくないだろう。つまり、日本の茶人がキリスト教に接近したというよりも、むしろ宣教師たちが「茶の湯」に接近したという可能性は十分考えられるのである。巡察師ヴァリニャーノは日本人の文化レベルの高さに一目置き、他のアジア地域におけるようにイエズス会による一方的な教化・支配は困難であると考え、逆に同志として日本人の聖職者を輩出する可能性を探った。それは日本固有の習俗への宣教師たちの順応策へと移行していくが、彼は『日本イエズス会士礼法指針』において、日本文化の尊重を何度も説いている。その中で、彼は「茶の湯」に着目し、教会堂の一部に茶席たる「座敷」を設え、来客をもてなさなければならないと言う。
 本論はこのようなキリスト教と「茶の湯」の関係についてこれまで研究されてきた、日本の大名、茶人のキリスト教への接触という観点ではなく、キリスト教宣教師による「茶の湯」への接触という観点から考察するものである。その際、両者における建築に対する考え方に着目する。聖堂と茶室。両者ともまさにその思想が凝縮した「聖なる空間」である点に関しては共通した要素が見られるが、特に「光」と「闇」の演出効果に関して言及したい。確かにキリスト教の聖堂が天上世界と地上世界を結びつける門としてその聖性を高めてきたのに対し、茶室が演出する「闇」は自己の深化を促し、それによって自己の中にある種の聖性を内在させるのであり、両者には「光」と「陰」の扱いには差異があるように思われる。しかしながらこれまで度々引き合いに出されてきた中世ゴシック様式との関係ではなく、シトー派のロマネスク建築を取り上げることで、自己の中に小宇宙を内在させ、ひいては聖なる空間を生成するために、異教の地において聖所を創造できなかった宣教師たちが「茶の湯」に接することで自らの中にそれを見出したことを指摘したい。
 なお本発表によって、異教の地である16世紀の日本においてキリスト教が広まった背景に、「茶の湯」という思想との結びつきがあった可能性が指摘され、聖なる空間の創造という点において洋の東西を隔てた地に共通の思想が看取できることが示される。




10月11日() 研究発表Ⅱ

分科会A. 音の思考


A-1 三河 隆之(東京大学)

実在する音楽
――ジャンケレヴィッチ「音楽論」の形而上学的意義――

 ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ(1903-1985)は、哲学・倫理学関連の著作の他に、多くの音楽論を遺している。しかし、楽曲やそのモチーフに関して、該博な楽理的知見に裏打ちされ、また想像力を喚起する多彩な言葉で満ちたその記述を前に、読者はしばしば戸惑いを覚える。それは、彼の記述が、もちろんたんなる恣意的な連想の産物ではないにしても、かといって音楽学の諸分野の系譜に位置づけることも困難であり、絢爛で耽美的とも言えるそうした記述の狙うところを、結局のところ測りかねるからである。ジャンケレヴィッチ音楽論に関する有力な先行研究はすでにいくつも見られるが、その多くは彼の楽曲把握の構造的分析を行なうものであり、上述のようなメタテクスト的な疑問に対峙する研究は極めて少ないというのが現状である。
 本論では、この困難の一因が、ジャンケレヴィッチの仕事を哲学・倫理学と音楽論とに分類するという方法論的前提にあるものと仮定する。確かに、両者について、著者自身が峻別していると語るのに反して、哲学・倫理学の議論の最中に音楽に関する記述が混入することも、音楽論であるにもかかわらず楽曲を離れた哲学的記述が続くこともテクスト上の事実である以上、両分野の間に截然とした分割線を入れることの必然性や合理性は疑わしい。そこで本論では、「ジャンケレヴィッチのテクストにおける音楽」を考察する際に、上記の分類を少なくともいったんは解消し、端的に彼の遺したコーパスから見えてくる「音楽」像を探究するという手法を採る。
 この方法論に基づいた再考を通じて、ジャンケレヴィッチにとって音楽は、知覚対象やイメージの喚起物としての生理学的ないし心理学的な作用物というよりはむしろ、世界の構成と生成に寄与する形而上学的な媒体として捉えられているという点が鮮明となってくる。こうした音楽観には、いずれも作曲家シリーズの一冊として出されたフォーレ論(初版1938年)やラヴェル論(初版1939年)に先立って、すでにDES論文『プロティノス『エンネアデス』I, 3[弁証論について]』(執筆は1924年、出版は著者死後の1998年)において音楽解釈が示されている点は無視できない。さらにこの理解が、博士主論文『後期シェリング哲学における精神のオデュッセイア』(1932年)における積極哲学の解釈と受容に結ぶことを通じて、音楽を「実在するもの(existence)」、より精確には「存在性なき実在(l'existence sans essence)」(cf. Philosophie première, p. 79)として擁護する、独自の「音楽形而上学」が成立したものと考えられる。また、こうした内在的な把握を推し進めることを通じて、彼が扱う作曲家の採否に関して、国家主義・民族主義的な偏向を見て取る立場とは別の見解を提起することも可能となるだろう。


A-2 山根 千明(慶應義塾大学)

色光で描く
――L. ヒルシュフェルト=マックの《Farbenlichtspiele(色光運動)》――

 ルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マック(1893-1965)は、その画家としての活動の一時期、1920年代前半のヴァイマル・バウハウスで、色光を用いた実験的な作品《Farbenlichtspiele(色光運動)》(1922-25年頃)を制作した。本発表は、今日まで正当な評価に恵まれていないこの作品をあらためて検討し、その特性と歴史的意義を明らかにする試みである。
 《Farbenlichtspiele》は、色フィルターと型紙とアセチレンランプとを用いた独自の投映装置によって、幾何学的なフォルムの複数の色光をスクリーンに映し出すものである。色光(Farbenlicht)は、手動操作でスクリーン背面から投映され、オルガン演奏に合わせて画面上に出現し、なめらかに移動・変化し、消失するという一連の運動(Spiel)を示す。視覚芸術の歴史において最初期の有色の動画像表現と位置づけられる本作品は、これまで、イメージの連続した運動性において映画の観点から、また、幾何学的形態と色彩をモティーフとする点で抽象絵画として検討されてきたが、この作品の重要な特性は、造形上の素材としての「光」への取り組み方にこそ見いだせる。
 確かに、光を素材としたイメージは、当時発展途上にあった映画の課題そのものであり、ヒルシュフェルト=マック自身、映画製作者と関わりを持っていたが、フィルムに焼きつけたイメージを映写ランプの光を用いて投影する映画と、光そのものによってイメージを描きだす《Farbenlichtspiele》とは、その制作関心が本質的に異なっている。むしろ本作品は、ヨーロッパ美術における「ガラス絵(ステンドグラス)」の伝統へと遡ることができる。特に、「色彩を実践的に、それらの基礎的な関連のうちに究明するためには、純粋な色彩から」すなわち「絵画ではなく、ガラス窓から始めよ」として、精力的にガラス絵を制作した画家A. ヘルツェルの影響は看過しがたい。ならびに、ガラス絵としての色彩と光との融合は、J. アルバースの活動やガラス工房をあげるまでもなく、バウハウスのひとつの関心事であった。ただし、伝統的なガラス絵が用いる光は自然光であり、色彩と形態がもたらす様々な変化も、あくまで偶発的な運動という制約を免れなかった。それに対して、ヒルシュフェルト=マックの《Farbenlichtspiele》は、科学技術の援用によって、すべての造形要素の運動・変化を的確に制御し、操作することができた。また、本作品は、同様な関心の持ち主であったL. モホイ=ナジの試みからも区別される。モホイ=ナジは、光について透過光のみならず反射光にも注目し、作品に彫刻性をもたらす要素とみなしていたが、ヒルシュフェルト=マックは、色彩を帯びた形態の関係性を重視し、また限定した投映フレームを用いることで、本作品の特性として、平面空間的な絵画性を保持している。以上のような検討を通じて、《Farbenlichtspiele》は、「発光する絵画」、すなわちガラス絵から今日のヴィデオ・インスタレーションや液晶絵画にいたる絵画表現の系譜に位置し、しかも色光の運動性を主題化した最初の作品であると結論づけられる。


A-3 吉田 寛(立命館大学)

聴覚の座をめぐる近代哲学の伝統

 かつて中村雄二郎は『共通感覚論』(1979年)で、現代の実験心理学等が説く視覚の絶対的優位に対して、感覚論の古典的伝統がむしろ触覚の優位を説いてきたことを強調し、「視覚の専制支配」を超克しようとした。その後、ジョナサン・クレーリーは『観察者の系譜』(1990年)で、全く別の文脈においてだが、やはり視覚と触覚をめぐる哲学的伝統の再読解を試みた。彼によれば一七、一八世紀の視覚理論では、形而上学的な視覚が特権化される一方、それが現実の知覚世界から浮き上がってしまい、その間隙を埋めるべく「触覚としての視覚という概念」(デカルト、バークリー、ディドロ)が要請された。そこでは視覚と触覚は対立的というより相互依存的な関係にある。クレーリーが提起した視覚のパラダイムの歴史区分に対してはその後批判も提出されているが(例えば、山中浩司「感覚の序列」、1999年)いずれにせよ、近代ヨーロッパの哲学的伝統における視覚と触覚の関係については、整理と考察が今日までかなり進んできたと言ってよい。
 ところがそれに対し、聴覚についてはどうか、と問うならば、古典的感覚論におけるその地位についての歴史研究はまだほとんど手付かずである、というのが発表者の認識である。そこで本発表では、その空隙を少しでも埋めるべく、主にヘルダー、カント、ヘーゲルの著作を読解し、五感の編成=秩序が哲学的かつ体系的に構想される際、聴覚にいかなる座が与えられてきたのかを考察する。
 ヘルダーは『言語起源論』(1772年)では「理性即言語」を強調する立場から、聴覚を「精神へ達する本来の扉、他の感官の結合帯」と規定し、人間を「聴覚型の生物」と呼んだ。それに対して、モリノー問題を強く意識した『彫塑』(1778年)(および『批判論叢第四』、1769年)では、彼は触覚を「もっとも根本的な感覚」と呼び、「真実は触覚のうちにこそ存在する」と主張する。つまり彼は二(三)つの著作で、ほぼ同様のレトリックを用いて、一方では聴覚の、他方では触覚の、優位論を展開していることになる。またカントの『人間学』(1798年)の中の五感論では、触覚は「直接的な外的知覚の唯一の感覚」であり「感官のうちで最も重要」と言われる一方で、聴覚は視覚や触覚とは異なり、別の感官を通じた「代替・補足」が不可能であるとされ、その固有性が特権化される。そしてヘーゲルに至っては、『エンツュクロペディー』(1817年)における視覚(触覚)優位説と『美学講義』(1835〜38年)を貫く「次元の滅却」の原理が要請する聴覚優位説との間には、埋めがたい溝が存在する。
 近代の哲学における、こうした視覚(または触覚)優位説と聴覚優位説の衝突について、ジャック・デリダは「エコノミメーシス」(1975年)でカントを読解しつつ、それを「自ら話すことを聞く」伝統の頑強さの好例として解釈したが、本発表ではむしろ、ギリシャ的な「光の形而上学」とキリスト教(旧約聖書)的な「声の形而上学」という、ハンス・ブルーメンベルク(「真実の隠喩としての光」、1957年)が指摘した二つの思考伝統の対立の近代的残滓としてそれを理解すべきである、という見方を示したい。


分科会B. モダン・アート


B-1 永澤 桂(横浜国立大学)

ピエール・ボナールの室内画とアンチミテの概念
――1891年から1900年までの作品を中心に――

都合により、辞退されました。


B-2 桝田 倫広(早稲田大学)

フランシス・ベーコン《ベラスケス作〈教皇インノケンティウス10世〉による習作》(1953年)に関する一考察

 戦後イギリス美術を代表する具象画家であるフランシス・ベーコン(1909-1992)は、1950年代を中心に、ベラスケスによる《教皇インノケンティウス10世の肖像》(1650年)を基にして40作品以上の絵画を制作した。その中でも特に《ベラスケス作〈教皇インノケンティウス10世〉による習作》(1953年)は、彼の代表作のひとつだ。そのため、この作品は数多くの先行研究において言及され、それらの殆どは同作品を「聖像破壊的」と規定している。例えば、ノーマン・ブライソンは、教皇=“Papa”という語義から、ベーコンが描いた教皇の意味論的考察を試みている。彼によれば、ベーコンの作品に描かれている教皇には、西欧文化圏の父、ベーコン自身の父、またベラスケスという画家の父という象徴的イメージが同居しているという。そしてベーコンの作品において、そのような象徴の統合体としての教皇は、叫んでいるかのように開かれた口や、人物を消失させるかのような縦塗りの線によって毀損されていると述べる。まさにそのことによってベーコンの作品は、「西欧文化や伝統の転覆」を意図したもの(エルンスト・ファン・アルペン)として定義されてきた。
 しかし、それにしてもベーコンはこれらの絵画制作において、本当に「西欧文化や伝統の転覆」を意図したのであろうか。ベーコンが、自身の絵画制作を「リアリティの再発明/再創造」“re-invented/re-created”と捉えていた点を考慮に入れれば、彼が単に既存の概念を毀損することのみを意図したのではないことは明白だろう。つまり、その作品の成立には破壊だけではなく、何らかの「再発明/再創造」が意図されていると捉えてしかるべきではないだろうか。本発表は、このような問題意識に立脚し、元来、聖像破壊的と捉えられてきたベーコンによる開かれた口というモチーフに別の解釈の可能性を提示したい。
 先行研究において、開かれた口というモチーフは、教皇という神聖な存在を否定する性的な要素、怪物的要素として捉えられてきた。しかしながらそうした性的、あるいは怪物的要素は必ずしも神聖さと対立しない観点があることに着目したい。例えば、1950年代のベーコンに影響を与えたと言われるバロックの画家スルバランによる作品において、幻視体験や瞑想行為といった神聖な体験に直面する人々は、しばしば口を開け、法悦を伴った姿で描かれる。ここでは、聖と性、あるいは生と死といった矛盾する要素が不可分に結びつくものと捉えることができる。ベーコンに影響を与えたと言われるスルバランの作品のこうした性格を念頭に置けば、ベーコンによって描かれた教皇と開かれた口の関係も対立するものではなく、不可分に結びつくものと捉えられる可能性を開いてくれる。この時、教皇とその開かれた口を対立項として捉え、ベーコンの作品を聖像破壊的と規定する見方では捉えられなかった彼の絵画制作という創造行為の意図に初めて迫れるものと考える。


B-3 譽田 大介(慶應義塾大学)

運動を象る造形、剥奪される形態
―─ブランクーシによる「空間の鳥」作品群をめぐって─―

 ルーマニア出身の彫刻家ブランクーシ(1876-1957)は、「空間の鳥」と総称される作品群を制作した。故郷ルーマニアの民話に登場する伝説の鳥をモチーフにした<マイアストラ>に始まり、<空間の鳥>と題された連作に至るまで、およそ30年にわたる制作過程において彼の彫刻作品の形態は徐々に「単純化」していき、最終的には鳥の「飛翔」を象るかのような縦の流線形にまで還元される。ギーディオン=ヴェルガーによれば、この「単純化」の過程についてブランクーシは、「事物の真の意味に近づくと、誰でも自分自身に反して、単純性に到達してしまうのである」と述べている。本発表では、「自分自身に反して」進展する形態のこのような「単純化」の在処あるいは来歴を探求する。
 注目すべきは、ブランクーシが、「単純化」が「抽象化」と見なされることを強く拒絶しているということである。仮に彼の作品が「抽象化」であるとすれば、そこには抽象がそこからなされたはずの何か具体的な形態、つまり、嘴や羽を備えた鳥という具体的な形態を想定しうる。ブランクーシが拒絶したのは、このような具体的形態を何らかの仕方で表現する抽象的形態としての作品という彫刻的造形の捉え方であると我々は考える。仮にこのような形態間の連関であれば、彼はそれを意図的に実現することもできたはずであり、彼が「自分自身に反して」と述べることもなかったであろう。
 ところでR・ウィトコウアーは、ブランクーシの彫刻作品の単純化された形態に、「部分が全体を表す」という「提喩」の機能を見て取る。しかし我々はこの提喩説に満足することはできない。その解釈は、やはり部分的「形態」と全体的「形態」の関係から「空間の鳥」の造形過程を把握しており、その限りで抽象化が退けられるのと同じ理由で退けられるべきだからである。
 恐らく、「単純化」の動向を可感的な「形態」の問題に還元する説明図式は─逆説的ながら─十分ではない。我々は「空間の鳥」作品群における「単純化」の問題を、そもそも「飛翔」という「運動」を象ろうとする試みの不可能性という観点から捉えることを提案する。事物を造形するブランクーシの手が、それ自身形態化できない運動をその事物において造形しようとすればするほど、彼自身の意図に反して作品の形態が極限まで奪われていくということは考えうる。だとすれば、一連の「空間の鳥」作品群は、彼の手をかすめつつ、図らずもそこから逃れていった運動のいくつかの通過点であり、彼の手が被った挫折の痕跡であると考える理路が開けてくるはずである。
 仮に「空間の鳥」作品群の成立がブランクーシという一彫刻家における局所的出来事ではあっても、以上のような探求を通して、「制作」としての芸術という伝統的理解の臨界域を射程に収める視点を手に入れることができれば、それが本発表のささやかな意義となろう。


分科会C. 映像論


C-1 鈴木 恒平(神戸大学)

チャールズ・ダーウィンの写真術
――『人及び動物の情動表現』(1872)についての写真史的考察――

 本発表は、生物進化論の確立者チャールズ・ダーウィン(1809-1882)の著作『人及び動物の情動表現』(1872)を写真史という観点から考察するものである。そもそも写真に限らず、ダーウィンとイメージとの関係を問うというテーマの設定それ自体が、我が国においては比較的馴染みの薄い試みであるように思われる。確かに、彼の最も有名な著作『種の起源』(1859)には、たった一つのイメージしか掲載されていない。しかしながら、彼の他の著作を紐解けば、彼の仕事が豊富で多様な数々のイメージによって彩られていたことが分かる。これまで行われてきたダーウィンの未公刊の原稿や書簡といった一次資料に関する研究は、彼が著作のテクストに関してだけでなく、図版として収録するイメージに対しても細心の注意を払っていたことを明らかにしている。これらのイメージは、彼の思索において単に副次的な役割を担っていたというわけではなく、彼の生物進化論そのものの形成にも深く関与していたのである。ダーウィンが唱えた生物進化論は、当時の科学的な知見に依るだけでは十分に実証することのできない理論であった。それ故に、彼のテクストが隠喩的な性格を強く帯びることになったのであり、視覚的なイメージが彼の理論形成において大きな役割を果たすことにもなったのである。この意味でダーウィンの生物進化論は、いわば「イメージの科学」であったと形容することもできるかもしれない。本発表では、数あるダーウィンのイメージの中でも、彼の生物進化論三部作の一角を成す『人及び動物の情動表現』に掲載された写真図版に特に注目したいと思う。
 1869年からのおよそ二年間、ダーウィンが情動表現の研究に利用可能な写真を収集するために、自宅から馬車と列車を乗り継ぎ、ロンドンの大都会へと足繁く通っていたことが知られている。後半生は慢性的な健康上の不安を抱え、自宅のあるダウン村をほとんど離れることがなかったはずのダーウィンが、ここで写真に対して示した並々ならぬ執心だけをとっても既に注目に値する事態である。実際、写真というメディアは、彼の『人及び動物の情動表現』において極めて重要な役割を果たしている。一言で述べれば、ダーウィンにとって写真は、「情動」という不可視の領域が「表現」として可視化するための条件、すなわち「情動表現」の科学的で客観的な観察可能性そのものを形作っているのである。極論すれば、この著作は、写真というメディアを欠いてはそもそも成立しなかったとさえ言うことができるかもしれない。この著作はまた、写真図版を掲載した科学的著作の最も早い例のひとつに数えられてもいる。本発表では、『人及び動物の情動表現』という著作のテクストとイメージだけでなく、当時のイギリスにおいて写真というメディアを取り巻いていた様々な歴史的出来事も確認することで、ダーウィンの情動表現研究と写真メディアとが切り結ぶに至った特異な関係を明らかにしたいと思う。


C-2 土山 陽子(早稲田大学)

「人間家族」展(1955年)の復元による意味の変遷について

 ニューヨーク近代美術館(以下、MoMA)は1929年の開館当初から写真部門を設置し、逸早く近代芸術の一分野として写真をコレクションし、展覧会で紹介してきた。1947年から62年まで写真部門部長を務めたエドワード・スタイケン(1879−1973年)もまた、展覧会を通して写真の芸術的地位の向上に努めている。
 スタイケンが企画した「人間家族(ザ・ファミリー・オブ・マン)」展(1955年)には、68カ国273人の写真家による503枚の写真が選ばれ、インターナショナル・プログラムによって38カ国を巡回した。本展覧会は複数のドキュメンタリー写真で構成され、それらは撮影者を際立たせずに37のテーマで分類されている。また、建築設計による鑑賞者の誘導、大型の写真パネル、テキストと写真の併置、映画的な連続性の導入など、これらの手法を用いて個々の写真を連結しながら、一つの物語に沿って鑑賞されるように構成されている。
 この展覧会は1932年の「壁画」展、特に第二次世界大戦中の「勝利への道」展(1942年)といったプロパガンダの写真展に連なることが指摘されてきた(C. Phillips, 1982 ; M-A. Staniszewski, 1998)。人種差別や宗教紛争のような人類の歴史的事実を提示するのと異なる同展覧会は、写真を撮影された文脈から切り離して「ヒューマニズム」のテーマで編集しなおすことで、世界的な共感を得ると同時に、個々の差異を排除した「普遍的価値」に偏っているとして批判の対象にもなっている。
 しかし、1991年の「人間家族」展の復元によって、同展覧会の解釈にも変化が現れた。現在、この展覧会は一つのインスタレーション作品として扱われ、その批判的要素も含めて、「冷戦とマッカーシズムの記憶」として位置づけられている。1955年の「人間家族」展は各国を巡回後、1960年代にアメリカ政府からスタイケンの祖国、ルクセンブルク大公国へ寄贈された。1989年からのオリジナルの写真パネルの修復によって再現された後、1993年から94年に再び、トゥールーズ、東京、広島の3都市を巡回、1994年よりルクセンブルクのクレルヴォー城内に常設展示されている。そして、2003年にはユネスコの「世界の記憶」に文化遺産として登録された。「人間家族」展の巡回展には複数のヴァージョンが存在しており、スタイケンも各国の建築物に合わせた展示の自由を認めてきたが、写真の展示方法と同展覧会のコンセプトが切り離せないため、ルクセンブルクの最終版は1955年のオリジナルに忠実であるよう求めている。
 本発表では1955年のオリジナルと90年代の復元とを比較しつつ、「人間家族」展がMoMAの展覧会の系譜から離れて扱われることで現れた新たな解釈を明示し、全く同じ構成の写真展が置かれる文脈によって意味を変化させる点について指摘する。


C-3 小野 智恵(京都大学)

オーヴァーラッピング・ダイアローグからオーヴァーラッピング・ナラティヴへ
――ロバート・アルトマン作品における音と物語のプルラリズム――

 本発表は、米の映画監督ロバート・アルトマン(Robert Altman 1925-2006)の作品にたびたび現れるあるナラティヴの構築法が、ハリウッドの伝統的な物語フォーマットのひとつを参照しているように見えながらも、実際には、彼の行なった映画の「音声(サウンド)」における革新と深い関わりを持った、独自の成立過程を持つものであったのではないかという問題の提起を目指すものである。
 はじめに、アルトマンの行なった先駆的な音声上の試みについて確認する。その作品群を通じてさまざまな実験を試みた彼は、殊に映画のサウンド面におけるパイオニアであった。いくつかの音声上の試みのなかでも、とりわけ独創的であるといえるのが「オーヴァーラッピング・ダイアローグ(重なり合う会話)」であろう。但し、俳優たちの会話を重ねた例は既にホークス(Howard Hawks 1896-1977)やウェルズ(Orson Welles 1915-85)の作品に見られる。それでもアルトマンがオーヴァーラッピング・ダイアローグの歴史において先駆者のひとりといえるのは、より自由な会話の重なりを可能にするある技術を採用したことによるものだ。彼は1960年代なかばから音楽業界で用いられていた8トラック録音の技術と小型の無線マイクを組み合わせ、映画の同時録音へと導入したのである。現在の映画製作にも引き継がれたこれらの技術をアルトマンが初めて用いたのは、1974年の『ジャックポット(未/DVDタイトル)』(California Split)においてであった。アルトマンらによって開発され、その後の彼の作品の特徴のひとつとなった奔放なセリフの重なりを可能にしたこの新技術は「ライオンズ・ゲイト・8トラック・サウンド・システムズ」と名付けられ、従来のブーム・マイク時代から試みられてきたオーヴァーラッピング・ダイアローグに変革をもたらした。
 次に、マルチトラック録音によって展開されるオーヴァーラッピング・ダイアローグが、作品の聴覚的空間にどのような影響を与えたかについて考察する。この技術革新はさらに、作品の視覚的空間にも影響を与え、劇中の登場人物たちの在り方に変化をもたらすこととなった。
 最後に、その録音システムのもたらした変化が、アルトマン作品におけるもうひとつの特徴である独自のナラティヴを産み出したのではないかという問題を提起したい。『ナッシュビル』(Nashville, 1975)において試みられたこの物語形式は、その後の作品の中で少しずつ変化を遂げながら繰り返される。それは従来、『グランド・ホテル』(Grand Hotel, 1932)を嚆矢とする伝統的なナラティヴを踏襲したものと考えられてきた。しかし『ナッシュビル』に代表される物語の語り方を、ここでは、マルチトラック録音による独自のオーヴァーラッピング・ダイアローグから派生した、アルトマンに特有のものであると捉え、新たに「オーヴァーラッピング・ナラティヴ」という呼称を提案したいと考える。




10月11日() 研究発表Ⅲ

分科会A. 空間とテクスト


A-1 岩佐 愛(武蔵大学)

ウィリアム・シェンストンの庭園論
――姉妹芸術論の観点から――

 詩人ウィリアム・シェンストン(William Shenstone, 1714-1763)が残した未完の庭園論、「造園断想 Unconnected Thoughts on Gardening」(1764年初版)は、「風景式ないし絵画的造園  (‘landskip, or picturesque-gardening’)」概念の導入で知られ、18世紀イギリス庭園史を語る上で必ず参照される重要なテクストのひとつである。造園家の仕事を画家や詩人の作品制作に準えるシェンストンの議論は、庭園を絵画や詩と同じく姉妹芸術のひとつと見なし、既存の姉妹芸術論の枠組みに庭園を組み込んだ新たなタイプの姉妹芸術論となっている。
 シェンストンのこうした庭園論は、庭園と姉妹芸術との関係をめぐり18世紀イギリスで行われた議論の特性を色濃く反映するものでもある。本発表では当時の姉妹芸術論や庭園論との比較から、シェンストンの庭園論が1760年代以降のイギリス庭園論が向かう1つの方向性を指し示すものである点に着目する。シェンストンの庭園論を18世紀イギリス庭園論の文脈のみならず、庭園の姉妹芸術とされた絵画や詩に関する議論を含む芸術論の文脈に位置づけることで、次のような特色が明らかとなろう。すなわちシェンストンの庭園論が、18世紀前半までの伝統的(新古典主義的)な姉妹芸術論との相似を示すだけでなく、こうした論の広がりを背景に主張された庭園の芸術性に関する新たな議論をも反映するものとなっている点である。
 18世紀当時からしばしば、シェンストンの庭園(論)はイギリス庭園史における直線的「進歩」の単なる一段階として説明されてきた。だが本発表での考察からは、シェンストンの庭園(論)が、ローマカトリック教徒・野党支持者・スコットランド人といった、当時のイギリスにおける政治的非主流派からの強い影響下で形成された側面が浮かび上がる。このことは、ホラス・ウォルポールの『現代造園趣味史』(1770年初版)により定着した感の強い、18世紀イギリス庭園史のホイッグ的説明解釈を見直すひとつの方法を示すことにもつながるであろう。
 シェンストンの庭園論が18世紀前半のアディソン、ポープらによる庭園と姉妹芸術に関する言説から強く影響を受けたものであることは、これまでにも度々指摘されてきた。本発表では、ポープの親しい友人であったジョゼフ・スペンスらとの交友関係を通じた先行言説からの影響、なかでも庭園の芸術性を論じたサー・ジョン・ダルリンプルやケイムズ卿(ヘンリー・ヒューム)らの著作といった、スコットランドの庭園論・芸術論からの直接的な影響についても考察を加えたい。特に、庭園風景が訪問者に与える心理的効果について観念連合を援用して論じたシェンストンの庭園論は、この後18世紀末に主流となる、訪問者(鑑賞者)の心理に焦点を当てた庭園受容の議論に連なるものであり、こうした後の議論に与えた影響という観点からも注目されるものである。


A-2 小澤 京子(東京大学)

空間としての書物/建築としての文字
――C.N.ルドゥーによる建築書を中心に――

 18世紀後半の建築書には、ウィトルウィウス以来の伝統である理論的な手引書という性質を超え出たものが散見される。このような「幻想的建築」の嚆矢は、フィッシャー・フォン・エルラッハ(『歴史的建築の構想』1721年)に求めることができよう。新古典主義の時代には、様々な現実的制約によって実現不可能な建築構想や、あるいはまた既に失われた古代遺跡の復元図を、図版入り書籍という形で公刊することが盛んとなった。今日これらは「紙上建築」と総称され、総括的あるいは個別的に論じられてきている。しかし、従来のアプローチの主眼は「描かれた建築」にあり、書物としての「総体」に着目したものは管見では存在していない。本発表の企図は、一冊の建築書というテキストとイメージの連続体を、一つの自律した(擬似的な)「空間」と見なした上で、そこで語られ、描かれている都市や建築の特性を明らかにすることにある。
 本発表で分析の主対象となるのは、クロード・ニコラ・ルドゥー畢生の建築構想をまとめた一冊、『芸術、習俗、法制との関係の下に考察された建築』(1804年、以下『建築論』と略記)である。工業を主柱とした理想的共同体を志向するこの書は、多くの既往研究が指摘しているように、典型的なユートピア論であり、都市建設プロジェクトの提案であった。しかしまた、実在を仮構された都市を巡る「一人の旅行者」によるナラティヴに仮託された、一種の旅行記(空間移動の時系列的記録)でもある。私が着目したいのは、『建築論』における、この「空間移動の記録」や「連続的に経験された空間」という性質である。この性質の分析に当たっては、フォーマリスティックな形態分析と、テキストのナラティヴ分析の両者が基盤となる。特に前者おいては、書物の物理的・視覚的構造(ファサードないしは扉としてのフロンティスピース、図版の挿入されるタイミング……)に着目したい。
 さて、当時の建築理論においては、「カラクテール(caractère)」(建築の外観はその用途や性格の反映であるべし)という概念が提唱されていた。これは本来、刻まれた、あるいは押印された文字を示す語である。ほぼ同時代に提唱された、建築の「ティプ」なる概念(建築に普遍的に妥当する原型)も、その本義は「活字」である。ここからは、読まれるべき「文字」としての建築というテーマが浮上するであろう。ルドゥーは『建築論』で、建築の基礎的要素たる幾何学図形を「アルファベット」(=書字のための基礎的要素)と規定した。他方でルドゥーによる建築構想(用途や住人の社会的職能を、建築の外観が宣言している)を、19世紀半ばの建築家ヴォードワイエは「語る建築」と規定した。ここでは、一種の可視性の下に建築を「綴る」、あるいは「読む」作法が問題となっている。このような建築は、明晰に一義的な意味を確定できる性質の「文字」なのだろうか、それとも解読を要する象形文字ないしはアレゴリーなのだろうか。ルドゥーによる建築作品の形態分析からは、ときにあからさまな、ときに空虚な、そしてときに過剰な意味作用を持つ「文字」性が炙り出されるであろう。
 上記二つの契機(書物/空間、文字/建築)から、一つの建築書が有していたシンボリックな意味を「読み解く」ことが、本発表の目的である。


分科会B. 都市表象


B-1 池野 絢子(京都大学)

アルテ・ポーヴェラと都市空間
――1960年代のトリノを例として――

 「安楽椅子のような芸術ではなくて、一瞬一緒に住まわせ、凝固させるような芸術」―― アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)の主要作家の一人、ミケランジェロ・ピストレット(1933-)は、1966年にトリノで開かれた展覧会、『アルテ・アビタービレ(居住可能な芸術)』展のコンセプトを形容してそう述べた。それは、後にコンセプチュアル・アートやランド・アートと並ぶ新しい潮流として、国際的な認知を得ることになるこの芸術運動が誕生する前年のことである。
 観者に心地よさを与えるのではなく、むしろそこに住まわせ、緊張を強いること。ピストレットがここで表明している『アルテ・アビタービレ』展の趣旨は、アルテ・ポーヴェラの成立を考察する上で重要な参照点となると考えられる。というのも、この芸術運動に参加した作家たちの初期作品には、住居や生活空間を主題とした作品が共通して多く見受けられるからだ。67年以降、アルテ・ポーヴェラは、その命名者である批評家ジェルマノ・チェラント(1940-)によって、アメリカ型消費社会の「豊かさ」とメディア・テクノロジーの発達がもたらす「複雑さ」に抗する、質素で日常的な芸術として理論化されていく。しかし、それによって芸術と生の浸透・共存をもたらすというユートピア的な理念よりも、むしろ初期のアルテ・ポーヴェラには、その二者の葛藤と緊張が読み取れるように思われる。
 本発表では、彼らの制作に現れる生活空間の主題と、彼らが位置していた1960年代のトリノの都市空間の関係に注目することで、この芸術運動の成立背景について一つの試論を提示したい。アルテ・ポーヴェラの主要メンバーの半数以上がトリノを中心に活動を開始したことは、すでによく知られている。だが、もともと文化的には保守的であった北イタリアの一地方都市が運動の中心的な舞台となった背景には、この都市に特有の事情が少なからず影響していたと考えられる。当時、自動車製造会社フィアットの一大本拠地であったトリノは、南部から労働者としてやってきた大量の移民による人口増加に悩まされていた。インフラと住宅の不足、郊外の発達、階級対立…こうした急激な変化を短期間のうちに経験したトリノは、68年に表面化することになる変革への不安な兆しを、いち早く予感していた都市でもあった。
 この都市で、若い芸術家たちが直面していた芸術と現実の問題とは、いったいどのようなものだったのか。本発表では、これまでその重要性を指摘されつつも具体的な分析がなされてこなかった1960年代トリノの都市空間に光を当てることで、アルテ・ポーヴェラ成立の歴史的背景の一端を浮き彫りにすることを試みる。


B-2 玉井 貴子(早稲田大学)

ジョージア・オキーフ作≪マンハッタン≫に見るニューヨークの都市表象について

 20世紀前半のアメリカ美術を代表する画家のひとりであるジョージア・オキーフ(1887-1986)は、1920年代半ばから30年代初頭にかけてニューヨークにちなんだ十数点の作品を制作している。花の画家として、またアメリカ南西部の乾燥地域ニューメキシコの画家として語られることの多いオキーフが、このようにニューヨークを題材に多くの作品を残している点は注目に値する。本発表では、このニューヨークにちなんだ作品群の最後の作品≪マンハッタン≫(1932年、国立アメリカ美術館)に焦点を当て、これまでのオキーフ研究に新たな一局面を提示することを目的とする。
 ≪マンハッタン≫は、ニューヨーク近代美術館によって開催された展覧会「アメリカ人画家と写真家による壁画」の出展要請によって制作された。第一次世界大戦後の世界がテーマに指定されたのに従い、オキーフは超高層ビルが林立するニューヨーク随一の繁華な地区マンハッタンを題材とし、3画面からなる習作とそのなかの1画面を拡大したタブローを制作、ともに展覧会で展示した。このうちタブローは現存するが、習作は所在が不明である。
 この現存するタブローは長辺が2mを超える意欲的な大作だが、先行研究において言及が少なく、ほとんど研究対象となっていない。恐らくそれは≪マンハッタン≫が展覧会用に壁画の試作品として制作されたという特殊な事情にあるだろう。しかしながら近年ようやく本作に描かれた摩天楼の幾つかが特定され、同時代のニューヨークを表す作品として具体的な解読が進展しつつある。またニューヨークの都市表象の研究も進み、本作に見られる傾く摩天楼など、20世紀前半に発達したモティーフや表現の意味が明らかになってきた。本発表ではこれらの先行研究の成果を踏まえ、未だ十分に論証されていないモティーフや表現について考察し、都市表象の文脈から作品を検討する。
 具体的な考察としては、当時の展覧会カタログの図版を基に次のように行う。まずは本作に先立ち、オキーフ自身によって制作されたニューヨーク関連の作品と比較検討する。これらの作品については、摩天楼の出現によって生まれた視覚体験を表現するものとして、新しい都市現象を的確に捉えた点が評価されている。またオキーフの夫で写真家のアルフレッド・スティーグリッツが撮影したニューヨークの作品との関連について考察する。さらにジョン・マリンら同時代の画家たちによる作品や、アール・デコ様式の作品などからも検討を試みたい。
 ≪マンハッタン≫は大画面作品であるだけでなく、内容の上でもオキーフによる最も本格的なニューヨークの都市像が実現していると考えられ、重要な作品であるといえる。本発表はこれまでのオキーフ研究で見落とされてきたこの作品の位置づけを行い、都市を描く画家としての画業の一端を明らかにすることで、オキーフ研究の新たな展開の一契機としたい。


分科会C. 「日本的なるもの」


C-1 山本 佐恵(筑波大学)

1939年開催ニューヨーク万博における「日本」表象
――日本館と国際館日本部における「ナショナリズム」と「モダニズム」――

 本発表は、戦前最後の国際博覧会である1939年開催のニューヨーク万博の日本の展示に、1930年代の日本の「ナショナリズム」と「モダニズム」が、複雑に絡まり合いながらどのような表象として提示されたのかを考察する。
 1931年の満州事変以後、国際社会での孤立と欧米諸国からの対日批判を意識していた日本政府は、対外文化宣伝によるイメージの向上を図っていた。ニューヨーク万博への日本の参加もまた、対外文化宣伝が目的だった。
 日本の博覧会協会は、当時東京帝国大学建築学科教授だった岸田日出刀が設計した日本館(アンカヴァード・スペース)と、バウハウスで学んだ建築家山脇巌が展示設計を担当した国際館日本部(カヴァード・スペース)の二カ所で展示した。
 日本館はナショナリズム的な「古き日本」がテーマであり、「日本建築の特徴を充分に表現し而も外観、内容共に極めて壮麗雄大のもの」という方針のもと、伊勢神宮の神明造を基調に設計された。一方、アメリカの博覧会協会側が建設した国際館は、等分に区切られたスペースに各国が出展するようになっていた。国際館日本部は近代的な「新しき日本」を欧米人に見せることが展示目的であり、土門拳ら新進写真家たちの写真を使用したフォト・モンタージュを壁面一杯に拡大した「写真壁画」が展示の中心だった。
 だが一見したところナショナリズム的な造形に見える神明造の日本館には、岸田日出刀のモダニズムに対する考えが強く反映していた。岸田は1929年に出版した『過去の構成』において、法隆寺や桂離宮など日本の古建築をモダニズムの視点から論じ、その斬新な試みは、堀口捨巳など当時の若手建築家に強い感銘を与えた。岸田は神明造の神社も取り上げ、その「簡素さ」をモダニズムの美学に重ね合わせて高く評価した。こうした視点は、1920年代末から30年代にかけて建築における合理主義を掲げた日本のモダニズム建築家たちに共通するものだった。
 一方、山脇巌の国際館日本部の展示デザインは、川畑直道の既往研究において「グロピウスのバウハウス創設理念に合致」したモダニズム的作品として評価されている。しかし反面、会場装飾に竹や玉砂利をふんだんに使用するなど、欧米人の「日本趣味」を意識した展示デザインでもあった。また、和紙や障子の桟などが写真に組み合わされ、能面や大仏、日本の城など「日本の伝統」を強調するナショナリズム的な要素を含んだ写真壁画も展示されていた。
 1930年代の日本において、「ナショナリズム」と「モダニズム」は複雑に絡まり合っていた。モダニストたちは日本的なものの中にモダニズムを見出すことで、日本固有のものに時代を越えて国際的に通用する「価値あるもの」があるという言説を作った。それは西欧からの一方的な文化的影響によって切り離された日本の前近代を取り戻し、「古き日本」と「新しき日本」を接合することでもあった。


C-2 町田 理樹(大阪大学)

三島由紀夫の行動論・武士道論にみる身体的表出の可能性について

 三島由紀夫はその長くない生涯の中で、小説、劇作のみならず、多くの評論、エッセイを残した。三島がその中心的思想である行動論・武士道論において、死を美しいものとして捉え、死を覚悟した或る種の行動の内にこそ人間の最高度に美的な在り方を見出し、また自らも四十五歳の若さで割腹自殺したことは、よく知られている。本論考では、三島のいう行為や生死のもつ美的なものを、単なる感情の高揚や英雄主義的な美しい人格として解するのではなく、美的な形態を生み出す身体的な表出として捉え、その可能性を探る。
 一九六七年の著作『葉隠入門』で三島は、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という『葉隠』の中の有名な箇所を取り上げ、その武士道論を展開する。三島は、この『葉隠』の命題を単に死のすすめとして受け取るのではなく、生と死を表裏一体のものとして考え、常に死を覚悟したような生の極限的な在り方、またそこから発する死をも辞さない行動の「純粋性」と「爆発」的な姿を、人間の最も美しい在り方であるとする。このとき美しい在り方とは、人格的、或いは感情的な意味でいわれているのではなく、形態的・感性的な意味での人間の姿でありうる。
 新渡戸稲造がその著書において、武士道を道徳体系として概括した一方で、三島は武士道のうちに美と道徳との結合をみる。美はあくまでも外面的で客体的なものであるとされ、三島がここで想定するのは、切腹や死化粧、戦の作法や辞世の句といった、外面の美と道徳的な意識とが結び付いた行為である。この結び付きが最も先鋭になるのが、死を前にした覚悟的な在り方であり、映画『憂国』において内面的なものを形態として示す身体、文化的な型を表現する身体が描かれているように、そこに死の盲目性までも貫き通す文化的強制力の極致が捉えられている。
 しかし文化が硬直したものではなく、生きた文化である限りは、空疎な反復と再帰性のうちに留まるものではない。行為の美を、他者によって外面的に感受される美ではなく、むしろ行為が描き出しつつある美として能動性において捉えたとき、文化の創造的な継承と、形態を生み出す身体的表出の可能性があるのではないだろうか。
 本論考では、三島の論説から考えられる生の美しい在り方を、人間そのものの作品化であると捉える。この作品化ということは、単に人間を絵画や言語芸術において表現するということではなく、純粋行動において身体的形式を生み出し、自ら美を纏うことによって、自己自身を作品として描き出すということである。
 以上から、次のような問題が必然的に浮上せねばならない。人間の作品化は、行為そのものを動的に芸術的表現として提示する日本の芸道の伝統と符合すると考えられるが、それは歴史的・文化的な営みにおいて本質的であるのか、或いは特定の時代的・社会的条件(例えば近代の唯美主義、また封建社会の場合の階級構造)をもつのか、ということである。




10月12日() 研究発表Ⅳ

分科会A. 美学史


A-1 関村 誠(広島市立大学)

プラトンにおけるアイステーシス論の創始
――『パイドン』篇を中心に――

 感性論として美学を捉え直すことの必要性が提起されている今日、その源流といえるプラトン思想におけるアイステーシス(感覚)の概念についての考察は未だ不充分である。知性で捉えられるものと感覚で捉えられるものとを厳密に区別して、前者に関わっていく人間の能動性を重視するプラトンの哲学において、感性の機能についての批判的考究とその積極的位置づけもまた必然的な重要課題であったとみるべきである。本発表では、これまでの美学や芸術論であまり扱われていない『パイドン』篇の前半部分を主たる考察対象として、カタルシス(浄化)概念の解釈をもとに、アイステーシスをめぐる理論がプラトンの哲学的思索に組み入れられていく様相を明らかにすることに努める。
 ソクラテスの死刑当日の様子を伝えるこの対話篇では、哲学と死とが重ねて捉えられて、肉体から解放された魂による「知の獲得」が問題化される。この問題から始まる哲学的探究にかかわる議論において、プラトンはイデア存在について初めて明確なかたちで言及している。そこでは、感覚は肉体とともにイデアに到る思考過程において妨げになるものとして否定的な評価が下されて、肉体から分離された魂のみがイデアそのものに触れ得ることが主張されている。さらにこのイデアへの探究との関連で、知を求める者におけるカタルシスの実践と「死の練習」の必要が説かれている。その中で、だまし絵の技法としてのスキアグラフィアに批判的見地から言及されていることにも着目したい。この議論に続いて魂の不死性の論証が試みられて、その一環として想起説が展開される。ここでは、イデア存在の想起が感覚から始められるべきであることが明言されている。先の議論とは逆に、感覚の働きは哲学的直観において不可欠の要素として組み込まれて、想起の契機として絵画の知覚も例として挙げられている。
 同一対話篇内に隣在する感覚や知覚像の否定とその積極的な取り入れ、という矛盾するように思われる見解をどう理解するべきだろうか。この問題に関して、本発表では議論の枠組みの変化を追いつつ解釈を試み、カタルシスの働きが感覚の鋭敏化につながり得ることを主張していく。そこでは、他の対話篇における感覚的現れの知覚の様態に関する議論やカタルシス概念の用法も参照されることになろう。哲学探究への感覚の働きの積極的な組み込みが見られる議論展開の中に、プラトンにおけるアイステーシス論の創始といえる局面を見定めていきたい。その結果、感覚知覚とイデア直観とを結びつけようとするプラトン思想の独創性とそこでの感性の働きの位置づけがより明確化するとともに、一見矛盾するかに見える彼の芸術に関する理論を新たに解釈していくためのひとつの視座を得ることができるであろう。


A-2 岡本 源太(京都造形芸術大学)

アクタイオンの韻文
――ジョルダーノ・ブルーノとペトラルカ主義の伝統――

 偶然にも水浴中の女神ディアナの裸身を見てしまった狩人アクタイオンは、鹿に変えられ、みずからの猟犬に喰い殺されてしまう。ギリシア起源のこの悲惨な神話は、とりわけオウィディウス『変身物語』に謳われたことにより、ヨーロッパの文化に深く刻み込まれることになった。ジョルダーノ・ブルーノもまた、抒情詩と紋章をめぐる対話篇『英雄的狂気』(一五八五年)のなかで、この神話に触れている。けれども、ブルーノの語るアクタイオンの神話は、悲惨なものではまったくなく、むしろ至高の生に向かう人間の寓話へと変貌している。このアクタイオンの神話の驚くべき変貌には、いかなるブルーノの狙いがあるのだろうか。本発表では、この問いの消息をしばし辿ることで、ブルーノの美学、なかでもその特異な感情論に光を当てることにしたい。
 出発点となるのは、ルネサンスのヨーロッパで最大の芸術潮流のひとつであったペトラルカ主義の伝統に対峙するブルーノの姿である。ブルーノおけるアクタイオンの神話の意想外の変貌は、これまで少なからぬ関心を惹き、カバラ的な「死の接吻」やクザーヌス的な「知恵の狩猟」などの観点から考察されてきた。しかしながら、本発表で着目したいのは、これまでしばしば看過されてきたが、フランチェスコ・ペトラルカとそれ以降の詩人たちがアクタイオンの神話を「愛の苦悶」の寓話として謳いあげてきた事実である。ペトラルカは、『カンツォニエーレ』のなかで、報われない愛に苛まれるみずからをアクタイオンになぞらえている。以後ヨーロッパ規模の拡がりを見せたペトラルカ主義の潮流とともに、ブルーノの生きた時代では、アクタイオンの神話は報われない愛に苦悶する人間の寓話として繰り返し謳われていたのである。
 そこから本発表では、ペトラルカ主義の伝統のなかで詩人たちによって謳われたアクタイオンの神話の数々を、ブルーノの『英雄的狂気』と突き合わせることを試みる。ブルーノにおけるアクタイオンの神話の変貌には、ペトラルカ主義の伝統に批判的に対峙する狙いが読み取れるだろう。実際、抒情詩に註解をそえるというペトラルカ主義の伝統に棹さす形式をもつ『英雄的狂気』には、ペトラルカとその追従者たちへの暗示的な批判がちりばめられている。したがって、ルネサンスにおけるアクタイオンの神話の変奏を辿ることで、ブルーノによるペトラルカ主義への対峙の争点を見極め、とくに愛の苦悶を中核とするペトラルカ主義の感情論がブルーノによってどのように捉えられ、どのように批判され、どのように転覆されたのかを考察したい。それにより最終的には、アクタイオンの神話の変貌の核心に感情をめぐるブルーノの特異な思索があることを、明るみに出したい。


A-3 金子 智太郎(東京藝術大学)

ベルクソン哲学におけるメディア・テクノロジー解釈

 アンリ・ベルクソンが生きた19世紀後半から20世紀初頭は、メディア・テクノロジーの革命期だった。写真と電信が普及し、電話、蓄音機、映画、ラジオが次々と実用化された時代である。ベルクソンがこれらのメディアを論じた文章としては、ジル・ドゥルーズが『シネマ1,2』(1983, 85)で主題とした、『創造的進化』(1907)の映画論が有名だろう。それ以外のメディアに対してのまとまった考察はほとんどない。しかし、ベルクソンは同時代の科学に対する深い関心と洞察で知られる哲学者である。そして、実は先にあげた各メディアについてどれも一度は言及している。例えば、『物質と記憶』(1896)での写真、電話に対する言及は比較的知られているだろう。ベルクソンは知覚が写真のようであるならば、その写真は事物の内部で、空間のあらゆる点に向けてすでに撮影されていると述べた。また、身体を刺激が通過する電話局に喩えている。これら以外のメディアについての言及も、彼の哲学の特異な議論を効果的に反映していると言えるだろう。本発表は、おそらく量の少なさや特異さのためにこれまでまとまって言及されてこなかった、ベルクソンのメディア・テクノロジーに対する発言を分析する。
 メディアに対するベルクソンの言及にはいくつかの重要な特徴がある。ひとつは身体および知覚と記憶のモデルとして論じられていることである。電気メディアの発展は神経系の拡張であるという、マーシャル・マクルーハンの有名な議論があるが、ベルクソンも『創造的進化』でテクノロジーを身体の延長とみなしている。ただし、この主張はベルクソンの特異な身体論を前提としなければならない。ベルクソンによるメディア・テクノロジーと身体の関係を考察していくことで、彼の身体論の概要が浮かび上がると同時に、彼のメディア解釈もまた伺い知れるのではないか。彼のメディア論のもうひとつの特徴は、視覚メディアに対する聴覚メディアの優位、および保存メディアに対する通信メディアの優位である。つまり、ベルクソンは電信、電話、ラジオを身体や知覚、記憶のモデルとして論じる一方で、蓄音機や映画をモデルとすることを強く批判している。写真についても、先に述べたような、きわめて非現実的なモデルとして言及される。一方、例えばフリードリヒ・キットラーは『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(1986)において、ジャン・マリー・ギュイヨーの論文「記憶とフォノグラフ」(1880)を紹介し、また記憶の蓄音機モデルが世紀末の脳科学において主流になったこと、さらにこのモデルとジークムント・フロイトの無意識論の関係などを論じている。これらの議論との比較を通じて、ベルクソンのメディア論が同時代にどのような意味をもっていたのかが明らかになるだろう。


分科会B. 音楽のモダニズム


B-1 太田 峰夫(東京大学)

記譜の精密化と「プリミティヴなるもの」の「創造」
―——バルトークの民謡研究におけるフォノグラフの役割について――

 本発表はハンガリーの民謡研究者・作曲家のバルトークの民謡研究において録音メディアが果たした役割を考察するものである。
 周知の通り、エジソンが発明したフォノグラフは、二〇世紀初頭の比較音楽学研究に大きなインパクトを及ぼした。サウンドそれ自体を反復して聞き返すことが可能になったために、音高やリズムの測定と比較が容易となり、それまでならば考えられなかったような、「科学的」な考察ができるようになったのである。当時のさまざまな国の民謡研究者達(たとえばイギリスのP・グレインジャー)の仕事からも明らかになる通り、採譜も精緻なものとなっていった。
 バルトークのケースにおいても、年代を追うごとに記譜がいっそう精緻になっていったことと、そうした精緻化のプロセスの中でフォノグラフというメディアが重要な役割を果たしたことを、我々はさまざまな実例から確認できる。ただし、彼の場合においては、他国の民謡研究と競合していく中で、自国の民俗音楽の独自性をことさらに「科学的」に示そうとする傾向が顕著であり、「西洋音楽の決まりきった型から自由なありよう」を賞揚する芸術のプリミティヴィズムからの影響も非常に濃厚であった。そのため、これらの傾向に影響されるかたちで、フォノグラフが彼のケースにおいて、とりわけ「農民音楽」の「プリミティヴ」なありようを数量化して示すためのツールとして用いられるようになっていったことを我々は指摘できる。バルトークのケースの特異性はおそらくそこにあると言えるだろう。結果的に彼は「プリミティヴなるもの」の様式的特徴をフォノグラフによってまさに事後的に「創造」していくこととなっていった。たとえばフォノグラフで民謡を聞き返す中で、彼はハンガリー民謡においても、かつて「プリミティヴ」な「ブルガリアン・リズム」が使われていたことを「発見」することとなったのである。まさにこのような意味あいにおいて、フォノグラフはバルトークの民謡研究にとって―——そして間接的には彼の創作活動にとっても―——決定的に重要なメディアだったと言えるだろう。
 ともするとフォノグラフは、滅びゆく民間伝承を記録し保存するためのメディア、つまり「救済行為」のためのメディアとして単純に理解されがちである。しかしながらフォノグラフに収められた音響現象はもはやもとのままの一過性の現象ではない。そのサウンドは異なった文脈の中で、さまざまに再解釈される可能性を持つのである。以上に見たバルトークの民謡研究のケースは、フォノグラフが当事者の戦略次第では、前衛音楽のプログラムや「民族」の個別性の主張を明確にするための強力なツールともなり得たことを、我々に思い出させてくれるのである。


B-2 内藤 李香(早稲田大学)

アドルノにおける音楽をめぐる「社会学」的思索の根源
――『アンブルッフ』再編成計画を中心に――

 1920年代後半以降、自身の論考の中で音楽論を本格的に展開するようになったアドルノ(Theodor W. Adorno, 1903-1969)は、晩年に至るまで音楽に対する思索的関心を失うことはなかった。こうした彼の音楽論を一貫して特徴づけていることは、芸術の一つのジャンルである音楽を「社会(Gesellschaft)」との連関の中で考察する、という点である。
 ところで、このような「社会」への視座を伴うアドルノの思索の起源は、いったいどこに見出すことができるのか。本発表の目的は、この問いを遂行すべく、アドルノによって1928年に打ち出された音楽雑誌『アンブルッフ(Anbruch)』の再編成計画を検討することによって、彼の音楽をめぐる「社会学」的な思索の一つの根源を明らかにすることである。
 『アンブルッフ』は、もともと『ムジークブレッター・デス・アンブルッフ(Musikblätter des Anbruch)』という名称を冠する音楽専門誌であり、現代音楽について討論をする場として1919年に創刊された。同誌においてアドルノは、1920年代半ばから数多くの音楽批評や評論を発表していたのだが、1928年の晩秋から1930年の春までの間、同誌の編集に協力し、さらにそれを再編成する大規模なコンセプトを打ち出している。本発表では、そのコンセプトが記された「『アンブルッフ』によせて(Zum Anbruch )」(1928年)および「『アンブルッフ』1929年号によせて(Zum Jahrgang 1929 des Anbruch )」(1929年)を主要な典拠として以下二つの問題について検討する。
 (1)『アンブルッフ』の基本的な立場として掲げられた視点―「音楽に内在的な側面」と「理論的で社会学的な側面」の両方に基づいて考察されなければならないという視点―を具体的に解明し、この視点が後の同誌およびアドルノの音楽論全体にどのような形で反映されていくのかを検証する。その際、アドルノが批判的に用いた「固定化された音楽(stabilisierte Musik)」―プフィッツナーの代表される「反動的音楽」およびストラヴィンスキーに代表される「新古典音楽」に対して向けられた―という表現に注目し、社会のメカニズムによって「固定化」され、力動性を失った音楽のあり方を析出する。
 (2)『アンブルッフ』再編成のコンセプトによれば、「社会学」的な議論を遂行するにあたり、(i)音楽の「固定化」の問題にとどまらず、(ii)「音楽生産と消費との関係性の問題」もまた「最も強力なマスの内における社会学的な問題」として考察されるべきであるとされた。後者の問題(ii)は、彼の晩年に至るまでの考察対象であるラジオや映画音楽、さらにはジャズ、オペレッタ、流行歌など「軽音楽」をめぐる問題をその射程とする。ここでは、とりわけ「軽音楽」をめぐる問題を「キッチュの問題性」と結び付けている点に注目し、その社会的内実を明らかにする。


B-3 日比 美和子(東京藝術大学)

無調音楽の分析理論における「相似性(similarity)」概念

 無調音楽の分析において「声部進行(voice leading)」を見る手法は一般にシェンカー風理論と呼ばれる種々の理論に見られるが、それらがしばしば批判の対象になるのはその手法の妥当性の問題である。なぜなら、ポスト・トーナル音楽へのシェンカー理論の応用は調性音楽の分析以上に一定の普遍性を持つ基準の提示が困難だからである。これは1960~1990年代にかけて北米を中心に展開されたシェンカー理論の概念を多かれ少なかれ受け継ぐ理論において重大な問題であった。この問題を克服しようという努力は、「相似性(similarity)」という概念にある種の普遍性を見出そうとする試みとして現れている。相似性とは、基本的意味においては、ある2つのセットを比較する際に移高や反行によってお互いに写像できないにもかかわらず内的な構造として重要な関係性を持っていることを指す。しかし理論家たちは、算出方法、音程内容の扱い、写像と対称性の扱いの点から、この相似性概念に他の理論家の方法論批判という形で多様な変化を加えていった。発表者はまず相似性概念の変化を論じるために、多様な方法論に3種類の傾向を見出した。すなわち、“associational”な方法論(グループ化した音群の関係性を分析)かつ相似性には膠着的であったA.フォート、音程内容を数値化し、量的な差異に固執していく傾向にあるR.モリス、C.ロード、J.ラーン、R.テイテルバウムといった理論家たち、“transformational”な方法論(各音の写像関係を分析)を代表するD.ルーウィンとそれをさらに推し進めたJ.ストラウスである。
 相似性概念に一定の普遍性を追求する試みに反比例するかのように、相似性概念は音楽分析への実際的な有用性を失っていく。相似性概念の最大の貢献は、等価概念のみでは分析不可能な作品についても、より柔軟な分析を可能にしたことであろう。移高や反行によってお互いに写像できることが条件になる等価概念は、聴覚的に把握しやすいが、概念としては単純で限界がある。相似性概念は音楽解釈に自由を与えてきた一方で、数学的整合性に固執する傾向が強まるにつれ、音響の聴覚的把握との齟齬を指摘されるようになる。しかし、相似性の起源に立ち返れば、相似性概念は直観的な音楽理解との一致を等価概念以上に前提としているのである。このように、相似性概念は機械的、数学的な指数の算出に固執する点で実際の音楽との乖離を指摘される一方で、その概念の誕生の段階から直観的な聴覚による音楽理解に基づいているという2面性を持っている。さらに興味深いことに、理論家たち自身が算出された指数の数的な美しさや数学的整合性と音響の聴覚理解とが相容れないことを認識していたことが指摘できる。相似性概念は、分析への応用とその概念の解釈の柔軟性との間のバランスを欠いているがゆえに、自由な普遍性の追求のもと、豊かな概念的広がりを見せることができたのである。


分科会C. デザインと生活


C-1 北田 聖子(日本学術振興会)

事務用家具の標準化
――木檜恕一著『近代の事務家具』を起点に――

 戦前、特に1920年代以降、日本の工芸、デザインにおいては、「標準化」が重要な課題であった。その背景には、政府主導で推進された産業合理化運動、さらには総力戦体制の確立があった。先行研究では、時代背景が生活用品、家具などの標準化を促したこと自体が注目されてきたが、標準化の具体的な内容は等閑視されてきた、つまり標準化の個々の事例を掘り下げる作業が手薄になっていたきらいがある。
 本発表の目的は、1920年代から終戦までの間にみられた事務用家具標準化の事例研究をとおして、事務用家具の標準化はどのようにおこなわれたか、標準はいかにして設定されたかを具体的なレヴェルで明らかにすることである。なぜ事務用家具に着目するかというと、事務用家具は製品のなかで比較的早い段階で、標準化の対象となり、実際に政策としての標準化事業に組み込まれていったからである。
 事例研究に際しては、1930年(昭和5年)に刊行された木檜恕一の著書である『近代の事務家具』(博文館)を起点とする。椅子式生活を前提とした「生活合理化」を目指し住居、家具研究に尽力していた木檜が、1930年の時点で事務用家具を単独の主題に選んだ背景にあったのは、やはり産業合理化であった。ただこの時点では、木檜は、量産が見込める事務用家具の生産過程の合理化も考慮していたが、事務用家具による「事務能率」の増進という点から産業合理化への貢献に重きをおいていた。まず、「寸法」と「意匠」が標準化されるべきだと木檜は述べる。標準の寸法は、事務能率を増進させるところで決定され、決定の際「人間体躯の大きさと其の動作」、書類(紙)、あるいは個々の家具の組合せなどが基準となる。意匠は、執務を妨げないよう「単純化」されたものが標準となる。さらにそれらの標準化は、同室内の家具に「統一」をもたせ、オフィス全体を「整然として美しく」し、事務能率を増進させる。しかしながら『近代の事務家具』では、木檜自身も述べるように、まだ寸法と意匠の完全な統一の案は提示されず、それぞれの家具に多様な設計案が示された。
 『近代の事務家具』が家具製作の観点から事務能率増進を実現する事務用家具のあり方を問う一方で、それと同時期に、事務管理論という観点に立つ動きもあった。また、『近代の事務家具』以降、事務用家具は臨時産業合理局の商品単純化事業から1940年代の戦時体制下の規格化運動に至るまで政策としての標準化の対象であり続け、その流れのなかで事務用家具標準化の具体的内容は少しずつかたちをかえていった。本発表では、『近代の事務家具』の内容と、同時代に同書とは別の視点から語られていた事務用家具標準化、そして木檜以降の標準化とを対比させることを視野に入れながら、戦前の事務用家具標準化の内実に迫る。


C-2 川口 佳子(京都工芸繊維大学)

デザインにおける趣味と差異、およびその生産をめぐるコンテクスト
――C.R.マッキントッシュの室内装飾を例として――

 建築やデザインを研究対象とする場合、制作者の特定の問題が常に付きまとう。著名な建築家が設計した建築であっても、それを実質的に作り上げたのは別の建設業者やメイカー達であることが多い。作品制作の下部構造をなす彼らは、注目を浴びることが少ない。しかし、こうした下部構造からひもとく作品のコンテクスト研究が、美学・美術史の分野において展開されても良いのではないだろうか。
 チャールズ・レニー・マッキントッシュは、19世紀末から20世紀初頭の英国グラスゴー市を拠点に活動した、建築家、デザイナーである。興味深いことに、同時代の英国のアーツ・アンド・クラフツ運動や唯美主義のデザイナーらが、しばしば自身の工房や専属事務所を持って作品の質を厳しくコントロールしたのと対照的に、マッキントッシュはそうした影響力を持たなかった。所属する建築事務所からの強い制約の下にあったためである。彼の作品を実質的に手掛けたのは、地元の下請け業者(建具職、しっくい塗り、塗装職、ガラス装飾業者、家具メイカー、刺繍業者他)の集団であった。建築家である彼は、こうした下請けの人々をうまく使い分けることができていたか否か。彼ら業者は普段はどんな仕事に携わり、どんな市場や社会階層に製品を送り出していた人々か。このような問いに沿って、本発表はマッキントッシュの作品、特に室内装飾の生産基盤を明らかにする。
 このため発表者は、グラスゴー大学に所蔵される建築事務所の職務記録の中から、マッキントッシュの室内装飾に関与した業者とその業務内容を抽出し、データベースを作成した。さらにグラスゴー市内外の研究機関のアーカイヴにおいて、このデータベースに含まれる下請け業者のビジネス・レコードの体系的な収集を試みた。この結果、それぞれの技術的専門性や適性に応じてしかるべき仕事をし、堅実な活躍をしていた業者たちの姿が浮き彫りとなった。
 19世紀末、マッキントッシュらによる斬新な「グラスゴー・スタイル」の室内装飾は、周囲に対して「一味違った趣味の良さを示したい」新興の中産階級にとって、ステイタスや社会的態度の指標として役立った。しかしそれは、デザイナーとクライアントが好む、「他との差異ある質」を室内装飾において実現することに向けて技術的な研鑽をした、メイカー達の構造に強く支えられていたと指摘したい。建築家マッキントッシュに求められたのは、職人を統制する親方気質でも、天賦の才能を持った芸術家としての役割でもなく、生産業者の分業を巧みに組み合わせつつデザインの質を保つ、「オーガナイザー」としての役割であっただろう。本発表はマッキントッシュという、デザイン史上重要視されてきた個人を基準に扱うが、最終的にはこの一人の建築家の名前に集約されない、室内装飾をめぐる社会的コンテクストの存在とその重要性を指摘する。


C-3 蘆田 裕史(日本学術振興会)

身体の不在/衣服の現前
――シュルレアリスムにおける衣服の様態――

都合により、辞退されました。