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全体集会「イスラームと地域:比較と連関」要旨

年月日:1998年7月20日(月)
場 所:東京大学山上会館

第1セッション:「GISの開くイスラーム地域研究」
第2セッション:聖者とスーフィーの開くイスラーム地域研究
第3セッション:「絵の開くイスラーム地域研究」


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第1セッション:「GISの開くイスラーム地域研究」

趣旨説明・・・・岡部篤行(東京大学)

リモートセンシングデータによるペルシャ湾岸土地被覆変容の分析とその意味づけ
                                  ・・・・岡部篤行・酒井啓子(アジア経済研究所)
インド・ポンネリ地域におけるGIS分析過程
                                  ・・・・貞広幸雄(東京大学)/水島司(東京大学)
小人数・短時間の現地調査における空間データの収集方法
                                  ・・・・曲渕英邦(東京大学)
イスタンブルの都市データとGIS
                                  ・・・・浅見泰司(東京大学)

ディスカッション 


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第2セッション:聖者とスーフィーの開くイスラーム地域研究(パネルディスカッション)

東長靖(京都大学)・・・・・・・・・・・・・司会・思想研究の立場から
矢島洋一(京都大学・大学院)・・・・歴史学の視点から
小林寧子(愛知学泉大学)・・・・・・・インドネシアの場合
粕谷元(日本大学)・・・・・・・・・・・・・現代トルコ政治の視点から
赤堀雅幸(上智大学)・・・・・・・・・・・人類学からのコメント

[以下の記録において各発言者の発言内容は、基本的に本人一読の上で文章化してあるが、一部表記については全体に統一性をもたせるために、最後に変更を加えた。―赤堀]

小松 ここに書いてあるとおりですけれども、「聖者とスーフィーの開くイスラーム地域研究」というタイトルになっておりまして、このセッションではすでにいくつかの班やグループを横断して活動を続けているグループの現状とこれからの展望ということになるのでしょうか、そのようなお話をうかがうことになっております。司会を東長さんにお願いしまして、できれば最後のところで質問や提言をしていただくような時間も作りたいと思っておりますので、どうかよろしくお願いします。

東長 それでは、第2セッションに入らせていただきます。皆様のお手許にこの1年間の活動報告があるかと思います。簡単にご説明申し上げます。
 2−Cの「スーフィズム研究動向研究会」と5−Aの「聖者信仰研究会」というのが、この1年間走ってまいりまして、全部で6回の研究会と1回の合同合宿を行いました。そのふたつの研究会は、おたがいにメンバーが相互交流をしていまして、おたがいの研究会に参加しあうというふうに─「双子の研究会」と私たちは勝手に名乗っておりますけれども─、交流を続けております。

 このイスラーム地域研究というプロジェクト全体がそうでありますように、私たちの研究会も、いろいろなディスィプリン、地域の専門家が相互乗り入れし、新しい体系を微力ながら目指しているわけですが、そこでいろいろな限界に突き当たっている。その現状をまず第1にご報告申し上げようと思います。

 つぎに、共通テーマというのを掲げまして、各自から発表を申し上げます。いろいろな専門の人間が集まって、1年間研究会をやってきたわけですが、そこには共通点・共通理解もある一方で、違う点もあるということがだんだん明らかになってきています。そのことを明示的に示すためには、やはりここでひとつの共通のテーマを何か設定した方がいいのではないかと考えたのです。そうすると、同じようなことをいう場合もあるし、全然違うことをいう場合もある、それをみなさんの目の前に実際にお見せして、どのように違うのか、あるいはどのようなところが共通しているのか、それがどのような問題点を産むのかということを、みていただこうと思っているわけです。
 その共通テーマとしましては、お配りした活動報告の一番最初のところに、書いてございますけれども、専門とする分野、地域、時代の異なる研究会参加者が、それぞれの立場から聖者信仰、スーフィズム、タリーカ─これは一応三題噺になっているわけですが─の各々、あるいはその三つの関係をどのようにとらえているのか、をとりあげました。それについて、ここにおります5人みんなが、それぞれのディスィプリン、それぞれの地域、それぞれの時代のなかで考えたものを申し上げたいと思います。その5人の発表が今日のセッションの中心で、これが2番目の部分です。

 そして3番目としまして、これは2番目の一番最後の方から連続していくと思いますけれども、私たちのいま抱えている問題点から、より広いイスラーム地域研究というようなものに何らかの提言ができるのだろうか、できるとしたらどのようなことだろうかというところにお話を進めさせていただきたいと思います。
 まず第1といたしまして、1年間どのようなことをやってきたのかということを申し上げます。細かくは活動報告に日程とともに書いてございますので、そのことを繰り返す必要はないと思いますけれども、今日のパネラーは、歴史学、人類学、思想研究を専門としておりますが、実際にはこれ以外に芸術関係の方々にも研究会には加わっていただいております。それから社会科学的側面も本当はもっと幅広くご参加をいただきたいと思うのですが、なかなかスーフィズムなどの研究というのと社会科学というもののつながりがむずかしいようです。今日のところでは、ちょっとそれぞれの方のご専門と違うのですが、矢島さんには歴史学がご専門ですけれども、経済(前近代が中心になりますが)にも若干触れていただき、それから粕谷さんはやはり歴史がご専門ですけれども、少し政治のことにも触れていただきたいと考えております。
 そして、地域的に申しますと、今日はたまたま5人のうち4人が西アジアですけれども、実際には研究会の報告をみていただければおわかりのように南アジア、あるいはアフリカ、あるいは中央アジアなども、それぞれの地域の専門家によってすでに取り上げられております。そして、近々8月に合同研究合宿をまたやりますけれども、そこでは中国なども含めて、また新しい地域に取り組んでいきたいということです。

 この1年間にやってまいりましたことを申し上げますと、まずスーフィズム研究動向研究会の方は、いろいろな専門の人がいますので、やはりまず共通の知識と申しましょうか─先ほどのセッションで使われていた言葉では、共通言語の理解というのがございましたけれども─、そういうものをまず得よう、ということを考えたわけです。そのために2−Cは、これまでのところは読書会形式をとってきております。英語とフランス語のテキストを用いまして、新しいスーフィズム研究、あるいはタリーカ研究というものの成果を取り込み、それをみんなで読むことによって、共通理解を得ようとしております。
 それから5−Aの方は、そのような定本となるようなものがございませんので、たがいの研究を共有しようということで、研究発表を中心に行っているということです。ただこの共通の理解と申しますけれども、たとえば先ほどのセッションで出てきた「GIS」といった言葉ですと、私たちは知りませんので、「それは何ですか」とまず尋ねて、説明をしてもらうというところから入るのですが、今日、これから私たちが取り上げます、たとえばスーフィズム、あるいはタリーカ、あるいは聖者というのは、私たちにとっては実は自明だと何か思われていて、それはもう何も説明しなくても通じてしまっているわけです。ところがそれは本当に通じているのかというと、かえって共通の知識であるだけにタチが悪いというふうなことも、やっていくうちにみえてきたわけです。

<思想研究の立場から>

東長 以上で1年間の簡単なご報告を終えまして、ついで本日の中心となります議論に移らせていただきます。いわゆる三題噺として、聖者、スーフィズム、タリーカ、その三つのそれぞれ、あるいはその関係性というものを、私たちがそれぞれの専門のなかで、どのように考えているのか、そのことについて、各自からお話し申し上げたいと思います。
 まず、私自身から発表させていただきます。私の立場は思想研究ですので、思想研究という立場から、この三つをみたときに、どのようなことになるのかを、かいつまんで3点にまとめてお話をさせていただきたいと思います。

 まず「スーフィー」ですけれども、それは、ムスリムのなかのエリートなのだというのが、まずは思想研究の理解だと思います。そしてさらにスーフィーのなかのエリートが聖者なのだ─スーフィーのなかでファナー(消融、合一体験)に達したような人、そのような高い階位に上った人、それが聖者だ、というふうに理論化されているといってよろしいと思います。基本的にはこの聖者論というのは、スーフィズムの理論のなかにあるわけですけれども、だいたい古典期というか、12世紀ぐらいまでですが、そのあたりで理論形成がなされております。この12世紀ぐらいまでというのは、すなわちスーフィズムというものがイスラームのなかでわりと異端視されていたというか、問題視されていた時期で、これに対して、そうではない、スーフィズムはまさしく正しい─つまり、きちんとイスラーム(この場合はとくにスンナ派ですけれども)の信仰と合致しているのだということを一所懸命に言っている過程にあたります。この過程と、スーフィズムの聖者論などの理論化というのがちょうどパラレルに起こってくるわけです。ですから理論化には、この「正統」化の影響が強く出てくるだろうと思います。
 たとえば聖者というものを考えますときに、「奇蹟」という問題が当然出てまいります。もちろんスーフィズムの理論でもそれを論じますし、それから実際に人類学などの発表を聞いていると、聖者と奇蹟というのは、ほとんどいつも必須要件のようにともなって語られるわけです。ところがいま申しましたように、いわゆる「正統」化の過程で聖者論ができてまいりますので、聖者がイスラーム法に反しないことを言わなければいけない。つまり、当然聖者は奇蹟を行いえるのですが、奇蹟というのは同時にイスラーム法を破ることを意味する場合もございますので、そこをウラマー層に突っ込まれる場合があります。そこで奇蹟を行うということを強く前面に押し出すよりは、それはイスラーム法に必ずしも反しないという主張をしなければいけない。
 ですからたとえば聖者にとっての奇蹟というのは、女性にとっての月経であるというふうな主張、つまりそれ(月経・奇蹟)は確かに証(女であることの・聖者であることの)ではあるかもしれないけれども、そのようなことを強調して言いふらすようなものではないという主張が出てきます。ですから聖者論という思想のなかで論じられていく場合には、むしろ奇蹟というのは、必ずしも聖者の必須要件ではないといえるのではないかと思います。

 それから2番目といたしまして、「タバカート」─いわゆる列伝の問題を取り上げたいと思います。これを、単なる伝記だというふうに私は考えておりません。と申しますのは、10〜12世紀ぐらいにたくさんのタバカートが書かれますけれども、それは上に述べましたように、ちょうどスーフィズムが「正統」なのだという主張の時期と重なっているわけです。ですからそこに何らかの「正統」化の意志というものが読み取れるのではないのかと思います。
 なぜ、そのようなことを考えたのかと申しますと、実はこの時期のタバカートを調べてみますと、ふたつの系統に分かれるように思われるのです。これはまだ論文にも何もしていないのですが、列伝にどのような人名が挙がってくるのかをみていきますと、私たちがスーフィズムの概説書でみるような名前─ハサン・バスリーとか、イブラーヒーム・イブン・アドハムとか、そのようなところから始まってずらずらと「ああ、いかにもスーフィー列伝ですね」という感じの人名がならんでいるものがひとつの系統としてあります。
 そしてもうひとつの系統のものには、このような人たちも入っていますけれども、たとえばアブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーなどが入ってくる。あるいはもうちょっと後の時代にいきまして、ジャーファル・サーディクという─シーア派で申しますとイマームですけれども、その名前が出てくる。あるいはアブー・ハニーファとか、イブン・ハンバルが出てくる─普通われわれは法学の祖といっているわけですけれども─、そういう人たちがこのタバカートのなかに、僕らが普通スーフィーと思っている人とまったく同じようにならんで出てくる。そしてこれは偶然なのか、そこに意図があるのか、ちょっと私はまだ判断がつきかねていますけれども、後者の系統のタイトルは、タバカート・アッスーフィーヤ(『スーフィー列伝』)という言葉ではなくて、ヒルヤ・アルアウリヤー(『聖者たちの飾り』)とか、タズキラ・アルアウリヤー(『聖者たちのことば』)とか、こちらは「アウリヤー」という言葉を用いております。これらの本の著者は、僕らが普通「聖者」と訳しているアウリヤーの方を用いている。これがどのような意味をもっているのかは、これから検討しなければなりませんけれども、ここで指摘をしておきたいと思います。

 それから3番目に、タリーカに関して、スーフィズムの思想研究は、どのように考えているのかを申し上げます。基本的にはまずもって古典期─12世紀ぐらいまでは「スーフィー教団」と日本語で訳しているようなタリーカそのものがまだありませんので、組織としてのタリーカについての古典理論はありません。思想研究の古典文献でタリーカという場合は、シャリーア(イスラーム法)がまずあって、それから内面への道としてタリーカ(修行道)というものがあって、その先にハキーカ(真理)がある、という文脈で語られるわけです。つまり組織としてはなくて、むしろ精神的な問題として、タリーカという問題を論じるということになるだろうと思います。
 それで12〜13世紀以降、実際にタリーカができてからはどうかと申しますと、タリーカというものがいかに「正統」なのかといった議論は何もしないのですね。聖者に関しては、聖者論というジャンルがきちんとあって論じていますけれども、別にタリーカ論というのがあって、教団はこのようであるべきだ、といったことを言っているわけではない。実際には後期になって、タリーカのなかのいろいろな実際の修行法を書いたマニュアルのようなものが出てきますけれども、これは思想研究の立場からは、わりと軽視されているというか、きちんと扱われておりません。むしろ個別の形而上学を唱えた思想家たちの文献というものが熱心に読まれているわけです。
 たとえばナジュム・アッディーン・クブラーというスーフィー(かつクブラウィー教団の祖)の思想研究はもちろんありますけれども、それは必ずしもクブラウィー「教団」の研究ではない。ナジュム・アッディーン・クブラーという個人の思想家の思想の研究という形になるだろうと思います。
 聖者とタリーカについて、スーフィズムの思想の立場から、以上、簡単に申し上げさせていただきました。

<歴史学の視点から>

東長 それでは続きまして、京都大学の矢島さんに、歴史学のお立場からお話をいただきたいと思います。

矢島 私の専門は歴史学なのですが、とくに前近代史を専門としております。前近代の歴史研究の場で聖者やスーフィーを研究しようとする場合は、当然のことながら前近代の歴史資料に現れる聖者やスーフィーが分析の対象になります。そして先ほど東長さんがおっしゃいましたように聖者とは必ずしもスーフィーとイコールではない、実際に史料にもさまざまな聖者が現れてさまざまな役割を果たしたわけですが、しかし私の印象としては、文献が書かれた同時代に現れてくる聖者というのは、やはりスーフィー聖者が多いという気がします。
 そのようなスーフィーとか、聖者というのは歴史学の対象としてはさまざまなアプローチの仕方があります。もともとスーフィーというのは神秘家でありますから、さまざまな人々の精神生活に大きな影響を与えたというのも、ひとつもちろんあるわけですが、もうひとつとくに歴史研究において大きな関心を引くのは世俗との関わりではないかと思います。
 たとえば歴史資料のなかに、スーフィー関係のさまざまなワクフ文書や不動産登記文書などが現在残っているわけですが、そのようなものからスーフィーの必ずしも清貧を主としない経済活動が明らかになります。またときにはそのようなスーフィーの財産に対して支配層から免税特権が与えられていたことも、支配君主からの免税の命令文書からある程度推察することができます。
 また文書のほかにも、聖者伝文献というのも歴史研究においてよく使われます。そのなかには、聖者信仰の対象として民衆のみならず世俗の支配者たちからも高い尊敬を受け、そしてそのような世俗の支配者たちに対して正しいイスラーム信仰を指導したり、ときには具体的な政策にまで助言をするようなスーフィーたちがよく描かれております。聖者伝の記述というのはある程度差し引いて考えなければならないものではあると思いますが、ときにたとえばイランのサファヴィー朝のように、スーフィーたる者が支配権力そのものに移行した例もあることを考えれば、スーフィーのもつ政治的な役割というのも、前近代の歴史において無視できないものであるといえます。このように歴史学においては経済的、政治的にも非常に大きな役割をもっていたスーフィーというのが非常に興味ある対象としてあるわけです。
 そのようなスーフィーというのは、たいてい何らかのタリーカと呼ばれるものに所属しており、そのタリーカというのは普通スーフィー教団としてとらえられています。しかしこのスーフィズム研究会でもしばしば問題となったのですが、タリーカをそのままスーフィー教団ととらえることは、東長さんのお話にあったタリーカの成立以前とは別に成立以後でも、問題となります。タリーカの概説などをみますと、たとえばカーディリーヤとか、サファヴィーヤ、ナクシュバンディーヤ、クブラウィーヤといったさまざまなタリーカが同列のものとして列挙されていますが、前近代のタリーカの状況をみると、ややそのようなとらえ方には違和感を感じます。というのはタリーカというのはさまざまな形態があるわけで、タリーカというのはスーフィー教団として理解されることが多いと思いますが、その実情をみてみますと、人の集団としての組織と考えて問題ないタリーカももちろんあるのですが、ときには人の組織としての連続性はあまり感じられない、それよりはむしろ修行法などを共有している流派と考える方が適当と思われるようなタリーカも多く存在します。また、特定の地域を拠点とするタリーカもありますけれども、広い地域に、広くイスラーム世界に拡散するタリーカもある。また世襲によって継承されていくものもあれば、そうではないタリーカもある。このように非常に多様な存在形態をもつのがタリーカなわけですが、それらのものをひとつのスーフィー教団として同列にとらえることはときとして無理が生じることもあるのではないかと考えられます。
 また、スーフィーが何らかのタリーカに帰属すると先ほど申し上げましたが、そのような帰属ということの意義についても、またちょっと単純に考えられないものがあります。一人のスーフィーがさまざまなタリーカに所属するシャイフから教えを受けるということはよくみられることでして、またその逆に、ほかのタリーカとのつながりをあまり認めないというようなタリーカもあります。そのように考えるとタリーカに帰属するということはどのようなことなのかということはまたいろいろ複雑なことを考えなければいけないわけであります。また前近代、とくに13、14世紀ころのタリーカは自分の専門なのですが、そのころの文献をみますと、よくいわれる「何々イーヤ」という名称は、実際に史料にはあまり出てこない。誰々が何々イーヤに属するとか、私は何々イーヤに属する、という記述もあまり出てこなくて、また実際にスーフィー教団が何々イーヤという名称をもたないことすらあります。そのように考えますと、個々のスーフィーがどのような帰属意識をもっていたのか、どのようなアイデンティティーをもっていたのかというのは、前近代のタリーカのあり方を考えるには検討しなければいけない問題である、というふうに考えております。
 タリーカについて、私がもっているイメージというのはこのようなものです。このように非常に多種多様なタリーカの存在形態があり、とくに現在そのアイデンティティーをみると、どこの所属というのがほとんどはっきりと確定しているようですが、そのようなアイデンティティーがどのように確立されていったのかというのは、これからさまざまな分野の方々の意見を聞きながら検討していきたいと考えております。

東長 思想の方では、スーフィーは聖者─それも悟りすました聖者というイメージと結びつくわけですけれども、いまの矢島さんのお話で強調されたのは、むしろ世俗との関わりです。それが世俗の支配者との関係ですとか、あるいはワクフとか、免税特権というような経済的なものとの関わりでとらえられるということがひとつです。
 それからタリーカに関しても、教団、組織として考える場合もありますけれども、そうではなくてもっと漠然とした傾向、流れ、潮流といった形でとらえられる場合も実際にはある。もっといいますと、われわれはクブラウィー教団の意味でクブラウィーヤとか、カーディリー教団の意味でカーディリーヤという言葉をよく使っているわけですけれども、必ずしもそのような言い方は実際に文献に出てくるというわけではない、というふうなことが明らかになったと思います。

<インドネシアの場合>

東長 つぎに今度は地域をがらっと変えまして、インドネシアの方のご発表を、小林さんにお願いいたします。

小林 小林です。私はインドネシアのなかでも比較的私がよく知っているジャワ島に限った話をさせてください。しかも歴史に絞ります。なお、私の話は、オランダのマルティン・ファン・ブライネッセンという文化人類学者の研究に多く依っているということもご承知おきください。また、よく使うアラビア語の借用語はインドネシア訛りになっていることも前もってお断りしておきます。
 ジャワにはいまでも聖者、聖人とされる人たちの墓、廟は多くあります。そこに参詣するズィアラはジャワ人の重要な宗教行動のひとつです。ズィアラをする人々はさまざまで、特定の階層、社会層に限られているわけではありません。ズィアラの目的は、神の恵み(ブルカット)やお告げ(ワンシト)、霊的直感(イルハム)を得ることにあります。多くは健康、家業繁昌、その他現世上の祈願と結びついています。聖人を仲介人として神へのとりなしを頼む形のようです。いくつか聖人のお墓を私自身ものぞいたことがありますが、墓には必ずジュル・クンチ(鍵番)と呼ばれる老人がいます。お香がたかれ、バラの花びらが手向けられています。そこではお祈りをする人、クルアンを読む人、瞑想する人とさまざまです。有名なお墓にいたる参道にはみやげもの屋がいっぱいならんでいて、聖者グッズのようなものも多く売られています。イスラーム聖人の廟でとくに目につくみやげものはタスビ(数珠)です。ズィクルをするときに使われるものです。
 さて、ズィアラの対象になる聖人は古いところではジャワ・ヒンドゥー期の人から、新しいところでは故スカルノ大統領(1970年没)までさまざまです。なかには神話上の実在しなかった人物もいます。ただ、圧倒的に多いのはジャワにイスラームを広めるのに大きな功績を残したと伝承され聖人です。そのなかでもとくに有名なのはワリ・ソンゴ、九聖人と呼ばれる人々です。「ソンゴ」はジャワ語で「九」を意味します。が、実際に9人であったのかは定かではありません。九聖人が活躍したのは、14世紀末から16世紀と考えられています。ジャワではこのころから土地の、土着の人々にイスラームへの改宗者が確認され始めます。タリーカ(インドネシア語ではタレカット)が東方へ活動を広げた時期です。この九聖人もスーフィーの布教師であっただろうと考えられます。九聖人はそれぞれ外国とのつながりを強くもっていますが、おそらく混血が多かったのではと考えられます。しかし、活動の舞台はジャワに限られています。この聖人たちは旧来のジャワの慣習に寛容的で、それらを利用し、包み込みながらイスラームを布教したと伝えられています。また、なかには前イスラーム期の伝説的文化英雄と同じパターンを踏襲して聖人となった人もいます。

 このジャワの聖人たちはどのようにしてその「聖性」を正統化されたのでしょうか。最初にご紹介したブライネッセンはスィルスィラを駆使しておもしろい研究をしています。スィルスィラとは、タレカットの指導者、シャイフがもつ師質相承の精神的系譜です。これはそのスーフィーがどの派に連なるかを示し、そのアイデンティティーでもあり、正統性の証でもあります。このスィルスィラをたどることによって、そのスィルスィラをもつシャイフがタレカットのどの教団、または支教団、どの地を経由してタレカットの教えを伝授されたのかが明らかになります。スィルスィラはタレカットの歴史を再構成する上で重要な資料となります。
 九聖人の一人にスナン・グヌン・ジャティというとくに西部ジャワで活躍した聖人がいます。チルボン王国の始祖とされ、息子のハサヌディンは貿易で有名なバンテン王国の始祖とされています。チルボンは現在でも、タレカットの活動が盛んな地域です。
このスナン・グヌン・ジャティの生涯を記したものにスジャラ・バンテン・ランテランテ、「バンテン史の鎖、つながり」という説話集があります。これは17世紀末から18世紀に編集されたものです。この説話集によりますと、スナン・グヌン・ジャティ親子は聖地におもむき、イスラームを学んだとされています。ところが、メッカで師事したとされるナジュム・アッディーン・クブラーは中央アジアのスーフィーで1221年に没しています。スナン・グヌン・ジャティとは時代も場所も離れています。また、聖地でのスナン・グヌン・ジャティの学友として27人の名前が記されていますが、このうち11名はクブラウィーヤ教団のシャイフの名前です。この11名の名前を並べると、それはこの教団のスィルスィラの一部を構成し、さらにそのふたつの流れを示しています。そのひとつの流れ、ハムダーニー派の流れのなかではアブド・アッラフマーン・ジャーミー(1555年没)がもっとも新しい名前です。ジャーミーはスナン・グヌン・ジャティと同時代人で、中央アジア人です。メッカに巡礼する途中イスタンブールでスルタンをクブラウィー教団に入会させています。そのためにメッカ到着時には話題の人となっていたであろうと考えられます。
 スナン・グヌン・ジャティ自身が聖地巡礼を果たしたかは定かではありませんが、おそらく16世紀にメッカを巡礼したバンテン人がジャーミーの教えに接したと考えられます。また、ジャーミー以降のハムダーニー派のスーフィーの名前が記されていないことから、スジャラ・バンテン・ランテランテの編集者のハムダーニー派に関する知識はジャーミーの時代にさかのぼれると確定できます。そして、クブラウィー教団のスィルスィラから高く評価されたシャイフたちの名前が、スナン・グヌン・ジャティの正統性を示すものとして選ばれて記されたものと解釈するのが妥当でしょう。
 ナジュム・アッディーン・クブラーの名前は、17世紀のなかごろ、バンテン王国のカーディー(イスラーム司法官)の役職名、パギー・ナジュムッディンに採用されました。他にもジャワ各地の年代記や伝承に、セッ・ジュマディル・クブラという名前でジャワの聖人の祖先や隠遁の修験者として登場します。ジャワのイスラーム化初期においてナジュム・アッディーン・クブラーの名前は大きなプレスティージをもったということでしょう。
 このように、ジャワの聖人を考える場合も、国際的タリーカのスィルスィラに通じることが必要です。それぞれのスーフィーの名と活躍した時代、場所をアイデンティファイさせることによって、ジャワ人がどのようにタレカットと出会ったのかがわかってきます。
 なお、クブラウィー教団は現在のインドネシアには存在しません。しかし、その痕跡は確認されるそうです。ジャーミーの教えた連祷のひとつは、どのタレカットとも関係を特定されることなくジャワではよく知られているそうです。また、クブラウィー教団にもっとも特徴的な色(のついた)光の知覚、これは修行者を精神の完全性へ導くとされています。この瞑想を実践する地方タレカットが存在するそうです。しかし、この色(のついた)光の知覚はインド密教タントラからの借用とする説もあります。そうすると、前イスラーム期のタントラの残滓か、もしくはクブラウィー教団の影響かは確定できません。クブラウィー教団の教義が前イスラーム期のタントラ伝統の残存物に融合し、イスラームの神秘主義のなかに統合したという仮説がたてられるだけです。現在のタレカットの実践だけから歴史を推測するのは危険ということでしょう。
ついでながら、クブラウィー教団の教義がかつてジャワ人に好まれたのはジャワ人にすでになじみ深いタントラ伝統を包摂していたのが大きな要因でしょう。どのタレカットを選ぶかはジャワ人の主体性の問題にほかなりません。

東長 ありがとうございました。聖者というものが非常に多くて、基本的には、九聖人がたぶんスーフィーであったと思われることに代表されるように、スーフィーと聖者とは相当重なっているのだろうというご指摘がまずありました。他方、聖者廟、あるいは聖人廟には、ズィアラ(ズィヤーラ、参詣)がたくさんみられるというご指摘のなかで、スカルノさんが参詣の対象になっているというのは、やっぱりびっくりします。これはさすがにスーフィズムとは何の関係もないだろうと思うのですが、ズィアラという側面だけをみると、同じようなことが現象として見られるわけですね。
 そしてズィアラの場では、先ほどお話に出た聖者グッズが売られて、そこに経済活動とのからみも出ますけれども、いわゆる観光というものと参詣というものが重なってきているという問題、これも大きなことだろうと思います。

 実は5−Aの方では、今年度中に、ズィヤーラの国際ワークショップが開かれる予定になっております。それから今日のご発表自体は、オランダのファン・ブライネッセン先生の研究を相当使って発表していただいたのですが、ブライネッセン先生は10月に(こちらは2班の方で)日本にお招きをすることになっておりますので、そのときにまた研究会をもちたいと考えております。
 それから、東南アジアはもっと違うのかと思っていましたが、呼び名こそ「タレカット」となりますけれども、タリーカはやはりスィルスィラという─師資相承の系譜といいましょうか、鎖といいましょうか─それによって維持されるというところはまったく同じですし、それからジャワの伝統、あるいはタントラ的な伝統があるのかもしれないというふうなことも、わりと全イスラーム世界的にみられるような現象なのだろうと思います。アラブなどですと、古い時期にイスラーム化されていて、イスラーム化以前の要素と区別がつきませんので、ずうっとイスラーム的であるようにみえていますけれども、東南アジアだけでなくて、たとえば南アジアやアフリカといった、全体がイスラーム化されていないところに行けば、従来型が残っているものと、それがイスラーム化されたところとの両方がみえるものですから、はっきりと残滓であるとか、残存であるとかというふうなことがみえてくるのだろうと思います。

<現代トルコ政治の視点から>

東長 つぎにトルコの現代の歴史学の立場から粕谷さんにお願いいたします。

粕谷 粕谷でございます。アラブからインドネシアに行って、ブーメランのようにまたトルコに戻ってまいりました。さて、今日のトルコに視点を移せば、タリーカ、スーフィズム、聖者といったものは、また違った像がみえてくるかと思います。

 今日のトルコのタリーカは、トルコ語ではタリカットといいますが、内面的な修行だけでなく、矢島さんのお話にもありました世俗との関わり、とくに政治参加や社会変革などの実際的な行動を重視するとともに、高度な思弁化による存在論といったものよりも、倫理説を強調する点に特徴があるのではないのかと思います。
 つまりスーフィズム、あるいはイスラーム神秘主義といった範疇ではとらえきれない側面、これをタリーカ的な側面といっていいのかどうかはちょっとわかりませんけれども、とにかくそのような側面が目立つ、あるいは前面に出ているようにみえます。といたしますと、やはりトルコでもタリーカ=スーフィー教団とはいいきれないように思われます。そこで、そのことを例証するひとつの事例として、トルコのタリーカの今日的な姿、とくにこれは1980年代以降に顕著になるわけですが、をもっとも象徴的に表していると思われるナクシュベンディー教団の話をいたしたいと思います。

 ナクシュベンディー教団は、今日のトルコにおける最大のタリーカであって、また今日のトルコのイスラームをめぐるさまざまな政治潮流、思想潮流の一種の母体となっています。たとえば、ヌルジュルックと呼ばれるイスラーム運動や、スレイマンジュルックと呼ばれるイスラーム運動はナクシュベンディー教団から派生したものですし、また、いまはもう解党させられましたがかつて政権党にもなったエルバカンの率いた福祉党は、その結党時にナクシュベンディー教団から大きな影響を受けています。

 このナクシュベンディー教団の今日的な特徴として観察されますのが、ひとつは、活発な政治参加です。ナクシュベンディー教団は、教団として自分たちの政党を組織することはしておりませんけれども、そのメンバーから多数政治家を輩出しています。彼らにわれわれが一般にイメージするようなスーフィーの姿を見いだすことはなかなか困難です。これは、「といわれている」という留保つきですけれども、前大統領のトゥルグト・オザルはナクシュベンディーであったといわれています。また、前首相のネジメッティン・エルバカンもナクシュベンディーの強い影響下にあるといわれています。同時に、ナクシュベンディー教団は、政党にはなっていないけれども、トルコ政治において一種の圧力団体として存在している、あるいは選挙のたびに特定の政党を教団として支持する、その支持が場合によっては選挙結果を左右しかねないような状況を生む、そのようなことが今日実際に起こっております。

 もうひとつは、彼らの非常に活発な社会経済的活動です。彼らはワクフを多数所持して、一種財閥化しています。シャイフはワクフの代表であるわけでして、要するに実業家、経済人としての顔をもつわけです。トルコではタリーカ資本などといわれまして、それらはトルコ経済の低迷を横目に急成長しています。また、彼らは文化的な活動、それは教育活動も含みますけれども、を非常に積極的に展開しています。
 またひとつの特徴として、思想的な側面ですが、いわゆる神秘的合一だけでなく倫理説を重要視しているといったことがいえます。ナクシュベンディー教団はたとえばセマーゥといったものを行いません。代わって行われているのがトルコ語で「ソフベット」といわれる、いわゆる「語らい」です。私は以前に彼らが作成した1枚のビラをみたことがあるのですが、そこには「ナクシュベンディーのシャイフとの夕べ」と題して、「精神的交流と議論の夕べ」、「語らいの夕べへの誘い」というような文句が書かれておりました。そのように地域の人々をそのような語らいの場に招くといったような、地域市民活動的なことを近年とくに重要視しているようです。このような活動のために、彼らはさまざまな団体、あるいは協会といったものを組織しております。これにはマスメディアも含みます。これらはいずれもワクフとして設立されます。
 このような活発な活動の結果といっていいのかわかりませんが、今日では教団は世俗的な教育を受けた層を取り込んで、彼らの周りに緩やかな支持者層が形成され、広いすそ野をもったものになっていまして、巨大化しています。こうしてみますと、今日のトルコのナクシュベンデー教団は、ナクシュベンディー教団がすでにある意味で改革されたスーフィー教団であり、大衆化した教団であって、いま述べたような今日の傾向も、そのようなナクシュベンディー教団の歴史的傾向の延長線上にあるといえなくもないのですが、しかしながら、やはりここまでモダンになってきているナクシュベンディーとは何かということを考えてしまいます。もちろんナクシュベンディー教団をスーフィー教団たらしめているもの、ナクシュベンディー思想の核はもちろん保持されているわけですが、少なくともその核の部分、つまりスーフィー教団的な側面というものはあまりみえてこない、目立たないわけです。

 そして、さらに従来のタリーカ像ではとらえきれない部分が出てきています。トルコでは1925年以来、タリーカの活動が一応法的には非合法とされ、テッケやザーヴィイェが閉鎖されていることになっていることが、トルコの現在のタリーカの社会的なあり方を規定しているといえるかもしれませんが、いずれにせよ、ナクシュベンディー教団が、他の新興のイスラーム集団、あるいは知的なイスラーム・サークルといったものとあまり区別がつかなくなってきている、ボーダーレス化しているということがいえるかと思います。

 共和国時代のナクシュベンディー教団の代表的な指導者に、1980年に亡くなったメフメト・ザイト・コトゥクというシャイフがいます。彼は、若い時分は宗務長のイマームでしたが、非常に強い政治的志向をもっておりました。それで彼自身はナクシュベンディーの政党を結成しようとしたのですが、これにはさすがにトルコ政府から待ったがかかりまして、すると今度は、エルバカンによる1973年の国民救済党の結成に深く関わりました。また、コトゥク以降の代表的なシャイフでエサット・チョランという人物がおりますけれども、彼は「プロフェッサー」と呼ばれるようにアンカラ大学神学部の元教授でありまして、彼に特徴的なのは活字を媒体とした活動に非常に力を入れていることです。今日のナクシュベンディー教団のメディア化、巨大化を実現させた人物といっていいでしょう。 いろいろとお話をいたしましたが、要するにこのような今日のナクシュベンディー教団に従来のスーフィー教団像、今日のシャイフたちに、従来のスーフィー像、ましてや聖者像などを見いだすことが困難であるということです。というのがいいすぎでしたら、それらが彼らの主要な側面、あるいは役割ではなくなってきているということです。
 時間がありませんので、このへんで終わらせていただきます。

東長 80年代以降、まさにこの瞬間までの現代トルコの問題を取り上げて、タリーカについて考察していただきました。いわゆるスーフィーとか、聖者というものについて僕らの抱いているイメージとは切れた姿、圧力団体や政治団体であったり、経済的に財閥化していたりするタリーカ像というものが描かれたわけです。

<人類学からのコメント

東長 だいぶ皆様、頭が混乱していらっしゃったと思いますが、最後に赤堀さんには、人類学の立場からご自分のスーフィズム・タリーカ・聖者像を述べていただき、それから全体をとおしてのコメントもあわせてお願いいたします。

赤堀 粕谷さんもおっしゃいましたし、みなさんももうお気づきかと思います。このセッションでは、地域は西から東へ行って西へ戻り、分野的には歴史研究を思想と人類でサンドイッチにし、時代的にはだんだん現代に近づくという構成になっております。悪くない構成だと思っていたのですが、そのようなことを企んだ罰か、自分が最後にしゃべることになってしまいました。しかも、人類学者として聖者、スーフィー、スーフィズム、あるいはタリーカというのをどのようにとらえるのかというだけではなくで、それをイスラーム地域研究というものに関連づけるというたいへん重い十字架を背負ってしまいました。後者については、研究会の総意としてではなく、研究会にかかわっている者の一人として、私はこんなふうに考えるということを後半でお話ししたいと思います。

 まず聖者とスーフィズム、あるいはタリーカについてですが、私自身は文化人類学者の一人で、ここ10年ほどエジプトの西部砂漠、アレクサンドリアから西に広がっている砂漠に暮らす、いわゆるベドウィンのあいだで調査をしております。人々の語りというのを私は調査の対象としているのですが、そのような語りのなかにスーフィズムやタリーカが出てくることはほとんどありません。聖者はたくさんいて、フギーと呼ばれていますが、それらの聖者たちは、これまでに他の方々のお話に出てきた聖者とはかなり違っています。
 たとえば、聖者あるいはスーフィーについて非常に重要な要件として、スィルスィラという話が出てまいりましたけれども、これを師資相承の連綿たる連なりというふうにとらえれば、私の調査する地域の聖者にはほとんどそのようなつながりがありません。もっとも極端な聖者には、あるとき海岸に死体で漂着してしまうという聖者がいます。死体で漂着したのをみて、ムスリムかどうかもわからないし、名前もわからないのですが、とりあえず廟に祀ってしまいます。このあとにいろいろな奇蹟が起こりまして、だんだん聖者らしくはなっていくのですが、とりあえず漂着してしまったところで廟を作ってしまうというような話が出てくる。調査地域ではスィルスィラがあるのはむしろベドウィンの側であって、聖者の側というのは、スィルスィラがない存在なのです。

 スーフィズムとの関わりは、ベドウィン人自身の話のなかには出てこないわけですが、では、聖者はスーフィズムとまったく無関係かというとそうでもありません。聖者はみんながみんなすでに死んでしまっているわけではなくて、まだ生きている人も少しですがおります。そのような人にインタビューにいくと、その人自身は自分がたとえばカーディリーヤと関係があるのだ、メッカでも勉強したことがあるというような話をされることがしばしばです。しかし、これはレベルの違う問題でして、聖者と目されている本人がカーディリーヤと関係をもっていることは、ベドウィンにとっては別段どうでもいいことであって、実際にそのことを、聖者の周りにいるほとんどのベドウィンは知らないという一種のずれがここに生じています。

 タリーカに関しても、やはりベドウィンのあいだでは、ほとんど他人事というか、他所事なのですが、ちょっとおもしろい現象だと思うことが、先ほどお話をした海から漂着してくる聖者についてあります。ムハンマド・アルアゥワームと呼ばれているこの聖者は、ベドウィンのあいだでは、海から漂着して、そのあと遺体が空中を飛行するという奇蹟が伝わっていまして、それで聖者なのだという話になっています。ところが、この聖者の廟があるモスクを管理しているイマームの話はだいぶ異なっています。彼はベドウィンの出ではなくて、ナイル・デルタの地方都市の出身で、派遣されて職についています。カーディリーヤのメンバーであるこのイマームによれば、ムハンマド・アルアゥワームという人はちゃんとしたスーフィーであって、カーディリーヤのメンバーであり、メッカに行ってその帰りにこの地に来て没したというのです。このように、タリーカと結びついたような形での伝承が、モスクのイマームたちベドウィンではない人々のあいだで、いつからかわかりませんが語られ、ベドウィン側の理解とはずれてしまっているわけです。ローカルな聖者のあり方が、スーフィズムやタリーカと結びついたスタンダードな形に取り込まれていく過程で生じた現象とみることができるでしょうか。

 地域と時代の差に加えて、民衆の側からという視点の差、そして聞き取りという方法の差から浮かび上がってくる聖者像は、いま4人の方に話していただいたのとはかなり違うことをおわかりいただけたでしょうか。単にいいかげんな聖者がいっぱいいるだけだと思われたかもしれませんが・・・。
 とにもかくにもそのようにいいかげんな聖者像も含めまして、1年間双子の研究会というのをそれぞれに走らせてきました。この短いセッションでも提示されたことですが、研究会の場で最初にわかったことというのは、われわれがどんなにたがいに理解しあっていないかということでした。たがいにもっている聖者のイメージ、あるいはスーフィズムに対するイメージ、タリーカというものに対するイメージが、ぼんやりとたがいに連なっているような気はしても、詰めていくといろいろなところでずれていってしまう。
 この、相互理解の不在を発見したということをもって、1年目としては大きな成果であったというふうに少なくとも私はとらえております。ちょうど今年はプロジェクト全体で「比較」という視点が重要になっております。また、このようなプロジェクトの常として、学際的な研究が重要視されてもおります。しかし、比較研究や学際的研究が両方とも非常にむずかしいということはわれわれ自身がすでに骨身にしみて知っていると思うのです。
 学際的な研究といっても、そんなに簡単にわかりあえるものではない。第1セッションで示されたように、理系と文系のようにはっきりと異なる分野は、ある意味ではスムーズに共同しあえる可能性があります。むしろ歴史学と人類学であるとか、思想研究と歴史学というような何となく重なってはいるのだけれども、ずれてしまっている人文研究どうしの方がむしろ学際的な研究はむずかしいというのが、事実でしょう。比較、あるいは比較から共通点を洗い出すというような作業も、多くの困難をはらんでいますし、安易な比較から出てくる安易な結論というのは非常につまらないものになりがちです。
 だからといって比較しない、他分野、他地域、他の時代に目を向けないではすまされないというのが、そもそもの私たちの出発点です。ですから、たがいの差違を洗い出していく作業が昨年度の私たちの活動であったのです。安直にわかりあうのではなく、まずたがいにわかっていないのだということをわかっていくのだ、という形でそれには意味があったでしょう。

 スーフィズム研究動向研究会と聖者信仰研究会の共同の発表ですが、私を含めて5人の共通の主題としては、どこかの会社の就職試験みたいですけれども、聖者とスーフィズムにタリーカを加えて三題噺を設定しました。実は、この選択には比較と学際性という点でも、しかけがあります。
 何で意味があるのかというと、まずタリーカというのは、基本的にアラビア語から出てきているわけで、それをわれわれはそのまま原語を引いて使っている。ところが、それでわかりあっているのかというと、先ほどから矢島さんのお話にもありましたし、あるいは粕谷さんのお話にもありましたように、タリーカというのは本当に組織なんだろうか、あるいは実態としてはまったく違うものであるのではないのか、時代により、地域により違うものであるのではないのか、という問題をはらんでいます。同じようにタレカットやタリカットとタリーカとをひとつにくくっていいのだろうか。ここで思い浮かぶのは、東南アジアでよくいわれるアダットというのが、確かに言語的にはアラビア語のアーダから出ているかもしませんけれども、おそらくひとくくりにすることは非常にむずかしいということです。そのような意味で、原語そのものをわれわれは引っ張って研究に使う際に、それが原語であることに安心してしまって、原語がはらむ差違を圧殺してしまう可能性があります。
 つぎのスーフィズムというのはスーフィーというアラビア語からきていますが、それをわれわれはイズム、主義ととらえて、日本語に訳するときはしばしば神秘主義というようなことをいっています。これでまたわれわれは、何となく共通理解を作り出そうとしつつ、何かを曲げていっている可能性があります。
 これがさらに一歩進むと、聖者というのは、アラビア語とも、トルコ語とも、ペルシャ語とも、あるいはインドネシア語とも関係がありませんで、われわれ自身がはたして聖者について具体的にきちんとしたイメージをもっているのかはなはだ疑わしいくせに、それを使って何となく共通理解を生み出そうとしている状態にあります。実際には日本語の聖者とアラビア語のワリーというのは完全にうまくは対応しないでしょうし、地域によってはファキールであるとか、フギーであるとか、いろいろな言われ方をしているものを私たちは聖者としばしば説明しています。
 このようなことひとつをみても、たがいの理解にほつれをもたらす可能性のある場所は無限に存在しています。分野が違えば、地域が違えば、あるいは時代が違えば違うのは当たり前じゃないかというのはたやすいのですけれども、実際にどれぐらいそれが違っているかを計り、それを常に自覚しながら、おたがいにコミュニケートするのは、単に「違う」と言うのとはまったく別の次元にある知的な行為です。
 人類学者はしばしば体験することですが、調査地に行って人々と話していると、おれたちのところでは婚約してから婚資が払えなくて破談になることが多いのだから、物価の高いおまえのところはますます大変だろうというようなことを言われます。私たちは自分たちが当たり前と思っている概念の延長上に、異質なものをもとらえていきがちなわけですが、われわれも学問の世界で、ひとつの分野、地域、時代のなかに安住して同じことをやっている可能性を、肝に銘じる必要があるのではないでしょうか。
 同じような用語、同じような概念があっても内実は非常に多様である場合に、それによって混乱を招かないためのひとつの方法というのは、私がこの概念を使っているのは、この地域、この時代、この分野でのこういう使い方に限るという、限定をしていく方向でしょう。

 これまでの地域研究というのは、ある特定の地域の文脈というのを限定することで、混乱を避けようというところがあったのではないかと私には思われます。地域研究というのは、ある意味では分野を超えて総合的に地域を把握するというのですが、同時にある地域の固有性を浮き彫りにしていこうとして、内向きになり、地域に固有であるといってしまうことによって、他の地域との比較や総合性をあまり許さないという可能性が出てきます。
 これに対して、私たちのプロジェクトは「イスラーム地域研究」という概念を提唱して、地域を伸縮自在なものとしてとらえることによって、これまでの地域研究のあり方に風穴をあけようとしているのだと私は理解しています。もちろん、それが地域を限定して厳密化を図るという地域研究の本来の定義と相容れないという可能性や、ここもあそこも「イスラーム地域」と言ってしまうことによってある種、イスラームを介して何でもみていく覇権主義的な発想にいたる危険性など、考えるべきことは多々あるでしょう。それでもなお、内向的で、異なる分野、地域、時代の研究者に向き合うことのない研究を避けようという点で、「イスラーム地域研究」という枠組みは真剣に検討してみる価値があるのではないでしょうか。
 繰り返しになりますが、学際的研究はおおいに望ましいことであると同時に、たいへんに実行困難なことでもあります。本当の意味でそれが可能になるには、それぞれの研究者のなかに確固たるディスィプリンが複数存在している必要があります。異なる分野の研究者が一堂に会するだけではそれは成立しないし、分野にこだわらないとするうすっぺらなジェネラリストの研究は学際的研究とはおよそ呼ぶことのできないものです。したがって、今回のプロジェクトのように、共同の作業のなかから分野、地域、時代を超えた研究を生み出すのだとすれば、むしろ個々の研究者は自分のディスィプリンにこだわり、その厳密化に留意すると同時に、自分のディスィプリンを相対化するべく、常に目を外に開いておくことが求められることになるでしょう。

 「イスラーム地域研究」とはひとつのディスィプリンとしてあるのではなく、まずは協働のためにひとつのフィールドとしてあるのだと、私は思います。あるいはそれを、個々の研究が自己完結しないための戦略としての地域研究といってもよいかもしれません。具体的な分野、地域、時代にこだわりながら、たがいの差異、理解の違いをみつめて、少しずつでもそれを解きほぐしてはさらなる違いに直面していく、そうした研究の一環として、スーフィズムと聖者信仰に関する私たちの研究会が機能し、他の研究会とも連関していくことを私は願っておりますし、そのような方法論的な問題をもはらんだものとして、私たちの活動にご注目いただければ幸いと思います。

[以下、質疑応答が続くが、正確に記録されていないので省略する]


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第3セッション:「絵の開くイスラーム地域研究」

発表者:ヤマンラール水野美奈子(東亜大学大学院総合学術研究科)
                     ・・・「サライアルバム(宮廷画帖)研究:イスタンブル・タブリーズ・ヘラート・中国を結ぶ図像」
コメンテイター:帯谷知可(国立民族学博物館地域研究企画交流センター)
                     ・・・中央アジア史からのコメント

(1)サライ・アルバムの概要説明

 第3セッションとして、「絵の開く地域」という大変美しいタイトルをいただきまして感激しております。
 5班aの中で小研究会としてサライ・アルバム(宮廷画帳)研究会を立ち上げました。本日はサライ・アルバムは何かということ、そしてこの研究会の目的と予定を簡単に説明し、スライドで作品を紹介したいと思います。

 トプカプ宮殿美術館には大変多くの蔵書がありますが、その中に45冊ほどmuraqqa(ムラッカー)と呼ばれるアルバム形式の本が含まれています。muraqqaは、もともとは習字の手習い本でありまして、書道の先生が残した手本を集めてまとめたものです。ところが後世になりますと、これに絵が加わるようになりました。能書家の書跡、書跡の断片、絵画や書に関する覚え書き、完成した一枚の絵画、絵画の断片、スケッチ、文様モチーフなど様々なものが台紙に貼られてmuraqqaが形成されました。muraqqaの構成には決まりがあるわけではなく、編纂者の意図によって自由に作られましたので、書跡あるいは絵画のみから構成されているものもあります。

 muraqqaはイル・ハーン朝後期か、ティームール朝に入ってから製作され始めたと考えられます。イスラーム世界の歴代の支配者は評判の高いmuraqqaをできるだけ自分のところに蒐集しようとしました。したがって最終的にはオスマン帝国に多くのmuraqqaが集まりました。

 サライ・アルバム研究会が研究の対象にするのは、トプカプ宮殿美術館の登録番号 H.2152、H.2153、H.2154、H.2160の4冊で、通称サライ・アルバムもしくはイスタンブル・アルバムと言われ(概要はレジュメを参照)、絵画が合計1,200点ぐらい、その他に多くの書跡、書画に関する覚え書きなどが含まれています。この4冊は明らかに書や絵画の粉本(手本)でありますが、siyah kalem のサインを有し他に例を見ない鬼人・奇人図なども含み、国宝級の作品です。

 イスラーム世界の様々な王朝で、貴重であると解釈されていた絵画や書の断片は、美術史や書道史を研究する者だけでなく、様々な研究の分野にも何らかのヒントを与えると考えられます。

 サライ・アルバムはこれまでに欧米やトルコのイスラーム美術史研究者によって研究が進められてきましたが、作品の製作地がイスラーム世界だけでなく中国やヨーロッパにもおよんでいること、また製作年代も明確なものが非常に少ないこと、アルバムに収められた作品に一貫性がないことなどから、その研究は個々の絵画に関しての研究に留まっています。

 5班aのサライ・アルバム研究会では、美術史だけではなく、様々な分野の研究者に参加していただき、muraqqa の製作の文化史的考察、詩画形式の確立、書画論の作成、工房組織などを含んだアルバムの総合的研究を行いたいと考えています。またアルバムの中には多数の中国系、中央アジア系の絵画が含まれいますが、それらの研究はまだ十分ではありませんので、この分野での研究も進めたいと考えています。

 これらアルバムの総合カタログはまだ作成されていませんが、トプカプ宮殿美術館では将来共同でカタログ製作することを希望しており、この研究会で本年12月にトプカプ宮殿美術館で行う調査において、その基礎的なデーターの作成を行う予定です。

 研究会の予定・方針としては、2〜3カ月に一度の割合で研究会を開き、2000年にワークショップを開催し、研究成果を示すと共に研究発表を出版したいと思っています。

(2)(スライドでの作品紹介)

(3)コメント 帯谷氏

 中央アジアの近現代史を専門とする者として、ここでコメントさせていただくことには若干の戸惑いを覚えますが、美術にはまったくの門外漢であり、またこのサライ・アルバム研究会にも残念ながらこれまで参加させていただいたことはない、ということをお断りした上でコメントさせていただきます。本来なら、中央アジア史からのコメントということであれば、少なくともサライ・アルバムに収められている絵が制作された時代を専門とし、そこに書かれている文字を史料として活用できる能力をそなえた方がコメントされるほうがはるかに有用であるようにも思いますが、あえて地域研究や歴史研究という、美術研究とは少し距離のある分野から、このサライ・アルバム研究を眺めたらどのように映るのか、イスラーム地域研究プロジェクトの枠内でどのような共通の言葉が見出せそうか、というようなことについて私見を述べさせていただきたいと思います。

 サライ・アルバムと称される一連の画帳の中から、代表的なものを見ることができたわけですが、率直な感想としては、私がウズベキスタンなどで見慣れている伝統的な絵とは異なる、「奇怪」な、とでも表現しうるような鬼の絵や人物像が珍しく、たいへん印象的でした。

 水野先生のお話と、若干のにわか勉強から、サライ・アルバムの持つ美術史上の意義とは、そこに歴史的な文化の東西交渉の足跡を跡づけうる可能性が秘められており、そのこと自体は専門家の間でも十分に認識されているが、まだまだ十分に解明されていないということなのだろうと思われます。そして、そこでは東西交渉というときには、やはり東アジアと西アジアということに重点が置かれているように思いますが、東アジア、その東の端は中国であり、西へ来るとペルシアといったらいいのでしょうか、中東イスラーム世界といったらいいのでしょうか、その間にある中央アジアというのは、ある論文の中では第3の要素というような言い方をされていまして、そこでは文化が伝わっていくときの仲介者、伝達者としての役割を中央アジアが持ったというようなことが書かれています。

 先ほど、特にあまり私たち素人が見慣れていない鬼の絵といったらいいいのでしょうか、鬼人の絵といったらいいのでしょうか、そのようなものが中央アジアで多く描かれたと想定されているというお話がありましたが、まったくの素人の立場からは、中央アジアにおける美術研究に対する美術史の分野からの言及というのは、まだ十分に研究が進んでおらず、またそれを扱う研究者の層も薄いところなのではないでしょうか。例えば、先ほどの鬼人のモチーフというものについて、今の中央アジア現地の美術研究者たちが果たしてサライ・アルバムの存在を知っていて、その研究をしようとしているのだろうか、あるいは共通のモチーフが現在の中央アジアにまだ残っているのではないか、ひょっとしたらロシア人が入ってきていろいろなものを持ち出していることを考えれば、ロシアの美術館などに何か共通のものがあったりはしないのだろうか、というような漠然とした疑問が浮かんできました。

 特に、私たち門外漢が抱いているイスラーム美術のイメージというと、例えばそれは、非常にステレオタイプ的でありますが、モスクのタイルですとか、ミニアチュールですとか、絨毯など、色鮮やかで華やかなものに収斂されるのではないでしょうか。サライ・アルバムに収められている絵を見ますと、特に奇怪な感じのするものというか、私たちが一般的に「イスラーム的」というイメージで捉えないようなモチーフのものがたくさん見られるように思われます。それは圧倒的にたくさん出てくる鬼のような人物画ですとか、あるいは竜や象、顔や服にたくさん皺のある、あまり色鮮やかでなく、一般的なイメージとはちょっと遠いと思われるようなものが数多くあるようです。そうしますと、サライ・アルバムの存在というのは、一般的なイスラーム美術といった時のステレオタイプ的なイメージを崩していて、あるいはイスラーム美術の多様性というものを示唆しているのかもしれません。美術の分野ではひょっとするとすでに非常に明確な定義があるのかもしれませんが、私たちのような専門からしますと、イスラーム美術、イスラーム美術史といったときの「イスラーム」とはいったい何だろうか、というやや普遍的な問題が浮かんでくるように思います。例えば、1枚の絵があるとして、それがイスラーム的であるのか、ないのか、イスラーム美術といえるかどうかを決定する要因とはいったい何だろうか。おそらくこのような問題は、美術分野の方と、例えば歴史や地域研究をやる者との間で必ずしも一致した見解がないのではないでしょうか。先程来、このプロジェクトにおけるインターディシプリナリーについて言及されていますが、各分野を横断する対話のきっかけとなるようなものをサライ・アルバムが提示してくれているのかもしれません。

 また、もうひとつは、イスラーム美術における関心の範囲というのは、おそらく中世の時代くらいまでで途切れているのではないかという印象を私は持っています。このイスラーム地域研究の枠内でサライ・アルバム研究を取り上げる意義ということで問題提起できるとすれば、地域研究の意義を、しばしば言われるように、問題の「現代性・現在性」に求めるならば、サライ・アルバムの「絵解き」という、一見美術史の分野に限定されると思われるような専門的作業にどのような現代的・現在的意義を見出すことができるのか、他のさまざまな分野からも検討と議論を試みることに意義が見出せるのではないでしょうか。

(4)コメントに対する報告者の答え

 イスラーム美術とは何かという問題ですが、これはもう最小限のラインを引いて、イスラームという宗教を信仰する文化圏の中で形成された美術をイスラーム美術とするのが妥当だと思います。それにプラス、地域性、民族性、それからイスラーム世界の場合には古代から文明・文化が発達した地域ですから、土着の風土的な文化・美術も必然的に加わってくると思います。ですから正確には、例えばイランのイスラーム期に入ってからの美術はイラン・イスラーム美術、イスラーム期に入ってからのトルコの美術はトルコ・イスラーム美術というような名称のもとに分で民族特有の独自性があります。共通性な面はイスラームによる統一性であり、独自性は民族性や地域性に起因した多様性だと思います。

 いまこの時代に私達がこのサライ・アルバムをどのように解釈するのか。現代との結び付きですが、サライ・アルバムの研究史を見ると、研究年代や民族によってサライ・アルバムに対する解釈が違います。欧米では近年サライ・アルバムの研究は行き詰まっています。その大きな要因は、欧米の美術史研究者がイスラーム美術を西洋美術の概念や西洋美術史学の枠のなかで捉えようとしていることにあると思います。サライ・アルバムを含めてイスラームの美術へのアプローチはもっと緩やかで、透明度のある文化史的な研究体系のなかで行うべきだと考えています。 美術の見方、解釈、研究視点というものは時代と共に変化します。私達は日本人として、新しい見方、新しい観点からこのサライ・アルバムを分析したいと思っております。


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