イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>


国際会議 The Dynamism of Muslim Societies 総括

太田啓子(お茶の水女子大学大学院人間文化研究科)


 2001年10月5日から8日にかけて、イスラーム地域研究プロジェクトの国際シンポジウムThe Dynamism of Muslim Societies - Toward New Horizons in Islamic Area Studies(ムスリム社会のダイナミズム:イスラーム地域研究の新たなる可能性に向かって)が千葉県木更津市の国際会議場かずさアークにおいて開催された。1997年以降実施されているイスラーム地域研究プロジェクトの総決算としての位置づけを持つこのシンポジウムは、五カ年にわたる総体的・多角的な研究の成果を公表するとともに、今後の新たな研究テーマを模索することをも目的としていた。そもそもイスラーム地域研究プロジェクトとは、地理的にも広大な領域を包含し、文化的にも非常な多様性を持つイスラーム世界を非ムスリム世界である日本から研究対象とすることにより、グローバルで総合的なイスラーム研究を試みるものであり、日本が世界に向けて新たなイスラーム研究の視座を提供しようという目的を持っていた。このため、国内外で活躍するイスラーム研究者・専門家が総結集してプロジェクトに参加しており、当初、プロジェクトとして次の三つの研究目標を掲げていた。第一に基礎的研究データの蓄積を通じた、イスラーム地域研究の新しいアプローチの開発、第二にイスラーム地域研究に適したコンピュータシステムの可能性の模索、そして第三に次世代のイスラーム研究を担う若手研究者の育成である。今回のシンポジウムにおいては各研究班の今までの研究成果を還元するとともに、この三つの目標の達成度を世に問うべく、7つのセッションが組まれた。プログラムの詳細は第一セッションIslamism and Secularism in the Contemporary Muslim World(現代ムスリム世界におけるイスラーム主義と世俗主義)、第二セッションThe Public and Private Spheres in Muslim Societies Today : Gender and the New Media(今日のムスリム社会における公的・私的領域―ジェンダーとニュー・メディア)、第三セッションPorts, Merchants and Cross-Cultural Contacts(港湾都市・商人、および異文化間交流)、第四セッションSufis and Saints Among the People in Muslim Societies(ムスリム社会におけるスーフィーと聖者)、第五セッションSocial Protests and Nation-Building in Muslim Societies(ムスリム社会における社会運動と国民国家形成)、第六セッションContracts, Validity, Documentation : Historical Research of the Sharia Courts(契約、法的効力、文書資料:シャリーア法廷文書の歴史的調査)、第七セッションIslamic Area Studies with Geographic Information Systems(地理情報システムによるイスラーム地域研究)であり、多数の国内・海外研究者およびイスラーム研究を志す学生の参加を得て大変な盛会となった。

 シンポジウムの各セッションにおける研究報告は、プロジェクト各研究班の五年間の研究活動の経緯・実績を十分にしめすものであった。例えば、研究班2「イスラームの社会と経済」のcグループが営々と重ねてきたスーフィズム・タリーカ研究は第4セッションにおいてその成果を研究者全体に還元した。研究班4「地理情報システムによるイスラーム地域研究」も第7セッションにおいてその研究成果を披露した。また、第3セッションにおいては研究班5bグループが主催する「地域間交流史の諸相」研究会のメンバーによる報告、討論を中心に、イスラーム地域以外を専門分野とする研究者からの報告もなされ、イスラーム研究の研究成果に他地域研究の成果から光を当てる意義を明らかにする結果となった。最終討論において黒木英充氏が行った、今日の国際政治情勢においてこそ、異文化交流といった観点からの意見交換が必要であるという指摘は、今後のイスラーム研究の可能性と深まりを示唆していると言えよう。このように今回のシンポジウムにおいては、今までのイスラーム地域研究各班の研究活動の集大成とも言うべきセッションが多く見られ、そのほとんどが成功裏に最終討論を迎えた。

 しかし、シンポジウム全体として見るといくつかの問題点が今後の課題として残されたことも否定できない。第一に、シンポジウムにおいて設定された各セッションのテーマと、実際に報告された研究との乖離が挙げられる。むろん各報告はセッション・テーマを念頭においた上でそれぞれの研究フィールドからの報告を行っているのであるが、いくつかのセッションにおいては、報告の内容は充実しているものの個別例・具体例の紹介にとどまり、最終結論を出すに十分な最終討論が行われなかった感もあった。各研究成果の公表にとどまらずセッションとしての全体成果を出すためにはやはり、セッション・テーマに沿った事前の議論がさらに必要とされているように感じられた。第二に、最終全体ディスカッションにおいて参加者からの指摘を受けた問題でもあるが、シンポジウム全体として近現代研究および宗教・思想、哲学研究が十分に検討されていないように感じられた。多くの研究フィールドからの報告を受け入れるシンポジウムにおいては最初に何らかの方向性の設定がなされる必要があり、すべての研究フィールドにおいて満足のいくプログラム設定をすることは難しい。大会の構成がこのような印象を参加者に与えてしまった可能性も否定できないが、このシンポジウムが現在の日本におけるイスラーム研究の集大成と言えるであろう事実を鑑みると、この指摘は現在の日本のイスラーム研究の実状から当たらずとも遠からずといったところではないかと考えられる。今後この研究分野での若手研究者の育成が望まれる。

 結果的にいくつかの課題を今後のイスラーム研究に提示しながらも、今回のシンポジウムは成功裏に終わった。その研究水準の高さ、研究対象分野の広さという点でも申し分なく、また、日本のイスラーム研究を海外研究者に知らしめる機会という意味でも非常に有意義であったと考えられる。

 イスラーム地域研究の最終国際会議としてのシンポジウムの評価もまた、十分満足のいくものであった。シンポジウム全体の方向性として、イスラーム地域研究プロジェクトの意義を問う、といった構成がなされていたわけではないが、各研究班の研究活動がセッション報告において実を結んでいたという点において、第一の目標であったイスラーム地域研究の新しいアプローチの開発は達成されたと言える。プロジェクトにおいて示された研究の方向および可能性は今後の日本におけるイスラーム研究において確かな布石となるであろう。また、イスラーム地域研究に適したコンピュータシステムの可能性の模索という点においても本シンポジウムにおいて一定の成果が示された。会場内においてはプロジェクトにおいて作成が進められたアラビア語・ペルシア語などの非ラテン文字史料のデータベースが公開され、イスラーム地域研究におけるコンピュータ技術使用の可能性が示唆されていた。第三の目標であった、次世代のイスラーム研究を担う若手研究者の育成についても一定の成果が示された。プロジェクト各研究班によって開催された研究会が、若手研究者に研究発表の機会を与えるとともに内外の一流の研究に触れる貴重な機会を与えたことはもちろんであるが、最終ディスカッションにおいて外国人研究者から、日本における大学学部生・大学院生のイスラーム研究への関心の高さが指摘されたことに対しては院生プロジェクトの寄与したところも多かった。これらの諸点から鑑みて、今回のシンポジウムはイスラーム地域研究プロジェクトの最終国際会議にふさわしかったと言えよう。また、シンポジウム最終ディスカッションにおいて、今後イスラーム地域研究プロジェクトが、規模は縮小されるものの、何らかの形で継続されていく予定であることを耳にしたことは多くのイスラーム研究者・専門家にとって何よりの喜びであろうと思われる。

 本シンポジウムの報告をするにあたりどうしても言及せざるを得ないのが、9月11日におきた米国・多発テロ事件関連の問題である。事件勃発から一ヶ月も経たないうちにシンポジウムが開催され、最終日未明には米国によるアフガン空爆が始まるという非常に緊迫した国際情勢において、本シンポジウムにおいてはほとんどこの事件への言及が見られなかった。事件の事実関係および首謀者などについての詳細はいまだ憶測以上の情報はなく、日本におけるイスラーム研究者が何らかの行動を取る必要はないという意見もあろう。また、五カ年に渡るイスラーム地域研究の研究成果を公表する場としては、事件に言及するのは不適切であると言えなくもない。しかし、日本におけるイスラーム研究者が一堂に会する大会として、また海外からの研究者も多数参加する貴重な機会であったという観点から見て、やはりシンポジウムとして何らかの意見発信をすべきではなかったかという疑問は残る。二年前に京都で行われた国際シンポジウムにおいても指摘されたように、イスラーム地域研究は現在の国際情勢と過去の歴史研究が生きた形で結びつきうる数少ない学問領域である。現在のような国際情勢においてこそ、我々自身がいかにして研究成果を社会に還元しうるかが問われているのではなかろうか。日本におけるイスラーム研究が何年かに一回、国際情勢の変化が起こるたびに脚光を浴びるにとどまり、真に日本社会に密着した学問領域にいまだ成り得ない理由を考えさせられた。国際シンポジウムは成功裏に終わった。しかし、世界情勢に対して日本のイスラーム研究が何らかの意見発信をするという機会を逃したことは悔やまれる。参考までに、2001年11月17日から開催される予定の米国中東学会においては今回の多発テロ事件に関し、新たに特別セッションがくまれたことを付け加えて今回の報告を終えたい。

 


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