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イスラーム地域研究の可能性

 佐藤 次高

『学術月報』Vol. 50, No. 12 通巻第637号(1997年12月発行)より転載


「イスラーム地域研究」の新しさ

 「イスラーム地域研究」Islamic Area Studies は、まだ誕生したばかりの学問領域である。世界的にみても、中東地域研究は幾つもあるが、イスラーム地域研究は日本以外には見あたらない。このイスラーム地域研究は、1997年4月、文部省の新プログラム方式による創成的基礎研究「現代イスラーム世界の動態的研究−イスラーム理解のための情報システムの構築と情報の蓄積−」(研究代表:佐藤次高)がスタートしたときから、徐々に動き出した。私たちは、あらかじめ種々の議論を積み重ねたうえで、この新プロジェクトを「イスラーム地域研究」と通称することで意見が一致していた。つまりこの名称には、私たちが共有する問題関心と研究の目的とが的確に盛り込まれていると考えている。

 一言でいえば、イスラーム地域研究の新しさは、地域をこえて拡大してきた宗教および文明としての「イスラーム」と伝統的に一定の境界をもつ「地域」とを結びつけたところにあるといえよう。詳しくは次節で述べるが、この地域研究では、従来通りの地域を幾つか組み合わせて相互に比較・検討することも可能である。前述のように、イスラーム地域研究はまだ始まったばかりであり、プロジェクト施行期間(1997年4月〜2002年3月)の間に、この研究方法をじっくりと熟成させ、新たな地域研究の地平を切り開くことが必要であると思う。

「イスラーム地域研究」とは何か

 それでは、イスラーム地域研究とはいったい何なのか、またそもそも、どうしてこのような研究を行う必要があるのだろうか。

 イスラーム世界といえば、日本ではしばしば中東地域に限定して用いられる。しかしイスラームを宗教ばかりでなく、生活文化や広く文明の意味に解釈すれば、イスラーム世界の範囲は東は中国、東南アジアから中東諸国や東欧をへて、西はマグリブ諸国やアフリカ中西部にまで及んでいる。しかも現代では、ムスリムは欧米諸国や韓国・日本にも少なからず居住し、それぞれの社会の補助労働者として重要な構成要素となっている。このような現状を考えれば、イスラームあるいはムスリムがかかわる地域は、すでに地球規模にまで拡大しているとみることができよう。

 しかもムスリムが居住する「地域」では、異教徒である他者との共存・共生の関係がみられると同時に、地域紛争、民族問題、人口爆発など現代世界が直面する困難な問題も数多く発生している。たとえば、ボスニア紛争、EUや韓国・日本における外国人労働者問題、アフガニスタン内戦、クルド人問題、ムスリムとヒンドゥの対立など、どの問題をとりあげても、それぞれにムスリムの動向が深く係わっている。この意味で、21世紀へむけて現代の問題を正しく理解するためには、ムスリムが発するメッセージや行動を偏見なく解きあかすことが必要であろう。

 このような地球規模にまで拡大したムスリム問題の重要性にかんがみて、私たちは、境界をこえて拡大する「イスラーム」と一定の「地域」とを結びつけ、「新しい地域」の総合的な研究を試みようとしている。ここでいう「新しい地域」とは、たとえば中東とヨーロッパ、中央アジアと中国、ロシアと中東と東欧など、幾つかの地域の組み合わせを意味する。「中東とヨーロッパ」という地域設定についてみれば、中東とヨーロッパとの政治・経済関係、ヨーロッパにおけるムスリム観、移住ムスリムと中東のムスリムとの人的ネットワークなどを取り上げることによって新しい問題提起をすることが可能であろう。これは、従来の地域研究とは異なる新しい研究方法を開発する道へとつながっていくに違いない。

 もちろんイスラーム地域研究も、具体的には政治学、経済学、国際関係学、人類学、宗教学、文学、歴史学、都市工学などのディシプリン研究を積み重ね、それらの成果を総合することによって達成されるはずである。今のところ、ディシプリン研究の成果の総合については、参加者メンバーの間に確たる方法が共有されているわけではない。単なる成果の寄せ集めではなく、どうしたら総合的な理解に達することができるのか、この方法の発見に参加者の智恵が求められている。

 イスラーム地域研究に限っていえば、この総合的理解のために、とりあえず二つの提言をしておきたいと思う。一つは、地域をめぐる現代の諸問題を常に歴史をさかのぼって考察することである。これは、従来の地域研究より歴史をもっと重視する立場であるといってもよい。かつて私は、「一片の文書を解読することも、地域の理解に通じているという意識が大切だ」と述べたが、それは自由な歴史研究が地域研究の総合化とさらなる深化につながるはずだと考えたからである。

 第二は、幾つかの地域を組み合わせることによって成り立つイスラーム地域研究では、「比較の手法」が有効に機能するのではないかということである。1988年から91年にかけて実施された文部省の重点領域研究「イスラムの都市性」では、イスラーム都市を軸にして各文明間の都市性を比較・検討し、大きな成果をあげることができた。この比較研究の手法を貴重な遺産として継承し、個々の成果を総合化する道を探ることが重要であろう。

「イスラーム地域研究」がめざすもの

 以上に述べたように、イスラーム地域研究は、地域研究の新しい手法を開発することを第一の目標にかかげている。そのためには、宗教としてのイスラームや社会・文明としてのイスラームに係わる情報をできるだけ豊富に蓄積していかなければならない。新しい情報の蓄積には、日本の研究者が現地に出向いて行くばかりでなく、現地の研究者の協力をえて生の情報や研究成果を受け取る体制をつくっておくことが必要であろう。また、世界各地で行われている類似のプロジェクトとも何らかの連携を保っておくことも忘れてはならない。一つだけ例をあげれば、現在、ヨーロッパでは、地中海周辺諸国の研究者を糾合して、Individual and Society in the Muslim Mediterranean World と題する総合研究(1996〜1999年)が進められている。このプロジェクトとイスラーム地域研究とは、重なる部分が少なくないと思われる。

 イスラームに関する情報は膨大な量にのぼると予想され、これらの情報を蓄積するためには、コンピュータ・システムを利用することが不可欠である。これまで人文・社会系の学問分野では、コンピュータ・システムの開発は必ずしも十分には行われてこなかった。これは、関係する言語がアラビア語、ペルシア語、トルコ語、ウルドゥ語、インドネシア語など多岐にわたり、文字システムも相互に異なっていたからである。多様な分野を対象とするイスラーム地域研究では、多言語問題を克服してコンピュータによる情報の交換と蓄積をはからなければならない。

 解決すべき問題はけっして少なくないが、イスラーム地域研究は確かな情報を蓄積し、その意味を解読することによって「実証的な知の体系」をつくり上げていくことをめざしている。体系化の第一歩は、数年後に、研究の成果を和文・英文シリーズとして刊行することからはじまる。

 

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