はじめに
いま、私たちは「イスラーム地域研究」という、人文社会系の領域では大型の研究プロジェクトを展開している。これは1997年に発足した五カ年計画の研究プロジェクトであり、今年はその最終年度にあたっている。この間、私たちはじつに多くの研究会やセミナー、国際シンポジウムを開催するとともに、新しい研究方法の開発や研究環境の革新にもつとめてきた。アラビア文字資料のデジタル画像化も、その一環である。ここでは、わたしたちがなぜこのような作業を行ったのかについて記してみたい。
イスラーム地域研究とは
まず、はじめに「イスラーム地域研究」について、かんたんにご紹介しておこう。これは、97年に文部科学省の科学研究費の交付を受けて発足した「現代イスラーム世界の動態的研究:イスラーム世界理解のための情報システムの構築と情報の蓄積」の略称である。研究代表者は、昨年イスラーム史研究の領域で学士院賞・恩賜賞を受賞された佐藤次高教授(東京大学大学院人文社会系研究科)で、総括班を中心に6つの研究班から構成され、現在は44名の研究分担者を中心に内外の研究者と共同しながら研究を展開している。その成果は、まもなく日本語による研究叢書(全8巻)および英語の論文集(全12巻)などの形で公刊されることになっている。
「イスラーム地域研究」の目的とは何か。簡明にいえば、それはイスラーム地域の広がりを認めつつ、その動態を内側から、表層ではなく深層から、そして比較と歴史の視点から理解することにある。日本ではイスラーム地域と言うと、何よりも中東諸国が連想されることが多い。しかし、現在の世界地図を広げてみると、ムスリム(イスラーム教徒)が社会の重要なメンバーとして暮らしている地域は、いわゆる中東をはるかに越えていることがわかる。イスラーム地域は、西欧からロシア、アフリカから中央アジア、中国、南アジアから東南アジア、北米、そして日本自体にも広がっているのである。イスラーム地域は、いまや地球大に広がっていると言ってもよいだろう。
このようなイスラーム地域に着目すると、そこにはイスラーム文化の豊かな伝統が息づいていることを知るとともに、激烈な紛争や事件に示されるような政治的、社会経済的な矛盾、さらにはいわれのない差別や抑圧に直面する人々の姿を見いだすことができる。一方、イスラーム地域にかんする報道は、過激な行動や悲惨な事件に偏りがちなために、イスラームやムスリムについて誤ったイメージを作り出すこともまれではない。しかし、イスラームにすべての問題を還元させるような理解は正しくないだろう。現代のイスラーム地域に見られる諸問題は、まさにグローバルな視点からとらえてはじめて理解することができるはずである。「イスラーム地域研究」の出発点はここにあった。
マイクロフィルム資料のデジタル化装置
「イスラーム地域研究」について事務局長の私が書き始めると、つい話が長くなりそうなので、ここで本題に戻ることにしよう。プロジェクトが始まったとき、私の前には二つの課題があった。一つは、情報システム委員長として、人文社会系の研究にかなった最新のコンピュータ技術をプロジェクトに備えることであった。Eメールでさえ始めたばかりの私にとって、これはむずかしい宿題となったが、幸いコンピュータに詳しい工学系研究者の協力を得て、なんとかわれわれの身の丈に合ったシステムを備えることができた。
このシステムの一環として購入したのが、マイクロフィルム資料をデジタル情報化してCDロムにおとす装置であった。イスラーム地域、とりわけその歴史研究者は、現地での資料調査などのさいにマイクロフィルムで相当量の資料を持ち帰ることが多かった。その中には、何世紀も前の貴重な写本史料も含まれている。しかし、マイクロフィルムはその利便さとともに、劣化や破損という弱点もかかえており、また史料の整理や管理の面でもコンピュータ利用が普及しつつある現状の中では、「時代遅れ」の感もいなめなかった。そこで、この装置を活用すれば、研究環境の革新にも大きく寄与するだろうと考えたのである。私たちは、この装置を東京大学文学部と国立民族学博物館地域研究企画交流センターに備えて利用を開始した。
結果は期待を裏切らなかった。マイクロフィルム資料は、当然のことながら見事にデジタル化され、CD一枚の中に大量のデータが収納された。研究者は、写本であれ、新聞・雑誌であれ、自分が利用する第一次史料を直接画面上で読みながら、構想を練り、ノートを取ることが可能となったのである。これは、たとえていえば、自分の机を居ながらにして史料館や図書館と化してしまうに等しい、大きな技術革新といえる。しかし、問題がないわけではなかった。この装置でデジタル化を行うには、とくに新聞・雑誌のような大量のデータを扱う際には、相当の時間と労力を必要とし、またデジタル化された後のデータの検索については、まだ何もツールは用意されていなかったからである。
中央アジアにおけるイスラーム復興
さて、私に与えられたもう一つの課題は、研究分担者としての、すなわち具体的な研究の面での課題であった。私が担当しているテーマは、現代中央アジアにおけるイスラーム復興である。ここでいう中央アジアとは、1991年にソ連から独立をとげたウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、トルクメニスタン、カザフスタンなどの国々をさす。この地域では、ゴルバチョフ政権が80年代末にペレストロイカ(建て直し)政策を開始して以後、ソ連時代をとおして厳しい抑圧を受けてきたイスラームが急速に復興をとげており、とりわけ南部のウズベキスタンやタジキスタンでこの傾向は強い。一昨年の夏、ウズベキスタン・イスラーム運動を名乗る武装集団が、キルギス南部で日本人技師4人を含む人質をとり、その存在を誇示した事件は、日本人の記憶にも新しいところである。
日本では、中央アジアにおけるイスラーム復興というと、このような事件のインパクトが強いことも手伝って、ロシア軍と戦うチェチェンのイスラーム武装勢力やバーミヤン石窟を破壊したアフガニスタンのターリバーンと結びついた「イスラーム原理主義」と直結して理解されることが多い。たしかにテロリスト・グループの間にネットワークが存在することは十分に予想される。しかし、ほんらいイスラームの復興とは、人々の普通の生活に戻ってきたイスラームの儀礼や慣行、価値観をはじめとして、広く社会や文化の領域で考えるべきものであり、またイスラームと政治との関係も、イスラーム主義者対世俗主義の政権の対立という単純な構造ではなく、現在の社会経済的な条件や歴史的な背景を含めて総合的に検討すべきだろう。
そこで、私が注目したのは、今からおよそ1世紀前、19世紀末から20世紀初めにかけて、中央アジアをはじめとするロシア帝国領内のムスリム地域で展開されたイスラーム復興運動との比較研究である。帝政ロシアというとイスラーム世界とは無縁なように見えるかもしれない。しかし、ロシア帝国はその領内にクリミア半島からヴォルガ中流域、カフカースそして中央アジアという広大なイスラーム地域を抱え、その人口は20世紀初めには少なくとも2000万人を数えていたのである。長く帝政の抑圧の下におかれていたロシア領内のムスリムは、日露戦争や1905年の革命で帝政が動揺したころから、ムスリム社会の再生と発展をはかる運動を開始した。そこで指導的な役割を果たしたムスリム知識人たちは、次々と新聞や雑誌を創刊し、沈滞したイスラームを活性化させるには、またロシア人と同等の地位や権利を獲得するにはどうすればよいか、などの論点をめぐって、多様な議論を展開し、同時にムスリム保守派と論戦を行った。この時代の議論は、それ自体の意味はもとより、現代のイスラーム復興を相対化して考えるためにも重要である。
アラビア文字による新聞・雑誌資料
ほぼ1世紀前の中央アジアにおけるイスラーム復興をその内側から理解しようとするとき、同時代の新聞や雑誌という当時「最先端」のメディアは史料として高い価値を持っている。そこには当事者たちの主張や論理が鮮明に示されているからである。その言語は、中央アジアのトルコ語、ペルシア語あるいはアラビア語であったが、いずれもアラビア文字をもって書かれていた。同じイスラーム世界でも他の地域であれば、この時代の新聞や雑誌を読むことは、さほどむずかしくはなかった。しかし、ロシア領内のムスリム地域の場合は困難をきわめた。1917年のロシア革命を経て成立したソビエト政権は、イスラーム文明の伝統を破壊、除去することに全力を傾けたからである。千年以上使われてきたアラビア文字も全廃された。革命前にイスラーム復興運動に関わったムスリム知識人は、ほとんど例外なくスターリン時代の粛清によって命を絶たれ、彼らの思想や運動を研究することは「反革命」や「民族主義」につながるタブーとして封印されてしまったのである。彼らの発刊した新聞や雑誌は、ほとんどソ連領内の図書館や関係機関で長い眠りにつくこととなった。
大学院生のころから中央アジアの近代史に関心を持っていた私は、なんとかしてその第一次史料にふれたいものだと思っていた。ソ連が崩壊するとは思ってもいなかったのである。そこで、私が注目したのはトルコであった。かつてのオスマン帝国の時代、イスタンブルにはロシア領内から多くのムスリム知識人が訪れ、ロシア革命後にはまた少なからぬムスリム知識人がトルコに亡命していた。トルコに行けば、貴重な史料が見つかるかもしれない。そう考えた私は、トルコの図書館や研究所で調査にあたり、またロシアからの亡命者を訪問した。この予測は間違っていなかった。
最大の収穫は、革命前のロシアで広く読まれたタタール語の文芸・社会評論誌『シューラー(協議)』(1908-18年)である。これは、イスラームの神学・法学から歴史、文学、教育、言語、内外情勢などの幅広い問題を取り上げ、ロシア領内の改革派ムスリム知識人の機関誌として大きな影響力をふるった隔週刊の雑誌として知られている。数年分を残してそのほとんどを探し出した私は、図書館員の特別な許可をもらい、また亡命者個人の好意に甘えながら、コピーをとることに没頭した。80年代初めのトルコでは、コピーの代金は相当に高かったが、それはがまんするしかなかった。しかし、足繁く通った文房具屋とはすっかり親しくなり、昼食をおごってもらったことも一度ではない。製本して並べると本棚の一段は優にうまるほどの分量である。後は、これをじっくりと読めばよい、と私は思っていた。
ソ連の崩壊と研究環境の変化
しかし、世界は変化しつつあった。ペレストロイカが進むにつれてソ連は民族紛争の混迷に陥るとともに、国内では歴史の見直しやイスラームの復興が始まった。私の関心も目の前の巨大な変化の方に移ったが、1991年ソ連崩壊の直前に中央アジアのタシュケントやヴォルガ中流域のカザンの図書館を訪れたとき、私は研究環境の変化を実感した。かつてのタブーは消え失せ、現地の若い研究者たちは革命以前の新聞・雑誌を自由に閲覧していたからである。何よりも感動したのは、ソビエト体制下にあっても、これらの「反革命」の烙印を押された資料を守り通してきた人々がいたことである。
それから数年後、私は前述の『シューラー』をはじめとする革命前後の新聞・雑誌の一大コレクションが、アメリカのマイクロフィルム会社から市販されていることを知った。それは商業的な利益を見込んだ企画というよりは、むしろ学術的な貢献と見えた。かつて苦労して集めた『シューラー』が、いまや一度の注文で簡単に入手できることに一抹の寂しさを感じたものの、これは重要な資料群である。私は数年間をかけてその入手につとめた。このマイクロフィルム・コレクションは、いま東京大学文学部東洋史学科の研究室に収められている。
この間、サンクトペテルブルグのロシア国立図書館(旧サルティコフ・シチェドリン図書館)を訪れたとき、私は中央アジア諸言語などロシア語以外のいわゆる民族語の図書を扱う責任者であったサギードワ女史と知り合いになった。老齢とはいえかくしゃくたる女史は、中央アジア関係の文献を探していた私のような外国人にも支援を惜しまず、あるときは郊外の分館までわざわざ案内してくださったほどである。そこは財政難にもかかわらず、きちんと整備されていた。女史の図書への愛情と精勤さは、タタール語の出版を手がけていたという父親譲りのものかもしれないが、女史もまたかつてタタール知識人に加えられた抑圧と無縁ではないことがうかがわれた。女史は先年死去され、再会を果たすことはできなかったが、先の新聞・雑誌コレクションのマイクロフィルム化に尽力されたのは、このサギードワ女史であったことを私は後になってから知った。
おわりに
さて、昔話はこのあたりにとどめ、肝心のマイクロフィルム資料に戻ることにしよう。資料のデジタル画像化の可能性と有効性は納得したものの、正直に言って、大量の資料を前にした私は、この作業にかかる労力と時間の膨大さに戸惑いを覚えていた。しかし、のんびりとしていては「イスラーム地域研究」は終わってしまうのである。当時の東京大学文学部長、田村先生からマイクロフィルムのデジタル画像化サービスについてお話をうかがったのは、ちょうどこのころのことであった。さっそく、(株)マイクロサービスセンターに相談したところ、見通しは立った。作業は急速に進んだ。もっとも、相手はすべてアラビア文字で書かれ、ときにロシア語がまざるという「けったいな」資料である。索引の作成もお願いしたので、担当の方にはずいぶんご苦労をおかけしたが、しまいにはアラビア文字の判読にも慣れていただいたように思う。結果として、「イスラーム地域研究」の成果にふさわしい、価値あるCD版『中央アジア新聞雑誌資料』30巻が完成した。今度は、マイクロサービスセンターの開発したソフトのおかげで、検索はもちろん、あたかも頁をめくるかのように画面をコントロールすることができるのである。これは是非多くの、とりわけ若手の研究者に使ってもらいたいものである。このように研究環境はわずかの間に見事に整えられた。しかし、一方で私たちは貴重な史料の保管に尽力したサギードワ女史のような人々のことを忘れてはならないだろう。
小松久男(こまつ ひさお)
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