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新たな船出─タシュケント訪問記─

小松 久男

『史学雑誌』第108編第3号(1999年4月発行)より転載


 昨年の一二月、私はほぼ一年ぶりでウズベキスタンの首都タシュケントを訪れる機会をえた。深夜のタシュケント空港、国際便の到着ロビーと税関検査場は、一つ前の便で着いた乗客であふれていた。みな大荷物をかかえている。服装からすると巡礼からの帰国らしい。彼らの荷物の中で目立っているのは、いくつものポリ容器である。中には透明の水が満たされている。おそらくメッカの聖泉ザムザムの水なのだろう。これから貴重なおみやげとして家族や親類縁者にふるまわれるにちがいない。税関の申告用紙になおその遺制をとどめるソ連の時代には想像もできなかった光景である。到着早々、あらためてイスラームへの回帰の動きにふれることになった。

 さて、今回の訪問の目的の一つは、ウズベキスタンにおける歴史研究の動向を調査することにあった。そこで私は科学アカデミーに付属する東洋学研究所や歴史研究所を訪ねたが、一人の知人が興味深い文書のコピーを渡してくれた。それは、歴史研究所の活動を進展させるために共和国大臣会議が採択した決議のテキストであり、大統領カリモフの名前で一九九八年七月二七日に発せられていた。歴史研究の中核機関の刷新と活性化を趣旨とした決議を見ると、歴史研究所の基本的な任務として、およそ以下のことが明記されている。

・ウズベキスタンの領域において最初の国家組織の基盤を生み出した歴史的な条件および国家の興亡の諸問題を総合的に研究し、解明すること。
・ウズベク人とその国家の歴史、ウズベク人の起源(etnogenez)そしてこの問題にかんする考古学および文献資料、これらの研究成果の集積と多面的な比較検討および総合を行うこと。
・最古の時代から現代に至る歴史的な諸段階において、わが国の領域で活動した諸民族の政治的、社会経済的、文化的ならびに思想的な諸問題を研究し、その客観的な研究成果に基づいて学術的、啓蒙的な著作ならびに教科書を作成するとともにウズベキスタン歴史地図を作成すること。
・古代から現代に至るウズベク人の歴史について、わが国および海外の研究者が行ってきた研究を分析した上で、その詳細な文献目録を作成し、真の歴史学を創造すること。
・ウズベク人とその国家の歴史にかんする研究の実施とその成果の公表にあたり、偏ったアプローチや過去の偽造、植民地主義的な思考を許容しないこと、またかつての教条主義的な方法に束縛されず、現代の学問の理念を体現しつつ、歴史学の独立について独自の哲学を有する新世代の歴史研究者を育成すること。
・海外の学術機関との協力関係を樹立、発展させ、研究集会などあらゆる種類の学術的な討論、議論、意見交換の場を組織すること。

 そして、これらの任務を実行に移すための具体的な方策として、決議は二週間あるいは一ヶ月以内に、研究所の規定と定員表の新規作成、所員の勤務評定の実施と研究方針の策定を行うように命令し、さらに有能な若手研究者の採用によるスタッフの刷新、「ウズベク国家史セミナー」の定期的な開催、学術雑誌『ウズベキスタン史』の創刊、諸大学の歴史学部・学科との連携による人材の育成などを当面の課題に掲げている。もちろん要求だけではない。それは研究者の海外派遣、最新の情報・複写機器の設備、文献収集などへの予算配分や共和国の保有するアルヒーフの利用への便宜供与を約束している。

 この決議を読むと、まず歴史研究所の停滞ぶりにたいする政府当局のいらだちが見えてくるかのようである。今から一〇年ほど前のペレストロイカの時代、共産党のイデオロギーに忠実に奉仕してきた歴史研究所には、「歴史の偽造者たちの巣窟だ」という批判がよせられていた。その後、若手の研究者の中には積極的に「歴史の見直し」に取り組む人々もいたが、研究所の改革は進まず、独立後に計画された新編『ウズベキスタン史』も第三巻一冊を刊行するにとどまっていた。財政危機の中で多くの若手研究者が他の職を求めて研究所を去ったことも、その活動を停滞させる要因となった。

 しかし、ソ連邦から独立して新たな国民統合をめざす共和国にとって、ウズベク人とその国家の歴史を編纂する事業はきわめて重要な意味をもっている。決議が民族と国家の歴史に力点を置いているのはこのためであろう。もっとも、ウズベキスタンの領域は、一九二四年に行われた中央アジアの民族的境界画定によってはじめて定まったこと、あるいはウズベク人とは本来ティムール朝末期に北方のカザフ草原からこの地へ進出してきた遊牧ウズベク集団を意味したことを想起すると、現在の国家や民族の枠組みを古代にまで溯らせる決議の歴史認識には違和感を覚えざるをえない。しかし、いずれの民族であれ、古来の原住の集団とその文化の歴史的な継承・発展を重視したソビエト期の民族起源論(avtokhtonnost'論)からすれば、ティムール朝以前にもウズベク人の存在を認めることは可能である。現代の公的なウズベク史観には、ソ連時代の知的伝統と現代の国家的要請とがともに反映されているのである。

 政府から自己改革を迫られた歴史研究所では、ひところに比べると若い研究者や大学院生の姿が数多く見受けられた。海外との学術交流への関心も高い。とくに近現代史関係では、二〇世紀初頭からロシア革命期にトルキスタンのムスリム知識人が展開した改革運動(ジャディード運動)にかんする国際シンポジウムの準備が進められていた。ソ連時代には「ブルジョワ民族主義」や「反革命」の名のもとに断罪されてきたジャディード運動であるが、独立後は民族的なアイデンティティの形成や自治独立運動の展開という文脈の中で再評価が行われ、いまや主要な研究テーマとなっている。「これは私の長年の夢」と抱負を語った主催責任者のアーリモワ女史によれば、このシンポジウムには欧米、トルコ、日本などから専門家を招聘し、ウズベキスタンの「科研費」が交付されれば、今年の九月には開催の予定だという。これはじつに楽しみなことである。このテーマではすでにフランスがタシュケントに開設した中央アジア研究所が、一九九五年に国際研究集会を開催しているが、ウズベキスタンのイニシアチブで開かれるのは、これが初めての機会となる。大統領の「勅令」と「歴史学の独立」とが今後どのような関係をもつことになるのか、それはまだ不明だが、新しい歴史研究への胎動はたしかに始まっている、私はこのような印象を受けた。

 では、最近の研究成果の方はどうだろうか。経済事情の悪化により学術書の出版は苦戦を強いられている。印刷紙や資金の不足から論文や著書の刊行を長く待たされているという話はしばしば耳にした。そのような中で刊行された数少ない著作の一つにハミド・ジヤーエフ『トルキスタンにおけるロシアの侵略と支配に対する闘い』(タシュケント、一九八八年、四七八頁)がある。著者は、ソ連時代から中央アジアと沿ヴォルガ地方やシベリアとの通商関係あるいはタシュケントのロシアへの併合(一八六五年)などに関する研究に従い、ペレストロイカの時代には「中央アジアのロシアへの併合は、客観的にみて進歩的な意義を有した」というソ連史学のテーゼに異論を唱え、「併合」は「侵略」にほかならなかったと指摘して「歴史の見直し」を指導した歴史家として知られている。本書は、このような著者の年来の仕事をまとめた、一九世紀から二〇世紀初頭に至るウズベキスタン史の新しい概説となっている。

 ロシアの侵略の実態を克明に描き、ムスリム支配者層の無知や無策を指摘する一方で、ウズベク人をはじめとする民衆の果敢な抵抗を評価する本書には、著者の愛国心が一貫して流れている。また「祖国愛は信仰の一箇条なり」という近代イスラーム世界に広く知られた巻末のフレーズは、現代ウズベキスタンのイデオロギーを如実に反映しているともいえる。斬新な理論や鋭利な分析、緻密な実証、これらに心ひかれる研究者の目には、ジヤーエフの著作は古風なものと見えるかもしれない。しかし、歴史認識が大きく転換しつつある今、彼の著作は書かれるべくして書かれたと私は考えたい。この啓蒙書を超えて、個別のテーマを追求する作業は、新しい世代に委ねられている。

 畏友バフティヤール・ババジャノフ(東洋学研究所)は、このような新しい世代を代表する歴史研究者の一人である。中央アジアの写本・碑文史料を活用しながら社会史と文化史に取り組む彼の業績は、すでに海外においても高い評価を得ている。昨年彼は、ジヤーエフも論及する一八九八年のアンディジャン蜂起に関する論文を発表したが、その中で私の旧稿にも的確な批評を書いてくれた。現代のイスラーム神秘主義を実地に観察している彼の指摘はやはり鋭い。そしてこれを読んだとき、私は中央アジアの歴史研究者とよい意味での「勝負」をすることができるようになったことを実感した。中央アジア史研究には、いま新たな可能性という追い風が吹いている。おそらく航路は違うだろう。しかしこの風を受けて、同じ海へ出帆したいものである。

 

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