IAS2班海外出張報告
米国同時多発テロ事件以降のマレーシア・インドネシアにおけるイスラームの動向


出張者:石澤 武(IAS第2班事務局)
期間:2001年12月12日〜12月30日
出張地:マレーシア(クアラルンプール、コタ・キナバル)、インドネシア(ジャカルタ、ジョクジャカルタ、スラバヤ)

報告

 昨年9月11日の米国での同時多発テロ事件は、本プロジェクトにも、またイスラーム研究一般にも大きな影響を与えた。今回の海外出張は、米国同時多発テロ事件を受け、2億人以上のムスリム人口を有する島嶼部東南アジア、とりわけマレーシア・インドネシアにおいて、同事件がこの地域のイスラムにどのような影響を与えたかを検証するものとして企画された。報告者(石澤)は1995年4月から1997年4月までインドネシア・ジョクジャカルタのガジャマダ大学に留学していたが、その後、97年7月からの経済危機、98年5月のスハルト退陣という歴史的事件にもかかわらず、4年以上もインドネシアを訪れる機会を得なかった。そのため今回の出張は、報告者にとっては経済危機・スハルト体制崩壊以後のインドネシアの状況に初めて触れる体験であり、その驚きは実に大きいものがあった。
 以下、時系列に沿って、見たこと聞いたこと、感じたことを未整理のままに書き連ねてみる。いまだ興奮がさめないので、分析めいたまとめはできないが、要約すれば、
1.インドネシア・マレーシア両国とも、同時多発テロ事件に関連した反米運動は、草の根の大衆運動としては成立していない
2.その中で、インドネシアの正義党(PK)は既成勢力から自立した大衆運動を展開できる組織として注目すべき
3.しかしいずれにせよ、シャリーア施行を保証するようなイスラム国家を求める運動は少数派にとどまっており、近い将来も両国が上のような意味で「イスラム国家」になる可能性は薄い
ということは言えよう。また、4年前と比べ、Eメイルやインターネットカフェ、携帯電話などの新たなコミュニケーション技術の普及・充実も目を見張るものがあった。むしろイスラム急進派のほうが多くのホームページを開設するなど、インターネットを利用している印象である。(「サビリ」誌、ダルル・イスラム、ラスカル・ジハード、正義党など、本報告書に名前を挙げるイスラム急進派・強硬派組織全てがホームページを運営している。)

12月12日〜12月17日 クアラルンプール
 12月12日夕刻、クアラルンプール国際空港(KLIA)に到着。この空港は98年オープンとのことで、以前のサバン国際空港より一層近代的になったが、クアラルンプール市街地からはさらに遠くなった。空港の周囲は油椰子のプランテーションである。クアラルンプール市街に近づくと渋滞がひどくなり、ターミナルまでほぼ1時間かかった。
 クアラルンプールの街を歩いていて感じるのは、民族の別が極めて明瞭であることである。マレー系の女性はまず例外なくトゥドゥン(スカーフ)をしている。華人系の食堂にマレー系の人が居るのを見たことはない。しかし、少数派のインド(タミール)系はもちろん、華人系でもマレー語が話せない人は減っているようだ。
 翌13日、在マレイシア日本大使館の方にマレイシアの政治とイスラムの動向についてお話を伺った。同時多発テロ事件に対してのマレーシア・ムスリムの反応として、米の政策への違和感は強いが、テロリズムにも違和感が強い、したがって反米運動にまで至らない、ということだった。マハティール政権は、野党の全マレーシア・イスラム党(PAS)への反対キャンペーンに同時多発テロ事件を最大限に利用しており、「やはりPASは危険な政党なのか」という不安も国民に広まっているという。先日のマハティール首相の「マレイシアはイスラム国家である」という発言も、「マレイシアはもう十分にイスラム国家なのだから、これ以上のイスラム国家化は不要である」というニュアンスであり、PASへの牽制である。しかし、イスラム化の傾向はマレー系国民の間では確かに強まっており、特に都市部知識人層の間で顕著である。イスラムは包括的な生活様式として、マレー人の民族的アイデンティティを支えている。マハティール政権は、イスラム化の動向は止めようがない、それならばうまく取り込んで政権の安定に役立てようという狙いから、マレー=イスラムという等号を前提として、官製のイスラム化を推進させている。人口規模がとにかく小さい(2200万人)ので、コントロールできている、というお話であった。
 同日午後は華人系政党「民主行動党」(DAP)の女性国会議員である郭素沁(Teresa Kok)女史にインタビューした。同女史によれば、マレー系国民にとってイスラムは既に自然なライフスタイルとなっている。どちらがよりイスラム的かでPASと現与党UMNOが競っているが、背景には貧富の差の拡大があり、UMNO関係者が金持ちとなる風潮に対する反感を追い風としてPASが伸びてきた、という分析である。
 翌日は、DAPの方々にアレンジしていただき、PASのカマルディン国会議員、およびモハンマド・ハッタ中央執行委員にインタビューできた。お二人の話は、我々はテロには反対であるが米の政策にも反対である、反米運動がインドネシアと比べて盛り上がらないのは、政府の取り締まりが厳しいこと、インドネシアに比してマレイシアの政治文化が非暴力的であり、また経済状況も比較的良好であるから、という主旨であった。PASが望むのはムスリムにはイスラム法を、ということであり、非ムスリムに対しては干渉しない。イスラムは単なる宗教でなく生活全てにわたるライフスタイルであり、政教分離は受け入れられない。マレー=イスラムであり、マレーであることとイスラムは切り離せない。などの諸点が強調された。お話を伺った上での報告者の印象としては、イスラムをめぐるマハティール政権とPASの綱引きは、現存のブミプトラ政策を前提とした、マレー系住民という枠内での争いに過ぎず、多民族国家マレーシアの潜在的ダイナミズムを十分に引き出すものとは言えないのではないか、というのが率直な感想である。
 昨年来、第2班ではジャウィ(マレー語をアラビア文字で表記したもの)文書についての研究会を主宰しているが、ペトロナス・ツインタワー下にある、マレーシア最大の書店と言われる紀伊国屋(日本の、あの紀伊国屋が進出しているのである)に出かけたところ、ほとんどが中国語と英語の本で占められ、そもそもマレー語で書かれた本はわずかであり(さらに、タミール語の本は皆無)、ジャウィで書かれたものは置かれていなかった。マレー語書籍の出版が低調なのは、おそらく、高等教育での教授言語が英語であることが大きく影響しているのであろう。インドネシアであれば、自然科学でも人文・社会科学でもインドネシア語で教科書が書かれ出版されるが、マレーシアでは英語で書かれた教科書を輸入すれば済んでしまうのである。後に訪れたインドネシアと比べると、文化面でのマレーシアの活力は、低いと断ぜざるを得ない。人口規模の小ささという点は動かせないが、独自の文化を発信するに至っていないとは言えよう。せっかくの多民族・多言語という環境が、文化的ダイナミズムを生み出す土壌として機能していないという印象を受けた。
 反面、98年に開通したという地下鉄は、東京湾岸の「ゆりかもめ」線と同様、乗員の居ない自動制御の近代的なもので、世界一の高さを誇るツインタワーと共に、さながらSF「ブレードランナー」の未来都市という感じである。もっとも、DAPの書記の方によれば、「両方ともマハティールの見栄のためのプロジェクトで、大赤字だ」ということであった。しかし、「これがマレーシアのミドルクラスの暮らしだ」と、この書記の方のマンションに案内されたが、その広さといい設備といい、インドネシアではミドルクラスの域を超えるものであり、インドネシアとの経済的格差を改めて感じた。

クアラルンプールの地下鉄

 イードル・フィトリの前日である15日の晩、夜市が出ていたので散策してみたが、期待していたオサマ・ビン・ラーディングッズは、ごくわずかであった。Tシャツと壁掛け、ポスター、カレンダーが並んでいる程度であり、たいして売れているとも思えなかった。因みに、オサマ・ビン・ラーディンのTシャツを来ていた人は、本出張中には(報告者本人を除き)一人も見なかった。(それに対し、ゲバラのTシャツを着ていた人は、クアラルンプールで一人確認できた。白身魚の唐揚げを商う屋台のお兄さんであった。)

 
クアラルンプールで売っていたTシャツとポスター

 イードル・フィトリで休みの17日早朝、ジャカルタに向かうために空港までタクシーに乗った。せっかくの新空港なのに地下鉄が空港まで延びておらず、早朝だとバスもないのでタクシーに頼らざるを得ないのである(KL市街から空港まで2000円以上)。タクシーの運転手は珍しいことにキリスト教徒で、ペンテコステ(プロテスタントの一宗派)だという。ユーラシアン(ヨーロッパ人との混血)で、家では英語で会話しているとのこと。見かけは全くマレー系である。これからジャカルタに行く、と言うと、インドネシアは貧しい人が多く、危ないから気をつけろと言う。インドネシアからの非合法移民のタクシー強盗にあったとも言う。実際、マレーシアではインドネシアは非合法移民を排出する危険なところ、と見る人が多いらしい。

12月17日〜22日 ジャカルタ
 4年ぶりのスカルノ・ハッタ空港に降りる。ゲートを出るとタクシーに誘う手配師が群がる。クアラルンプール空港にもタクシー手配師は居たが、気合いが全く違う。闇の両替商も声をかけてくる。4年たったが、全く変わっていない。ここは、やはりインドネシアであった。
 両替をして驚いたのは、札の模様が4年前とかなり変わっていることだった。以前にはなかった10万ルピア札というのが出ており、スハルトが微笑している図柄の5万ルピア札は、国歌「インドネシア・ラヤ」の作曲者スプラトマンの肖像に変えられていた。
 貧乏外国人旅行者御用達のジャクサ通りに投宿。近くの米大使館を通りかかったが、おもったほど警戒は厳重でもなく、別にビラやポスターも落書きも見あたらず、見たところは以前と変わりがないようだった。
 物価の上昇にも驚いたが、何にもまして驚愕したのは、グヌン・アグン書店(日本で言えば丸善や旭屋に匹敵する大手書店)でレーニンの「国家と革命」のインドネシア語訳が平積みされているのを見たときであった。この驚きはなんと表現すべきか、言葉にならない。スハルト体制の時期を想起すれば、まさに夢としか思えない。マルクス主義の古典の訳書としては、他にマルクス「革命と反革命」、グラムシ「獄中ノート」を編集したもの、ローザ・ルクセンブルク「社会改良か革命か」が店頭に並んでいた。タン・マラカ(戦前のインドネシア共産党指導者)の著作"GERPOLEK"やインドネシア共産党関係の書籍もたくさん出ていた。サイードの「オリエンタリズム」やフーコーの著作も訳されている。

  
書店に並んでいたマルクス主義の古典。マルクス、レーニン、グラムシ、ローザ

イスラーム主義の文献も、普通の書店に普通に置いてある。日本の雑誌にたとえれば、イスラム版「諸君」「正論」とも言うべき雑誌『サビリ』は自称ではインドネシアの雑誌の中で43万6千部と第2位の売り上げ(トップは44万1千部の女性ファッション雑誌『ガディス』)と言い、レジ横に積んであった。イスラム過激派「ラスカル・ジハード」が発行する機関誌「サラフィー」も一般の雑誌の棚に置いてある。日本で言えば、紀伊国屋で中核派の機関誌が週刊朝日の隣に置いてある、という感じだろうか。また、サイード・クトゥブやハサン・アル・バンナーについての書物もたくさん出ている。イスラーム主義的なものだけでなく、リベラルなイスラム研究者の著作も多く訳されている。ファーティマ・メルニーシーやムハンマド・アルクーン、先日招聘したアリ・エンジニアなどの著作はスハルト時代から紹介されていたが、ロバート・ヘフナーの"Civil Islam"やレオナルド・バインダーの"Islamic Liberalism"が新たに出版されていた。
 もちろん、別に政治や宗教に関係ない書籍の出版も活発である。以前にはなかった日本のアニメの専門誌が3誌も発行されていたのが印象的であった。なお、政治的な表現の自由はかなり確保されているのに、性表現の面ではスハルト時代と全く変化がないことがメディア論の観点からは興味深い。言うまでもなくイスラム団体からの圧力をおそれて自己規制が徹底しているからであり、日本なみのグラビアが書店に並ぶことは近い将来もあり得ないと思われる。(もちろん、アンダーグラウンドでは欧米からのポルノが出回っているらしい。報告者はよく知らないのだが、これはスハルト時代も同様であったと言われる。)
 18日、在インドネシア日本大使館の方にお話をうかがう。欧米メディアによるとインドネシアの反米運動はかなり盛んに見えるが、過激ムスリム団体の動員数はせいぜい数百人規模であり、裏には政治的スポンサーがいるのであって、草の根の運動とは到底言えないこと、万単位の反米デモを組織し得たのは正義党(PK)のみであり、既成政治勢力から自立した大衆運動を展開し、かつ高度な理論的能力を有しているのは、イスラム強硬派のなかではPKだけであることが強調された。PKは大学、高校、中学のモスクで自主的に行われているコーラン研究会のネットワークを母体に形成され、理論的にはエジプトのムスリム同胞団の系譜を引く。学生運動団体としては、インドネシア・ムスリム学生行動連合(KAMMI)を傘下に持つ。今のところはPKは制度化された政党政治の枠内に組み込まれているが、彼らが政党政治の外に出てしまうと脅威であるという。

  (左)今回の出張中、発見できた唯一の反米ステッカー。日本大使館そばの陸橋の柱に貼ってあった。
(右)正義党の横断幕。「祝ラマダン月。ポルノを遠ざけ、麻薬を捨て、賭博を絶滅しよう」

 翌19日は「ダルル・イスラム」(DI。インドネシア・イスラム国家)スポークスマンのアル・ハイダー氏にインタビューする。同氏はアチェ出身で、多くの著書がありイスラム急進派運動の著名人の一人である。また、10月の木更津国際シンポジウムにも参加したいとのメールを総括班に送るなど、本プロジェクトにも関心?を寄せている。ダルル・イスラム運動は40年代末から60年代初めのカルトスウィルヨによるダルル・イスラム反乱を継承するとし、支持者1800万人を自称する。「ダルル・イスラムはカルトスウィルヨによって既に48年に独立している。したがって、我々はインドネシア共和国の政治には関心がなく、選挙にも参加しない。他のイスラム急進派組織はインドネシア共和国の軍人や政治家をスポンサーにしているが、我々は、この共和国の政治とは無関係であり、スポンサーはいない」という。布教活動とジハードによってダルル・イスラムをインドネシア共和国全域に広げるのが使命だとする。興味深いことに、ダルル・イスラム運動は非暴力的であることを強調し、樹立すべきイスラム国家は多様性を認め寛容であるべきことを繰り返していた。「我々の目標はリベラル派イスラムと同じく、宗教的多元性に基づく寛容なイスラム社会である。しかし、リベラル派は、自分たちの主張に都合の悪いシャリーア(イスラム法)を廃棄しようとしている。これでは原理主義者を論破できない。原理主義者に対抗するには、シャリーアの廃棄でなく解釈の革新である」。こうした主張がどこまで本気なのか疑問なのだが、イスラム国家樹立をめざす勢力が、リベラル的・ポストモダン的言説で自らの主張を展開する点が面白かった。
 20日には、上記のイスラム雑誌「サビリ」の編集部に赴き、同誌編集者ウバイディラー氏にインタビューする。女性が国家の指導者になるのはコーランに反しており好ましくない、ユダヤ教徒はコーランの至る所で批判されており、ムスリムにとって永遠の敵である、など、コーランの文言を論拠にした強硬な主張が目立ったが、半面、同時多発テロへの意見を訊ねると、「賛成も反対もできない。あの事件は米政府の中東など対イスラム政策に責任があるが、同時に犠牲者には深く同情する」、マルクやポソなどでの宗教紛争の解決について質問すると、「政府が責任を持って中立的な立場で介入すべきだ」など、比較的常識的な答えが返ってきた。しかし、編集部の壁にはオサマ・ビン・ラーディンのポスターがたくさん貼ってあり、左記の回答は外国人の調査者向けのリップサービスとの印象も払拭できない。
 ミドルクラスでのイスラム純化傾向についてたずねると、あれはスハルト政権の学生運動弾圧の副産物だという。「70年代末、学生生活正常化の名のもと、スハルト政権は学生の政治活動を禁止した。学生は自主的な活動ができなくなり、大学において政府からある程度自由な空間は、宗教的な部面だけになった。学生たちはコーラン研究会を結成し、正しいイスラム、純粋なイスラムを追求した。彼らは正しいイスラム的生活を身につけ、やがて卒業しミドルクラスとして社会の中軸を担うようになった。そうすると、彼らの影響で他の人々も、正しいイスラムに目覚め始めた。これが中産階級のイスラム化である。」
 ウバイディラー氏は、近く米政府の宗教間対話プロジェクトのため、米政府の招待で18日間米国各地を回るという。「我々は、米国とは異なって日本に対しては何のわだかまりも持っておらず、規律と勤勉さを学びたいと思っている。日本には是非行ってみたいので、日本政府も同様のプロジェクトを実施しないだろうか」と述べていた。
 二日連続でイスラム急進派の人々にインタビューしたが、もちろん、リベラル系の「リベラル・イスラム・ネットワーク」http://islamlib.comにも連絡してみた。しかし、イードル・フィトリの休みでスタッフが帰郷しており、話が聞けなかったのは残念だった。
 21日には旧知の東大院生、蓮池隆広(宗教学専攻、イスラムとメディアについて研究中)と増原綾子(国際関係論専攻、国軍とイスラムについて研究中)と懇談。二人ともインドネシア大学に留学して1年以上になると言う。スハルト退陣以降に発刊された新興イスラム雑誌の殆どが急進派的な論調になるのは何故か、やはり刺激的な論調の方が売れ行きがいいのか、ABRI Hijau(国軍内イスラム派)という言葉は最近は聞かないが、本当にそういったグループが実体的に存在したのか、といった話をする。

12月22日〜28日 ジョクジャカルタ

 22日午後、ジョクジャカルタに到着。ジャワ語の響きが懐かしい。宿から一歩足を踏み出すやいなや、待ちかまえていたベチャ(自転車に客が乗る座席をつけたもの)こぎが声をかけてくる。以前よく通ったサリ・イルム書店まで行ってもらい、本を買い込む。出てくるのを待っていた件のベチャ屋は、銀細工やバティックなどの土産物屋に連れていこうとする。客が土産物店で買い物をすると、その客を連れてきたベチャ屋には店から米などのボーナスが出るのである。「頼むから、何か買ってくれよ。このところ、観光客がめっきり減って食っていけないんだよ」というので、「分かった。金はやるから、ジャワ語の練習につきあってくれ」と、ベチャ屋を先生にしてジャワ語のレッスンをしながら、ジョクジャの政治状況・社会状況について訊ねる。グス・ドゥル、アミン・ライスはジョクジャでは人気がない。正義党、月星党などのイスラム強硬派については、そもそも意識にのぼらず、何それ?と言う感じ。同時多発テロやアフガン情勢は、別世界の話である。今よりも景気が良かったので、スハルト時代の方が良い。しかし、選挙ではPDIPに投票した。メガワティは下積みの民衆の気持ちを分かってくれる。・・・このような傾向が、ジョクジャのベチャ屋など下層民の一般的感情であるようだ。
 報告者が以前より研究しているジャワ神秘主義団体「サプタ・ダルマ」の本部に向かう。懐かしい顔がいっぱいで、感無量である。例年通り瞑想のトレーニング合宿が行われており、今年は全国12州から184人が参加。中部ジャワ州から60名、バリ州から36名、東部ジャワ州から31名。イスラム化に押されて先細りになっているのではと懸念していたが、参加者数で見る限り、とりあえず心配はないようだ。しかし、参加者には高齢者が多く、青年の参加者も、多くは親が信者であるという2世信者である。こうした状況は報告者がジョクジャにいた頃と変わっておらず、教勢が頭打ちであることは否めない。スハルト時代と比べて、政府機関との対応はいくらかスムーズになったという。特にバリでは、独自の結婚式、KTP(国民全てが持つ身分証明書)の宗教欄を空欄にする問題(サプタ・ダルマなどのジャワ神秘主義団体は、イスラム、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー、仏教の五つの政府公認宗教のいずれにも属さないため、信者の宗教欄を空欄にすることを政府に要求している)については問題なく認められているという。その一方で、サプタ・ダルマの信者であることを理由に、ムスリムによって暴行を受ける事件も起きているとのことである。
 24日、イスラム過激派ラスカル・ジハードの本部へ。事前に連絡しておいたにもかかわらず、3日間の会議があり責任あるスタッフは皆出払っているという。訳分からない外国人が来て面倒だから居留守を使おうということかも知れないが、仕方がないので機関誌のバックナンバーを買い込んで帰ることにする。「サビリ」編集部もそうだったが、ここも「ノースモーキング・エリア」だそうだ。本部に残っていた青年は、9月にアンボンから戻ってきたという。「マルクには半年いた。現在は、政府の取り締まりが厳重で、衝突は起きていない。」マルク紛争の解決策はと聞くと、「どちらが先に手を出したか突き止め、最初に手を出した方を処罰すべきだ」と詮無いことを言う。しかし、ラスカル・ジハードの献金箱がごく普通の薬局に何気なくおいてあったり、白いターバンをしたメンバーが大通りの中央分離帯に立って行き交う車に献金を求めていたり、それなりにジョクジャの風景の一部にとけ込んでいるようである。

 
薬局に置いてあったラスカル・ジハードの献金箱

 25日はクリスマスで休日であるが、この日は以前通ったガジャマダ大学のキャンパスに行ってみた。授業が始まるのは年明けからと言うことで、学生の姿はない。しかし、学生運動の拠点であるにもかかわらず、同時多発テロ事件に関係する落書き、ビラ、ポスターの類はついに発見できなかった。貼ってあった唯一の政治的ビラは、大学を民衆に開放せよと訴える左派系の団体のものだった。新築の、大学付属モスクが建っていた。立派な建物である。国立大学に国費で宗教施設を建てるなど、日本では考えられないが、ガジャマダ大学の図書館の貧弱さを知る身としては、モスクもいいがその金をもう少し図書館の充実に当ててもいいのではと思わざるを得ない。実はこの日は一日中、クアラルンプールで買ったオサマ・ビン・ラーディンのTシャツを着て歩いていたのだが、特段のことはなかった。

 ガジャマダ大学のモスク

 26日には左翼系出版社「ジェンデラ(窓)出版」を訪ねた。マルクスの「革命と反革命」を出した会社である。学生の下宿のような事務所に、在庫の本が梱包されて積んである。応対してくれた編集者のアデ・マルーフ氏は20代前半で、学生新聞の発行から発展した出版社であるということだが、いかにもそのようである。学生の討論グループ、研究会のネットワークで彼らの出した本がテキストとして使われ、新たな出版の企画も、学生が原稿を持ち込んで行われるということだ。小学校の学級文庫のような棚に、彼らの出版物に限らず様々な社会科学書が並べられ、貸し出されている。「誰でも借りられるが、借りた人はちゃんと返すこと」と貼り紙がしてあり、ほほえましい。ここはイスラム団体と異なり、タバコも自由である。アデ君は報告者の差し出すタバコを吸いながら、展望を語ってくれた。「マルクスや左翼の本を出すのは、インドネシア社会の民主化のための判断材料を提供するという我々の使命に合致するからであり、我々は別に左翼系出版社ではない。自分たちの使命に適するものなら、文学であれ何であれ、ジャンルにこだわらず出していきたい。第一、左翼本だけでは経営が成り立たない」という。帰り際、戦前のインドネシア共産党指導者タン・マラカの"GERPOLEK"や、30年代に出版された、タン・マラカをモデルにした冒険小説「インドネシアの紅はこべ」、ポスト・コロニアリズムの概説書など、同社の出版物をおみやげにくれた。代金を払おうとしたが、どうしても受け取ってもらえない。今後もメールをやりとりすることを約して別れた。
 27日、スラバヤまで飛行機で飛んで、在スラバヤ日本総領事館の方にお話を伺った。
米軍のアフガニスタン空爆開始後、総領事館へも「イスラム研究フォーラム」を名乗る30名ほどのグループが抗議に来たが、実に平穏なものだった。米国の領事館にも様々なグループが別々に波状的にデモを行ったが、いずれも小規模なものであり、統一したデモは行われなかった。スラバヤにおいても、大衆動員を実現できたのは正義党(PK)であった。
 領事館の方のお話では、インドネシア経済はそれほど不景気ではないということであったが、報告者もそのように実感した。イードル・フィトリ休みという帰郷・Uターンシーズンとはいえ、スラバヤ・ジョクジャカルタという飛行機で行くにはあまりに贅沢な路線が往路・復路とも満席であり、空港に着陸するや否や、迎えに来てくれるよう携帯電話で電話していた人もかなり居たことが印象に残った。
 27日夜、露天商が並ぶマリオボロ通りを歩いてみたが、ジョクジャでもオサマ・ビン・ラーディングッズはめぼしいものはなかった。Tシャツやポスターは店に出ていたが、「以前はよく売れたけど、今はそうでもない」とのことだった。

12月29日〜30日 コタ・キナバル

 翌28日早朝、ジャカルタに発ち、午後にクアラルンプール入りした。インド人街のマレー語書店を覗いてみたが、インドネシアと比べると、マレー語書籍の出版活動の低調さはやはり否めない感じだ。
 29日午後、最後の滞在地であるコタ・キナバルに着く。当地はリゾート地でもあり、マレイシアも景気が悪くないのか、イードル・フィトリ休みではあるにせよ、マレイシアの水準では決して安くない筈のホテルが満室であった。コタ・キナバルにはインドネシアからの移民が多い。南スラウェシのブギス人に多く出会った。
 30日、本出張の最後の日であるが、てっとり早くサバ州についての知識を得るためには博物館が最良と考え、サバ州立博物館を訪ねた。この博物館は年次報告書もきちんと出版しており、付属の売店で買うことができる。カダサンやムルットなど少数民族の言語と英語・マレー語の3言語での対照単語集のシリーズが出ていたので、一通り買い求めた。時間が十分ではなかったので本館の展示しか見られなかったが、中国や東南アジア各地からの陶磁器の壺のコレクションは見事だった。サバが如何に深く南シナ海交易と関わっていたかがよく理解できた。「サバにおけるイスラム文明」という展示も一フロア全部を使って行われていたが、サバとは関係ないイスラム一般の展示が延々と続き、いきなり時代が20世紀に飛んでサバのイスラム組織の説明に移ったのには驚いた。いかにもとってつけたようだが、サバではムスリムはむしろ少数派であるにもかかわらず、サバの歴史を展示する上で、イスラムを完全に無視するのは政治的に差し障りがあるのかも知れない。閉館時間をかなり超過して、警備員に追い立てられるように博物館を後にした。コタ・キナバルの空港に着くと、どこにいたのかといぶかしく思うほどリゾート帰りの日本人でにぎわっていたが、おそらく例年より少ない人出なのだろう。コタ・キナバルから5時間ほどで成田に着く。摂氏30度の地からいきなり摂氏1度の成田に降り立ち、風邪を引いたのは言うまでもない。

旅程および主な訪問先とインフォーマント
12月12日〜12月17日/12月28日〜29日 クアラルンプール
在マレーシア日本大使館、民主行動党(DAP)丘光耀書記、関柏松書記、郭素沁国会議員、全マレーシアイスラム党(PAS)カマルディン国会議員、モハンマド・ハッタ中央執行委員

12月17日〜22日 ジャカルタ
在インドネシア日本大使館、ダルル・イスラム(DI)スポークスマン アル・ハイダル氏、イスラム雑誌「サビリ」編集部ウバイディラー氏、東京大学大学院生蓮池隆広・増原綾子

12月22日〜28日 ジョクジャカルタ
イスラム過激派団体「ラスカル・ジハード」本部、左翼系出版社「ジェンデラ出版」編集者アデ・マルーフ氏、ガジャ・マダ大学キャンパス、ジャワ神秘主義団体「サプタ・ダルマ」本部

12月27日 スラバヤ
在スラバヤ日本総領事館

12月29日〜30日 コタ・キナバル(東マレーシア、サバ)
サバ州博物館

本報告の補足「街角で見つけたジャウィ」もご覧ください。