2-b 「イスラーム世界の経済構造と変動」第1回研究会報告書

[日時]1999年6月19日(土)午後2時ー5時半

イランの流通システム〜実証研究の現状と課題
岩崎葉子(アジア経済研究所)

公共部門である石油部門周辺にのみその焦点が当てられがちであったこれまでのイ ラン経済研究には、市井の人々の経済生活が見えにくいという問題があった。そう した中で、特定の商品の生産から消費へいたるプロセスを解明しつつ、「イランに おける流通」を主として生産機構と流通機構との関係において分析することは、そ うした生身のイラン人の経済生活に光を当てるのみならず、従前のイラン流通機構 に関する研究(おもにバーザールなどを対象として)に一般的であった社会学的・ 人類学的アプローチのもつ限界に、経済学的な手法をもって挑むことにもなる。報 告者がこれまでに行ったふたつのフィールド調査(@イラン国内の繊維企業が海外 から機械やその部品、糸や染料などの原材料を輸入する場合に、彼らの代理として 買い付けを行う仲介業者についてAテヘランのアパレル産業における卸売り業者の 役割について)の結果から、いくつかの共有される研究上の論点を導き出すことが できる。第一には、各々の流通システムが形成されている背景には「取引費用」の 多寡が影響していると考えられる点、第二には、基本的に消費財は需要超過であり 、モノを買う側よりも売る側・生産する側が相対的に優位であるような市場が成立 している可能性がある点、である。結果として、イランにおいては生産と消費とい うモノの流通の両端にあるふたつのフェイズが、有機的に結びついていない状況が 確認できる。しかし同時に、このような様相を呈する流通機構や市場は、イランの みならず言葉や文化、歴史的背景を異にする様々な地域・国(例えば台湾、韓国な ど)でも同じように見られることに注意する必要がある。「イランは特殊である」 という観念から解放され他地域の経験に学ぶことの、イラン地域研究にとっての重 要性が強調された。

マレーシアの金融・経済危機から政治変動へ:統一マレー人国民組織(UMNO)を中心に
鳥居高(明治大学)

はじめに
 1997年7月以降アジア諸国・地域を襲った通貨・経済危機は,各国で従来の経済開発計画・目標の変更のみならず,開発体制の再構築あるいは崩壊という事態さえもたらした。経済再建にあたり韓国・タイがIMF主導のもとでいわゆるIMF型の経済再建策を導入したのに対し,マレーシア政府はIMFの支援を公式には拒否し,独自の道を模索したことから,その再建の行方に内外の注目が集まった。  マレーシア政府は危機発生後,最初の本格的な経済対策である1998年度予算を公表して以降(97年10月)98年7月までの約9カ月間はIMFからの支援には頼らないものの,実質的にIMFが勧める経済政策を採用することで事態への対応を図った。この背景にはマレーシア政府が「新経済政策(New Economic Policy;NEP)」に代表されるマレー人優遇政策という独自の開発政策を採用していたことから,IMFによる介入を避ける思惑が強く働いたものと考えられる。  さらに,マハティール首相(Mahathir b.Mohamad)は1998年9月1日に資本取引規制,さらに固定相場制(1米ドルを3.8リンギに固定)を導入するなど劇的な経済政策の転換を行った。こうした一連の戦略はIMF型の処方箋とは異なる,いわば「マレーシア型戦略」の導入によって経済危機の克服を目指したものといえるだろう。  一方,マハティールは経済政策の劇的な転換と同時進行で政治面でも大きな方針転換を行った。1993年以降政府及び政党内のナンバー2の地位を占め,彼の「後継者」として内外から位置づけられてきたアンワル・イブラヒム(Anwar b.Ibrahim)の追放処分である。97年9月2日にアンワルを副首相および大蔵大臣の両ポストから解任したことに始まり,同4日には統一マレー人国民組織(United Malays National Organization;UMNO)副総裁ポストのみならず,党員資格までも剥奪し,政府・党のすべてのポストから追放した。さらに同20日には,アンワルは国内治安維持法(Internal Security Act;ISA)違反の罪で身柄を拘束され,同29日には腐敗防止法違反の罪5件と刑法の異常性行為の罪4件で起訴された。  こうしてアンワルがマハティールの手によって複数の罪で訴追を契機として,1998年9月中旬以降マレー人社会を中心にアンワル支持・反マハティールを掲げる運動グループが「改革」あるいは「社会正義」を掲げ,反政府デモを行うなど政治危機の局面を迎えるに至った。  今回の政治危機ー特にアンワルの追放劇までの政治過程ーに関しては,次のような見方が一般的であろう。即ち,経済危機への処方箋をめぐりIMF型の緊縮財政・高金利政策をとるアンワルと積極財政によって成長路線を志向するマハティールとの間でマクロ経済政策の運営をめぐる対立関係があった,という解釈である。また,1998年6月に開催されたUMNOの年次中央大会でアンワルの側近である青年部長が「クローニズム(Cronyism:政権の取り巻きの重視)」・「ネポティズム(Nepotism:縁故主義)」という言葉でマハティール総裁の政策を批判したことがアンワルの追放の要因である,とされている。  確かにマハティールとアンワルそれぞれが主導したマクロの経済政策には違いがあった。しかし,当時の政府内の権力構造から見れば,少なくともアンワルの緊縮財政政策もまたマハティールの承認の下で実施されたと考えられる。両者は役割分担をして経済危機への対応を模索していたといえる。また,マハティールによる98年9月の政策転換に関しても,最終的に対立していたのは,高金利政策の堅持を強く主張した中央銀行・大蔵省を中心とした経済官僚と金利引下げを要求するマハティールら総理府サイドの対立というほうが実像に近い。アンワル自身もこの9月の政策転換に関する政策決定過程に深く関与していたことが今日では知られている。したがって,マクロ経済政策運営上の対立がマハティールとアンワルの直接的な対立の理由とは考えにくいといえる。  今回の経済危機を巡る政治変動の中で重要な点は,政治変動がマハティールによるアンワルの追放という形で始まった点であろう。換言すれば,経済危機が深化していく過程でUMNO内部でマハティールとアンワルという2人の政治指導者間の政治権力闘争が展開されていったことに注目したい。その直接的な契機が98年6月のUMNO党大会であった。  本小論では経済危機発生から政治危機に至る経済政策の実施過程においてマハティールとアンワルが果たした役割を整理した上で,アンワルを軸に経済・政治危機を検討することにしたい。すなわち,第1にUMNO内部でのアンワルの政治権力の基盤の変遷,第2にアンワルの経済政策の2点について検討し、アンワルという政治家の実像を明らかにする。その上で,第3に両者の直接的な対立原因となった6月の党大会を巡り,アンワルが取った行動とその理由を検討する。

1.アンワルを軸に見たUMNO内部の権力構造
 ここではアンワルがUMNO入党以降,経済危機に至るまでの過程において,彼の権力基盤と党内における権力関係の変遷について段階を追って検証する。 (1)マハティールとアンワルの原景:イスラーム復興主義勢力の台頭
 アンワルは過去において,しばしば「マハティールの子供」と表現されてきたように,1982年の入党以降マハティールのもとで権力基盤を固めてきた。両者の関係を支えたものは党外におけるイスラーム復興主義勢力勢力の台頭,換言すればマレー人社会におけるUMNOの正統性の危機であった。この点がアンワルを考える重要な基点となるので振り返っておきたい。  UMNOはその名称が示すとおり,マレー人のみで構成される政党であり,その党憲章には「マレー人の利益の擁護」,「イスラーム社会の維持・発展」がその目的に掲げられている。しかし,後者の目的に関しては,世俗国家の立場から独立以降1960年代は強調されず,同党がイスラーム政策を重視するのは70年代末以降である。  「マレー人社会の擁護者」をその正統性に掲げるUMNOは,1971年以降新経済政策(NEP)の実施を通じてマレー人社会に対し資産(株式資本)の増加のほか,経済水準の向上につながる雇用機会や事業機会の保証,さらには教育機会など物質的な利益を与えることを政策上保証し,その擁護者としての役割を明確にした。しかしながら,こうした政府の物質的な利益の拡大政策に対し,1970年代半ば以降マラヤ大学を中心とする大学生が反政府運動を始めた。彼らはマレー人の貧困問題を中心に社会的な公正さ,汚職行為の撲滅などを求めた。さらに,この運動は公務員を中心とした都市住民の間に拡大していった。その中心的な役割を果たしたのが,アンワルが率いるマレーシア・イスラーム青年運動(Muslim Youth Movement of Malaysia / Angkatan Belia Islam Malaysia:ABIM)であった。イスラーム復興運動グループはこのほかにもアルカム・グループ(Darul Al-Arqam)などの諸勢力の結成を見て,都市部を中心にマレー人社会内部で大きな運動となっていった。  さらに1979年のイラン革命の成功は国内の既存のイスラーム政党・汎マレーシア・イスラーム党(Parti Islam Se-Malaysia; PAS)を活性化させ,70年代末にエジプト留学から戻ってきた若手ウラーマー・グループが党の主導権を握ることによって,一層活発化してきた。  このように国内要因・国外要因双方からの刺激を受けて活発化したイスラーム復興主義運動の台頭に直面し,UMNOはマレー人社会内でマレー人の価値として重要な意味を持つイスラームを巡ってその正統性の危機を迎えることになった。  こうした状況のもとで,1978年以降UMNOは積極的にイスラームの擁護者であることを明確にし,「世俗国家」という枠組みを守りつつもイスラーム的価値の促進をマレー人社会に訴える政策に転換した。さらに,1982年3月にはマハティールがABIM会長であったアンワルに積極的に働きかけ,入党に導いた。  マハティールはアンワル入党にあたり、ABIMが主張していたイスラーム銀行およびイスラーム国際大学の開設,さらには国内治安法(ISA)の改正要求を受け入れた。これによりABIMの他の指導者の政府ならびに与党への参加を促しーいわゆるUMNOのアビム化(Abimitaization)ー,その支持勢力の取りこみに成功した。このことによってUMNO自身がイスラーム化を促進させ,「イスラームの正統性」を巡りもう1つのイスラーム政治勢力であったPASとの対抗関係を強めることができた。  他方,アンワルはマハティールにイスラーム勢力の支持をゆだね,彼にイスラーム社会の擁護者としての地位を賦与する替わりに,ABIMが主張してきたイスラーム化政策の実現という成果を得ることができた。さらに,アンワルがマハティールを支持を続け,イスラーム勢力からの間接的な支持を継続することによって,逆に党内基盤の弱かったアンワルは総裁・マハティールからの支持を得ることによって,その後見のもとで権力基盤を固めることができた。こうして両者は,イスラーム勢力の台頭を背景としていわばパトロン・クライアント関係を結んだということができよう。

(2)1993年副総裁就任時の権力関係
 1980年以降,マハティールはイスラームの擁護者であるUMNO総裁という立場から,積極的にイスラーム化政策を促進する立場をとった。マレー人社会の擁護者であることをその正統性に置くUMNOにとって,マレー人社会を統合していく最大の論理がイスラームとなった。  こうした状況は,アンワルの党内での立場を強めればこそ弱めることはなかった。アンワルは引き続きマハティールの支持,さらには若手グループからの支持を得て,閣内,党内でそれぞれ農業相(1984〜86)教育相(1986〜91),蔵相(1993〜98),次席副総裁(Vice President,1987〜1993)と重要なポストを歴任していった。  両者の関係に大きな変化が生じたのは,1993年のUMNOの年次党大会における副総裁(Deputy President)選挙である。この選挙でマハティール総裁・ガファール(Ghafar Baba)副総裁という現体制の維持を望んだマハティールに対し,アンワル支持グループが副総裁ポストにアンワルを擁立させる動きを強め,党内に世代交代の動きが強まった。最終的にガファールは副総裁への立候補を断念し,アンワルが無投票で副総裁の地位を獲得した。  紙幅の関係上この選挙の詳しい政治過程は別項に譲るが,重要な点は次の3点である。
 第1にはマハティールとの関係である。アンワルは副総裁選に最終的に出馬を決定するにあたり,マハティールが「中立宣言」を発表し,アンワルの立候補の黙認(1993年6月)することを待ちつづけた。このマハティールの黙認方針が明確にされて以降,マハティールを強く支持するグループ(いわゆるマハティール側近グループ)がアンワルへの支持を決め(1993年8月),党内の大勢は決まった。つまり,この過程ではっきりしたことはアンワルの副総裁という地位は,マハティールへの忠誠の見返りから得られるマハティールおよびその側近グループからの支持をその基盤の1つとして成立したことである。
 第2には,アンワルの直接的な支持基盤は選挙戦を通じて,党内第3のポストである次席副総裁候補者連合〔いわゆるワワサン・グループ〕と青年部を中心とする若手グループという2つの核からなる若手グループが構成されたことである。彼らが掲げたスローガンはワワサン−2020年ビジョンを意味するーという言葉が象徴するように「世代交代」であった。
 第3は,こうした若手グループの台頭によって押し出されるようにして立候補したアンワルは,結果的にガファールに代表される長老グループとの激しい対立関係を生じたことである。
 この結果,党内はマハティールおよびその側近グループ,アンワルとアンワルを支持するワワサン・グループと青年部,さらに長老派グループとに大きく4つの核ができたことになる。

(3)経済危機発生時点までの権力関係
 1993年以降の時期において重要な点は,マハティールとアンワル自身が対立関係にあったというよりも,アンワルを支える若手グループの世代交代への強い要求がマハティール本人,あるいは彼の側近グループとの間に対立関係を生じさせていたことである。両者の間では代理紛争を思わせる事態が相次いだ。  しかしながら,マハティールは経済危機発生以前の1996年までには党内基盤の再構築に成功した。マハティールは大きく2つの方法で党内基盤の再構築を図った。第1はその総裁・首相に賦与された人事権を活用し,アンワル支持グループの分断化を図った。特に93年当時アンワル擁立を支えた次席副総裁候補連合(いわゆるワワサン・グループ)の切り崩しに成功し,同グループは事実上消滅した。さらにもう1つの核であるアンワルの側近グループに関しても主要なメンバーを州政府から離し,連邦レベルの閣僚に据え,地方での影響力を削減した。第2には1987年にUMNO総裁選挙でマハティールと争い,最終的にUMNOを分離させたグループ(マレー人46年精神党〔Parti Melayu Semangat 46〕)の復帰にも成功した。  さらに,1993年以降マハティールが進めたスルタンの権限に関する州憲法の改正作業によって,結果として汎マレーシア・イスラーム党(PAS)はマレー人46年精神党とのクランタン州・連立政権を解消し,相対的に政治的な影響力が減少した。またアルカム・グループもまた政府の手によって非合法化された。こうした結果,PASはクランタン政権を維持しつづけているものの,マレー人社会内部ではイスラームを巡る争点が従来よりのその比重を落としたことになる。  こうした党内・外に於けるアンワルを巡る政治環境の変化は,副総裁として権力基盤が3つの要素に依存することになる。  第1に,マハティールへの政治的忠誠の表明である。UMNO・マハティールにとって脅威であった党外に於けるイスラーム勢力の地盤低下は,イスラーム運動の指導者としてのアンワルの政治的影響力を弱めるものである。したがって,アンワルはマハティールへの政治的忠誠によってその見返りとしてもたらされる後見がより必要となってきた。イスラーム勢力への対抗としての役割に替わり,アンワルの権力基盤の維持に重要な意味を持つのが大蔵大臣としてのキャリアであった。既に見てきたようにアンワルは経済関係閣僚経験がほとんど無い。したがって,経済政策能力を内外に示すことがアンワルにとって第2の重要な権力基盤となっていた。  これらマハティールに関係する権力基盤の一方で,第3の権力基盤としては93年以降引き続き,党内における若手グループ特に青年部がアンワルの有力な支持基盤となっていた。

3.アンワルの経済政策の重点−マハティールとの比較においてー
 イスラーム勢力の台頭という外部要因,若手グループの支持という党内要因によってその権力基盤を構築してきたアンワルが,経済政策の面ではどのような特徴を持っていたのであろうか,この点について検討してみたい。特にマハティールとの比較を行うことで,その潜在的な対立要因を明らかにすることができるであろう。  1990年に新経済政策(NEP)が終了し,その後継政策である国民開発政策(National Development Plan 1991〜2000:NDP)さらにはマハティールの国家構想である2020年ビジョン(Vision2020)など長期計画が1991年に相次いで公表された。
 マハティールはこれらの長期計画の中で,@工業化の促進による経済水準の向上(10年ごとの所得倍増計画),A工業化の過程でマレー人企業・経営者の育成の促進,B経済成長を達成する過程で非マレー人社会からも諸資源を動員を可能にするために種族間協調政策の促進(「マレー人国民意識の創出」)などを柱とした(鳥居〔1998〕,pp.10-15)。   一方副首相兼大蔵大臣としてアンワルもまたNDPやその実行計画である「第6次」および「第7次マレーシア計画」で独自色を出し始めた。それぞれの方向性が明確になるにつれ,両者の政策の力点が微妙に異なっていることがわかる。両者の政策の重点を整理したものが図1である。

   言うまでももなく,両者はUMNOの指導者として,第1に経済成長路線を通じたマレー人の経済的地位の向上,第2にはイスラーム化の促進,という2つの柱にその正統性においている。  しかしながら,両者はこの2つの柱の中でそれぞれ異なった政策に重点を置いていたことがわかる。まず,マレー人の経済的地位の向上について見ると,アンワルが所得分配の不平等性,特に貧困問題を重視し,社会的公正を重視していたことをあげる必要があろう。一方マハティールの場合,従来より一層の工業化の促進を重視している。具体的にはこれまで成長の牽引車であった輸出型の電子産業に加え,自動車・自動二輪車など輸送機器産業,航空機・宇宙産業,通信・情報産業などを戦略的な産業と位置付けている。また,工業部門の課題であった産業間・産業内リンケージを構築・強化などを柱とする工業化政策を打ち出している。  特にマハティールの政策の重要な点は,これらの工業化のプロセスにマレー人企業家・経営者の育成(計画書上では”ブミプトラ商工業コミュニティ”Bumiputera Commercial and Industrial Community:BCICと表現される)目標を同時進行で達成しようとしている点である。彼はNEPの時期とは異なり,NDPのもとではマレー人の経済的地位の向上に関して,資本や労働の再分配政策ではなく,マレー人自らが企業を起こし,企業家・経営者となることをきわめて重視している。  他方アンワルの場合,経済成長路線を通じたマレー人の経済的地位の向上という大目標には同意するものの,その政策の重点は所得分配問題,特に貧困層に対する政策を重視していた。具体的にはNDPで打ち出された「極貧世帯除去目標」である(Malaysia〔1991〕,P.4)。こうした方針は1991年のUMNOの中央党大会でアンワルの主導のもとで導入が図られた政策である。彼もBCIC目標の促進を主張するものの,工業化政策における企業家経営者育成というより,その比重は農村部における農村加工型工業や中小規模企業の育成に重点がおかれている。  第2の柱であるイスラーム化の促進についても,やはり両者の間には違いが見られる。マハティールは基本的にイスラームとマレー人社会を同一視し,イスラームをマレー人社会を統合するロジックとして用いている。特に2020年ビジョンにおいて彼が掲げた「マレーシア国民意識の創出」という政治目標はマレー人社会から見れば,マレー人社会の政治的優位性を脅かしかなない論理である。このためにマハティールは,マレー人社会に対してはマレーシア国民意識の下位概念としてイスラームに基づくマレー人社会の団結を強調する立場を取る。換言すれば,マハティールにとってイスラームはマレー人社会と非マレー人社会とを峻別し,マレー人社会をまとめ上げる武器となる。さらにはこのイスラーム化の柱であるイスラーム銀行制度も開発資金の広範囲な調達という側面を否めない。  他方アンワルはマレー人社会=イスラーム世界という宗教と種族グループの一様化という立場を取らず,基本的には普遍的なイスラーム世界を強調する。したがって,彼にとって重要な政策は普遍性を持ったイスラーム世界が非イスラーム世界と共生しうることを強調する立場を取りつづけることになる。

4.アンワルとマハティールの対立ー1998年6月UMNO党大会の検討ー

(1)ザヒド青年部長・アンワルの批判
 経済危機発生以降,マレー人企業救済策を巡って,UMNO内部で対立が見られ,98年1月末にはアンワルが「ネポティズム」「クローニズム」,「汚職」の追放を明言し始めた(注13)。特に3月にマハティールの長男が株式の51%を保有しているコンソーシアム・プルカパラン社(KPB)傘下の複数の企業から株式と船舶などの資産を政府系公企業が購入することを公表し,事態は深刻さをました。.  最も表面化したのは中央大会に先立ち開催されたUMNO青年部大会(6月18日)の場において,ザヒド青年部長が展開したクローニズム、ネポティズム批判であった。マハティールを名指しこそしなかったものの,この演説が意味するところは明らかであった。しかも,このザヒドの演説はアンワルの指示で行われたものであった。   さらに引き続きアンワル自身は青年部及び婦人部合同の中央大会で行った演説の中で,今回の経済危機が対外的な要因であることを認め,国際経済システムを変革する必要性,マレーシアがその変革を進める上で主導的な役割をとっていくことを主張した上で,しかしながら「国内もまた変化しなければならない」と改革の重要性を強調している。

  「UMNOはいつも(創設者)ダトーオンの改革の精神を実行してきた。    (中略)改革をしなければマレー人は後塵をはいする民族となり、歴    史のページの中に忘れ去られてしまうであろう」(1998年6月18日演説)

 この演説の中でアンワルは,改革あるいは改革者という表現を何度となく用いて,自らがその先頭にたつことを匂わせている。ここでいう改革が何を具体的に意味するかは定かではない。しかし,この党大会に先立つ6月10日にアンワルは1つの具体的な改革を大蔵大臣として打ち出している。それは州政府が実施している農村部における道路開発プロジェクトにおける「アンブレラ方式」の新規契約の停止措置である。  道路開発プロジェクトにおけるアンブレラ方式とは,1つの企業が州政府からの主たる受注業者となり,この親会社(アンブレラ企業)の下に中小規模の建設業者に対して業務を委ねる方式である。この方式でマハティール政権が現在政策の重要な柱にしているBCICを育成することに目的がおかれている。  アンワルはこのアンブレラ方式に関して「システムはよいが実行過程において、その契約が公正ではない」として新規分に関して契約を停止した。 つまり,アンワルの行動が意味することは[マレー人企業家育成]というUMNOの正統性にかかわる政策に関しては賛意を表明しながら,その実行過程が[公正さを欠いている]とマハティールにメッセージを送ったことになる.  これら一連のアンワルの「改革」の主張とザヒドのネポティズム、クローニーズム批判の動きは、マハティールに対してアンワルの彼への忠誠に対する疑いと対立を産みだし、促進させる結果になったであろう。

  (2)アンワル批判の動機
 これまで検討してきたアンワルの権力基盤,経済政策などから考えて,アンワルがクローニーズム,ネポティズム批判に踏み切った理由としては3つの要因が考えられる。  第1に彼のABIM時代の主張や経済政策の重点からもわかるように,アンワルは経済政策運営にあたり社会的公正さ,貧困問題を重視していた。この点から見れば,マハティールがマレー系の大企業を中心とする救済を行うことはアンワル自身の不満を募らせることになったと考えられる。  第2には一連の批判はアンワルの最大の支持母体である青年部が主導し,世代交代を進める上での最大の政治的武器として準備を進めてきたことである。ザヒド演説は,唐突に6月の大会に提出されたものではなく,それに先立つ4月の青年部主催の会議や6月7日の経済フォーラムなどで段階を踏まえて提出されたものである。したがって、青年部内ではかなり賛意を得ていたものである。 さらに,この6月の党大会と会い前後してNEACの成立によって次第に経済運営の実権がダイム・マハティールによって掌握され始めてきたと考えられる。このことは経済閣僚として,その能力を示し新しい権力基盤にする必要があったアンワルにとっては,きわめて政治的に難しい立場に置かれたことになる。

(3)マハティールの反撥と対応
 では,今回のアンワルの批判がマハティールと対立を生じる理由について検討する。
 マハティールにとって今回の経済危機は2つの点で危機,と認識されていたと考えられる。第1の危機が先に触れた「新しい方法による植民地支配」による「独立国家」に対する危機である。  第1の危機を根底におきながら,マハティールは6月の党大会で新しい危機認識を表明した。それは今回の経済危機に対する処方箋として、新経済政策(NEP)に代表されるマレー人優遇政策の成果を「クローニー・エコノミー」とマレー人社会が批判し始めたことに対する危機感である。しかも,こうした動きはアンワルやザヒドなどUMNO内部のみならず,98年5月以降は学生を中心にマレー人社会内部でもクローニ−批判に同調する動きが見られた。  マレー人社会内部からの批判の動きは,3つの意味でマハティールにとって受け入れ難いものであった。第1にそもそもNEPはマレー人社会の擁護者を任ずるUMNOの根幹ともいうべき政策である。NEPの実施により,政府の保護の下でマレー人に対する就業,就学,公共事業などの「結果の平等を重視する方針で」機会が他の種族グループに比して多く与えられたことは衆知の事実である。こうした政策の受益者をクローニーと呼んで批判することはUMNOの正統性に対する危機を意味するからである。  第2はアンワル・ザヒドの演説による批判がマハティール個人に向けられていたことである。この青年部がマハティールの子息が関与する企業に対する政府の救済策を「ネポティズム」と批判していたことを考えれば,その狙いは明白であった。しかしマハティールか見れば,ザヒド自身もまたこのNEPや民営化政策の下での受益者となっているにもかかわらず,今回批判したことをマハティールは容認し難かったのであろう。   第3に,こうしたクロニー・エコノミーに対する批判は裏を返せば,それを廃止する方向への改革の要求でもある。そのことは当面はアメリカが主導する市場原理の促進を意味する。これまでマハティールが主張してきたことは,マレーシア型の経済発展の道筋であり,市場主義の経済運営に対する反論であった。この点に関し,いわば『内なるグローバリズム』という形で批判されたことは大きな反撥を持って受け止められた。  マハティールの対応はすばやく,結果的には彼が中央大会当日公表した民営化プロジェクト(285件)受け皿企業及びその株主,またブミプトラに対する株式の特別割当制度の受益者リスト(1993年から97年まで163社分)などNEP実行過程における株式取得者に関する詳細なリストが公表したことによってUMNO内の批判の声は鎮静化していった。このリスト公表は、批判者(ザヒド)自身が受益者であったことを明らかにし,その批判の正統性を否定したことに加え,UMNO党員及びマレー人社会に対しUMNOがその実質的な擁護者であることを再認識させる2つの効果をもっていた。

おわりに:アンワルの政界追放から政治危機へ
 アンワルを政界から追放し,またUMNO内部の批判の鎮静化に成功したマハティールが,なぜ強権を持ってアンワルの逮捕に踏み切ったかについて考察するには,現段階ではあまりにも情報が偏っている。  推測されることは,アンワルに対する国内・国外での支持の高まりに対する危機感をマハティールが過剰に感じ取ったことである。経済危機の中で「緊縮財政・高金利政策」というIMF型の政策を主導する立場にあったアンワルに対して,国際社会ならびに国内の経済官僚・経済界から待望論が強く出ていたこと,さらにはABIMの指導者であったことからくる国内における潜在的なアンワル支持勢力の堅固さを考えたのであろう。その際にマハティールの行動を決定する大きな要因は1987年から10年間に及ぶUMNO分裂の経験から党の分裂を回避することが大きな動機となっていたであろう。  政治上潜在的に脅威を持ったアンワルという政治家に対し,与党勢力の分裂なしに,しかもイスラームに敬虔であるという彼の正統性を否定する形で,その影響力を阻むこと,これがマハティールが考えた戦略であったのではないだろうか。  今回の経済危機から政治危機に至る過程は,マレー人社会の階層分化,マハティールの統治スタイルの本質,経済官僚に対する政党の圧倒的な優位性など非常に多くのマレーシアの本質を露呈したことになった。その中で、新経済政策,特に民営化政策によって急増したマレー人企業家と政党,政治家の関係の構造的な解明がマレーシアの政治・経済分析できわめて重要な鍵となるであろう。  他方、アンワルを支持グループが社会正義を掲げ改革運動を継続しようとしている。大きな柱は民主主義原理の尊重(国内治安法の改正を含む)と経済的公正の実現である。この”改革”を共通の目標としてアンワル支持グループとイスラーム政党(PAS),さらには華人系野党・民主行動党(DAP),イスラームグループなどに共闘の動きが見られる。注目されることは,こうした運動が種族グループの境界を越えた改革の成果を生み出すことができるか否かという点である。従来こうした種族を超えた政治運動はマレーシアでは成立しない,というのが一般的な理解であったが故に,きわめて注目される動きである。

(注)本報告は報告者が既に公表した論文の一部要約版に基づいている。    参照・引用される際には以下のフルペーパーを参照されたい。    鳥居高「マレーシアの経済・政治危機と統一マレー人国民組織(UMNO)   −アンワルイブラヒムを中心にー」(財団法人:日本国際問題研究所編「ASEAN    諸国の危機認識と地域協力」(中間報告)平成11年3月)