シンポジウム
「イスラームとフェミニズム」


イスラーム地域研究・1−Aグループ
シンポジウム報告

9月26日(土)に、「イスラーム地域研究」1班、3班合 同で、第1回「イスラムとフェミニズム」が開催されました。

「イスラームとフェミニズム」第1回シンポジウム 報告書

日時:1998年9月26日(土)13:00ー18:00
会場:東京大学文学部アネックス 第一会議室
司会:小杉 泰
プログラム

13:00-13:30
基調講演:岡真理「イスラームとフェミニズム――それが提起する問題と可能性について」

 パネルディスカッション(報告は各25分,質疑応答5分)

13:30-14:00
中西久枝「『イスラム的フェミニズム』はあるか――イランを事例に」

14:00-14:30
Rezrazi Mustafa:The gender issue from an islamic point of view - the feminist islamic literature as an emerging area in women studies-

14:30-14:45 コーヒーブレイク

14:45-15:15
川橋範子「宗教とフェミニズム――ポスト家父長制仏教の語りをめぐって」

15:15-15:45
大塚和夫「二重の<差異>に面して――日本人男性人類学者がアラブムスリム女性を語ること」

15:45-18:00
パネルディスカッションおよび自由討論

各報告と質疑応答

基調講演(文責 岡真理)
「イスラームとフェミニズム それが提起する問題と可能性について」(岡 真理)

 イスラームもフェミニズムも決して自明ではない。「フェミニズムにおけるイスラ ーム」とか「イスラームにおけるフェミニズム」と言うとき、イスラームおよびフェ ミニズムを何がしかのものとして定義せざるを得ないが、イスラームもフェミニズム も所与のものではないなら、これらの概念が定義され、その定義がある種の正統性を もって流通するとき、そこにいかなる権力が発動しているのか。このとき、「イスラ ームとフェミニズム」について論じる、私たち自身もまた不可避的かつクリティカル に、その問題構制の一部を構成している。現在、世界的に論議されている、ポストコ ロニアル思想のダイナミズムのなかで、日本と世界の思想的状況に対する批判的介入 につながるフェミニズムとイスラームとはいかなるものだろうか。

 イスラーム世界の多くをしめる、いわゆる第三世界の女性たちにとって、当該社会 の家父長制だけでなく、グローバルな経済構造もまた不可避に、彼女達の問題の主要 な部分を形成しており、男性を女性の抑圧者として無条件に位置づけるようなある種 のフェミニズムの見方は、彼女たちにとって、帝国主義的策謀以外のなにものでもな い。「フェミニズム」に植民地主義的なモメントが内包されているとすれば、イスラ ームにおけるフェミニズムを考えるとは、当該社会におけるジェンダーだけでなく、 そうした植民地主義的なフェミニズムのあり方も考察されなければいけない。

 これまで男性宗教者たちによって専有されていたイスラーム解釈ではない解釈の可 能性を女性自身が直接、聖典にあたることで探ろうとする試み(聖典のフェミニスト 的解釈)がある一方で、非ムスリム社会のアラビア語ができない「フェミニスト」宗 教学者によって、イスラームの家父長制なるものが一刀両断に弾劾される。イスラー ム世界のムスリム女性の主体構築が、社会内部のジェンダー関係だけでなく、他の社 会における女性のフェミニスト的主体構築と不可分のものとしてある、ということを 例証している。「イスラームとフェミニズム」について私たちが語るということそれ 自体が、実は、「私たち」の主体構築のプロセスでもあると言えるだろう。

 岡の報告に対して、宮治美江子氏より、第三世界の女性たちの避妊をめぐるプロジ ェクトに関して、北による南の人口抑制という抑圧的側面が強調されることで、当事 者の女性たちのエージェンシーを過小評価する危険があるという旨の指摘がなされた。

  中西報告(文責 中西久枝)
「イスラムとフェミニズム――イランを事例に」
(光陵女子短期大学 中西久枝)

 本報告は、革命後イラン、特にポスト・ホメイニー期に焦点を合わせ、イランにお ける「フェミニズム」の概念の受容の問題について、その特質と今後の研究への課題 を提示した。立憲革命期に起源があるイランの「フェミニズム」が、イスラムとの連 動性で議論されたのは、1979年の革命後のことである。革命直後「フェミニズム 」は、イスラムと対極にある「西欧かぶれの産物」とされており、女性活動家の言説 には「フェミニズム」の概念はなかった。しかし、ポスト=ホメイニー期の現在、復 活している点は興味深い。

 革命後、体制側の解釈する「イスラム」的論理に対抗する形で、女性活動家たちは 、女性の権利擁護をイスラムの再解釈を通じて打ち出し始めた。こうした運動は、こ こ数年西洋では「イスラム的フェミニズム」と呼ばれているが、この捉え方には疑問 がある。この問題を「イスラム」と「フェミニズム」の二つの概念を軸に検証すると 、以下の点が明らかになる。

 第一に、ポスト・ホメイニー期の女性の権利擁護にはさまざまな潮流があり、すべ てが「イスラム」の枠組みからおこってはいない。例えば、イスラム改革主義路線を とる女性運動家たちは、「人権」や「市民権」といった西洋的な概念を取り込んだ上 で、それをコーランにおける男女平等の思想と接点を保ちつつ、権利の拡大を要求す る議論を展開している。第二に、ポスト・ホメイニー期の現在、女性運動活動家が受 容している「フェミニズム」は、西洋のそれとは異なることが強調されている。また 、女性運動家たちの獲得目標や革命後獲得した権利の内容をみると、必ずしも革命後 のイスラム化政策の過程で喪失した権利の復活ではない。また、男女の「平等」を唱 え、女性活動家と連携して体制批判をしていく改革派ウラマーも出現している。イラ ンの女性運動活動家が打ち出す「平等」「自由」「公平」といった概念が、どのよう にイスラムの枠組みからおこっているかを分析するのが、今後の課題である。

レズラージー報告(文責 エルモスタファー・レズラージー)
Feminism and Islam: some epistemological questions
Rezrazi El.Mostafa, Ph.D The University of Tokyo
JSPS Post Doctor Researcher, Tohoku University

In this presentation, three epistemological problems have been raised:

1- The differences that exist between three fields of research; women studies, gender studies, and feminism studies. The women studies deal mainly with monographic surveys in each society and link their interest to the role, the position, the status and the functions of women in one limited field or area ( family , labor, state, school, tribe, work,etc....). Gender Studies are widely related to the women status and women`s image from the viewpoint of her gender as female. However Feminism studies seem to be an updated, a ctivist/ academic as well as social reaction towards the non-equal status and conditions of the women as a female as well as asocial actor in human societies.

For these reasons, the strict definitions for each concept seems to be required.Differences between Labor movement and Protelariat movement are a very useful case of reflexion.

2- The Feminism and the Oriented approaches - Secularism vs Islam- :

If the origins of Feminism movements in the western societies came to exist as a result of a certain cultural, social, economic as well as ideological traditions, in the Middle Eastern societies, Feminism was born in different conditions which belong to the Existence of Islam, to the Existence of domina nt paternal values , and tp the historical conditions that colored social movements since the beginning of this century ( the Inter-dependencies that existed between National Liberation movements and Religious reformist movemen ts against Colonialism and Istibdad). These specific situations had reduced the secular character of the movement of Women liberation as was named until the 50's of this century “ Harakat Tahrir al-Mar`at.”

After Independence, Feminism took a new route by being influenced by the new tendencies of Arab communism and student movements. Now Islamic movement emerged as a political power as well as a social movement, and shows her discourses about the women`s equality in a similar way other feminist m ovements did. That's why academic reaserch could not exclude any colored discourse which identify themsemves.Connections between Feminism and Liberal/Secular thought became nom over-passed.This issue manifested clearly in the debates of both Islamic Feminists and Secular feminists about the Woman`s Body Image and the Public Street. For the first group, The promotion of Islamic dress as a means of affirming an ethical behavior against the sexually, anomic integrated world, and it is also a safety for the women from" the promotion of her body" as a sexy production to the Master/The Man. however, the Secular Feminist discourse considers the Veil and the Islamic dress as an extending to Men`s dominance . In this presentation, I introduced the work of the famous Islamic activist Ms. Zaineb al-Ayam min Hayati, in addition, to some new-borned organizations in North African Area, who promoted themselves as “Islamic Feminist Movements” such as Harakat al-Mar`at al-Muslimat bi al-Jazayir, al-Jam`iat an-Nisaiyali al-`adl wa al-Ihsan.

3-The Question of Feminism from an International viewpoint :

The third question deals with the Status of Feminist groups in developing countries. The problem raised in this presentation deals mainly with the International sponsorship of Feminist groups as NGO, and in many cases, those groups moved from the status of Social movements to the status of International pioneers who hold behind the financial support, a whole agenda prepared by the Patrons of International Aids who introduced their agendas for "development &assistance". ”.Feminism is so human in essence , however, this challenge might have it integrated Feminist moveme nts as N.G.O in the system of so called the prestigious minorities.

川橋報告 (文責 川橋範子)
「宗教と女性−ポスト家父長制仏教の語りをめぐって」(名古屋工業大学 川橋範子)

 宗教と女性の関係について書くこと・語ることにはある種の困難がつきまとう。こ れはフェミニズム研究が宗教あるいはスピリチュアリティーを軽視し、さらに宗教研 究がフェミニズムを正しく承認していない、日本の学問的状況にも帰因すると思われ るが、それだけではない。近年、「宗教とは女性の主体的自己決定を阻む、女性抑圧 の政治的道具であり、最終的に女性を家父長制に従属させる」という評価がオーソド キシーになりつつある。たしかにほとんどの伝統宗教には否定的な女性のステレオタ イプが存在するが、宗教と女性研究のゴールが、単に宗教の中の家父長制と女性忌避 の証明と、その暴力性の糾弾に終始しないのは当然のことである。しかしながら現在 の宗教と女性研究は、宗教の性差別性の批判を必ずしも最優先事項としない立場が即 家父長制的宗教の擁護あるいは差別の隠蔽に加担していると誤読される、解釈学的困 難に直面しているといえよう。

 「宗教イコール家父長制イデオロギー」という支配的見方とは別に、宗教が女性の 主体にもたらす肯定的な側面を探ることもまた可能なはずである。ところがイスラム と女性、あるいは仏教と女性の関係を語るとき、前途のリダクショニスト的誤読はく り返し現われる。

 必要なのは、反植民地主義の名を借りて土着の家父長制を温存しようとする言説で も、普遍的人権論の名のもとに、第三世界の女性を啓蒙しようとする帝国主義的フェ ミニズムの言説でもない。この両方のはざまで語る権利を剥奪され、不可視の存在で あった女性たちが自らの宗教的主体について語ることを可能にさせる道が求められて いる。このどちらの語りにも回収されない新しい語りが必要なのである。(なお、発 表の詳細は川橋範子、熊本英人「弱者の口を借りて何を語るのか−仏教界の『女性の 人権』の語りをめぐって」『現代思想』1998年6月号を参照されたい。)

大塚報告(文責 大塚和夫)
「二重の<差異>に面して--日本人男性人類学者がアラブ・ムスリム女性について語ること--」(東京都立大学  大塚和夫)

 まず、私のポジションを自己申告しておきたい。もし、フェミニズムを「政治」運 動的なものであるとすれば、私の関心は、いちおう「非政治」的な文化的な他者理解 ・認識としてのジェンダー研究にある。(とはいえ、今日本当に「非政治」的な立場 などありうるのだろうか。後述。)また、一人の日本人男性人類学者としてアラブ・ ムスリムの女性について語る場合、そこには支配的な差異として「日本/アラブ」お よび「男性/女性」という差異があることを意識している。とりわけ、ジェンダー間 の生活空間の分離が比較的厳密なアラブ社会では、男性観察者が女性インフォーマン トに直接接触する機会はかなり限定されている。このことも「支配的な差異」をいっ そう強く意識させる要因となっている。

 だが、このような支配的な差異は、さらに差異化することができることも忘れては ならない。例えば、「日本人」や「アラブ」であるということは、国籍、民族(エス ニシティ)、居住地、言語、政治連合体、宗教・宗派、などのさまざまなレベルでさ らに差異化することができる。さらに男性/女性という対立の内部にも、実は、セッ クス・ジェンダー、国籍・民族・人種、階級・階層、学歴、クイアその他の差異を抱 えている。これらを忘れた日本/アラブの差異の強調は、これらの2つの項目を「本 質主義化」する危険性を招く。

 さらに補足的な差異として、読み書き能力の有無といったサバルタン問題や、民族 誌における使用言語(日本語および英語の「権力」性)と「聴衆」の問題その他がある。

 また、研究者の志向性として、実証/表象、経験/言説、フィールドワーク/テク スト分析といった差異も考慮されるべきであろう。例えば、サイードの議論は「言説 の表象」あるいは「表象の表象」を扱っていると思われる。それに対し、人類学者と しての私が目指すのは、あくまでも「経験の表象」ないし「実証の表象」である。

 人類学の「政治性」についても補足しなければならない。人類学者は、フィールド における彼・彼女らの「運動」に対し十分な距離をとるべきなのか、それとも積極的 に連帯するべきなのか。私個人としては前者をとるが、しかし、フィールドワークそ のものが彼・彼女らの「生活」への「介入」であることは認めなければならないと思 う。その意味で、私が「アラブ・ムスリム女性」を語ることは、いやおうなく<政治 性>を帯びることになるだろう。私としては、彼・彼女らとの会話(conversation) ー対話(dialogue)ではなくーを通して彼・彼女達の生活に関する<民族誌>を書く ことには意義があると考える。それは、ポストモダン的な自己閉塞性を越えていく一 つのやり方であると思う。

全体討論と総括 (文責 中西久枝)

 岡氏から、大塚報告と川橋報告に対して、「対話を越えて、差異の差異化を行う」 (大塚報告)ことが逆に、植民地主義の問題そのものの本質にふれないという形で働 く場合の問題性、また、自分の発話のポジションを自分でわかるかどうかという問題 、アイデンティティーと発話の主体とは必ずしも一致しないのではないかという問題 、さらに、他者表象の暴力と自己表象の暴力を認識したうえで、他者によってしか表 象されないものも存在するという問題をどう考えるべきか(大塚、川橋報告へ)、な どが問題提起された。

 大塚氏からは、他人が自分をどのように表象するかという問題は別の次元の問題と して考え、自分のポジショニングを自ら明確にすることはできると考える、また、文 化人類学者としての自分のスタンスは、大文字の「語り」ー例えば「帝国主義」とい う言葉ーを使わずに、帝国主義的な状況をフィールドデータで語るということも可能 ではないかと考えるというコメントが出された。

 また、川橋氏からは、「サバルタンと弱者の女性はイコールでなない」という岡氏 による捉え方は重要であり、今後もこうした問題を考えていきたいと考えるが、一方 で語ることができない者を語れる者が表象する行為のなかに存在する、ある種の優越 性は看過できず、川橋氏が関わっている仏教界の女性運動の場では、女性たちが自己を 表象し、語る権利をとりもどすことが重要であるとのコメントが出された。

 会場からは、中西報告に関しては、イランのフェミニズム運動を捉える上で、アル ジェリアの女性運動や市民運動と比較して考えてみると接点が見い出せるのではない かというコメントと、ウラマーのなかに女性運動と対話している層が出現したことの 重要性の指摘(宮治美江子氏)、イラン憲法における男女「平等」の記述(小林寧子 氏)、ペルシャ語の「自由」という概念について(森田豊子氏)などの質問が出た。 これに対しては、イランとアルジェリアの女性運動の比較研究の可能性、イランでの 「平等」「自由」という概念が西洋における概念とは必ずしも一致しないことなどを 指摘した(中西)。Rezrazi報告に関しては、モロッコにおけるフェミニズムおける 、性別区分による特質の分類化について質問がいくつか出された。

 全体としては、参加者が30名を超えた盛況なシンポであった。また、フェミニズ ムの問題に内包する「語ること」と「語られること」の問題性などを論じた理論的な 枠組みに関するアプローチと、理論と事例研究を融合させた実証的なアプローチの両 方が展開された点、また方法論としても、文芸批評の哲学、社会学、歴史学、宗教学、 文化人類学など学際的な報告と討論が展開された点は、第一回目のシンポジウムとし ては、実りがあったと思われる。提起されたさまざまな問題は、今後の「イスラムと フェミニズム」の研究会で、個別的なテーマにおとしながら議論していく予定である。

報告責任者:中西久枝
     基調講演文責 岡真理
     各報告の文責 各報告者
     全体討論と総括の文責 中西久枝



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