海外出張報告

by 粕谷 元

海外派遣・調査報告
目的: 現代トルコのイスラーム運動に関する調査
渡航先: トルコ共和国
期間: 1998年7月28日〜8月11日

 今回の出張の目的は、1−aの研究課題「イスラームの思想と政治」の一 環として、トルコのイスラーム運動に関する調査および資料・文献収集を行うこ とにあった。一口にトルコのイスラーム運動といっても、周知のように、現在ト ルコでは様々なタリーカや、タリーカとは区別されるべきジェマートcemaat(宗 教集団)がそれぞれに活発な活動を展開している。そのなかで、今回報告者が調 査対象としたのは、ベディユズザマン・サイード・ヌルスィBediuzzaman Said Nursi(1883〜1960)を開祖とし、現在トルコ最大のジェマートであるヌルジュ Nurcu(「ヌル主義者」の意)であった。

 さて、今日までのヌルジュ研究の問題点として、大雑把にいって次の2点が指 摘できるであろう。一つは、ベディユズザマン・サイード・ヌルスィあるいはヌ ルスィの著作集『リサーレイ・ヌルRisale-i Nur(光の書簡)』に関する思想研 究に比べると、ヌルジュの組織や活動(とくに比較的目立ちやすい政治・経済活 動よりもむしろ宗教的活動・儀礼)に関する研究がほとんど進んでいないことで ある。もう一つは、今日ヌルジュは多くのジェマート(グループ)に分裂してい るにもかかわらず(ヌルスィの死後、ヌルジュは集団指導体制に移行したもの の、政治参加(支持政党・政治家)をめぐる問題、サイード・ヌルスィのクルド 人としてのアイデンティティの問題、さらにジェマートの資金をめぐる問題など が主たる要因となって、とくに70年代以降多くのジェマート(グループ)に分裂 した。現在は30近くのグループがあるといわれ、中でも、新アジア・ジェマート Yeni Asia Cemaatiとフェトフッラー・ギュレン・ジェマートFethullah Gulen Cemaatiが二大グループとなっている。)、思想的にも組織的にも一枚岩のもの として理解されがちなことである。時々ヌルジュの組織・活動について希少な情 報を提供するジャーナリスティックなレポートでは、特に、それがどのジェマー ト(グループ)に関するレポートなのか明らかにされない、あるいは意識されて いないのが普通である。そこで報告者は、今回の出張で、その実態がほとんど知 られていないヤズジュyazicilar(writers)あるいはオクユジュ okuyucular(readers)と呼ばれるヌルジュの一グループを調査対象に選び(たま たま報告者にヤズジュ/オクユジュの知人がいたということもあるが)、アンカ ラ市内のイスキットレリIskitler地区にある彼らのデルスハーネdershane (place of instructionの意。dershaneについては後述)の一つにごく短期間で はあるが滞在して、組織や活動に関する簡単な聞き取りを行った。以下に、デル スハーネ滞在中に得た報告者の見聞の一部を報告する。

 ヌルスィの死からわずか2年後の1962年、ヌルスィの死後直ちに公然と特定政 党を支持し、政治との関わりを深めていった主流派の態度を「(政治から距離を 置いていた)ヌルスィの理念からの逸脱である」と批判し、主流派から分離した のがヤズジュ(オクユジュ)である。彼らはヌルジュにおける最初の分派となっ た。政治活動を敬遠する彼らが代わりに重視したのは、ヌルスィのテクスト、す なわち『リサーレイ・ヌル』の厳格な継承であった。そのため、彼らの活動は特 に『リサーレイ・ヌル』を筆写すること(そのため「ヤズジュ(writers)」と呼 ばれる)、その『リサーレイ・ヌル』を(謄写印刷しかなかった時代には)謄写 印刷によって秘密裏に広めることと、『リサーレイ・ヌル』を読み込む(そのた め「オクユジュ(readers)」とも呼ばれる)ことに原則的に限定されてきた。こ の意味で、彼らはヌルジュのなかの「原理主義派」であるといえなくもないが、 彼ら自身新アジア・ジェマートやフェトフッラー・ギュレン・ジェマートなどと 異なり、マスメディアを通じた広報活動を一切行わなず、また他派に比べると閉 鎖的であるために、その実態はほとんど報告されていないというのが実情であ る。

 報告者が滞在した、彼らがデルスハーネと呼ぶ(ジェマートによってはメドレ セmedrese、さらにウシュック・エヴィisik evi「光の家」とも呼ばれる)施設 は、住居(宿泊)と教育(学習)の機能を兼ね備えたメンバーのための施設であ る。施設といっても、報告者の知る限りこれはアパートの1フラットであり、特 に表札もなく外からは全くわからないようになっている(現在では政府が宗教勢 力に対してかなり寛容になったとはいえ、やはりトルコの世俗的体制下では当然 のことといえよう)。ここで平均して10名前後の大学生、あるいは大学を卒業し たものの無職の者が共同生活を送りながら、日夜コーランと『リサーレイ・ヌ ル』の学習に励んでいる。彼らはジェマートの(あるいはジェマートの裕福な特 定個人の)経済的バックアップにより、家賃、光熱費、食費などを一切負担しな いかわりに、デルスハーネの日常的な管理を行うのである。ところで、デルスハ ーネには大学入試のために上京した受験生が滞在することもあり、こうした点か ら彼らのメンバーのリクルート活動の一端が窺われよう。また、報告者が滞在し たデルスハーネでは、居住者の一人である先輩格の大学生が日中子供達(メンバ ーの子弟が主か?)にコーランを教えていた。デルスハーネの人の出入りは多 い。とくに夕方の礼拝時になれば、どこからともなく人が集まってきて、さらに 礼拝が済むと入れ替わり立ち替わり夕食を取っていく。このような彼らのデルス ハーネは、彼らの話によれば、アンカラ市内におよそ20あるということだった。 ヤズジュがヌルジュのなかで少数派であることを考えると、この数が多いのか少 ないのか報告者には判断しかねるが、ヌルジュ全体でいえば、デルスハーネ(メ ドレセ、ウシュック・エヴィ)がトルコ国内に約2万あるといわれている。

 さて、デルスハーネでは、デルスders(lesson)と呼ばれる『リサーレイ・ヌ ル』の勉強会が夜、ほぼ週2回のペースで、市内各所にあるデルスハーネの持ち 回りで開かれる。アーベイagabey(older brother)あるいはカルデシュkardes (brotherの意。カルデシュについては後述)と呼ばれるリーダーの主催するこ のデルスには、時として100人を越えるメンバーが参加する(他のジェマートで は、会場によっては200人を越す参加者を集める場合もあるようである)。報告 者もこのデルスに参加したが、まず印象的だったのは、ほぼ全員が背広姿で頭に はタッケと呼ばれる白い縁無し帽を被ってたこと、顎髭を伸ばしている者はほと んど見受けられなかったこと、さらに子供から老人まで幅広い年代の参加者が見 られたことであった。また、参加者には中央アジア諸国出身者(主に留学生)が 多いという話を後から聞いた。ナクシベンディ教団のソフベット(談話会)をど ことなく思い起こさせる、熱気に満ちたこのデルスは、休憩を挟んで2時間程続 いた。

 さて、前述のカルデシュkardesに関連して、ヤズジュの組織内のヒエラルキー について簡単に紹介したい。Ursula Spuler女史の1981年の研究は、下位から上 位へ、タレベtalebe(student)─カルデシュkardes(brother)─ドスト dost(friend)─セヴギリsevgili(lover)/ヴァーリスvaris(heir of Said Nursi)というヌルジュ内のヒエラルキーを明らかにしているが、今回の調査の目 的の一つは、このヒエラルキーが現在のヤズジュにも当てはまるのかを確認する ことだった。一般的にいって、彼らは既成のタリーカにおけるシャイフ─ムリー ド関係を否定し、メンバーは皆平等であることを強調して、この種のヒエラルキ ーの存在について語りたがらないが、調査の結果、ヤズジュにも上述のヒエラル キーが存在することが確認できた。そして、現在グループは数名のセヴギリ/ヴ ァーリスによる集団指導体制をとっているとのことであった。実はヤズジュとい う呼称は他称であり、彼らは自らをメシュヴェレト・ジェマーティMesveret cemaati(mesveretは「協議、合議」の意)と自称するが、この自称に彼らのジ ェマートの性格が看て取れよう。ところで、最近彼らのセヴギリ/ヴァーリス が、(もともとオスマン語で書かれているために現代のトルコ人にとって難解 な)『リサーレイ・ヌル』を積極的に現代トルコ語訳すべきというフェトフッラ ー・ギュレンの主張に反対する通達を出したという話を聞いた。これは、あたか もコーランのごとくヌルスィーのテクストを神聖視する彼らの立場を象徴するエ ピソードとして興味深かった。

 今回のヌルジュに関する調査は、極めて短期のものでもあり、報告者にとって 始めの一歩に過ぎないものである。したがって、今後さらに継続して調査研究を 進めていくつもりである。同時に、今回の出張では、ヌルジュ以外のイスラーム 運動に関する資料・文献もある程度収集することができた。今後これらの資料の 分析・紹介も行っていきたいと考えている。

(文責: 粕谷 元)


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