『アフガン、パキスタン、ターレバン』

by 高橋和夫

  [冷戦の遺産] 病気が治癒した後も、使った薬の副作用が残ることがある。国際政治にも似たような現象を見ることができる。冷戦という病気を治療するためにアメリカが使ったイスラム「原理主義」という薬の副作用が目につく事件が多い。   

 1979年末のソ連軍のアフガニスタン侵攻はアメリカを震撼させた。ソ連軍がアフガニスタンから南下してペルシア湾の石油を支配しようとするのではないかと恐れたからである。しかも、その年の初め隣のイランでは、アメリカべったりだったシャーの支配が革命で終焉していた。ソ連軍のアフガニスタン侵攻は、それに続くショックだった。西側のエネルギー源であるペルシア湾岸を制圧することで、ソ連は冷戦の行方さえ左右することができる。1980年の年明け早々にジミー・カーター大統領は、アメリカ上下両院の合同会議で演説し、ペルシア湾岸を支配しようとソ連が試みれば、アメリカは軍事力でこれを阻止すると発表した。世に言うカーター・ドクトリンの宣言であった。石油を守るために第三次世界大戦を辞さない姿勢を鮮明にすると同時に、アメリカはアフガニスタンに入ったソ連軍に出血を迫る作戦を取った。ソ連軍に抵抗するアフガニスタン人を支援し、彼らのゲリラ戦によってアフガニスタンをソ連の「ベトナム」にしようとした。このアフガニスタンのゲリラを支援する上で不可欠だったのはパキスタンの協力であった。アメリカは多額の軍事・経済援助でパキスタンを説得して、ゲリラの後方支援基地の役割を担わせた。

 パキスタンで実際にアメリカがゲリラ支援を始めると、奇妙な事に気が付いた。それはアフガニスタン人以外のイスラム教徒が、ソ連に対するジハード(聖戦)に参加するためにパキスタンに馳せ参じてきたのである。トルコから、アルジェリアから、エジプトから、スーダンから、そしてサウジ・アラビアから若者がパキスタンに到着した。その中にはオサマ・ビン・ラーデンというサウジ・アラビアの大富豪の息子もいた。まだ十代であった。神を否定する共産主義者の侵略の犠牲となったアフガニスタンのイスラム教徒を救えとの声が、イスラム世界全体にこだましていた。特にアラブ世界では、その声は強かった。こうした勇敢な戦士たちは、アメリカにとっては有り難い存在であった。頼まれもしないのにパキスタンからアフガンニスタンに出撃しソ連軍と戦ってくれるのだから。CIAはこうした人々と密接な関係をもった。エジプトから若者を送り出している説教師の一人にオマル・アブドル・ラフマーンと言う名の人物がいた。この盲目の説教師は、1993年3月のニューヨークの世界貿易センター・ビルでの爆破事件の黒幕であったとして現在アメリカで服役中である。

 CIAによって訓練を受けたゲリラは、良く戦った。1989年にはゴルバチョフは遂にソ連軍をアフガニスタンから撤退させた。イスラムの戦士たちの超大国ソ連に対する勝利であった。ゲリラたちの士気は頂点に達した。そして「外人部隊」の帰国が始まった。この欄でもかつて触れたことがあるように、彼らはアフガニスタンでの戦争の経験者ということで母国では「アフガン」として知られる。アフガンが母国で見たものは、貧富の差の拡大、欧米的な生活様式の流入、アメリカの影響力の拡大、そして支配層のアメリカへの屈従と腐敗であった。湾岸危機以降アメリカ軍が常駐するようになったサウジ・アラビアなどでは、特にその感が深い。アフガンたちが今度はソ連ではなく母国の支配層とアメリカに対して立ち上がった。ソ連と戦っているうちは、アメリカにとっては「自由の戦士」であったが、自らの刃を向けて来るようになると、もはや単なる「テロリスト」である。しかしアフガンは、アメリカが自ら育てたフランケンシュタインであり、冷戦の遺産である。

 さて8月のケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件が、ビン・ラーデンの仕業であるとして、スーダンとアフガニスタンにあるビン・ラーデン関連とされる施設をアメリカは攻撃した。報復であった。これ以上アメリカの権益に対してテロを行えば、ただではすまさないぞという警告でもあった。しかし、前例からすると、テロに対するテロは、新たなテロを誘発するのみで、将来のテロの抑止とはならないだろう。1980年代にベルリンのディスコが爆破されアメリカ兵が死傷する事件があった。アメリカは、これをリビアの仕業と断定、報復としてリビアを爆撃した。しかし、その後にリビアが絡んだとの疑惑のある事件が続いた。その中にはスコットランド沖でのパンアメリカン航空機の爆破事件がある。今回の事件の後も、アフガニスタンで働いていた国連のイタリア人の職員が射殺された。また南アフリカでもアメリカ人を的にしてテロが発生している。テロ対テロのサイクルが始まったのかも知れない。

[パキスタンとターレバン] オサマ・ビン・ラーデンを客としてかくまっているアフガニスタンの大半を支配する組織ターレバンを背後から操ってきたのはパキスタンである。アメリカとターレバンが対立することでパキスタンは難しい立場に追い込まれた。この春の核実験以来の経済制裁でパキスタンは大きな打撃を受けた。320億ドルの対外債務の支払いに四苦八苦している状況だ。そのためパキスタンは、この苦境から抜け出そうと外交的な努力を傾けてきた。これまで拒絶してきた包括的核実験禁止条約への加入を考慮する姿勢を示した。またアフリカでの爆破事件の容疑者を拘束してアメリカに引き渡したのもその一環であった。しかし、アメリカを支持すればターレバンが離反するだろう。逆にターレバンを支持すればアメリカを筆頭とする国際社会との関係改善はおぼつかないだろう。まさにディレンマである。

 このターレバンとは、一体全体どんな組織だろう。パキスタンに逃れたアフガニスタンからの難民の内でイスラム神学校で学んだ若者たちが中心の武装組織である。「ターレバン」とはアラビア語で本来は「学生」を意味している。より原語に忠実に書くと「ターリバーン」だろうか。このターレバンに関して、いくつかの特徴が指摘できる。まず、ターレバンは、パシュトゥーン人の組織である。パシュトゥーン人は、パタン人と呼ばれることもある。その総人口は、1500万程度で、アフガニスタンに650万、そしてパキスタンに850万と国境に跨がって居住している。双方の人的つながりは深く、ソ連軍の介入後に多数のアフガンニスタン人が国境を越えてパキスタンに逃れたのは、実はそうした血縁を頼った例が多かったからだ。アフガニスタンは、多数の民族・宗派集団を抱える多民族国家である。そのアフガニスタンで武勇を誇るパシュトゥーン人は、支配者として君臨してきた。しかし1970年代に入ると他のエスニック集団の力が強くなった。共産政権の成立と抵抗運動の開始やソ連軍の侵攻などの過程で、ウズベク、タジクやハザラなどの少数派も武装するようになってパシュトゥーン優位体制が崩れてきていた。ターレバンの軍事行動は、パシュトゥーン人の「復権」運動の側面を持っている。

 第二に、パシュトゥーン人がスンニー派であるので、ターレバンも当然スンニー派である。これはハザラのようなアフガニスタンのシーア派との関係を悪くしているし、シーア派の大国イランとの関係も困難にしている。しかもターレバンのスンニーには、サウジ・アラビアの影響が強い。厳格な女性隔離などで知られるワッハーブ派の影響が見て取れる。元来、保守的であったパシュトゥーンの生活慣習が、これによって神学的な正統性を与えられた。ワッハーブ派の影響力が浸透したのは、対ソ戦争の際にサウジ・アラビアの政府と民間がゲリラへの支援を行ったからである。アフガニスタンの難民の子息の多くが、サウジ・アラビアの神学校へ招待されて留学している。またワッハーブ派の流れを汲む神学校がパキスタンに設立されている。

 このターレバンを支援することで、親パキスタン政権をアフガニスタンに樹立する。そしてえ、このアフガニスタンをルートとして中央アジアとの交通を開く。これが、パキスタンの外交目標であった。パキスタンのインド洋に面した港を中央アジアと国際市場との接点にして、経済的な恩恵と政治的な影響力を確保することを狙ってきた。ちょうどシリアがレバノンを実質上属国化しているように、アフガニスタンを後から操ることで、中央アジアへの扉を開け閉めする立場に自らを置くことができる。そのために陰に日向にパキスタンが軍事力を行使してきたと言われている。パキスタン政府の否定にもかかわらず、パキスタン軍のアフガニスタンへの関与の報道は引きも切らない。またターレバンは航空機などの近代兵器を使用している。この面からもパキスタン軍の支援が無いとは想像しにくい。

 だが、ターレバンの成功がいつまで続くだろうか。確かにこの夏の攻勢で、反ターレバン勢力の最後の拠点マザール・シャリフ市が陥落した。これでターレバンは、国土の9割をその制圧下に置いた。しかし、新たに制圧した地域の大半はハザラ、タジク、ウズベクなどのマイノリティー地域である。マザール・シャリフで多数のハザラがターリバンによって虐殺されたというい未確認報道は、マイノリティーの心を捕らえる度量が宗教的な情熱に燃えた勝者たちに欠如していることを示してはいないだろうか。都市は制圧したものの山岳地域でゲリラ戦が始まるのは必至だろう。目に見える正規軍の撃破は可能でも、目に見えないゲリラの掃討は容易では無い。ターリバンがアフガニスタンの「新しいソ連軍」になってしまうのではないだろうか。

 反ターリバンのゲリラは、周辺諸国の支援を頼ることができる。マザール・シャリフの陥落時に多数の自国市民が拘束されたり、行方不明となったりしたイランは、怒っている。国境地帯で軍事訓練を行って圧力を掛けた。その結果、領事館の外交官9名を殺害したことをターレバンが認めた。イランは逆上している。ターレバンの支配地域から多数の難民が流入することを嫌うウズベクスタン、タジクスタン、トルコメニスタンなども反ターリバン勢力に同情的である。ターリバンにとっての本当の試練はこれから始まろうとしている。

[何処へ行くターレバン] アフガニスタンを制圧したターレバンのエネルギーが、西のイランや北の中央アジアへ流れ込むことを懸念する声が高い。しかし、ターレバンの溢れ出たエネルギーの行方を本当に心配する必要があるのはパキスタンだろう。アフガニスタンの支配が完成すれば、世界でパシュトゥーンの生活空間として残っているのはパキスタンの北西部のみである。ターレバンが次に目を向ける対象だろう。そもそもアフガニスタンでは長年に渡りアフガニスタンとパキスタンのパシュトゥーンを統合してパシュトゥーニスタンという国を作ろうとする運動がある。この運動が再燃する可能性を視野に収めてておく必要があろう。そもそもパキスタンがターレバンを支援した理由の一端も、こうしたした視点から説明できよう。この運動に影響力を保持することでパシュトゥーン人のナショナリズムが、パキスタンに向かわないようにブレーキを組み込んでおくと言う計算があったと思われる。

 しかし、これ程の軍事的な成功を収めたパシュトゥーン・ナショナリズムをパキスタンは本当に制御できるだろうか。ブレーキが働くだろうか。女性を職場と学校から追放すると言う宗教的な「行き過ぎ」によってターレバンは世界で最も女性に評判の悪い政権となった。マザール・シャリフでのハザラ人虐殺疑惑は、人権問題でのこの政権の評判をさらに低下させた。これによってターレバンの国際的な評価が底を打ったと見えた。ところが前述のようにマザール・シャリフでイラン人外交官を9名も殺害したことが判明した。これで、ターレバンには国際法破りの無法者集団とのレッテルがくっつくだろう。ターレバンの評判は底を打ったばかりでなく、その底さえ割ってしまったわけだ。これまでは「無法者」の代表であったイランが、穏健に見えてしまう位までターレバンの評判は下がり続けている。

 こんな状況ではターレバン政権の早期の国際的承認は望めない。しかもアフガニスタンとパキスタン経由のパイプ・ラインを建設して中央アジアのエネルギー資源をパキスタンの港から国際市場に運び出そうとするパキスタンの野望が崩れ去った。このパイプ・ラインに投資を考えていたアメリカのユノカル社が、計画の無期凍結を決定したからだ。直接のきっかけは、アメリカのアフガニスタン攻撃であった。だが、その背景にあるのは、もちろんターレバンのビン・ラーデン保護である。そして、そうした一連の行動に反映されているターレバンの理念であり、その評判の酷さである。こうした状況ではターレバン支配地域にパイプ・ラインを建設するための膨大な資金を国際金融市場で調達することなどおぼつかない。こうしたターレバンの行動と評判は、パキスタンの権益を阻害している。ターレバンの軍事的な成功により、パイプ・ライン建設の条件が整った途端に、政治的な理由でパイプ・ライン建設を諦めねばならないのだからパキスタンもたまらない。ターレバンの動向は、パキスタンがターレバンという魔物をコントロールする力を失い始めている兆候ではないだろうか。アフガニスタンの統一が完成すればターレバンは、パキスタンへの依存からの脱却を志向する事ができる。これ程までには、そしてこれまで程にはターレバンはパキスタンを必要としなくなる。ターレバンという衣装をまとったパシュトゥーンのナショナリズムの影に怯えることになるのはパキスタンかも知れない。イスラム「原理主義」との火遊びで火傷を負うのはアメリカだけとは限らないからである。

(たかはし かずお・放送大学)
"Afghan, Pakistan,Taliban"
『中東協力センターニュース』1998年9月号
 連載エッセイ「ミナレット」用草稿
 1998年9月11日(金)記


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