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2.個々の「国家」をこえる規範を現実の法規範としても共有するというイスラー ム世界の特質は、少なくとも前近代のイスラーム世界の人々の世界の秩序のイメージ、政治的基本単位のありよう、そして政治単位間の関係、そして、政治単位をこえた個々の人々の関係のありようにも少なからぬ影響を与えていたものと思われる。しかし、イスラーム世界のこのような側面について、従来必ずしも体系的な探求がなされてきたとはいいがたい。
3.本班のプロジェクトとしては、初年度にまず、イスラーム世界における法規範の理念と現実、そしてかような規範観念の下における政治単位、ないし、「国家」の主に理念的ありようにつき検討を加えたい。
4. 従って初年度には理念と規範に力点がおかれるのに対し、第2年度には、むしろ政治体の組織エリート、そして権力構造の実態に視点を移し、理念と現実のずれにも着目しつつ、現実の権力の機構、支配の組織のイスラーム世界における特徴的形態がいかなるものかにつき検討を加えたい。
5. そして、第3年度には、特異な世界秩序のイメージと規範の下で、政治単位間の関係、そして政治単位をこえた人々の関係がいかにとり結ばれたかという点に焦点を移し、その理念と実態をあきらかとするとともに、さらにこのような特質を持つ世界とそこに属する人々が異文化世界と異文化世界の人々とどのような形でかかわりを持ったかについての探求にも足をふみ入れることとしたい。
6. この間、第2年ないし第3年度(おそらく第3年度の方が現実的かと思われる)に人々のかかわりに焦点をあてた国際研究集会をもつことができればと期待している。
7.初年度、責任者が在外研究に赴き恐縮であるが、次年度以降、海外での研究調査の成果ももり込みつつ、研究プロジェクトを進めることを得ればと考えているのでプロジェクト・メンバーの方々のご理解、御支援を乞うものである。
<要旨>
本日は、イスラーム法の適用、ないしはイスラーム法による支配と理念と、国家ないし政治権力との関係を示唆するトピックを若干数挙げることによって、「イスラームにおける法と国家」という巨大な主題を考える足掛かり、手掛かりを提示したい。
<当日配布のレジュメ>
イスラームにおける法と国家
1997/10/4 柳橋博之
本日は、イスラーム法の適用、ないしはイスラーム法による支配と理念と、国家ないし政治権力との関係を示唆するトピックを若干数挙げることによって、「イスラームにおける法と国家」という巨大な主題を考える足掛かり、手掛かりを提示したい。
1.「スルターン(sultan)」という言葉の二義性
(1) 広義には、「スルターンという言葉は、判決と決定の権限を有する者を総称する(ism al-sultan yaqau ala kull man la-hu al-qada wa-l-hukm)」(Ibn Rushd, Bayan, VI, 26.)。あるいは、マーリクは、「カーディーや総督といったメディナのワーリー(wali al-Madina mithl al-qadi wa-l-amir)」について尋ねられている。(Utbi, Mustakhraja, IX, 159.)
(2) 狭義には、とくに総督のような高位の行政官を指し、この場合にはカーディーと対立する概念である。たとえばイブン・アルマージシューン(Ibn al-Majishun, d. 212/827)は、「カーディーが赴任地にいる場合、スルターンに裁判を代行させることはできない」(Azdi, Mufid, fol. 7b.)と述べる。歴史的には、行政権と司法権が未分化であったウマイヤ朝期には、司法権はカーディーにも属したが、総督や都市の最高位の行政官(imam al-balad)にも属した。またカーディー自身が総督によって任命されることも通常であった。後になって、カリフが理論上絶大の権威・権力を認められるに及んで、行政権(imara,imra)と司法権(hukuma)は権力作用の2本の柱であると解されるようになり、行政官とカーディーは、それぞれカリフより委任(tafwid)を受けてこれらの権限を行使するようになるとされた。ムタッリフ(Mutarrif b. Abd Allah, d. 220/835)やイブン・アビー・ザマナイン(Ibn Abi Zamanayn, d. 399/1008)はこの理を述べる。(Azdi, Mufid, fol. 7b.)対象に着目すれば、行政(al-siyasa al-amma)と訴訟(khusumat)の区別である。(Qarafi, Ihkam, 56.)
2.国家による強制がなければ、実体法上もイスラーム法の適用はないのか
マーリク派、シャーフィイー派、ハンバル派は、ムスリムはダール・アルハルブに在住していても、イスラーム法の支配に服すると唱える。これにたいしてハナフィー派は、ダール・アルハルブで起こった財産法上の紛争に対して次のような原則を適用している。ただしここで念頭に置かれているのは、紛争がダール・アルハルブで生じた後、両紛争当事者がダール・アルイスラームに移動したり、その地域がムスリムの支配下に入ることによってダール・アルイスラームに併合され、物理的にカーディー法廷への訴えが可能になった場合である。
(1) カーディーがダール・アルイスラームで生じたムスリムを一方当事者とするいかなる紛争に対しても管轄権を有するのと同様に、カーディーは、ダール・アルハルブで生じたハルビーを一方当事者とするいかなる紛争に対しても管轄権を有しない。カーディーは、訴えが起こされた時点で両当事者がムスリムである場合に限って管轄権を有する。
(2) 両当事者がムスリムの場合はさらに場合分けを要する。
(i) 両当事者がムスタァミンとしてダール・アルハルブにいた場合、カーディーはイスラーム法を適用しなければならない。
(ii) それ以外の場合は、紛争が契約から生じて、かつ契約がまだ履行されていなければ、カーディーはイスラーム法を適用しなければならない。しかし紛争が不法行為から生じたり、契約から生じても契約がすでに履行されていれば、ダール・アルハルブの法を適用しなければならない。しかしハナフィー派は、ダール・アルハルブを「無法地域(dar al-ibaha)」として定義し、当事者間の契約のみが当事者を拘束すると見ている。
このようなハナフィー派の原則の根底には、イスラーム国家ないしはアマーンによる司法的保護を受けていない信徒は、イスラーム法遵守の法的義務を負わない、つまりイスラーム法に違反してもサンクションに服しないという考え方がある。したがって、ムスリムがハッド刑の対象となる犯罪をダール・アルハルブで犯しても、刑罰を科せられないことになる。
3.法学者は国家の専横を許さない
70/690年代、ウマイヤ朝第5代カリフ、アブドルマリク(在位65-86/685-705)は、通貨改革を行い、ビザンツ帝国鋳造のソリドゥス貨幣の輸入に代えて、ウマイヤ朝が自ら貨幣を鋳造することになり、その過程で、金貨の重量は、4,55グラムから4,25グラムに減少することになった。しかしウマイヤ朝は、中東の慣習に反して、(貨幣の純度が均一であることを前提として)重量ではなく、額面で旧貨幣と新貨幣を交換させようとした。これは、ウマイヤ朝が旧貨幣をそれよりも金銀の含有量の少ない新貨幣との交換に充てて回収することができることを意味する。
しかしとくにメディナの法学者はこれに反対して、貨幣は秤交換(muratala)により、重量で交換されなければならないと主張し、剰余のリバー(riba al-fad(l)の禁止規定を設け、これを「銀と銀は同じ重量が、金と金は同じ重量が交換されなければならない」という伝承として預言者や教友に帰せしめるようになった。これはリバーの禁止の一つの起源となった。
4.ムジュタヒドとしてのカーディーの判決は拘束力を有する
政治権力の司法への容喙を妨げるための理論的防御として、我々は司法の独立とか三権分立を唱えるが、ムスリムの法学者は、判決が拘束力を認められるのは、それが近似的に神の法であるとみなされるからであるとする。この理論は、次のような場合に具体的な形を取って適用される。
(1) ウトビー(d. 255/869)は次のように伝える。ある者が、アーミルの許に訴えを起こしたが敗訴したらしい。アーミルが何人か交替した後、この者は、新任のアーミルの許で再審を促すようにとりなしてくれと、ある法学者に頼んだ。この時この法学者は、現職のアーミルに書簡を送り、「もしあなたの前任者がその判決を正当と認めて維持したのであれば、勝訴者のためにその判決を維持しなさい(anfidh)」と指示した。イブン・ルシュドはこの件に関して、「権威ある法学者(al-faqih al-maqbul al-qawl)」は、アーミルによって下された判決が正当な基礎によっていない限りその取消を指示することができるが、総督に関しては、その判決は正当であるという推定を受け、それが明白に誤っていない限りはその取消を指示することはできないと述べる。(Utbi, Mustakhraja, IX, 171; Ibn Rushd, Bayan, IX, 171-172.)
(2) 2/8世紀半ばに次のような事件が発生した。ある総督がコルドバの近くの川にある個人の所有に属する水車を取上げ、これを解体して別の近くの場所に移して組み立て、これを50年間にわたって占拠していた。それからその水車の所有者の相続人が、水車の返還請求を起こそうとしたが、現在総督の相続人が占拠している水車が元々の水車を解体して組み立てた物であることを立証することができず、代わりに、旧水車のあった付近に別の水車を設置することは違法であるとして、その取壊しを求めてカーディーの許に訴えを起こし、カーディーは原告の請求を認めた。それから原告は、総督の相続人から、解体された新水車を買取り、旧水車を復旧した。ところが、2、3年後に、現総督が、「人々の管理人(nazir li-l-nas)」の資格で、その場所はムスリムに総体として属することを理由として、その水車の取壊しを求める訴えを起こした。この件について諮問を受けたアスバグ(Asbagh b. al-Faraj, d. 225/839)は、「判決は曖昧性を含み、かつそれを前提として新たな法律関係が生じている(wajh subha min al-qada wa-l-fawt)」ことから、判決は取消不能であると述べた。(Utbi, Mustakhraja,X, 330-334.) これは、法学者の間で争われている事案(mujtahadat)に関して、カーディーがある有力な学説を採用した場合、同一または別のカーディーが同じ事案を取上げて、それとは異なる学説に基づいてこの判決を取消すことはできないという法理が、対総督でも適用されたという趣旨である。
(3) 同じ法理は、A学派に属するカーディーが自派の学説に従って下した判決を、他の学派のカーディーが取消すことはできないという形で、学派内部、学派間を問わず適用される。(Jackson, Islamic Law, pp. 108-109.) ジャクソンは、マーリク派の法学者カラーフィー(Shihab al-Din al-Qarafi, d. 684/1285)は、弱小なマーリク派が、国家の庇護を受けているシャーフィイー派に対抗するためにこの法理を援用したと指摘する。
5.しかし国家がイスラーム法を保護することもある
近代からも一つ話題を拾っておこう。1912年3月30日のフェズ条約により、モロッコはフランスの保護統治に服することになった。同条約第1条には次のように述べられている。
共和国政府とスルターン陛下は、フランス政府がモロッコに導入することを有意義であると判断する、行政、司法、教育、経済、財政、軍事上の改革を含む新しい体制を確立することで合意した。この体制は、宗教の現状、スルターンの伝統的な尊厳と特典、イスラームの宗教とその制度の存続を維持するものである。(以下略)
この条項から分かるように、フランス政府は改革に二重の基準を設け、宗教に関わる分野については他の分野よりも改革に慎重であるべきことを宣明している。これは、フランス政府に、宗教に関わる事項は自分達の権益には余り関係がないという思惑があったためとも解されるが、スルターン政府の側から見れば、ある事項が宗教に関わる事項であると主張することによってフランス政府の介入を防ぐ口実となった。以下では、司法改革においてこの二重の基準がどのように作用したかを概観することにする。
(1) 組織
フェズ条約以前からの内政・外交両面でのモロッコの複雑な情勢を繁栄して、保護統治下の司法組織は、地域と人員の両面で複数の系統が併存していた。地域管轄について言えば、モロッコは、保護統治初期には2つの、後には3つの地域に分けられる。
(a) その大部分の領土は南部地域(zone sud)と呼ばれていた。これについてはすぐ後に述べる。
(b) 北部地域(zone nord)は従来からスペインの影響下にあった地域である。1912年11月27日のフランス・スペイン協定の後、スペインとスルターンの合意の上に、スペイン本国に倣った司法組織が設けられた。
(c) 1925年12月18日のパリ条約第48条の合意により、タンジールに国際司法裁判所が設けられ、同地の外国人の関与する紛争について裁判管轄を有することになった。
さて南部地域には3系統の裁判所が存在していた。
(i) シェリフ法廷(tribunaux cherifiens)。これはさらに、シュラー法廷、マフザン法廷、ラビ法廷、慣習法廷の4つに区分される。
(ii) フランス法廷
(iii) アメリカ領事法廷
以下、シュラー法廷、マフザン法廷、慣習法廷、フランス法廷に限って簡単に述べることにする。
まずシュラー法廷であるが、これは従来のカーディー法廷とその実質においてほぼ変更はなかった。数少ない改革点としては、採用・昇進・俸給に関する法律が制定された後に、1921年にシュラー控訴院(Tribunal d'appel de chraa) が創設された。これは、一審制を原則とするイスラーム法の伝統に反するものであるが、概してフランス当局による改革は最小限のものに止まった。宗教に関わる問題に関しては干渉を自制した結果と解される。このことはワズィールがフランス外相に送った次の手紙にも明確に現れている。
フランス政府は、望ましいと考える場合には、モロッコの官吏に対して監督官を置くことができます。ただし、カーディーと宗教関係の官吏とハージブ(カーディー法廷の吏員の一つで、カーディーに対して、訴訟の取次事務を担当したり、カーディーの移動の際に随行することを職務としていた)に関しては、宗教を尊重するという見地からこの限りではありません。
つぎにマフザン法廷については、上に述べたところから、シュラー法廷よりも大きな改革を被った。パシャとカーイドの地域管轄を明確にしたこと、シェリフ控訴院(Haut tribunal cherifien) を設けて上訴制度を導入したこと、伝統的な単独裁判制を改め合議制を導入したこと、各マフザン法廷に対してフランス側から監督官を派遣したことなどが挙げられる。
つぎに慣習法廷であるが、1914年9月11日のダヒール(スルターンの勅令の形式で出される法令)によって「いわゆるベルベルの慣習を奉ずる部族は、現状の通りその独自の法と慣習の支配に服するが、これに当局から派遣する官吏の監督下に置くこととする」とされた。すなわち、旧ブラード・シーバーは、スルターンとフランス政府の間の中立地帯を構成することになった。管轄の面からは、民事に関しては慣習法廷が管轄権を有したが、そのメンバーは部族の中から選ばれた。刑事については、部族の長とシェリフ法廷が管轄権を有した。
最後にフランス法廷であるが、1880年7月3日のマドリッド協約と1906年4月7日のアルヘシラス条約に基づいて1911年11月4日のフランス・ドイツ間の条約において、暫時にカピチュレーションが維持されるが、近い将来に、列強の国民に対してフランス風の裁判を行うべき裁判組織が設けられるものとされた。こうして1913年8月12日のダヒールによりフランス法廷が設けられた。この組織は、制度上もフランス本国の破毀院を上訴審としていた。
(2) 管轄
ここでは、フランス法廷とシェリフ法廷の管轄の分配だけを扱う。管轄指定の主たる法源は、フランス法廷の設置に関わる1913年8月12日のダヒールである。これに先立つフランス・ドイツ間の条約に示されたように、フランス法廷は領事裁判所に取って代わるものであると考えられていた。人的管轄の面からは、原則として、モロッコ人とアメリカ人だけがフランス法廷の管轄から除外されていた。そして紛争当事者の少なくとも一方がモロッコ人ないしアメリカ人でない限りは、その紛争は、ごく少数の例外を除いては、フランス法廷の管轄に属するとされた。
この他、両当事者が共にフランス法廷の人的管轄に属しないにもかかわらず、事案の性質上フランス法廷が管轄権を有する場合がある。登記済の不動産、商事会社、工業所有権に関わる事案、行政機関を一方当事者とする民事事件などがこれに該当する。これらに関しては、技術的ないしは政治的な理由からカーディーやパシャやカーイドに担当させるのが不適当であると考えられたからである。
つぎにシェリフ法廷であるが、これが管轄権を有するのは、両当事者がモロッコ人である場合に限られるというのが原則である。シェリフ法廷内部の管轄は従前の原則が踏襲されている。すなわち、身分法と未登記不動産に関わる紛争と公証人の監督はシュラー法廷に属し、その他の紛争はマフザン法廷に属する。ただし物的管轄の内特別の事情でフランス法廷に属するものがある。
管轄の観点からは、不動産は3種類に分類される。
(1)未登記不動産はシュラー法廷の管轄に服する。これは伝統的に不動産訴訟はカーディー法廷の管轄に属していたためである。ただしすべての当事者の人的管轄がフランス法廷に属すれば、その事案はフランス法廷の管轄に服する。
(2)登記不動産を巡る紛争はフランス法廷の管轄に属する。
(3)ジェマーの不動産を巡る紛争はフランス法廷の管轄に属する。
この体制は1880年7月3日のマドリッド国際条約に遡る。これにより、外国人によるモロッコ国内の不動産取得の道が開かれたのであるが、当時はまだ不動産を巡る紛争はカーディー法廷の管轄に属することと、取得にはスルターンの許可を要するという規定が盛り込まれていた。しかし現実には許可が与えられることはなく外国人による不動産取得は不可能であった。
この後1906年1月25日のアルヘシラス条約第60条によって、一部の港湾や都市の近郊の土地についてはこの許可が事前に与えられたものと見なされ、外国人による土地の取得は容易になった。
しかしマフザンによる土地取得に対する制限が大幅に緩和されるには、1914年7月7日のダヒールを待たなければならなかった。
筆者は、1997年11−12月、1班cグループの派遣により、ヴェネツィアにおける調査を行った。はじめにおおまかな日程を記せば、11月7日に日本を出発し、11月8−10日にイスタンブルにて、同地に滞在中のグループ-リーダー、鈴木 董・東京大学東洋文化研究所教授との打ち合せを行った後、11月12日から12月17日までヴェネツィアに滞在して調査を行い、12月19日に帰国した。
今回の調査の主な目的は、cグループの研究テーマ「イスラームの法と国家」に関する史料調査であった。cグループの研究計画によれば、最初の3年間の研究活動は、イスラーム世界における国家の支配構造および社会の法的規範の構造を明らかにし、その特質を他の文化圏の場合と比較することを目的とする。今回の調査は、この計画を視野に入れ、筆者の研究対象とする地域・時代・テーマの範囲内において行われた。調査の目的として筆者が事務局に提出したテーマは、「15世紀後半・16世紀前半のオスマン朝・マムルーク朝とヴェネツィアとの関係における諸規範と現実に関する文書調査」である。
「イスラームの法と国家」を研究する上で、ヴェネツィアに現存する史料を調査することには、いくつかのメリットがある。ヴェネツィアは、東地中海交易の主たる担い手であった歴史を持つ。東地中海沿岸各地に居留民社会を築いたヴェネツィアにとって、イスラーム諸国家・諸社会の動向は、自らの存亡に関わる問題であった。ヴェネツィアの外政に関する史料のなかには、ヴェネツィア人使節・領事・居留民の活動に関する記録が大量に見られる。したがって、このような記録から、イスラーム諸国家の支配体制と、イスラーム領域内における法的規範およびその適用の実態をうかがうことが期待できる。さらには、ヴェネツィア人使節・領事・居留民の活動は本国政府の動向と密接な関わりがあったがゆえに、彼らに関する記録は、非イスラーム地域の支配構造および社会の法的規範の特質の一例をも表しているはずである。ヴェネツィアに現存する史料を調査することにより、イスラーム世界およびヨーロッパ-キリスト教世界の国家と社会の支配と法的規範の構造の比較と関連づけを行う手がかりを得ることが期待できるのである。
筆者が目下の研究対象とする地域と時代は、15世紀後半から16世紀前半にかけての東地中海世界である。当時の状況は、端的にいえば、オスマン朝やマムルーク朝をはじめとする複数の諸国家が、海上・陸上において勢力拡大を続けるオスマン朝により、ひとつの体制の下に併合されていく過程の中にあったといってよい。この時代は、明らかに、東地中海世界史における、ひとつの大きな転換期であった。しかし現在のところ、その変容の諸相は、ムスリム支配地域においても、またイスラームおよびキリスト教諸国家間の関係においても、十分に明らかにされたわけではない。むろん、当時のヴェネツィア側の第一級史料であるマリーノ・サヌートの日記はすでに公刊されているが、その内容は、文書史料の内容から検討されることが必要であろう。こういった点からも、ヴェネツィアに現存する未公刊史料が注目される。
とはいえ、ヴェネツィアに現存する膨大な史料のなかから、オスマン朝およびマムルーク朝支配諸地域全体にわたって関連する記述を選び出すことは、容易ではない。今回の調査において私は、地域的にはエジプトおよびシリアに限定することを原則とした。このような限定は、とりあえず手始めにという以上の理由がある。東地中海世界の近世への変容は、エジプト・シリアにおけるマムルーク朝支配体制の崩壊と滅亡からオスマン朝支配体制の構築へと至る過程のなかに、最もティピカルなかたちで見いだされるのではないかと期待したことが、その最大の理由である。
今回、現地において調査した機関は、次の3つである。
- Archivio di Stato di Venezia(国立ヴェネツィア古文書館、以下ASV)
- Civico Museo Correr(コッレール博物館)
- Biblioteca Nazionale Marciana(マルチアーナ図書館)
これらのうち、現地滞在中に最も多くの時間を費やしたのが、ASVにおける文書調査であった。ASVの調査に際しては、館員で、ヴェネツィアとオスマン朝をはじめとする地中海世界のイスラーム諸国家との関係を専門とするマリーア・ピーア・ペダーニ・ファブリス氏(Dottoressa Maria Pia Pedani-Fabris)に、多大なお世話になった。同氏による調査上の助言、文書閲覧上の便宜、文書読解上の教示なしには、成果のある調査は行いえなかった。また同氏には、イタリア内外のイスラーム研究者に関する情報をも、提供していただいた。ここで特に記して、謝意を表したいと思う。
ASVにおいて最も重点的に閲覧したのは、ヴェネツィアの対外政策決定の役割を担った元老院(Senato)の決議録(deliberazioni)のうち、外交政策に関する決議を記録した"Secreti"、および東地中海方面一般の政策に関する決議を記録した"Mar"と呼ばれる文書群である。これらの文書群は、ヴェネツィアの東地中海方面に関する政策を知る上で欠かせない基本史料であるが、16世紀のエジプト・シリア方面については、いままでほとんど参照されていないものと思われる。
"Secreti"および"Mar"ともに、まずは、同時代に作成された、必要な決議を早く検索するための索引書(Rubriche)の閲覧から開始した。
- Senato
- Deliberazioni
- Secreti, Rubriche
- reg. 3 (1483-1538)
- Mar, Rubriche
- regg. 1-2 (1440-1550)
これらから、上述の方針に沿って、重要と思われるものをリストアップした後、決議の記録簿の閲覧へと進んだ。実際に決議内容を読み進むうち、索引書からリストアップしたもののみでは不十分なことがわかったので、結局、閲覧請求した記録簿は、全て目を通すことにした。限られた時間のなかでは、15世紀後半から16世紀前半にかけての全ての記録簿を閲覧することは、不可能である。オスマン朝がマムルーク朝領を征服した1517年前後のものを最も優先した結果、次の20冊の記録簿を閲覧できた。
- Secreti
- regg. 38-40 (1500-1506)
- regg. 43-52 (1510-1527)
- Mar
- regg. 15-21 (1500-1529)
"Secreti"のregg. 41-42が欠けているのは、索引書から有用な項目が見いだされなかったため、後回しにしているうち時間がなくなったからである。しかし、先述のとおり、実際に記録簿を見る必要があるので、今後に課題を残してしまった。また、索引書によれば、15世紀後半にあたる部分は、上述のテーマから見て重要な決議が数多くなされており、それらの閲覧も今後の課題となった。
上述の記録簿を読み進んで重要な決議を選び出していくうちに、マムルーク朝とヴェネツィアとの間に存在した規範が破綻していく様子、また、オスマン朝支配時代にはいって、従来の規範がそのままのかたちで、あるいは変容して再び機能しはじめた様子が看取できた。選び出した決議の記録は、マイクロフィルムへの複写を申請した。現在は、まだマイクロフィルムの到着を待っている段階であり、その到着後、本格的な分析にとりかかりたいと考えている。
元老院の決議録の他にも、いくつか複写の申請をした文書がある。なかでも、アレキサンドリアおよびダマスクスのヴェネツィア人居留民社会における、"cottimo"と呼ばれる基金の運営に関する決議をまとめた次の史料は、注目に値する。
- Cinque savi alla mercanzia
- b. 944 (Capitolare del cottimo d'Alessandria, 1321-1587)
- b. 944 bis (do.)
- b. 946 (Capitolare del cottimo d'Alessandria, II, 1596-1688)
- b. 947 (Capitolare del cottimo di Damasco, 1490-1565)
"cottimo"は、現地の居留民社会とスルターン政権との間において必要とされる支出を賄う機能を果たした。これらの史料を上述の元老院の決議録と併用することにより、エジプト・シリアにおけるヴェネツィア人居留民社会の実態は、より明確なものとなろう。
以上の他に、次の文書の複写の申請もしくは筆写をした。
- Maggior Consiglio
- Deliberazioni
- reg. 25 (1503-1521)(部分、筆写)
- Commemoriali
- regg. 14-20 (1447-1528)(部分)
- Collegio
- Relazioni
- b. 31
- Egitto
- Alessandria
- Cairo
- b. 62(Alessandriaの部分)
- (これらは全て16世紀中葉以降の史料)
- Segretario alle voci
- regg. 5-6(AlessandriaおよびDamascoの領事のリストの部分)
以上がASVにおける調査の概要である。マルチアーナ図書館およびコッレール博物館については、当初の私の目論見では、どのような写本が所蔵されているか調査するつもりであった。しかし、ASVにおける調査にほとんどの時間を費やしてしまったので、十分に行いえなかった。わずかに、末期のマムルーク朝に派遣された使節もしくは領事の報告を記録した、次の2つの写本を閲覧したのみである。
- Giovanni Danese, "Viaggio de Benedetto Sanuto Ambasciatore de Veneziani al Soldano al Cairo nel 1502," Biblioteca Marciana, cod. ital., cl. XI, no. LXVI, pp. 377-383.
- "Informazioni al Senato e lettere al console di Alessandria, di Damasco di Siria e come anche al Gran Maestro di Rodi sopra diversi affari, 1508-1510," Museo Correr, Dandolo P. D., C975/51.
これらのうち、前者を複写することができた。コッレール博物館において蔵写本カードを繰ってみたところ、16世紀中葉以降のエジプトに関する報告を記した多くの写本があることがわかった。これらは、近世のオスマン・ヴェネツィア関係史やエジプト史を研究する上で貴重なものであるはずだが、従来ほとんど利用されていないものと思われる。いずれ、これらの写本群の本格的な調査も必要となろう。
さいごに、ヴェネツィア大学、古代・近東学科、近東部門(Universita di Venezia, Dipartimento di scienze dell'antichita e del Vicino Oriente, Sezione del Vicino Oriente)の研究室を訪問したことを付け加えておこう。私は、イスラーム思想史が専門のフランチェスカ・ルッケッタ教授(Professoressa Francesca Lucchetta)の計らいにより、この研究室を見学させてもらうことができた。同部門の主流はアラブ研究であり、現地語の蔵書もアラビア語のものが多かった。同部門の機関誌として『アラブ研究ノートQuaderni di studi arabi』(現在、前述のペダーニ氏の監修で、ヴェネツィアと近東地域との関係史に関する特集号の編集作業中)がある。あいにくほとんどの教授はマドリードに出払っていて、イタリアにおける研究の状況について十分に話し合うことはできなかった。とりあえず「イスラーム地域研究」の英文ニューズレターを研究室に置いて、回覧してもらうよう依頼した。いずれ何らかのかたちで、日本の研究者との相互交流が行われることを願っている。(了)
昨1997年12月にスペイン、モロッコに出張したのでその概要を報告する。
12月10日、東京を発ち、空路(当たり前か)スペインを目指す。翌11日、マドリッドにある高等科学研究院(Consejo Superior deInvestigationes Cientificas, 略称CSIC)の文献学研究所(Instituto deFilologia)にフィエッロ(Maribel Fierro)女史を訪ねる。話題の多くは今回の私の主目的である国際会議に関するものであったが、スペインにおける学問研究一般その他にも話が及んだので、参考のためにかいつまんで紹介しておきたい。
(1) かつてのフランコ政権の下では、大学に対する予算は極度に切りつめられ、スペインは学問的にも停滞していたが、1975年のフランコの死後、スペイン政府は意図的に大学における研究の充実・拡大に努めている。とくに現在では、大学院生を国外に留学させることには熱心で、分野にもよるのであろうが、とくに新しい方法論を学ばせるために2年間の留学のプログラムと予算が組まれているとの由である。私が会った大学院生も、来年から2年間アメリカに留学すると言っていた。
(2) 同時にスペイン政府は研究プロジェクトに対する予算も増やし、今回の国際会議も、フィエッロ女史を代表とする、イスラーム世界におけるカーディーの役割に関する3年プロジェクトの一環としてスペインが開催国となったものである。ただしこの国際会議自体は、第1回が1994年ライデンで開催されたもので、今後も定期的な開催を予定しており、今回はこのプロジェクトを行っていたスペインが名乗りを上げたということである。(なお次回大会は、マレーシアが名乗りを上げているとのことである。)もっともスペイン政府も資金潤沢というわけではないので、今回予定していた東欧の研究者招聘は断念せざるを得なかったらしい。
(3) スペインの大学研究の旧来の特色として、師資相承とか学統という考え方があり、イスラーム研究の世界でも、マドリッド大学のA教授、その弟子のB教授、同様にC,Dという歴代の教授は一種のファミリーを形成していて、俗にバニーAと称されていたとのことである。(この話、私は面白く聞かせていただいたが、具体的な名前を忘れ、A、B等で代用したので臨場感が損なわれてしまった。)
(4) スペインの学問は一般にそうであるが、永らく閉鎖的で、国外との交流があまりなかったことと、主としてスペイン語で成果を発表することから、国外ではスペインのイスラーム研究の成果や水準はほとんど知られていない。女史のカーディーに関するプロジェクト、それに今回の国際会議開催も、この点を是正することを一つの目的としているとのことである。とはいえ、アンダルス研究の本家本元とも言えるスペインの研究に対する、とくにアメリカ人の無関心ぶりにはいささか目に余るものがある。
(5) スペイン人の対イスラーム観も興味のあるところであり、この点についても尋ねてみたが、学界においても、たとえばスペイン史の研究者のイスラームあるいはイスラーム研究に対する反応は概して冷ややかであるとのことであり、たとえばアンダルスの歴史や文化を自国の歴史や文化の一部と考える人間は少ないとのことである。
(6) この会見の場では、エスコリアル修道院の話も伺ってみた。アンダルスに興味のある方には周知のことと思うが、この修道院はアンダルス関係の写本の宝庫である。インターネットによる検索では利用方法ははっきりしなかったし、フィエッロ女史もその点には触れなかったが、どうやら行けばどうにかなるような場所らしい。ただ開館時間は10−14時で、月曜日は休館とのことである。12月12日、マドリッド郊外のエスコリアル修道院に電車で1時間強、さらに徒歩で30分弱をかけて到着。どこが図書室なのか分からないので、切符売場の人の指差す方向に歩いていき、さらにそこにいた職員らしき人に尋ねて(スペイン人はほとんど外国語を解しないので、場所を聞く位の語彙は準備しておきたい)何とかたどり着く。ブロッケルマンのコピー(全冊ではない)を示し、印を付けた幾つかの写本の題名を指差して、これが見たいと係の人に伝えると、パードレがやってきて、ラテン語で書かれたカタログを見せてくれた。著者と題名はアラビア語でも表記しているので、面白そうな写本のマイクロフィルムの作成を依頼した。さすがにマーリク派関係の写本には面白そうなものが多かった。12月16日火曜日より、グラナダにて、本題の国際会議が開催された。なお近々グラナダを訪れる人のために、長距離バスの操車場は、これまでの操車場の東南に移転しており、最寄りの地下鉄はメンデス・アルバロ(Mendez Albarro)となっている。もう一つ参考までに、グラナダへの列車は、高く、遅い。会議のテーマは「イスラーム法におけるカーディーの役割:理論と実践」(TheRole of Qadis in Islamic Law: Theory and Practice)である。会議は5日間にわたって行われ、報告者は42人を数えた。ここでは報告者と演題はすべて掲げるが、内容については私が興味を持ったものを紹介するにとどめ、最後に全体として気付いた点を指摘する。
12月16日
第1セッション: Profile of a Qadi,I
1.1. Wael B. Hallaq, "Qadi's communicating: legal change and the law ofDocumentary Evidence"
1.2. J. Brokopp, "A Mirror for Qadis. The Lives of Abdalla b. Abdal-Hakam and Sahnun b. Said"
1.3. A. Carmona, "Man yastahiqq al-qada: The ideal profile of the qadicandidate" Gleave, "The Role of the Qadi and the system of qada in classical Shiitejurisprudence"
第2セッション:Judicial authority and extra-judicial activity
2.1. R. El Hour, "The Andalusi qadi in the Almoravid period: politicaland judicial authority"
2.2. B. Jokisch, "Socio-political factors of qada in 8th/14th centurySyria"
2.3. I. Calero Secall, "Rulers and qadis: their relationship during the Nasrid kingdom"
2.4. Y. Dutton, "Judicial practice and the origins of Madinan amal: qadain the Muwatta of Malik
12月17日
第3セッション:Profile of a Qadi,II
3.1. B. Johansen, "Creation of legal norms through dispensation of justice: A modern European and classical Muslim debate"
3.2. U. Rebstock, "A qadi's error"
3.3. M. D. Bakar, "A note on Muslim judges and the professionalcertificate"
3.4. N. Moosa, "Women's Eligibility for the Qadiship"
第4セッション:Qadi and Waqf
4.1. E. Kermali, "Seyhul-Islam and kadi joining forces for the benefitof the gavur"
4.2. R. Van Leeuwen, "The qadi al-Shams and the administration of waqfsin Ottoman Damascus (18th c.)
4.3. A. Singer, "Part of the Job: qadis and waqf management"
4.4. M. Winter, "Administrative and legal procedures in early Ottoman Damascus"
第5セッション:Modern Period, I
5.1. R. Peters, "Qadis and councils: the judicial organization of 19thcentury Egypt"
5.2. A. Laysh, "The qadi's role in the Islamization sedentary tribalsociety in Libya: denial of paternity"
5.3. Y. Reiter, "Discord as a legal basis for divorce among IsraeliMuslims"
5.4. A. E. Mayer, "Lessons of the Zaheruddin case: why adjudication ofconstitutional and Islamic issues should not be combined"
5.5. M. B. Hooker, "Qadi jurisdiction in contemporary Malaysia andSingapore"
12月18日
第6セッション:Qadi and mufti
6.1. D. S. Powers, "Qadis and muftis in the Maliki west: ca. 1250-1500"
6.2. M. Muranyi, "Das Kitab ahkam Ibn Ziyad. Uber die Idenzifierungeines Fragmentes in Qairawan"
6.3. D. Serrano, "Legal theory and practice in an Andalusi and Maghribisource of the 6th/12th century"
6.4. H. Lahmer, "Characteristic of the nawazil law in Morocco and itsrole in the development of Islamic law"
6.5. A. Zomeno, "The Style of Fas courts '14th-15th centuries).Marriage in practice"
12月19日
第7セッション:Qadi and Procedure, I
7.1. M. Khalid Masud, "Procedural law between traditionalists, juristsand judges: the problem of witness as evidence"
7.2. J.-P. Vanstaevel, "Savoir voir et le faire savoir voir: desrelations entre qadis et experts en construction, d'apres un auteur tunisois du VIIeme/XIVeme siecle"
7.3. Z. Ghazzal, "Discursive formations and the gap between theory and practice in Ottoman sharia law"
第8セッション:Qadi and Procedure, II
8.1. J. Wakin, "The qadi's archives: the public aspect of notarial literature"
8.2. Ch. Muller, "Judging with God's law on earth: judicial powers of the qadi al-jamaa of Cordoba in the 5th/11th century"
8.3. M. Schatzmiller, "The legal system and the implementation on women's property rights in Muslim Spain"
8.4. L. al-Zwaini, "Judges with many caps: a description on legal and judicial plurality in present-day San'a"
8.5. Z. Jaffar, "The role of the qadi vis-a-vis other enforcement agencies in the Islamic commercial practice"
第9セッション:Qadis and the Frontier
9.1. H. Yanagihashi, "Qadi's jurisdiction and the applicability of Islamic law"
9.2. M. Arcas Campoy, "Cadies and alcaides of the Nasri eastern border"
9.3. J.-P. Molenat, "Les alcaldes et alcaldes mayores de moros de Castille au XVe siecle"
9.4. M. Greene, "Commercial risk in the Ottoman Eastern Mediterranean: the role of the kadi"
12月20日
第10セッション:Modern Period, II
10.1. J. Goldberg, "The foundation of commercial law in 19th century Egypt"
10.2. R. Shaham, "An Egyptian judge in a period of change: Qadi Ahmad Muhammad Shakir (1892-1958)
10.3. L. Skiainen, "The Islamic Shari'a as a source of legislation and its interpretation by constitutional control bodies of the Arab States"
10.4. N. Bernard-Maugiron, "La Haute cour constitutionnelle egyptienne et la sharia islamique"
まず最初に、これら個々の報告の中で興味深く感じられたものを挙げておきたい。
1.2. ブロコップ氏の報告は、伝記の読み方に焦点を当てたものである。法学者の伝記には、敬虔とか学識があるとかの紋切り型の形容が多く現れる。こうした記述は定型的であまり内容がないとして読み飛ばしがちであるが、本報告は、カーディーや一般に法学者のあらまほしき姿の投影としてこうした形容を解釈するという立場から、法学者の社会的な地位や機能を推定しようという試みである。
1.3. カルモーナ氏の報告は、カーディーたる資格に関するマーリク派学説の展開を概観しものである。その変遷の意義に関する氏の説明はかならずしも明快ではなかったが、今後の研究課題としては面白いと感じた。
2.2. ヨキッシュ氏の報告は、多数ある8/14世紀シリアのカーディーの伝記から丹念にデータを抽出して、在任年齢や在任の期間や任命・解任・再任のパターンを通じて、カーディーのあり方、あるいは統治者とカーディーの関係に光を当てようとするものである。この報告に対するフロアーからのコメントとして、カーディー就任を忌避するという傾向が法学者に普遍的なものであったのか、そうだとすればそれはなぜなのかという疑問が、何十年も未解決のままであるという指摘がなされた。やはり重要な問題であろう。
2.3. ダットン氏の報告自体にはあまり賛同できなかったが、面白かったのは、『ムワッター』に関するムーラーニー氏のコメントである。曰く、現存する限り、マーリクの4人の弟子がこれを後世に伝えている。その中で、現在最も多用されているのは、ヤヒヤー・ブン・ヤヒヤー・アッライシーの伝(riwaya)になるものである。この校訂はフアード・アブドルバーキーの手になるが、これには使用した写本が明示されておらず、自分はこれをリワーヤト・フアード・アブドルバーキーと呼んでいる。確かに近時イスラーム法の揺籃期の研究が深化を見せるにつれ、写本の問題が重要になっている。私もかつて、ハナフィー派の法学者サラフスィーによる『マブスート』の中で、校訂本には"'aqd"とあるが、これは元は"'aqr"だったはずだとして、それにしたがって解釈をしたことがあった。私の知る限り『マブスート』のテキストを写本に遡って確認した旨を記した研究者はいないが、これからはそのような作業も必要になるのかもしれない。
3.2. レブストック氏の報告は、カーディーの誤謬をどのように処理するかに着目したもので、個々の説明にはとくに目新しいものはなかったが、ただ法学者がある制度を一つのシステムとして構築していく際の思考過程にも着目すべきであるという視点に斬新さを感じ、模倣してみたいと考えた。
4.1. ケルメリ女史の報告は、オスマン帝国の中央政府と、ダマスクスの在地の政治勢力の中で、カーディーがどのように振舞っていたかに着目したものである。
5. 2.ライシュ氏の報告は、現代のリビアの、規範的なイスラームをいまだ受け入れていない定住部族において、いかなる条件の許でカーディーが実効的にイスラーム法を適用することができるのかを述べたものである。カーディーも社会的現実に合せて法を柔軟に適用しなければ、影響力を行使することができないという、結論としては常識的な線であるが、これは裏返せば、前近代のイスラーム法の体系もこのような前提で解釈しなければならないということを再認識させる上では面白いと感じた。
5.3.ライター氏の報告は、古典イスラーム法において、離婚の原因となりうるとされた「不和」(nushuz)が、伝統的なカーディー法廷ではほとんど離婚の成立を導くことがなかったのに対して、イスラエルの立法政策の影響下、現代イスラエルにおけるムスリムの身分法廷ではカーディーが、「不和」に欧米法におけるその意義を適用することによって、離婚の成立を容易に認めるようになっているという指摘である。法解釈学としてはオーソドックスな手法であるが、イスラーム法の研究者はこのような手法にあまり熟達していないことが多いので、このような堅実な(この言葉はかならずしも賛辞とは取られないのが普通であるが)研究は私の好みである。
5.4. マイヤー女史の報告は、パキスタン最高裁判所によってイスラームのある宗派に対して下された、イスラームを自称することを禁ずる旨の判例を詳細に論じたものであり、結論として、その解釈の方法においてはパキスタンの法廷は、むしろ英米法の系譜に属する。しかしイスラーム世界の裁判所は、事案がイスラームに関する限り、伝統的なイスラームの教義に通じた裁判官(カーディーはその代表となるであろう)による裁判を行うべきであるという指摘をしている。しかし今回は女史は、いささかユーモアとカリカチュアが過ぎたようである。私は、女史の論調から、要するにパキスタンの裁判官は、裁判の前から心証を固めていて、判決理由は何でもよいと考えていたと見るべきであり、パキスタンの裁判官が英米法の判決を引用しているのは単にためにする議論であったという印象を受けた。
6.1. パワーズ氏の報告は、西暦13−15世紀のアンダルスやマグレブにおける裁判の実例を幾つか挙げたものである。最初の判決が出た後に、ファトワーによってそれが取消を受けるなど、カーディー裁判の現実の過程が紹介されており、手法としては氏自身の従来の研究の継続であるが、西方マーリク派にはまだ写本のままの著作が多く残っていることからしても、まだまだ実り豊かな手法ではある。8.2.も同様の系統の報告である。
7.2. ファンシュターフェル氏の報告は、建築物に生じた、あるいは建築物が及ぼした損害をめぐる訴訟において、建築や造作の専門家の鑑定が、判決の形成にどのように寄与するのかという問題を扱ったものである。通常カーディー法廷は法定証拠主義を取っており、判決の基礎となる事実の確定において、法定の要件を満たす証人の証言を真実のものとして採用しなければならないとされているが、事実の中には、経験則上の事実や、専門家でなければ判断ができない事実もあり、これらをどのように扱うのかという問題が実は残っている。自慢ではないが、私もこの点には気付いてはいたが、今日まで手をつかねていた。氏の着眼はカーディー裁判の性格を知る上で重要である。本報告は氏の博士論文を基になされたものであり、中身を読んでみたいと思った。
8.1. ウェイキン女史の報告は、3/9世紀のハナフィー派の法学者タハーウィーの"Kitab al-shurut"の未公刊の部分の紹介である。内容は、カーディーが、事実をどのように確定し、また判決文をどのように書くべきかという手引きであるが、この中で、同じ事案が別の学派に属するカーディーの法廷に提訴されるという事態をも念頭に置いて審理を行い、判決を下す際の手順をも同書が説明しているという指摘をしたように聞こえた部分に興味を感じた。しかし後でペーパーを見たところ、この指摘はそこにはなかった。確認を取るべきであった。
8.2. ミュラー氏の博士論文は、近時刊行されたばかりの博士論文に基づくもので、アンダルスのマーリク派の法学者イブン・サフル(486/1093年没)の判例集に収録された50ほどの判例の分析である。カーディー法廷での審理においては厳格な法定証拠主義が採られていることから、手続き上その機能には限界があることはつとに指摘されているところであるが、本報告では、カーディー法廷と、それ以外の、行政官による裁判が、相補的に働いていることが指摘された。もっともイスラーム世界における司法において、カーディー法廷にのみ着目するのでは不十分であるというのは従来から指摘されていた点ではある。なお、フロアーより、アマル('amal、初耳という読者は、EIかMilliot, Introduction a l'etude du droit musulmanを参照されたい)の定義についての質問があり、氏は、マーリク派においてそれまでは、少なくとも多数説にもなっていなかった学説が、ある土地の社会慣行に合致することから、裁判の上では正統な紛争解決の基準として認知されるに至ったものという定義を与えており、そのような認知を欠く慣習('urf)とは区別されるという返答をしていた。アマルの定義や性質に関しては何十年も前から議論があるが、私は氏のような定義によってマーリク派の著作に現れるその用法を矛盾なく説明することができるとは考える。しかし、そもそもマーリク派の法学者がこの概念にそれほどの重要性を認めていたかどうか自体は疑問であるが、これは後日の議論の種として残しておきたい。
8.3. シャッツミラー女史の報告は、アンダルスの判例を幾つか取上げ、カーディーが学説の解釈によって、妻の不利になるような判決を導いた例を示し、カーディーの解釈が、社会慣習や当事者の心理に影響を受けることを指摘している。これは当然と言えば当然の結論ではあるが、判決やファトワーの社会学的な史料的価値を再認識させられたように感じた。また女史が、女性には一般に、闘争によって利益を勝ち得ることよりも、紛争を回避し、妥協によって低いがある程度の利益を確保することを選好しようとする心理的傾向があるとして、この前提の上に判決に至るまでの一連のプロセスを解釈しようとしている点も、手法という観点から学ぶべきかもしれない、少なくとも検討の余地ありと感じた。
8.4. ズワイニー女史の報告は、現代イエメンの法体系が、イスラーム法、成文法、部族法の三つの異質な系から構成されていることを指摘した上で、その三つがどのように関係しているのかを述べたものである。女史は三日前にイエメンから戻ったことのことで、ペーパーもなく、イエメン滞在中のテレビ中継の様子を交えながら立て板に水の調子で説明していたが、非常にヴィヴィッドな話で、おそらく話をまとめて抽象化するとどこかで聞いたような話になるのであろうが、非常に興味深く聞くことができた。会議に出ることの一つのメリットであろう。
10.3. スィキアイネン氏は、ロシア・アカデミーの研究員で、現代アラブ諸国の法体制を専門としているが、今回の報告の後半は、チェチェーニアのシャリーア裁判所の最新報告であった。ソ連邦崩壊後、チェチェーニアは、シャリーア裁判所を設けたが、人手が足りず、わずか一ヶ月の研修を経ただけで同裁判所の裁判官が任命されること、同国の刑法典がほとんどスーダン刑法典の直訳であって、ただ一箇所異なるのは、殺人や傷害罪において被害者またはその相続人が請求することのできるディヤの内容が、スーダン刑法典では金銭(ポンド)またはラクダとされているのに対して、チェチェーニア刑法典では金銭(ポンド)または牛とされている点のみである等の興味深い報告を聞くことができた。なお氏は、チェチェーニア当局に、このポンドとは、スーダン・ポンドなのか、それともスターリング・ポンドなのかを尋ねたが、明確な回答を得られなかったとのことである。
つぎに、全体として、この会議でまず気付いた点は、第1に、欧米からの参加者が圧倒的に多いということである。イスラーム諸国からの参加者は、現在欧米に留学ないし欧米で研究している者を除くと、4人に過ぎない。渡航費用の問題、会議が主として英語で行われることなどの理由によるのであろうが、やや物足りない気がした。次回もしマレーシア当たりで本会議が開催されるとすれば、会議の内容や傾向はやや異なったものになるかもしれない。
第2に、この会議が、スペインで行われ、スペイン人の報告が多いということも手伝って、マグレブ、アンダルスを対象地域とする報告が多かったという点である。とくにここ10年ほど、マーリク派の重要な著作の校訂本の刊行が相次いでいること、またまだ未公刊の写本も多く残っていることから、しばらくはこの地域の研究の生産性は高いであろう。
第3に、今回の会議のテーマであるカーディー裁判の分析において、当事者間の利害調節や、政治的背景を重視する報告が多数を占めたことである。資料から読み取れることを研究の素材とする立場から言えばそうならざるを得ないのではあるが、それだけでもあるまいと思う。この会議にその名が冠せられたシャハトはつとにイスラーム法に見られる全体的な傾向にも都度都度言及しているが、近時の研究はこの点をやや看過しているように感じられる。たとえばカーディーの信仰心といった遍在する(あるいは信仰心のないカーディーもいたかもしれない)要素に着目し、それを客観的に分析する手法を模索してもいいように思う。
第4に、テーマの設定の問題もあるが、実定法規に関心を持つ研究者が少ないという点である。私はこの点でも現在のイスラーム法研究の水準はけっして高くはないと感じているので、今後我が道を行く他はないという感想を持った。
12月22日にモロッコに向かった私は、もっぱらラバトに滞在し、al-Khizana al-'ammaにて写本を調べた。結果、Ibn Sahl, Al-Ahkamと、Muhammad b.Abidin, Nashr al-'urf fi bina' ba'd al-ahkamの2点のマイクロフィルムを入手することができた。興味のある向きは連絡されたい。またal-Khizana al-Hasaniyya、かつてのal-Khizana al-Malakiyyaも見学し、Al-Burzuli,Al-Ahkamのマイクロフィルムの作成・送付方も依頼した。
本を買ったとかどこそこを見学したという話は省略するが、最後にカサブランカからマドリッドに向かう機上、ジブラルタル海峡と、ヨーロッパ・アフリカ両大陸を一望したことを付け加えておきたい。私の貧弱な表現力をもってこれを形容することは断念するが、ただカサブランカから飛行機でスペインに向かわれる方には、是非飛行機の右側に座席を取ることをお勧めする。そうでなければ、たんに大西洋が果てしなく広がるばかりであり、またグラナダを見下ろすシェラ・ネバダの高峰も見られないからである。この体験も含めて、成果の多い調査旅行であった。最後になったが関係各位への感謝を申し上げたい。