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研究班1「イスラームの思想と政治」
Cグループ「イスラーム国家と法」

代表より
活動報告
海外調査報告

代表より 鈴木 董

1.イスラーム世界は、1つの文化世界として、価値体系ののみならず、文明語としてのアラビア語と、アラビア文字というコミュニケーションの手段を一方で共有し、他方では、良きムスリムの行動の規範の総体としてのシャリーアを通じてかなりの範囲で行動のパターンと「法」をも共有し、それが、イスラーム世界の1つの文化世界たることをある範囲で保障していた。

2.個々の「国家」をこえる規範を現実の法規範としても共有するというイスラー  ム世界の特質は、少なくとも前近代のイスラーム世界の人々の世界の秩序のイメージ、政治的基本単位のありよう、そして政治単位間の関係、そして、政治単位をこえた個々の人々の関係のありようにも少なからぬ影響を与えていたものと思われる。しかし、イスラーム世界のこのような側面について、従来必ずしも体系的な探求がなされてきたとはいいがたい。

3.本班のプロジェクトとしては、初年度にまず、イスラーム世界における法規範の理念と現実、そしてかような規範観念の下における政治単位、ないし、「国家」の主に理念的ありようにつき検討を加えたい。

4. 従って初年度には理念と規範に力点がおかれるのに対し、第2年度には、むしろ政治体の組織エリート、そして権力構造の実態に視点を移し、理念と現実のずれにも着目しつつ、現実の権力の機構、支配の組織のイスラーム世界における特徴的形態がいかなるものかにつき検討を加えたい。

5. そして、第3年度には、特異な世界秩序のイメージと規範の下で、政治単位間の関係、そして政治単位をこえた人々の関係がいかにとり結ばれたかという点に焦点を移し、その理念と実態をあきらかとするとともに、さらにこのような特質を持つ世界とそこに属する人々が異文化世界と異文化世界の人々とどのような形でかかわりを持ったかについての探求にも足をふみ入れることとしたい。

6. この間、第2年ないし第3年度(おそらく第3年度の方が現実的かと思われる)に人々のかかわりに焦点をあてた国際研究集会をもつことができればと期待している。

7.初年度、責任者が在外研究に赴き恐縮であるが、次年度以降、海外での研究調査の成果ももり込みつつ、研究プロジェクトを進めることを得ればと考えているのでプロジェクト・メンバーの方々のご理解、御支援を乞うものである。

 


活動報告 

1997年10月4日研究会
柳橋博之「イスラームにおける法と国家」

<要旨>

本日は、イスラーム法の適用、ないしはイスラーム法による支配と理念と、国家ないし政治権力との関係を示唆するトピックを若干数挙げることによって、「イスラームにおける法と国家」という巨大な主題を考える足掛かり、手掛かりを提示したい。

  1. 「スルターン」という言葉の二義性
    歴史的には、行政権と司法権が未分化であったウマイヤ朝期には、司法権はカーディーにも属したが、総督や都市の最高位の行政官にも属した。またカーディー自身が総督によって任命されることも通常であった。後になって、カリフが理論上絶大の権威・権力を認められるに及んで、行政権と司法権は権力作用の2本の柱であると解されるようになり、行政官とカーディーは、それぞれカリフより委任を受けてこれらの権限を行使するようになるとされた。対象に着目すれば、行政と訴訟の区別である。
  2. 国家による強制がなければ、実体法上もイスラーム法の適用はないのか
    マーリク派、シャーフィイー派、ハンバル派は、ムスリムはダール・アルハルブに在住していても、イスラーム法の支配に服すると唱える。これにたいしてハナフィー派は、イスラーム国家ないしはアマーンによる司法的保護を受けていない信徒は、イスラーム法遵守の法的義務を負わない、つまりイスラーム法に違反してもサンクションに服しないと考えている。
  3. 法学者は国家の専横を許さない
    70/690年代、ウマイヤ朝第5代カリフ、アブドルマリク(在位65-86/685-705)は、通貨改革を行い、ビザンツ帝国鋳造のソリドゥス貨幣の輸入に代えて、ウマイヤ朝が自ら貨幣を鋳造することになり、その過程で、金貨の重量は、4,55グラムから4,25グラムに減少することになった。しかしウマイヤ朝は、中東の慣習に反して、(貨幣の純度が均一であることを前提として)重量ではなく、額面で旧貨幣と新貨幣を交換させようとした。これは、ウマイヤ朝が旧貨幣をそれよりも金銀の含有量の少ない新貨幣との交換に充てて回収することができることを意味する。しかしとくにメディナの法学者はこれに反対して、貨幣は秤交換により、重量で交換されなければならないと主張し、剰余のリバーの禁止規定を設け、これを「銀と銀は同じ重量が、金と金は同じ重量が交換されなければならない」という伝承として預言者や教友に帰せしめるようになった。これはリバーの禁止の一つの起源となった。
  4. ムジュタヒドとしてのカーディーの判決は拘束力を有する政治権力の司法への容喙を妨げるための理論的防御として、我々は司法の独立とか三権分立を唱えるが、ムスリムの法学者は、判決が拘束力を認められるのは、それが近似的に神の法であるとみなされるからであるとする。この理論は、次のような場合に具体的な形を取って適用される。
    1. 学識ある法学者は、行政官の判決を取消すよう指示することができる。
    2. カーディーの判決は、総督によって取消を受けることはない。
    3. 同じ法理は、A学派に属するカーディーが自派の学説に従って下した判決を、他の学派のカーディーが取消すことはできないという形でも適用される。
  5. しかし国家がイスラーム法を保護することもある
    1912年3月30日のフェズ条約により、モロッコはフランスの保護統治に服することになった。同条約第1条には次のように述べられている。共和国政府とスルターン陛下は、フランス政府がモロッコに導入することを有意義であると判断する、行政、司法、教育、経済、財政、軍事上の改革を含む新しい体制を確立することで合意した。この体制は、宗教の現状、スルターンの伝統的な尊厳と特典、イスラームの宗教とその制度の存続を維持するものである。(以下略) 
    この条項から分かるように、フランス政府は改革に二重の基準を設け、宗教に関わる分野については他の分野よりも改革に慎重であるべきことを宣明している。これは、フランス政府に、宗教に関わる事項は自分達の権益には余り関係がないという思惑があったためとも解されるが、スルターン政府の側から見れば、ある事項が宗教に関わる事項であると主張することによってフランス政府の介入を防ぐ口実となった。

 

<当日配布のレジュメ>

イスラームにおける法と国家
1997/10/4 柳橋博之

本日は、イスラーム法の適用、ないしはイスラーム法による支配と理念と、国家ないし政治権力との関係を示唆するトピックを若干数挙げることによって、「イスラームにおける法と国家」という巨大な主題を考える足掛かり、手掛かりを提示したい。

1.「スルターン(sultan)」という言葉の二義性

(1) 広義には、「スルターンという言葉は、判決と決定の権限を有する者を総称する(ism al-sultan yaqau ala kull man la-hu al-qada wa-l-hukm)」(Ibn Rushd, Bayan, VI, 26.)。あるいは、マーリクは、「カーディーや総督といったメディナのワーリー(wali al-Madina mithl al-qadi wa-l-amir)」について尋ねられている。(Utbi, Mustakhraja, IX, 159.)

(2) 狭義には、とくに総督のような高位の行政官を指し、この場合にはカーディーと対立する概念である。たとえばイブン・アルマージシューン(Ibn al-Majishun, d. 212/827)は、「カーディーが赴任地にいる場合、スルターンに裁判を代行させることはできない」(Azdi, Mufid, fol. 7b.)と述べる。歴史的には、行政権と司法権が未分化であったウマイヤ朝期には、司法権はカーディーにも属したが、総督や都市の最高位の行政官(imam al-balad)にも属した。またカーディー自身が総督によって任命されることも通常であった。後になって、カリフが理論上絶大の権威・権力を認められるに及んで、行政権(imara,imra)と司法権(hukuma)は権力作用の2本の柱であると解されるようになり、行政官とカーディーは、それぞれカリフより委任(tafwid)を受けてこれらの権限を行使するようになるとされた。ムタッリフ(Mutarrif b. Abd Allah, d. 220/835)やイブン・アビー・ザマナイン(Ibn Abi Zamanayn, d. 399/1008)はこの理を述べる。(Azdi, Mufid, fol. 7b.)対象に着目すれば、行政(al-siyasa al-amma)と訴訟(khusumat)の区別である。(Qarafi, Ihkam, 56.)

2.国家による強制がなければ、実体法上もイスラーム法の適用はないのか

マーリク派、シャーフィイー派、ハンバル派は、ムスリムはダール・アルハルブに在住していても、イスラーム法の支配に服すると唱える。これにたいしてハナフィー派は、ダール・アルハルブで起こった財産法上の紛争に対して次のような原則を適用している。ただしここで念頭に置かれているのは、紛争がダール・アルハルブで生じた後、両紛争当事者がダール・アルイスラームに移動したり、その地域がムスリムの支配下に入ることによってダール・アルイスラームに併合され、物理的にカーディー法廷への訴えが可能になった場合である。

(1) カーディーがダール・アルイスラームで生じたムスリムを一方当事者とするいかなる紛争に対しても管轄権を有するのと同様に、カーディーは、ダール・アルハルブで生じたハルビーを一方当事者とするいかなる紛争に対しても管轄権を有しない。カーディーは、訴えが起こされた時点で両当事者がムスリムである場合に限って管轄権を有する。

(2) 両当事者がムスリムの場合はさらに場合分けを要する。

(i) 両当事者がムスタァミンとしてダール・アルハルブにいた場合、カーディーはイスラーム法を適用しなければならない。

(ii) それ以外の場合は、紛争が契約から生じて、かつ契約がまだ履行されていなければ、カーディーはイスラーム法を適用しなければならない。しかし紛争が不法行為から生じたり、契約から生じても契約がすでに履行されていれば、ダール・アルハルブの法を適用しなければならない。しかしハナフィー派は、ダール・アルハルブを「無法地域(dar al-ibaha)」として定義し、当事者間の契約のみが当事者を拘束すると見ている。

このようなハナフィー派の原則の根底には、イスラーム国家ないしはアマーンによる司法的保護を受けていない信徒は、イスラーム法遵守の法的義務を負わない、つまりイスラーム法に違反してもサンクションに服しないという考え方がある。したがって、ムスリムがハッド刑の対象となる犯罪をダール・アルハルブで犯しても、刑罰を科せられないことになる。

3.法学者は国家の専横を許さない

70/690年代、ウマイヤ朝第5代カリフ、アブドルマリク(在位65-86/685-705)は、通貨改革を行い、ビザンツ帝国鋳造のソリドゥス貨幣の輸入に代えて、ウマイヤ朝が自ら貨幣を鋳造することになり、その過程で、金貨の重量は、4,55グラムから4,25グラムに減少することになった。しかしウマイヤ朝は、中東の慣習に反して、(貨幣の純度が均一であることを前提として)重量ではなく、額面で旧貨幣と新貨幣を交換させようとした。これは、ウマイヤ朝が旧貨幣をそれよりも金銀の含有量の少ない新貨幣との交換に充てて回収することができることを意味する。

しかしとくにメディナの法学者はこれに反対して、貨幣は秤交換(muratala)により、重量で交換されなければならないと主張し、剰余のリバー(riba al-fad(l)の禁止規定を設け、これを「銀と銀は同じ重量が、金と金は同じ重量が交換されなければならない」という伝承として預言者や教友に帰せしめるようになった。これはリバーの禁止の一つの起源となった。

4.ムジュタヒドとしてのカーディーの判決は拘束力を有する

政治権力の司法への容喙を妨げるための理論的防御として、我々は司法の独立とか三権分立を唱えるが、ムスリムの法学者は、判決が拘束力を認められるのは、それが近似的に神の法であるとみなされるからであるとする。この理論は、次のような場合に具体的な形を取って適用される。

(1) ウトビー(d. 255/869)は次のように伝える。ある者が、アーミルの許に訴えを起こしたが敗訴したらしい。アーミルが何人か交替した後、この者は、新任のアーミルの許で再審を促すようにとりなしてくれと、ある法学者に頼んだ。この時この法学者は、現職のアーミルに書簡を送り、「もしあなたの前任者がその判決を正当と認めて維持したのであれば、勝訴者のためにその判決を維持しなさい(anfidh)」と指示した。イブン・ルシュドはこの件に関して、「権威ある法学者(al-faqih al-maqbul al-qawl)」は、アーミルによって下された判決が正当な基礎によっていない限りその取消を指示することができるが、総督に関しては、その判決は正当であるという推定を受け、それが明白に誤っていない限りはその取消を指示することはできないと述べる。(Utbi, Mustakhraja, IX, 171; Ibn Rushd, Bayan, IX, 171-172.)

(2) 2/8世紀半ばに次のような事件が発生した。ある総督がコルドバの近くの川にある個人の所有に属する水車を取上げ、これを解体して別の近くの場所に移して組み立て、これを50年間にわたって占拠していた。それからその水車の所有者の相続人が、水車の返還請求を起こそうとしたが、現在総督の相続人が占拠している水車が元々の水車を解体して組み立てた物であることを立証することができず、代わりに、旧水車のあった付近に別の水車を設置することは違法であるとして、その取壊しを求めてカーディーの許に訴えを起こし、カーディーは原告の請求を認めた。それから原告は、総督の相続人から、解体された新水車を買取り、旧水車を復旧した。ところが、2、3年後に、現総督が、「人々の管理人(nazir li-l-nas)」の資格で、その場所はムスリムに総体として属することを理由として、その水車の取壊しを求める訴えを起こした。この件について諮問を受けたアスバグ(Asbagh b. al-Faraj, d. 225/839)は、「判決は曖昧性を含み、かつそれを前提として新たな法律関係が生じている(wajh subha min al-qada wa-l-fawt)」ことから、判決は取消不能であると述べた。(Utbi, Mustakhraja,X, 330-334.) これは、法学者の間で争われている事案(mujtahadat)に関して、カーディーがある有力な学説を採用した場合、同一または別のカーディーが同じ事案を取上げて、それとは異なる学説に基づいてこの判決を取消すことはできないという法理が、対総督でも適用されたという趣旨である。

(3) 同じ法理は、A学派に属するカーディーが自派の学説に従って下した判決を、他の学派のカーディーが取消すことはできないという形で、学派内部、学派間を問わず適用される。(Jackson, Islamic Law, pp. 108-109.) ジャクソンは、マーリク派の法学者カラーフィー(Shihab al-Din al-Qarafi, d. 684/1285)は、弱小なマーリク派が、国家の庇護を受けているシャーフィイー派に対抗するためにこの法理を援用したと指摘する。

5.しかし国家がイスラーム法を保護することもある

近代からも一つ話題を拾っておこう。1912年3月30日のフェズ条約により、モロッコはフランスの保護統治に服することになった。同条約第1条には次のように述べられている。

共和国政府とスルターン陛下は、フランス政府がモロッコに導入することを有意義であると判断する、行政、司法、教育、経済、財政、軍事上の改革を含む新しい体制を確立することで合意した。この体制は、宗教の現状、スルターンの伝統的な尊厳と特典、イスラームの宗教とその制度の存続を維持するものである。(以下略) 

この条項から分かるように、フランス政府は改革に二重の基準を設け、宗教に関わる分野については他の分野よりも改革に慎重であるべきことを宣明している。これは、フランス政府に、宗教に関わる事項は自分達の権益には余り関係がないという思惑があったためとも解されるが、スルターン政府の側から見れば、ある事項が宗教に関わる事項であると主張することによってフランス政府の介入を防ぐ口実となった。以下では、司法改革においてこの二重の基準がどのように作用したかを概観することにする。

(1) 組織

フェズ条約以前からの内政・外交両面でのモロッコの複雑な情勢を繁栄して、保護統治下の司法組織は、地域と人員の両面で複数の系統が併存していた。地域管轄について言えば、モロッコは、保護統治初期には2つの、後には3つの地域に分けられる。

(a) その大部分の領土は南部地域(zone sud)と呼ばれていた。これについてはすぐ後に述べる。

(b) 北部地域(zone nord)は従来からスペインの影響下にあった地域である。1912年11月27日のフランス・スペイン協定の後、スペインとスルターンの合意の上に、スペイン本国に倣った司法組織が設けられた。

(c) 1925年12月18日のパリ条約第48条の合意により、タンジールに国際司法裁判所が設けられ、同地の外国人の関与する紛争について裁判管轄を有することになった。

さて南部地域には3系統の裁判所が存在していた。

(i) シェリフ法廷(tribunaux cherifiens)。これはさらに、シュラー法廷、マフザン法廷、ラビ法廷、慣習法廷の4つに区分される。

(ii) フランス法廷

(iii) アメリカ領事法廷

以下、シュラー法廷、マフザン法廷、慣習法廷、フランス法廷に限って簡単に述べることにする。

まずシュラー法廷であるが、これは従来のカーディー法廷とその実質においてほぼ変更はなかった。数少ない改革点としては、採用・昇進・俸給に関する法律が制定された後に、1921年にシュラー控訴院(Tribunal d'appel de chraa) が創設された。これは、一審制を原則とするイスラーム法の伝統に反するものであるが、概してフランス当局による改革は最小限のものに止まった。宗教に関わる問題に関しては干渉を自制した結果と解される。このことはワズィールがフランス外相に送った次の手紙にも明確に現れている。

フランス政府は、望ましいと考える場合には、モロッコの官吏に対して監督官を置くことができます。ただし、カーディーと宗教関係の官吏とハージブ(カーディー法廷の吏員の一つで、カーディーに対して、訴訟の取次事務を担当したり、カーディーの移動の際に随行することを職務としていた)に関しては、宗教を尊重するという見地からこの限りではありません。

つぎにマフザン法廷については、上に述べたところから、シュラー法廷よりも大きな改革を被った。パシャとカーイドの地域管轄を明確にしたこと、シェリフ控訴院(Haut tribunal cherifien) を設けて上訴制度を導入したこと、伝統的な単独裁判制を改め合議制を導入したこと、各マフザン法廷に対してフランス側から監督官を派遣したことなどが挙げられる。

つぎに慣習法廷であるが、1914年9月11日のダヒール(スルターンの勅令の形式で出される法令)によって「いわゆるベルベルの慣習を奉ずる部族は、現状の通りその独自の法と慣習の支配に服するが、これに当局から派遣する官吏の監督下に置くこととする」とされた。すなわち、旧ブラード・シーバーは、スルターンとフランス政府の間の中立地帯を構成することになった。管轄の面からは、民事に関しては慣習法廷が管轄権を有したが、そのメンバーは部族の中から選ばれた。刑事については、部族の長とシェリフ法廷が管轄権を有した。

最後にフランス法廷であるが、1880年7月3日のマドリッド協約と1906年4月7日のアルヘシラス条約に基づいて1911年11月4日のフランス・ドイツ間の条約において、暫時にカピチュレーションが維持されるが、近い将来に、列強の国民に対してフランス風の裁判を行うべき裁判組織が設けられるものとされた。こうして1913年8月12日のダヒールによりフランス法廷が設けられた。この組織は、制度上もフランス本国の破毀院を上訴審としていた。

(2) 管轄

ここでは、フランス法廷とシェリフ法廷の管轄の分配だけを扱う。管轄指定の主たる法源は、フランス法廷の設置に関わる1913年8月12日のダヒールである。これに先立つフランス・ドイツ間の条約に示されたように、フランス法廷は領事裁判所に取って代わるものであると考えられていた。人的管轄の面からは、原則として、モロッコ人とアメリカ人だけがフランス法廷の管轄から除外されていた。そして紛争当事者の少なくとも一方がモロッコ人ないしアメリカ人でない限りは、その紛争は、ごく少数の例外を除いては、フランス法廷の管轄に属するとされた。

この他、両当事者が共にフランス法廷の人的管轄に属しないにもかかわらず、事案の性質上フランス法廷が管轄権を有する場合がある。登記済の不動産、商事会社、工業所有権に関わる事案、行政機関を一方当事者とする民事事件などがこれに該当する。これらに関しては、技術的ないしは政治的な理由からカーディーやパシャやカーイドに担当させるのが不適当であると考えられたからである。

つぎにシェリフ法廷であるが、これが管轄権を有するのは、両当事者がモロッコ人である場合に限られるというのが原則である。シェリフ法廷内部の管轄は従前の原則が踏襲されている。すなわち、身分法と未登記不動産に関わる紛争と公証人の監督はシュラー法廷に属し、その他の紛争はマフザン法廷に属する。ただし物的管轄の内特別の事情でフランス法廷に属するものがある。

管轄の観点からは、不動産は3種類に分類される。

(1)未登記不動産はシュラー法廷の管轄に服する。これは伝統的に不動産訴訟はカーディー法廷の管轄に属していたためである。ただしすべての当事者の人的管轄がフランス法廷に属すれば、その事案はフランス法廷の管轄に服する。

(2)登記不動産を巡る紛争はフランス法廷の管轄に属する。

(3)ジェマーの不動産を巡る紛争はフランス法廷の管轄に属する。

この体制は1880年7月3日のマドリッド国際条約に遡る。これにより、外国人によるモロッコ国内の不動産取得の道が開かれたのであるが、当時はまだ不動産を巡る紛争はカーディー法廷の管轄に属することと、取得にはスルターンの許可を要するという規定が盛り込まれていた。しかし現実には許可が与えられることはなく外国人による不動産取得は不可能であった。

この後1906年1月25日のアルヘシラス条約第60条によって、一部の港湾や都市の近郊の土地についてはこの許可が事前に与えられたものと見なされ、外国人による土地の取得は容易になった。

しかしマフザンによる土地取得に対する制限が大幅に緩和されるには、1914年7月7日のダヒールを待たなければならなかった。

 


海外調査報告

堀井 優「イタリア調査報告」

筆者は、1997年11−12月、1班cグループの派遣により、ヴェネツィアにおける調査を行った。はじめにおおまかな日程を記せば、11月7日に日本を出発し、11月8−10日にイスタンブルにて、同地に滞在中のグループ-リーダー、鈴木 董・東京大学東洋文化研究所教授との打ち合せを行った後、11月12日から12月17日までヴェネツィアに滞在して調査を行い、12月19日に帰国した。

今回の調査の主な目的は、cグループの研究テーマ「イスラームの法と国家」に関する史料調査であった。cグループの研究計画によれば、最初の3年間の研究活動は、イスラーム世界における国家の支配構造および社会の法的規範の構造を明らかにし、その特質を他の文化圏の場合と比較することを目的とする。今回の調査は、この計画を視野に入れ、筆者の研究対象とする地域・時代・テーマの範囲内において行われた。調査の目的として筆者が事務局に提出したテーマは、「15世紀後半・16世紀前半のオスマン朝・マムルーク朝とヴェネツィアとの関係における諸規範と現実に関する文書調査」である。

「イスラームの法と国家」を研究する上で、ヴェネツィアに現存する史料を調査することには、いくつかのメリットがある。ヴェネツィアは、東地中海交易の主たる担い手であった歴史を持つ。東地中海沿岸各地に居留民社会を築いたヴェネツィアにとって、イスラーム諸国家・諸社会の動向は、自らの存亡に関わる問題であった。ヴェネツィアの外政に関する史料のなかには、ヴェネツィア人使節・領事・居留民の活動に関する記録が大量に見られる。したがって、このような記録から、イスラーム諸国家の支配体制と、イスラーム領域内における法的規範およびその適用の実態をうかがうことが期待できる。さらには、ヴェネツィア人使節・領事・居留民の活動は本国政府の動向と密接な関わりがあったがゆえに、彼らに関する記録は、非イスラーム地域の支配構造および社会の法的規範の特質の一例をも表しているはずである。ヴェネツィアに現存する史料を調査することにより、イスラーム世界およびヨーロッパ-キリスト教世界の国家と社会の支配と法的規範の構造の比較と関連づけを行う手がかりを得ることが期待できるのである。

筆者が目下の研究対象とする地域と時代は、15世紀後半から16世紀前半にかけての東地中海世界である。当時の状況は、端的にいえば、オスマン朝やマムルーク朝をはじめとする複数の諸国家が、海上・陸上において勢力拡大を続けるオスマン朝により、ひとつの体制の下に併合されていく過程の中にあったといってよい。この時代は、明らかに、東地中海世界史における、ひとつの大きな転換期であった。しかし現在のところ、その変容の諸相は、ムスリム支配地域においても、またイスラームおよびキリスト教諸国家間の関係においても、十分に明らかにされたわけではない。むろん、当時のヴェネツィア側の第一級史料であるマリーノ・サヌートの日記はすでに公刊されているが、その内容は、文書史料の内容から検討されることが必要であろう。こういった点からも、ヴェネツィアに現存する未公刊史料が注目される。

とはいえ、ヴェネツィアに現存する膨大な史料のなかから、オスマン朝およびマムルーク朝支配諸地域全体にわたって関連する記述を選び出すことは、容易ではない。今回の調査において私は、地域的にはエジプトおよびシリアに限定することを原則とした。このような限定は、とりあえず手始めにという以上の理由がある。東地中海世界の近世への変容は、エジプト・シリアにおけるマムルーク朝支配体制の崩壊と滅亡からオスマン朝支配体制の構築へと至る過程のなかに、最もティピカルなかたちで見いだされるのではないかと期待したことが、その最大の理由である。

今回、現地において調査した機関は、次の3つである。

Archivio di Stato di Venezia(国立ヴェネツィア古文書館、以下ASV)
Civico Museo Correr(コッレール博物館)
Biblioteca Nazionale Marciana(マルチアーナ図書館)

これらのうち、現地滞在中に最も多くの時間を費やしたのが、ASVにおける文書調査であった。ASVの調査に際しては、館員で、ヴェネツィアとオスマン朝をはじめとする地中海世界のイスラーム諸国家との関係を専門とするマリーア・ピーア・ペダーニ・ファブリス氏(Dottoressa Maria Pia Pedani-Fabris)に、多大なお世話になった。同氏による調査上の助言、文書閲覧上の便宜、文書読解上の教示なしには、成果のある調査は行いえなかった。また同氏には、イタリア内外のイスラーム研究者に関する情報をも、提供していただいた。ここで特に記して、謝意を表したいと思う。

ASVにおいて最も重点的に閲覧したのは、ヴェネツィアの対外政策決定の役割を担った元老院(Senato)の決議録(deliberazioni)のうち、外交政策に関する決議を記録した"Secreti"、および東地中海方面一般の政策に関する決議を記録した"Mar"と呼ばれる文書群である。これらの文書群は、ヴェネツィアの東地中海方面に関する政策を知る上で欠かせない基本史料であるが、16世紀のエジプト・シリア方面については、いままでほとんど参照されていないものと思われる。

 "Secreti"および"Mar"ともに、まずは、同時代に作成された、必要な決議を早く検索するための索引書(Rubriche)の閲覧から開始した。

Senato
Deliberazioni
Secreti, Rubriche
reg. 3 (1483-1538)
Mar, Rubriche
regg. 1-2 (1440-1550)

これらから、上述の方針に沿って、重要と思われるものをリストアップした後、決議の記録簿の閲覧へと進んだ。実際に決議内容を読み進むうち、索引書からリストアップしたもののみでは不十分なことがわかったので、結局、閲覧請求した記録簿は、全て目を通すことにした。限られた時間のなかでは、15世紀後半から16世紀前半にかけての全ての記録簿を閲覧することは、不可能である。オスマン朝がマムルーク朝領を征服した1517年前後のものを最も優先した結果、次の20冊の記録簿を閲覧できた。

Secreti
regg. 38-40 (1500-1506)
regg. 43-52 (1510-1527)
Mar
regg. 15-21 (1500-1529)

"Secreti"のregg. 41-42が欠けているのは、索引書から有用な項目が見いだされなかったため、後回しにしているうち時間がなくなったからである。しかし、先述のとおり、実際に記録簿を見る必要があるので、今後に課題を残してしまった。また、索引書によれば、15世紀後半にあたる部分は、上述のテーマから見て重要な決議が数多くなされており、それらの閲覧も今後の課題となった。

上述の記録簿を読み進んで重要な決議を選び出していくうちに、マムルーク朝とヴェネツィアとの間に存在した規範が破綻していく様子、また、オスマン朝支配時代にはいって、従来の規範がそのままのかたちで、あるいは変容して再び機能しはじめた様子が看取できた。選び出した決議の記録は、マイクロフィルムへの複写を申請した。現在は、まだマイクロフィルムの到着を待っている段階であり、その到着後、本格的な分析にとりかかりたいと考えている。

元老院の決議録の他にも、いくつか複写の申請をした文書がある。なかでも、アレキサンドリアおよびダマスクスのヴェネツィア人居留民社会における、"cottimo"と呼ばれる基金の運営に関する決議をまとめた次の史料は、注目に値する。

Cinque savi alla mercanzia
b. 944 (Capitolare del cottimo d'Alessandria, 1321-1587)
b. 944 bis (do.)
b. 946 (Capitolare del cottimo d'Alessandria, II, 1596-1688)
b. 947 (Capitolare del cottimo di Damasco, 1490-1565)

"cottimo"は、現地の居留民社会とスルターン政権との間において必要とされる支出を賄う機能を果たした。これらの史料を上述の元老院の決議録と併用することにより、エジプト・シリアにおけるヴェネツィア人居留民社会の実態は、より明確なものとなろう。

以上の他に、次の文書の複写の申請もしくは筆写をした。

Maggior Consiglio
Deliberazioni
reg. 25 (1503-1521)(部分、筆写)
Commemoriali
regg. 14-20 (1447-1528)(部分)
Collegio
Relazioni
b. 31
Egitto
Alessandria
Cairo
b. 62(Alessandriaの部分)
(これらは全て16世紀中葉以降の史料)
Segretario alle voci
regg. 5-6(AlessandriaおよびDamascoの領事のリストの部分)

以上がASVにおける調査の概要である。マルチアーナ図書館およびコッレール博物館については、当初の私の目論見では、どのような写本が所蔵されているか調査するつもりであった。しかし、ASVにおける調査にほとんどの時間を費やしてしまったので、十分に行いえなかった。わずかに、末期のマムルーク朝に派遣された使節もしくは領事の報告を記録した、次の2つの写本を閲覧したのみである。

Giovanni Danese, "Viaggio de Benedetto Sanuto Ambasciatore de Veneziani al Soldano al Cairo nel 1502," Biblioteca Marciana, cod. ital., cl. XI, no. LXVI, pp. 377-383.
"Informazioni al Senato e lettere al console di Alessandria, di Damasco di Siria e come anche al Gran Maestro di Rodi sopra diversi affari, 1508-1510," Museo Correr, Dandolo P. D., C975/51.

これらのうち、前者を複写することができた。コッレール博物館において蔵写本カードを繰ってみたところ、16世紀中葉以降のエジプトに関する報告を記した多くの写本があることがわかった。これらは、近世のオスマン・ヴェネツィア関係史やエジプト史を研究する上で貴重なものであるはずだが、従来ほとんど利用されていないものと思われる。いずれ、これらの写本群の本格的な調査も必要となろう。

さいごに、ヴェネツィア大学、古代・近東学科、近東部門(Universita di Venezia, Dipartimento di scienze dell'antichita e del Vicino Oriente, Sezione del Vicino Oriente)の研究室を訪問したことを付け加えておこう。私は、イスラーム思想史が専門のフランチェスカ・ルッケッタ教授(Professoressa Francesca Lucchetta)の計らいにより、この研究室を見学させてもらうことができた。同部門の主流はアラブ研究であり、現地語の蔵書もアラビア語のものが多かった。同部門の機関誌として『アラブ研究ノートQuaderni di studi arabi』(現在、前述のペダーニ氏の監修で、ヴェネツィアと近東地域との関係史に関する特集号の編集作業中)がある。あいにくほとんどの教授はマドリードに出払っていて、イタリアにおける研究の状況について十分に話し合うことはできなかった。とりあえず「イスラーム地域研究」の英文ニューズレターを研究室に置いて、回覧してもらうよう依頼した。いずれ何らかのかたちで、日本の研究者との相互交流が行われることを願っている。(了)

 

柳橋博之「スペイン・モロッコ出張報告」