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研究班1「イスラームの思想と政治」
Bグループ「「国際関係の中のイスラーム」」


メンバー
***
五十嵐武士(グループ代表)
石田憲
石田淳
高橋和夫
立山良司
モジュタバ・サドリア

研究会報告

第1回 吉村慎太郎(広島大学)
第2回 立山良司(防衛大学校)
第3回 北澤義之(京都産業大学)
第4回 宮田 律(静岡県立大学)

出張報告

高橋和夫『 夜明け前のバクー』
石田憲『イギリス派遣報告』
研究会の報告

*第一回研究会

吉村慎太郎(広島大学)
1979年革命後のイランとイ・イ戦争下の中東国際関係の変容

【報告要旨】

1960年代の中東においては、米ソ冷戦、PLO・アラブ−イスラエル対立、そしてアラブ内対立の三つが複合的対立の構図を形成していた。イランはこの対立図式の中で、親米、親イスラエル、そしてアラブ内では「現状維持」の立場を採っていた。1979年のイラン革命とその直後に勃発したイラン・イラク戦争は、この複合的対立構図をどのように変容させたのか。

イラン革命の「イスラーム化」はイラン外交のイスラーム革命路線への転換を伴った。革命直後にイ・イ戦争が勃発したが、その背後には、シーア派人口を多数抱えるイラクにおける脅威認識の拡大、湾岸アラブ諸国による革命に対する警戒感の共有、更に、イラン自体が抱えるマイノリティー問題の深刻化といった、イラクにとって開戦を決意するのに有利な条件が存在していた。この戦争の下で、アラブ諸国及び米国は、直接・間接にイラクの支援にまわり、中東における複合的対立構図の中のイランの位置付けが大きく変容を遂げることになった。

 

*第2回研究会

【報告要旨】

報告は、アラブ・イスラエル関係の歴史的展開の概略を整理する前半と、イスラーム主義と中東和平プロセスとの関係を分析する後半とからなる。アラブ・イスラエル関係史を振り返ってみると、アラブ諸国の外交はどのような思想と行動とによって特徴づけられてきたと捉えられるだろうか。1967年の第三次中東戦争の頃までは、反植民地主義、非同盟外交、ナショナリズム、社会主義などを標榜して現状変革を目指したが、第三次中東戦争以降には、「新アラブ主義」に見られるように、既存秩序の維持を指向する動きが現れた。この変化の背後には、産油国の台頭によるアラブ世界の多極化や、イスラエルの軍事的脅威の顕在化といった事情が潜んでいたのではないか。近年、イスラーム世界の中でもイスラエルとの外交関係を樹立する国が確かに増えている。

では、中東和平プロセスに対して、イスラームはどのように影を落としているのか。現状追随型化しつつある世俗ナショナリズムに代わり、宗教ナショナリズムが登場してきているとは言えないか。エジプトにおけるサダト和平路線への反対(ムスリム同胞団)、革命後のイランにおける中東和平プロセスの拒否、パレスチナにおけるインティファーダ(「ハマース憲章」)などにその流れが見て取れるのではないか。

 

*第3回研究会

【報告要旨】

ヨルダンのナショナル・アイデンティティーは歴史的に何によって規定されてきたのだろうか。以下の三つの歴史的要因が指摘できよう。まず第一に、50年代から60年代にかけて、アラブ統一を標榜したエジプトのナセリズムやシリア・イラクのバース主義などのいわゆる「アラブ・ナショナリズム」との対峙である。ヨルダンはアラブ諸国家体制を堅持し、主権を維持しながら協力関係を構築・維持する道を模索した。第二に、67年の第三次中東戦争以降のイスラエルによるヨルダン川西岸の占領によって顕在化したパレスチナ問題との対峙であり、国内におけるパレスチナ勢力との対立である。そして第三に、80年代の末から進む"民主化"の課題との対峙でる。

 

*第4回研究会

【報告要旨】

本報告では、まず第一に、冷戦の終結後、世界の安全保障にとって脅威とみなされる「イスラム過激派」の思想・活動の現況を整理するともに、その政治・社会的、国際的、そして財政的背景を探り、国際社会がイスラム過激派に如何に対処すべきかを検討した。第二に、最近、石油パイプライン敷設ルートをめぐって国際的注目を集めているカスピ海沿岸諸国におけるイスラム復活の動きと、アメリカの対カスピ海外交について、スライドを用いながら概観した。また、アフガニスタンにおける"イスラム原理主義"勢力の現況についても触れた。第三に、アメリカのクリントン政権の対イラン外交の変化の可能性について考察した。殊に、現実主義路線をとるハタミ政権の誕生によって、アメリカもその「二重封じ込め政策」の変更を迫られている点に注意を払った。

 

海外調査報告

報告1

『 夜明け前のバクー』高橋和夫

1997年9月18日木曜日

満月の耿耿(こうこう)と輝く夜にトルコ航空の608便がアゼルバイジャン共和国の首都バクーに到着しました。時間は4時半、夜明け前です。トルコのイスタンブールを出発したのが深夜の11時45分ですから単純に計算すると5時間弱のフライトでした。しかし、トルコとアゼルバイジャンの間には2時間の時差がありますから、それを引けば実際には3時間ほどの飛行時間でした。そんなに距離のない両国の間に2時間もの時差があるのに驚きました。地図を見るとアゼルバイジャンの飛び地のナヒチェバーンとトルコは僅かながら領土を接しています。またアゼルバイジャンの本体とトルコの間には小さなアルメニアが挟(はさ)まっているだけです。ざっと目勘定で百キロ余り離れているだけです。東京から富士山くらいの距離に相当します。なのに2時間も時差があるのです。アゼルバイジャン人がモスクワと同じ時間帯で生活することを余儀なくされていたソ連時代の遺産でしょうか。支配者というものは何時の時代も時間をまず支配したがるものですから。とにもかくにも、ほんの3時間飛んだだけでバクーに着いたのです。

記憶を辿(たど)ると3時間前のイスタンブール空港の待合い室に戻れます。搭乗のアナウンスがあると、どっと乗客がゲートに殺到しました。列を作って整然と待つという文化はアゼルバイジャンに向かう人々の間にはないようです。ボーイング737機に乗り込むと大体3分の2程度席が埋まっています。週4便トルコ航空がイスタンブールとバクーの間を飛んでいます。1便を除いて他の3便はいずれも夜明け前の飛んでもない時間に到着するようになっています。アゼルバイジャン航空も何便か同区間を飛ばしていますから、両都市間にはかなりの人の流れがあることになります。イスタンブール空港から、バクーを始めかつてはソ連を構成していたイスラム教徒の共和国の首都へのフライトが出ています。歴史の流れを実感させられる事実です。本当にソ連が崩壊したのだと。イスタンブールにはソ連の崩壊以来、コーカサスや中央アジアからの買い出し客が押し寄せるようになりました。日本人の目には魅力に今一つ掛ける気のするトルコの商品ですが、それを大量に買い込んで母国で売りさばく商売が盛んになってきました。日本語の表現ですと「担ぎ屋」とか「運び屋」といった言葉が当たるのでしょうか。トルコ語では「外国人」を「ヤバンジー」と呼びます。日本人の耳には「野蛮人」のように響きます。そうした「買い出しの野蛮人」と一緒にチェック・インするとなると大変だなと思ったことがあったのですが。今や私がその羽目になったわけです。

イスタンブール空港で搭乗ゲートを抜けるとバスに乗ったのか、そのまま歩いたのかは、眠気ゆえに記憶が定かではありません。しかし実際に飛行機のタラップの付近で歩いていたのは確かです。そこには先程にチェック・インした荷物が並べてありました。自分の荷物を各自が指し示すと、それを飛行機に積み込んでいます。爆発物の入った荷物をチェック・インされて、空中で爆破さすれるのを防ぐ単純ですが効果的な対策です。かつてバクダッドに向かうイラク航空で同じことをしていたのを思い出しました。もっとも、この方法が有効な前提は犯人に死ぬつもりがないことです。犯人が自らも死ぬことを覚悟して爆発物と一緒に飛行機に乗り込んで来れば、こうした方法も役に立ちません。

さてアゼルバイジャン空港でタラップから降りるとバスが待っていました。バスに乗り移って待っていましたが、バスは動きません。代わりに皆が空港ビルの方に歩き始めました。人の流れに従って薄暗いビルに入りました。パスポート・コントロールです。ボックスが4つありましたが、実際に担当者が座っているのは2つだけです。各ボックスの前には大きな帽子そして迷彩服に身を固めた軍人らしきが立っています。ソ連赤軍がまだ生きているかのようです。恐らく制服はその儘(まま)なのでしょうか。怪しげな風情のロシア人らしきが、しきりにパスポート・コントロールを勝手に行き来しています。近頃のロシア人は、皆マフィアに見えてしまいます。約10分でパスポート・コントロールを抜けることができました。

やれやれです。これで一応はアゼルバイジャンに入国できそうです。アゼルバイジャンへの入国の方法に関しては諸説が東京で流布していました。一つは、査証(ビザ)なしでもとにかく行けば入れてくれるという説でした。その場合には3通りの場面があるとの情報とも噂ともデマとも判然としない話しを耳にしました。まず第一説は空港で入国時に何の問題もなくビザが取れる。第二説はビザは取れるのだが、若干の賄賂を要求される。第三説は、パスポートを取り上げられて仮の入国が許され、指定のホテルに泊められて、その後に外務省にビザを押したパスポートを取りに行く。実は3年前にイスタンブール空港でバクー行きのゲートの前でばったり東京外国語大学のトルコ語の教員に出くわした事がありました。そこで問い合わせたところ、彼は仮入国組みでした。

上記のようなビザ無しの渡航は、いずれも気持の良いものではないと思いました。それで事前にビザを取得する方法を調べてみました。どうも周辺国で取得できるようです。たとえばトルコのイスタンブールにあるアゼルバイジャンの領事館では5日待てばビザが出るようです。実際に今回の旅行ではバクーで上智大学の大学院生に会いましたが、彼はイスタンブールで5日待ってビザを取って入ってきたそうでした。しかし5日もイスタンブールでビザ待ちをする時間的余裕がこちらにはありませんでした。日本にアゼルバイジャンの大使館が開設されるようになるまでは、こうした不便が続きそうです。

こうなれば、もう苦しい時の商社頼みしかありません。伊藤忠商事の知り合いに電話して尋ねると、現地から招待状 (invitation letter)を取り寄せ、それで入国できることが分りました。結局この手しかないと決めました。そこでバクーの伊藤忠石油開発の支店から招待状をファックスしてもらい、そのコピーをもって来たのでした。ファックスのコピーで大丈夫だろうかとの一抹の不安がありましたが、無事にパスポート・コントロールを「突破」することができました。同石油開発の支店からはアゼルバイジャン外務省向けに招待状を出したとの通知が出され、それと照合してパスポート・コントロールの担当者が入国を許可するという仕組みのようです。これもビザ無し入国の変種でしょうか。しかし入国したといっても、まだ不安が残ります。それは、その際にパスポートを取り上げられてしまうからです。確か48時間後でしたでしょうか、ビザが押されたパスポートを外務省に取りに行くと言う作業がまだ残っています。もしパスポートが戻ってこなければ以降の旅行に差し障りがあります。たとえ悪意は無くとも、あの薄暗い空港の床にでも係官が落としてたりなどすれば永遠にパスポートと巡り合えないのではないかと心配です。しかも外務省に取りに来いと言われても言葉も事情も分らない身ではどうしようもありません。ここで告白をすれば、実は同石油開発の現地社員の一人が外務省まで出向いてパスポートを回収してくれるとのことでした。ですから、ここで書いているほど不安で胸が引き裂かれていたわけではありません。苦しい時の商社頼みのパート・ツーでした。しかし、夜明けのあの薄暗いバクー空港に生まれて初めて一人でたたずめば明るい気持ちになんかなれっこありません。

パスポート・コントロールを抜けると、やはり同社に手配を依頼していた運転手が私の名前のプラカードを持って待っていました。名前はティムール、かつての中央アジアの征服者と同じ名前です。余り英語が流暢な雰囲気はありませんが、誠意だけは伝わる風貌の持ち主です。やれやれ、この「征服者」の車でホテルまでは行き着けそうです。しかし荷物がなかなか出てきません。スーツ・ケースの出てくる小さなベルト・コンベアーが二つありますが、どちらも止まったままです。荷物を受け取る部屋は、日本の地方空港ほどのスペースもありません。宅急便の配送所の荷物の引き受け口程度でしょうか。暇に任せて狭い部屋の広告を見回しました。バクーには、もっと言えばアゼルバイジャン全体でも国際水準のホテルは2軒だけだそうですが、その2軒が広告を出しています。ハイヤット・リージェンシーとヨーロッパ・ホテルです。どちらのホテルにもカジノが付いているようです。バクーの石油ブームに引かれて押し寄せる石油関係者でどちらも満室状態が続いており、ハイアットの方は開業から1年半で建設費を回収したとの話さえ耳にしました。コカ・コーラやハミガキのコルゲートなどのようにアメリカ資本が日常の消費物資の面では早速入り込んでいるようです。また韓国の大宇自動車の広告もありました。韓国資本の中央アジアとコーカサスへの進出は素早いものがあるようです。かつてはソ連の国民であった朝鮮族がスターリンによって極東から中央アジアへ強制的に移住させられました。そのため、この地域に韓国企業は親近感を覚えるのでしょうか。人的な繋がりがこの地域への進出に寄与していることは間違い無いでしょう。韓国企業の果敢な進出振りに目を見張ります。サッカーのワールド・カップの予選の訪れた日本チームをスタジアムで迎えたのは韓国企業の広告であったとの報道もうなずけます。スポーツ新聞を見ても国際政治が学べる瞬間もあるものです。

広告を何回見てもまだ荷物は出てきません。この時間を利用して、そもそもなぜバクー訪問を思い立ったかを説明いたしましょう。そもそもコーカサスや中央アジアへの憧れは私のようにイランを勉強した人間には自然に芽生えるものだと思います。と言うのはイランと中央アジアやコーカサス地方は、長い期間に渡って共通の文化を享受してきたからです。たとえば中央アジアのサマルカンドやボハラのような諸都市が、ペルシア文学でしきりに言及されています。日本文学が奈良や京都について語るようにです。現在のアゼルバイジャン共和国の地も19世紀まではペルシア帝国の一部でした。1980年代末から、この地方を訪問したいと思う気持ちを常に持っていました。しかしながら、1980年から1988年のイラン・イラク戦争、1989年のアヤトラ・ホメイニの逝去、1990年の湾岸危機、1991年の湾岸戦争などなど余りにも忙しく、中央アジアやコーカサスまで足を伸ばす機会は訪れませんでした。そんなもどかしさを覚えているうちにソ連が崩壊してしまいました。中央アジアやコーカサスがイスラム世界に戻ってくる。そんな感動を覚えました。

そして思い立って今年の4月よりトルコ語の勉強を遅まきながら始めました。トルコを通してコーカサスへ、そして中央アジアへ入って行こう。そんな気持ちの反映でした。カスピや中央アジアのエネルギー資源を巡る国際政治を、これまで勉強してきたイランの視点から、そしてトルコの視角から理解したい。そんな感情が湧き起こってきました。そんな意識がバクーまで私を連れてきました。

広告を何回も何回も見た後にやっと荷物が出てきました。時計を見ると5時です。飛行機が着陸して30分後にパスポート・コントロールを抜け、自らのスーツケースと再会することができました。先進国並の通関とは参りませんが、なかなかの水準です。その後10月にイランを訪問する機会がありました。飛行機が多数到着する時間に私の便も到着したという不運もあり、またこうした状況で旨く立ち回れないと言う私の不手際もあり、パスポート・コントロールを通過するのにやはり夜中のテヘラン空港でたっぷり1時間は並んでしまいました。それに比べるとアゼルバイジャンでは半分の時間で済んだわけです。テヘランの空港より通関が楽だというのは余り自慢にはならないかも知れません。しかしバクー空港が世界最悪でないことも事実です。入国時には荷物の検査はありませんでした。これもイランよりは格段上です。そのまま薄暗い空港ビルを脱出して、もっと薄暗いバクーの外気の中に入りました。アゼルバイジャンに入国したのです。夜明け前のバクーでした。

(高橋和夫・放送大学)1997年10月17日(金)記

“Baku before the Dawn”

*本稿に修正を加えたものが、『中東協力センターニュース』1997年11月号に掲載される予定です。

 


報告2

石田 憲「イギリス派遣報告」
1997年7月〜8月

 

1997年7月より8月にかけて、研究プロジェクトの支援を受けて約1ヶ月間、ロンドンのキューにあるイギリス公文書館とボンの外務省文書館へ、史料調査に行って参りました。今回は、主として1935年から1936年のエチオピア戦争に関する文書を閲覧し、英独両国の視点から見たエチオピア戦争の諸相を確認してきました。エチオピアは、当時の国際環境の中では、数少ないアフリカ大陸における独立国家であり、しかも周囲をイスラム世界に囲まれながら、3000年のキリスト教帝国を標榜していました。

エチオピアは、1930年代における「黒人独立」のシンボルであり、また数少ない世界に残された「帝国」でありました。エチオピア戦争においては、旧ロシア帝国、旧オーストリア=ハンガリー帝国、旧オスマン帝国といった各地の旧帝国軍人が、かつての自分たちの帝国に対する郷愁の念も含め、エチオピア帝国に義勇兵として参加しています。とりわけ旧ロシア帝国は、正教会を共有しているということもあり、白衛軍の将軍が、軍事アドヴァイザーとしてエチオピア軍に参加していました。

このため、イスラム教徒よりキリスト教徒の方が、即ち近隣地域より遠隔地から義勇兵の申し込みがもたらされていました。またバチカンも、ファシスト・イタリアがエチオピアを侵略することについては、「文明化」の使命を認める以上に積極的な支持を与えることはできなかったのです。これは1936年に勃発したスペイン内戦に対する態度とは好対照をなしています。バチカンは、この内戦介入については「反共十字軍」として、共和国を激しく攻撃したからです。他方、ファシスト・イタリアは、大半がイスラム教徒であるリビアやエリトリアの「黒人兵団」を組織していました。このことについては、先発帝国主義国の英仏両国でさえ、植民地解放の契機になることを恐れ、警戒の姿勢を強めていました。皮肉なことにバチカンは、ファシスト・イタリアの「アスカリ」やナショナリスト・スペインの「ムーア人」のようなイスラム教徒が主力である部隊を有する陣営に、好意的姿勢をとり続けたことになります。

その後イタリアの同盟国となる独日両国は、イタリアのアフリカへの軍事的冒険に親密な態度をとることはありませんでした。ドイツは、エチオピア戦争が長引いて、自らの企図するヨーロッパへの膨張に利用することを主たる関心事としており、イタリアが早期に勝利することへ消極的な姿勢さえとっていました。また、日本も反西欧ナショナリズムの影響から、非白人の帝国であるエチオピアに対する同情が多かったのです。とりわけ、ハイレセラシエ皇帝の一族と黒田男爵の娘の婚姻が進められていた時期であっただけに、反伊感情は右翼の側からも起こっていました。逆に、イギリスやドイツの文書の中には、日本のエチオピアに対する影響力が強化されているのではないかという疑念を示す報告が見出されます。

今回の調査によって、エチオピア戦争に関する様々な視点が確認され、伊エ二国間関係にとどまらない幅広い国際政治史の文脈が明らかになってきました。今後は、収集した史料を元に、多角的な分析に基づく論考を準備していく予定です。