1班bグループ共催研究会報告

「東欧・中央ユーラシアの近代とネイション」
第1回研究会


日時:2000年11月25日(土)〜26日(日)
場所:北海道大学スラブ研究センター大会議室


セッション1 セッション2 セッション3 セッション4



本研究会は、同名の科学研究費基盤研究(研究代表:林忠行・北海道大学スラブ研究 センター教授、2000〜2003年度)の主催によるものであるが、1班bグループが研究範 囲の一部としている中央アジア研究およびナショナリズム研究とちょうど重なるテー マであるため、共催の形を取ることにした。なお、この研究会での「中央ユーラシ ア」は概ね、中央アジア、カフカス、ヴォルガ・ウラル、南シベリアを指している。


セッション1:

 報告:佐原徹哉(東京都立大学人文学部)
     「19世紀のバルカン都市におけるネイション、エトニ、エスニシティ」
 報告:宇山智彦(北海道大学スラブ研究センター)
     「歴史学、民族、中央ユーラシア」
 討論:大塚和夫(東京都立大学人文学部)


 このセッションは、今後の研究を進める上で必要な着眼点や問題を洗い出すことを 目的とした。

 佐原報告は、ネイション、エトニ、エスニシティ、エスニック・グループ、コミュ ニティなどの概念を整理した上で、バルカンの歴史上の諸集団に当てはめ(エトニに 当たるものはmillet、コミュニティに当たるのはcemaat, opshtina, koinotitaだと される)、さらに1860〜70年代のコミュニティとネイションの関係を詳細に検討・類 型化した。その結果、コミュニティ内に未分化のまま共存していた複数のエスニシテ ィがそれぞれ親和的なネイションの下部に位置づいていくという変化が最も一般的で あり、エトニがネイションに連続していくというアンソニー・スミスの考え方は当て はまらないと主張した。コミュニティの主体的選択の自立性と高度な戦略性に着目す べきだ、というのがこの報告の結論である。都市の多言語使用や宗教的相対主義の問 題も取り上げた。

 他方宇山報告は、英語の西欧的ものさしで細かいカテゴリー分けをするよりも、 「民族」と「国民」という用語の方が適切な場合が多いと前置きしたあと、近年盛ん な本質主義批判の民族・ネイション論は重要だが、民族を「虚構」と見て思考停止す るのは不毛であり(他に「真の共同体」があるとする見方は隠れた本質主義を内在さ せている)、あらゆる共同体の被構築性・被想像性を前提とした上で民族・ネイショ ンの特色を考えるべきだと述べた。また、民族起源論の旧ソ連における特殊性と世界 的な普遍性、ロシア帝国における民族間関係の特徴(松里公孝氏が提唱する「ロシア 人・ポーランド人・タタール人=三大帝国民族」論の批判的検討)、イスラームと民 族の関わり(普遍主義を唱えるイスラーム運動が、その「脅威」を唱える逆宣伝によ って、中央アジア諸民族・国家の個別主義を高める方向に利用されていること)を論 じた。

 その後の議論では、ネイション形成における都市の役割と農村の役割、佐原報告で 自明視されていた言語集団単位の画定とナショナリズムの関係、「民族」という用語 の妥当性(日本語の中でしみついてきたニュアンスを考えると妥当でないという意見 と、最大公約数を取れば「民族」が妥当で、ネイション形成は人類史のひとこまに過 ぎないという意見)などが取り上げられた。



セッション2:

 報告:栗原成郎(創価大学文学部)
     「ボスニア・ムスリム民衆叙事詩の成立とムスリム民族意識の形成」
 報告:坂井弘紀(北海道大学スラブ研究センター)
     「中央ユーラシアの叙事詩に謡われる「ノガイ」について」
 討論:伊東一郎(早稲田大学文学部)


 このセッションは、叙事詩を題材として集団意識を検討した。

 栗原報告は、ボスニアとセルビアの叙事詩に関する19世紀のいくつかの文献を検討 して、セルビアではコソヴォの戦いが集団意識の上で強烈な力を持ち、それ以前のこ とはすべて忘れられたこと、ムスリム叙事詩の最初は16世紀のマルコチ・ベイらの活 躍を謳ったものだとされるが、そうした叙事詩はほとんど残っておらず、彼らは韻文 世界から散文の伝説世界に落ちたと考えられることを指摘した。また、18世紀のボス ニア民謡の歌い手たちに関する興味深いデータを紹介した。

 坂井報告は、中央ユーラシアのテュルク系の叙事詩の中で大きな比重を占める、 15〜16世紀のノガイ・オルダに関係した人物たちを謳った、ノガイ大系と呼ばれる叙 事詩群を取り上げた。17世紀以前の歴史に関する叙事詩は、カザフやカラカルパク、 バシコルトといった現在の「民族」に固有の英雄を謳うことは決してなく、ほとんど の場合ノガイの勇士を描いているのである(「エディゲ」「チョラ・バトゥル」な ど)。ノガイの中には親ロシア派と親クリミア派がいたが、叙事詩には反ロシア・親 クリミア的なものが多い。しかしロシア人の血を引く登場人物もいるなど関係は複雑 であり、ロシアとの対立は、むしろ時代を下って強調されるようになったと考えられ る。現在の中央アジア諸国では、「マナス」や「アルパミシュ」など特定の民族と結 びつきやすい叙事詩が持ち上げられ、ノガイ大系の出版・研究は少ない。

 その後の議論では、叙事詩には謳われる事件が起きた時、形成され伝承されていく 時、採集される時という3つの時間層が含まれており、歴史資料としての使い方が難 しいこと、叙事詩が残っている地域と残っていない地域の違い、実在の人物を謳う叙 事詩が多い地域・時代と非実在の人物や怪物を謳う叙事詩が多い地域・時代があるこ との意味、勝ち戦より悲劇的な出来事の方が集団意識に作用しやすいこと、ソ連時代 のレーニンやスターリンについての叙事詩、といった話題が取り上げられた。



セッション3:

 報告:月村太郎(神戸大学法学部)
    「ネイションにおけるメンバーシップと領域」
 報告:小沢弘明(千葉大学文学部)
    「方法としての民族・国民―歴史学の現状と展望」
 討論:林忠行(北海道大学スラブ研究センター)


 このセッションでは、ネイション・民族・国民に関する理論的な諸問題を論じた。

 月村報告は、スタイン・ロッカンの議論から出発して、政治空間の領域的側面とメ ンバーシップ的側面(アイデンティティ集団の統一)に着目し、ネイション建設もこ の2つの次元から検討すべきだとした。たとえばベネディクト・アンダーソンの『想 像の共同体』に当てはめれば、遍歴のクレオール役人が領域的次元、「小新聞」がメ ンバーシップ的次元となる。領域的次元が強調される領域的ネイションが「西欧タイ プ」、メンバーシップ的次元が強調されるエスニック・ネイションが「東欧タイプ」 である。この報告はさらに、クロアチア人の発展における領域的次元とメンバーシッ プ的次元を具体的に検討し、内戦後のボスニア復興においても、エスニック・クレン ジングにつながったようなメンバーシップ的次元における障害が問題であると指摘した。

 小沢報告は、西欧と東欧の二分法、抑圧・非抑圧の二分法、ネイション、ナショナ リズムの分類学(発展段階論、市民的国民/民族的国民)に疑問を呈した。用語の問 題としては、従来はナショナリズムに「文脈に応じて」国家主義、国民主義、民族主 義という日本語をあててきたが、これは実体というより認識のある段階を反映してい る。ここでは、国民国家形成以前も以後も使用可能な概念としてのエトノスを「民 族」、ネイションを「国民」とする。「国民」「民族」「地域」は、実体ではなく、 国民国家体系、国民社会、歴史的地域(都市を含む)などにまつわる問題を索出する 「方法」である。エリック・ホブズボームによる死滅論に反して、実際には国民国家 体系は脱却しがたく、上位の権力(EUなど)や下位の権力(地域、エトノス)によっ て乗り越えるのも困難である。国民を越える強い個人を想定するのではなく、ネット ワーク論的な「弱さの強さ」を議論しながら、ぎくしゃくと進むしかないだろう。

 その後の議論では、用語の問題のほか、ネイションはエスニックな伝統から作られ るのではなく中近世の政治システムから作られたという意見、民族・国民の言語・文 化・特性(「チェコらしさ」のような)は新しい公共空間でのふるまいのために修得 されたという意見、西欧や日本の理論的文脈だけで議論するのでなく現地の史学状況 への関心・緊張感を持って研究すべきだという意見などが出された。



セッション4:

 報告:松前萌(東京大学大学院博士課程)
     「「民族」のはざま―ブルガリアにおける「ポマク」」
 報告:渡邊日日(日本学術振興会特別研究員)
     「民族概念の解体学への前奏曲―ブリヤート・共同体・社会分化」
 討論:北川誠一(東北大学国際文化研究科)


 このセッションでは、文化人類学の視点から、具体的な例に密着して「民族」の問 題を考えることを目的とした。

 松前報告が取り上げた「ポマク」とは、ブルガリア、ギリシア、トルコ、マケドニ ア、アルバニアに住むムスリムで、ブルガリア語(的な言語)を母語とする人々であ る。報告では特に、1878年から現在までのブルガリアの統計と住民登録が「民族」と 「ポマク」をどう扱ってきたかが詳細に検討された。国勢調査では民族別人口の統計 が取られる時期と取られない時期があり、またポマクがブルガリア人に含まれている時期と独立して扱われる時期、「ブルガロ・モハメダニ」と呼ばれた時期がある。住 民登録の自己申告でも、「トルコ人」「ムスリム」「ブルガリア人」、またそれらと 「ポマク」を併記したケースなどさまざまである。現在のポマクには、ブルガリア人 の一部だという意識が浸透しているが、「純粋なブルガリア人」ではないとの自己認 識・他者認識も残り、また30歳以上の人々は、イスラーム名と、1970年代前半の改名 政策でつけられたブルガリア名を場合により使い分けている。

 渡邊報告は、単に「民族」を相対化するというよりは、「全的共同性」を持つ共同 体の存在を前提とした研究全般を批判するものである。ある差異を含んだ現象につい て、「この差は民族の属性による違いである」というのは、社会科学的に何の説明に もなっていない。しかし民族共和国を単位とする連邦制を取ったソ連およびポスト・ ソ連では、民族・民族文化言説の洪水があり、それらの言説にもとづいていろいろな 判断がなされることから来る循環が生じる。ブリヤートの場合、東ブリヤートの方が 西ブリヤートより「ブリヤート的」だという言説がある。しかし現実には東ブリヤー トでも58%以上の人々の名前はロシア名である。また1998年の大統領選挙の際は、チ ベット仏教医療絵図のアメリカへの貸し出しをめぐって論争が起こり、民族問題・宗 教問題が政治に直結しそうに見えたが、実際の選挙結果には反映されなかった。「氏族」による選挙行動の違いとされるものも、極めてあいまいなものでしかない。

 その後の議論では、松前氏が「ポマク人」と言わないのはなぜか、ポマクは「はざま」というより、ポマクの位置づけ自体がブルガリア人やトルコ人の確立に関わる営 みなのではないか、最近の現象を「民族復興」や「宗教復興」とは言いたがらない渡 邊氏の「民族」「宗教」観は狭すぎるのではないか、選挙での民族ファクターは選挙 法の分析や選挙結果の回帰分析を踏まえて論じるべきではないか、民族が「全的共同 性」を持たないのは明らかだとしても、全的共同性を「目指す」ことからもたらされ る特性はあるのではないか、といった指摘がなされた。カフカスの諸民族の場合との 比較も有益であった。



 全体として、本研究会は40人近くの参加者を得て、盛況であった。「ネイション」 その他の用語や訳語をめぐる議論に時間を取られすぎたきらいもあるが、図式化・類 型化を目指す見方と図式を壊そうとする見方、抽象的・理論的な見方と個別具体的な 見方といったさまざまなアプローチの間で対話がなされたことは、有益であった。

 このプロジェクトにとっては東欧と中央ユーラシアを対等に取り上げることが理想 ではあるが、現実には、日本の東欧研究者が中央ユーラシア研究者よりはるかに層が 厚いことを反映して、研究会参加者全体の数でも、議論に積極的に加わる人の数で も、中央ユーラシア側の劣勢は明らかであった。中央ユーラシア研究者を育成する必 要性が、改めて痛感された。

 なお、本研究会のペーパーを集めた報告集が、年度内にスラブ研究センターから刊
行される予定である。
文責:宇山智彦


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