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オスマン文書講読会報告

1999年7月6日、8日、13日
東京大学東洋文化研究所

 

トルコ共和国のイスタンブル大学文学部歴史学科助教授であるマーヒル・アイドゥン氏を招き、7月6日、8日、13日の計3回にわたって、東京大学東洋文化研究所においてオスマン文書講読会がおこなわれた。いずれも平日に催されるという日程上の難点があったが、講読会には多数の参加者を得ることができた。

毎回の講読会は、事前に講読会参加希望者に配布されていたオスマン文書を氏が逐一板書し、内容を解説するのを受けて、高松氏がそれを翻訳し、適宜補足説明をくわえる形式ですすめられた。時間的な制約もあり、毎回配布文書のすべての解説がおこなわれたわけではないが、それは会終了後各文書を転写したものを各参加者に配布し、補完された。

第1回目の会では、イスタンブルのムフティー局に付設されたシャリーア法廷記録文書館に保管される法廷台帳に控えられた文書の控え、第2・3回目の会では、いずれも総理府オスマン古文書館に保管される文書の講読がおこなわれた。すべてが19世紀に関する文書・記録史料であるため、その事情に暗い文責者が適切な解説をくわえるのには手に余るものがある。ただ、タンズィマート期におこなわれた機構改革に伴い、文書の様式に変化が生じたことについては、2・3回目に扱われた文書がその時期に跨っているため視覚的にその違いを確認できた。タンズィマート期以前に作成された文書(第3回目の文書)のひとつの特徴は、一枚の紙に複数の文書が併存していることである。このため、一枚の紙にある各文書の位置づけを認識することにより、形式上の事務処理、意思決定過程を知ることができるのである。これにたいして、タンズィマート期以降の文書(第2回目)は、一枚の紙にひとつの文書が記されて、紙頭部に担当機関名が印字されているのが特徴である。

アイドゥン氏は、さすがに長年にわたる講義経験もあって、会参加者を飽きさせることのない活き活きとした語り口で解説をおこなわれた。ただ、文書の解説にあたって、氏が重視することと文責者(及びほかの研究分担者・協力者?)が重要ではないかと考えたこととの間にずれがあったように思われる。氏は初学者への説明を念頭に置いて、文書の書体の問題がオスマン文書を扱う初学者を悩ませる重要な問題であると考えておられるようである。確かに、書体の問題は初学者を戸惑わせる理由のひとつであるが、それは経験が解決する問題である。そのことよりも重要なことは、文書の文章論理(オスマン官僚達の論理)と文書行政上における各文書の位置づけについて適切な解説を受けることである、と文責者は考える。こうした点は、高松氏の補足説明により解消した部分も大きいと推察されるが、各文書の位置づけを各参加者が十分に理解できたかという点に関し一抹の不安がないわけではない。 オスマン朝史研究者にとって、多種多様な様式をもつ文書のすべてに通暁することは大変困難なことである。今回はアイドゥン氏を招いて、タンズィマート期前後の文書の特色の一端を学ぶことができた。熱意あふれる講義をされた氏に感謝するとともに、今後も今回のような講読会が開催され、オスマン文書に関する基礎的知識が研究者の間で共有されていくことが望まれる。  (文責 清水保尚)

 

なお各回の講読会でとりあげられた史料は以下の通りである。

第1回:ムスリムと非ムスリムの間の共同事業への出資金2500クルシュの返済をめぐる紛争に関するイスタンブルのカーディー法廷における判決の写し(ヒジュラ1217年ラビーウ・アル・アウワル月13日=西暦1802年7月14日付け)。被告の兄弟は、父親の名からアルメニア系であると推測される。

第2回:オスマン朝宗主権下のブルガリアのプロヴディフ(フィリベ)で開催される博覧会の招待への対応をめぐるヒジュラ1310年ムハッラム月30日(1892年8月24日)付けの大宰相への上申。ブルガリア大公による開会の辞に答礼をせまられることを避けるため、オスマン朝の代表をわざと一日遅参させることを提案するもの。

第3回:ヒジュラ1249年ラジャブ月29日(1833年12月10日)付けのプロヴディフ(フィリベ)からの人口増減調査に関する台帳提出の報告と、それを受けて、調査の不備を指摘して再調査を命ずる勅令とともに台帳を送り返すことに関する上申。上申ではジプシー住民の年齢とムスリム、非ムスリムの別を明らかにしたうえで、調査を逃れた者を加えた新しい台帳を作成する必要を説く。 (文責 高松)