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第3回オスマン文書研究会

1999.11.20(土)
東京大学文学部 文学部アネックス2階大会議室

Stefka Parveva "Sofia Oriental Archives: Structure, Organisation and Possibilities of Research"(報告は英語)

Stefka Parveva氏のプロフィールについて

  • 専門:オスマン帝国支配下のブルガリア、特に17、18世紀の社会経済史
  • 現在の所属:Bulgarian Academy of Sciences
  • 経歴:Veliko Tarnovo大学卒業、Oriental Section of the National Library in Sofiaにて博士課程修了(1989年)
  • Ph.D.論文"The Bulgarian Population from the End of the 17th to the Middle of the18th century -Demographic and Socio-Economic Aspects"
  • 主要業績:"The Network of Settlements and Population Density in Parts of Northern Bulgaria and the Sub-Balkan Plains in the Late 17th and Early 18th Century", Istoriyeski Pregled, Sofia, 1992, pp.32-50. (ブルガリア語)

発表要旨

ブルガリア科学アカデミーのStefka Parveva氏による報告は、"Sofia Oriental Archives: Structure, Organisation and Possibilities of Research"と題し、ブルガリアの諸機関に所蔵されるオスマン語史料の紹介を中心に英語で行われた。従来のオスマン史研究は、イスタンブルの総理府オスマン古文書館所蔵のオスマン文書に基づくところが大きかったが、本報告では、ブルガリアにおいても多数のオスマン文書が保管されていること、とくにイスタンブルには伝世しない独自の詳細な情報を伝える史料が存在することが実例を挙げて紹介された。またブルガリア各地には、文書に限らず、オスマン朝支配期に高官や有力者たちの寄進によって設立された図書館の旧蔵書として、貴重な写本類が数多く伝わっていることも、参加者の関心を集めた。報告後は、ブルガリアにおけるオスマン文書の伝世の過程などについて活発な質疑応答が行われ、今後のオスマン朝史研究の進展において、ブルガリアに所蔵される史料が無視できない存在であることが認識された。(文責 高松洋一)

清水保尚「オスマン朝における記録史料について」

 発表は、オスマン朝の記録史料(紙葉状の文書が照合目的で控えられた台帳状の史料)全般にたいする概観ではなく、発表者が関心を寄せる、ムカーターに関わる史料を中心におこなわれた。まず発表の前半部では、「課税調査(タフリール)」とその調査結果を基に算定された、様々な生業からの税収を対象にして設定されたムカーターに関わる記録史料を扱った。すなわち、その監理・運営の各過程で作成された記録と記録、記録と文書が機能面でいかなる対応関係にあるのかを読み取り、その業務においていかなる形式が踏まれたのかについて言及した。後半部では、記録史料の作り手に焦点を絞り、その作り手の中でも地方の財務組織を取り上げた。そして、16世紀末において地方財務組織がどのような活動を行い、その活動が中央政府の国家戦略といかに結びついていたのか、という問題について報告を行った。

 まず、中央政府が課税対象をどのように認識していたのかという点を踏まえて、ムカーターに組み込まれる種々の税がどのように査定されていたのかという問題に簡単に触れた。

 中央政府は課税対象を把握するため、16世紀末まで県(サンジャク)毎に「課税調査」を実施していた。調査にあたり調査担当者は次のような資料を参考にした。まず第一に、調査地において徴税権を認可されていた者(スルタン及びサンジャク・ベイのハスの管理者、ザイム、エルバーブ・ティマール)とワクフ、ミュルク収益の保持者、役の対価として免税を認められた者たちの権利を保証する文書ならびに彼らが作成した収税記録である。このほか、以前の「租税台帳〔ムファッサル・デフテリ)」、ジズヤ台帳に加え、アウァールズ台帳が参照されたと考えられる。従って「課税調査」の結果、「租税台帳」、ジズヤ台帳、アウァールズ台帳が作成されたと考えられる。

 これら三つの台帳に含まれる情報を中央政府が総合的に把握していたという点は、1530年作成のアナドル州の記録が示唆してくれる。その記録の冒頭に記される要覧では、はじめに免税特権をもつ者たちと課税対象あるいはワクフ、ミュルクに指定された場所、施設が、その数とともに記される。次いで、免税特権を有していないもののアウァールズ税を免じられた者とその課税対象者が、これもまたその数とともに記載される。その際、課税対象者はその担税力による別(ハーネ、ミュジェレッド)とともに、ムスリム、非ムスリムの区別も記されている。その後に税、収益の割当先が列記される。この要覧の記載からもわかるように、中央政府は各種の税に関し課税・非課税対象を把握したうえで、税、収益の帰属先を確認していた。

 報告において問題とするムカーターは、スルタンのハス(国家、帝室用の収入)に指定された場所、施設から生ずる税収を対象にして設定された「徴税単位」であった。その場所、施設は、農業が営まれる村、耕作地に限定されるわけではなく、鉱山、都市、港、ハマム等も含んでいた。そしてそれらを利用して生業を営む人々が、課税対象者であった。ムカーターに組み込まれた課税対象に関する記載は「租税台帳」に含まれているが、その記載の多くは農業と関わるものである。それゆえ、とりわけ農業と関わる税を対象に設定されたムカーターの場合、「租税台帳」は、その課税対象者と担税力を知るうえで、基礎的な情報源である。

 このことから判断すれば、「租税台帳」が従来ティマール制下の社会・経済史を研究するための史料と位置づけられてきたことは一面的な評価であろう。なぜならその記録にはムカーターに組み込まれる税の査定も記されているからである。軍務の対価として分与される徴税分と国家・帝室財政を賄うための徴税分が「租税台帳」に併記される以上、16世紀末まで後者の査定〔特に農業と関わる税の場合)も、県単位でおこなわれた「課税調査」に基づいておこなわれたといえる。

 「課税調査」による査定の後、徴税業務を監理・運営する過程で、(1)請負契約時、(2)徴税・納税時、(3)税の未納などの問題が発生した時と、およそ上記の時期に記録が作成された。

 まず請負契約時、財務組織は、請負契約者宛、請負契約条件の通知、確認・証明のためカーディー宛に各々文書を作成した。このうち請負契約者宛の文書の内容を財務組織は請負契約簿に控え、保管した。

 次いで徴税時、請負人は徴収に関する記録を作成し、財務組織に提出した。この収税記録はほとんど伝世していないが、請負契約条件のなかで請負人がその記録の提出を求められていること、請負人が債務を残したまま失踪した際、彼が作成した記録の確保が図られた事例があることから、その記録は財務組織が請負人の徴税活動を把握するうえで基本的な資料であったことは疑いない。さらに請負人による実際の徴収実績を示すその記録中の個々の記載は、請負人が下請負人あるいは納税者に手渡した納付証の控えからなると考えられる。

 これとは別に、請負人が財務組織に納付した税額は、財務組織が作成する日々収支簿(ルーズナームチェ)で確認できる。日々収支簿自体、財務組織が管理するあらゆる出納の記録であるが、その収入部に記されるムカーターに関する個々の記載は、財務組織が請負人に渡した納付証の控えである。このため、請負人による請負額の納付状況はその記録から確かめられるのである。

 第三に、未納分が発覚した際作成されるのが「債務記録簿」である。債務の有無を確認するために、財務組織は、上記した請負契約簿、請負人提出の記録、日々収支簿を照らし合わし、未納付分があれば「臨時徴収官」を派遣した。その結果、徴収官による未納付分の回収を記す記録が「債務記録簿」である。

 このようにムカーターの監理・運営の過程で作成される記録と文書、記録と記録の機能面における関係を理解すれば、その業務において踏まれる形式を理解することが可能となる。

 発表の後半では、16世紀末以降、国家の根幹を支える重要な制度となっていった徴税請負制と「傭兵制」を円滑に運用するに当たり、両制度に財務行政面で関わったた財務組織を取り上げた。

 オスマン朝においては、バルカン半島の広範な地域と小アジアの西部地域を財政管区とする中央財務組織と上記以外の地域に設けられた財政管区を管轄する複数の地方財務組織が存在した。16世紀末以降に中央財政が地方財政を吸収していく状況が進展し、その過程の中で上記両制度が拡張していったのではないかと発表者は推定しているため、上述の時期時点で、地方財務組織がどのような活動を行い、その活動が中央政府の国家戦略といかに結びついていたのか、という点を考察した。

 この点を考察するうえで事例として取り上げたのは、ハレブ財務組織である。そして考察を進めるうえで主として用いた史料は、財務省移管台帳分類のno.1346である。この台帳は、日々の出納を逐一記録した日々収支簿とその要約である収支会計要簿(イジュマーリ・ムハーセベ)からなる、ハレブ財務組織作成の財務記録である。

 その記録の内容を検討する中で、以下の点が明らかになった。第一に、財務組織内で実務をおこなう人員には各々担当があり、中央財務組織を擬した組織構成が採られていた。第二に、収入の中で一番高い割合を占めるのはムカーターからのものであり、ハレブ財務組織は管轄するすべてのムカーター(日々収支簿ではその数80)の徴税権に関し請負希望者と請負契約を結び、請負額が納付されるのを監督していた。第三に、ハレブ財務組織はその財政管区内の城塞に駐留する兵士の俸給に加え、サファヴィー朝との境界地域の防衛と関わる城塞兵の駐留経費を負担していた。従って同組織はその財政管区を越えて、東部方面を防衛する資金の一端を担っていた。第四に、同組織から中央政府への送金額は総支出のなかで最も大きな割合を占めるため、この送金業務がハレブ財務組織が中央政府にたいして担った一番重要な仕事であった。ムカーターの監理・運営、俸給の支払において、ハレブ財務組織は、中央財務組織を擬したかたちで処理懸案ごとに文書を作成し、それらの文書を個別の記録に控え、また各問題についてカーディー達の監査をうけて、財務行政を遂行していた。

 地方レベルで財務行政をおこなううえで、ハレブ財務組織は問題を抱え、その問題はその立場を顕著に示している。とりわけ上述した第二、第三、第四の点は密接に関連しており、その関連性は、中央政府により、財政面で軍事制度と徴税制度の運用上の接点に位置づけられていたハレブ財務組織の立場をよく表している。問題は次のような形で端的に現れた。

 東部境界地域の防衛を担う城塞守備兵への俸給支払は、ハレブ財務組織を境界地域と結びつけた。この結びつきは、俸給の支払に遅配が生じると問題として表面化した。遅配が起こると、支払命令が中央政府から届くにとどまらず、俸給の受け取りのため各城塞から直接人員がハレブに派遣された。彼らは地方行政責任者達の合議の場や財庫を襲撃したため、中央政府は各城塞から多人数が派遣されることを禁じ、ハレブ市内に入れる派遣人員の数を制限する措置をとった。

 城塞駐留兵の俸給の支払と並んで中央政府への送金は、中央政府の大きな関心事であり、その業務の遂行に滞りがあれば各地方財務組織は財務調査とその結果を報告するよう命じられた。中央政府がその送金に関心を抱くのは、その金が中央政府の経常の収入であり、平時に中央政府の必要経費、戦時に総司令部の必要戦費として用いられたことに起因していた。

 従って、財政管区内の必要経費調達に加え、上記した財政管区外のための資金調達の必要性が、ハレブ財務組織をして税の回収業務にカプクル、シャームのイェニチェリを重用させる原因となった。その結果、「臨時徴収官」に任じられた彼らは、徴税請負人に金銭を要求し、住民に対し掠奪をおこなうなどの問題を引き起こした。

 以上のような問題をハレブ財務組織が抱えることになった理由は、平時に中央政府の必要経費、戦時に総司令部の必要戦費を調達する目的に加えて、境界地域の城塞に駐留兵を配備する資金の獲得に努めた結果にほかならないと考えられる。このことは、東西に延びた境域に城塞を設けて、駐留兵を配備する資金を得るために、効率のよい徴税機構を設けることを模索していた中央政府の戦略に地方の財務組織が組み入れられていたことを示している。このような戦略を立てるうえで中央政府が前提としていたのは、地方の財務組織が中央財務組織を擬した形で、文書の作成、記録の管理、金銭の出納をおこないうる組織であることであった。従って、財政面で徴税請負制と「傭兵制」の要にあった財務組織は、中央、地方ともに均質な業務を執り行うことができ、そのことが16世紀末以降オスマン朝全土を巻き込んだ形で両制度が拡張していく、制度上の前提であったと考えられる。(文責 清水保尚)