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マーヒル・アイドゥン氏京都講演会報告

1999年7月17日
立命館大学文学部衣笠キャンパス

 

去る7月17日(土)、立命館大学文学部衣笠キャンパスにおいてマーヒル・アイドゥン氏による講演会「アブデュルハミト二世とその時代」(英語)が開催された。司会は谷口淳一氏(京都女子大学)が、講演途中のトルコ語による説明の解説には林佳世子氏(東京外国語大学)があたった。

まずはじめに、論題「アブデュルハミト二世とその時代」に関連して約60枚のスライドが上映された。例えば、アブデュルハミト二世あるいはミトハト・パシャをはじめとする要人たちの肖像、ブルガリアの山賊、イスタンブルに設立された官営工場、軍営、西欧化するイスタンブルの新市街の風景など、講演のなかで言及される内容が映像として具体的に提示された。特に日本とのつながりから、アブデュルハミト二世時代に日本へ来港し、その帰路、三重県串本沖で難破したオスマン朝の軍艦エルトゥールル号や、第二次世界大戦後に串本町で行なわれた慰霊碑の除幕式の写真などは、日本においてもあまり知られていない貴重な写真であった。

続く「アブデュルハミト二世とその時代」の講演本体では、まずはじめにアブデュルハミト二世の時代は、国内に民族問題や経済的、軍事的諸問題を抱え、スルタン権力を維持することが困難な時代であったこと、当時オスマン朝が多くの問題をかかえていたためにアブデュルハミト二世は専制化せざるをえず、当時のオスマン政府イコール、アブデュルハミト二世と性格づけられるようになったことが指摘された。

また彼の有名なパン・イスラーム主義政策は、あくまでイギリス帝国主義に対抗するための政策であり、この一断面のみをとらえて、アブデュルハミト二世はスレイマン一世よりも宗教熱心だったいうような意見は論外であるとアイドゥン氏は述べた。

講演の最後においてアイドゥン氏が「アブデュルハミト二世とその時代」という主題を離れ、オスマン朝崩壊に至るまでの大きな流れを板書しながら説明したことも記憶に残った。トルコ民族、イスラーム、オスマン人というように中心から外に向かって同心円上に展開していたオスマン朝のアイデンティティが、まず非イスラーム教徒が離反することでオスマン人の国家としての性格が失われ、ついでアラブ系の離反でイスラーム教徒の国家としての性格が失われ、最後にトルコ主義が核として残り、統一と進歩委員会のトルコ主義的政策につながっていったというものである。

質疑応答では、トルコ語、日本語による質問−「通行証は帝国内臣民全員が携帯するか」、「現在のトルコにおけるオスマン史研究者のあいだにおいてアブデュルハミト二世の評価はどのように類別されるのか」−も活発になされた。アイドゥン氏自身は、アブデュルハミト二世擁護派でも非難派でもなく、歴史状況のなかでアブデュルハミト二世の業績を客観的にとらえ直し、学術的に再評価することの重要性を強調していた。

本講演会は、大変蒸し暑い日に行われ、しかも諸大学の前期試験中にもかかわらず、関係者含めて計40名が参加した。また終了後の懇親会も大変もりあがった。立命館大学のある学生は「英語が国際語であることを改めて痛感」し、別の同大大学院生は「関西の大学学部および大学院でトルコ、オスマン関係の研究をしている人々との交流ができたことは本当に貴重だった」との感想を話してくれた。イスタンブル大学助教授であるアイドゥン氏が京都を来訪し、このような講演をして下さったことは、学部生および院生にとって大きな刺激になったといえよう。

(文責 江川ひかり・高松洋一)