東札幌病院倫理セミナー  Sept/9/1996  by 清水 哲郎

安楽死とセデーション


安楽死の概念(復習)

安楽死の定義 : 苦しい生ないし意味のない(と思われる)生から患者を解放するという目的のもとに、意図的に達成された死、ないしそれを達成するための「死なせる」行為。

行為の手段に関する区分 : 積極的安楽死 / 消極的安楽死

決定のプロセスに関する区分 : 自発的安楽死 / 非自発的安楽死 / 反自発的安楽死

以上、詳しくは 尊厳死と安楽死の概念と区分 を参照。

1 セデーションは間接的安楽死か

セデーション : 意識レベルを下げて、苦痛を感じないようにすること; 鎮静

permanent sedation : 一旦意識レベルを下げたら死亡まで続ける/ 死亡直前期の耐えられない痛みを避ける措置/ 現実の人格的生はそこで終わりとなる。
問題となっているセデーションとは、これのこと。

temporary sedation: しばらく意識レベルを下げるが、その後覚醒させる/ ターミナルケアに限らず、人工呼吸器を使う時には通常これを伴う/ controlled sedation

意識の下げ方の段階 : conscious sedation (意識を残す)---対語は deep sedation か?

間接的安楽死は安楽死とは言えない 〈間接的安楽死〉: 苦痛の緩和を意図する措置が結果として死期を早める場合 (結果として死期が早まると予想していても、緩和という意図の下にその措置を あえて選択する場合)。

*安楽死の上記の定義からすると、これは「安楽死」ではない。
*意図的でなければ、死期が結果として早まったとしても問題ないかどうかは、検討しておく必要がある。

そこで、問題は次の二点に言い換え得る:
(1) セデーションは死期を早めるという〈副作用〉を持つか
(2) 緩和を意図する措置が、死期を早める〈副作用〉を持つと予想される 場合に、それでもなおその措置を選択することは倫理的にいって可能か

Double Effect論は役に立たない : QOLと延命とが両立しない状況は、一般に ダブル・エフェクトという状況としても見ることができる(二重の効果があって 一方はメリット、他方はデメリット)。

ここで、「デメリットに勝るメリットかどうか」あるいは「デメリットを 予想してもなお、選択する理由があるか」への答えは、 結局QOLを優先するか、延命を優先するかにかかっている。あるいは、個人の 価値観・人生観にかかっているということもできる。当事者の判断をぬきに 評価することはできない。
そもそも、延命を優先して積極的医療を選択し、QOL低下は仕方ないとするか、 QOL保持のため緩和医療だけを選択し、死期が早まるのは仕方ないとするか、 がそういう問題だった。
ただし、緩和医療の考え方の基本には「QOLを優先する 価値観を持つことも認めよう」という点があるには違いない。
ともかく、メリット、デメリットの差し引き勘定ができない状況では、 Double Effect論は役に立たない。

意図と予想の区別 : メリット、デメリットの双方が予想される場合、 そしてそれが差し引き勘定できない場合、当事者の価値観によって、 どちらを優先するかが決まる。そして、優先したことを意図して、かつ もう一方を予想しつつ、選択がなされる。------緩和医療はこのような 選択の仕方を認めるものでないと、うまく機能しない。

もしそうであれば、先の問いに対して、次のようにいえる。
(1) セデーションに死期を早める効果があるかどうか、私は知らない。だが たとえ死期を早める(と分かった)としても、
(2) 他に適当な緩和の手段がない場合には、本人の選択に基づいているかぎり、 たとえ死期が早まるという副作用があったとしても、セデーションを緩和を意図 して選択することには、倫理的に問題はない。

このことをもし間接的安楽死と呼ぶのなら、「こうした間接的安楽死は 倫理的に正当化し得る」と堂々と答えればよい。
ただし、私は「死を意図的にもたらすのではない以上、これは安楽死ではない」 と主張するほうが、問題をきれいに整理できると思う。

2 セデーションは積極的安楽死とどう違うのか

積極的安楽死が許容されるための条件(判例)
(1) 耐え難い肉体的苦痛がある
(2) 死が避けられず、その死期が迫っている
(3) 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない
(4) 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある
判例プラス・アルファ
(a) 医師が行う
(b) 死をもたらす手段が、本人に苦痛を与えるようなもの、残酷なもの であってはならない。
(c) 患者の意思確認のプロセス(十分なコミュニケーションとケア)
(d) 医師の独断ではなく、医療チームとしての合意
以上は、ほぼ終末期におけるセデーションの適応条件であろう。つまり、セデーションという発想がなければ、積極的安楽死が許容されるところで、死の代わりに意識レベルを落とすというコントロールが登場したのである。

ここでの問題提起は:

最終的セデーションは結局積極的安楽死と変わらないではないか------ 医師は自らの手で死なせることを避けるために、これを選択しているのであって、ある意味でこれは徒に生を長引かすこと、ないし無意味で非人間的な生をもたらすことになる。したがって、最終的セデーションが認められる状況では、むしろ積極的安楽死を選択するほうが、人間としての尊厳ある死を迎えることになろう。
つまりここでは、ダブル・エフェクトが:
メリット : 身体的苦痛からの解放
デメリット : 人間的生からの引退
ということになり、選択はQOLの諸要素間のものとなる。 これに対して、どう応じるか。

例えば、死期が数時間から1--2日に迫っているというような条件は、ここで有効となる。セデーションをしなくても人は最後は昏睡状態になることがしばしばある。それはそれだけでは「人間的でない」とはいえないだろうからだ。

とはいえ、以上の限りでは、問いはオープンになっている。