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パレスチナ研究班・研究会「エルサレムの現在とイスラエル/パレスチナの新しい未来像
 (Contemporary Jerusalem and New Vision for Israel/ Palestine)」報告
錦田愛子(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)

 概要

  • 日時:2012年10月31日(水)16:00〜19:00
  • 会場:東京大学東洋文化研究所 第一会議室
  • 主催:NIHUプログラム「イスラーム地域研究」東京大学拠点パレスチナ研究班
  • 共催:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・基幹研究「中東・イスラーム圏における人間移動と多元的社会編成」/MEIS「中東イスラーム研究拠点」
  • 講演者:バシール・バシールDr. Bashir Bashir(エルサレム・ヘブライ大学講師)
  • 講演題目:エルサレムの現在とイスラエル/パレスチナの新しい未来像(Contemporary Jerusalem and New Vision for Israel/ Palestine)

 趣旨

This lecture seeks to contribute to thinking differently, namely out of the box on the question of Israel/ Palestine through focusing on the city of Jerusalem. More precisely, this talk argues that a closer examination of the realities in Jerusalem and the city’s symbolic capitals demonstrate the failure of the logic of partition and separation to bring to a historical reconciliation in Israel/ Palestine. Jerusalem stands there calling a different ethics that should guide the future of historic Palestine. According to this ethics, the rights and identities of the Arabs and Jews in Palestine are inseparable practically and ethically.

この報告ではイスラエル/パレスチナ問題について、特にエルサレムに注目しながら新たな思考を試みる。エルサレムにおける現実や、この街のもつ象徴資本としての価値は、イスラエル/パレスチナの歴史的和解に向けて、分割・分離の論理は通用しないことを示している。エルサレムは歴史的パレスチナの未来を導くにあたって、異なる倫理を必要としており、この倫理に従えば、パレスチナにおけるアラブとユダヤの権利やアイデンティティは、倫理的にも実際上も分離不可能といえるのである。*エルサレム在住のパレスチナ人であるバシール氏による、こうした問題提起を受けて、研究会では参加者との間で活発に議論を戦わせていきたい。

講師略歴:

アッカー在住のパレスチナ人研究者で、ロンドン大学LSEで修士および博士号(政治理論)を取得し、現在、エルサレム・ヘブライ大学政治学部の講師で政治理論を教える。ヴァン・リア・エルサレム研究所フェロー。専門は、民主的包摂の理論、熟議民主主義、マルチカルチュラリズム、パレスチナのナショナリズムと政治思想など。編著は『多文化社会における和解の政治』W.キムリッカと共編(オックスフォード出版、2008年)、「シオニズムの正義/不正義を問いなおす:パレスチナ・ナショナリズムへの新たな挑戦」Ethical Perspectives 18(4): 632-645(2011年)など多数。

 報告

本報告では、不可分な都市エルサレムを象徴としてとりあげ、パレスチナ/イスラエルをめぐり展開されてきた分割のロジックの限界について論じられた。現在のエルサレムでは、アラブとユダヤそれぞれの権利およびアイデンティティが相互に不可分なものとなっており、分割は倫理的に擁護できない状況となっている。分割は、道徳的にも非人道的な結果をもたらす。こうした状況は、エルサレムのみならず、鳥瞰的にみると歴史的パレスチナの全土に対していえることである。これはつまり、相互承認や互恵性を前提として二つのネイションの共生を図る、バイナショナル政治が不可欠であることを示すものである。こうした考えは、実際に流離(exile)を経験した双方の知識人の間から導きだすことができる。エドワード・W・サイードや、ハンナ・アーレントはその一部だ。彼らは流離を強いられたことにより、自身の難民としての経験をもとにコスモポリタンな流離の倫理を抱くに至った。パレスチナ/イスラエルにおいて二国家を語ることは、それ自体が暴力的なことである。パレスチナのナショナリズム運動は、こうした状況を避けるため、1960〜70年代までは領域的ナショナリズム(領域内の住民すべてをひとつのネイションとみなす)であったが、その後はエスニック・ナショナリズム(エスニック集団ごとのナショナリズム)に変わってしまった。サイードは前者の支持者だった。パレスチナとイスラエル双方の政治家は、後者にもとづき分割の議論を進め、現実に進んでいるアラブとユダヤの不可分に結びついた生活の実態を無視している。しかし今後は、これまでのような分割のロジックを越えた発想が重要となる。

以上の報告をふまえ、質疑ではパレスチナ/イスラエルといった表現を用いることの意義、「アラブのエルサレム」と言った場合に何が含意されるのか、サイードによるバイナショナリズムの支持などをめぐって議論がなされた。報告者は政治哲学が専門であり、自身がパレスチナとイスラエル双方の実務者を招いた対話のプロジェクトを主催しておられることもあり、近年議論が盛んになっている分割を超えた新しい未来像について、生き生きとした話を聞くことができた。
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