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スライヤー・カリーモワ博士公開講演会・講演全文
(イスラーム地域研究東京大学拠点・東洋文庫共催)
*日本語訳:木村暁(日本学術振興会)

 概要

  • 日時:2008年12月9日(火) 午後3時−4時30分
  • 場所:東京大学法文1号館 1階 113番教室
    http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_01_j.html
  • 講演者:S. U. カリーモワ(ウズベキスタン共和国科学アカデミー東洋学研究所副所長)
  • 演題:「ウズベキスタンにおけるイスラーム期文献史料の研究:成果と課題」

 報告

はじめに

まずは、ウズベキスタンにおける東洋学という学問の形成について簡単に述べておこう。1918年、タシュケントにトルキスタン東洋学大学が創立された。この大学の創設がそもそもいかなる理由によっていたかはさておくとして、その開学は国の学術活動における重要な出来事であった。その初代の学長には民族誌学者のM. S. アンドレーエフが選任された。これについで学長職を務めたのは、著名なイスラーム学者、A. E. シュミットであった。

トルキスタン東洋学大学においては、トルキスタンやこれに隣接する国境外の東洋諸国の歴史、文化、対外経済関係、および一連の東洋諸民族の言語が学ばれた。この間のさまざまな時期に、東洋の諸言語を完璧に習得したP. E. クズネツォーフ、N. E. ヴンツェッテル、N. G. マリツキー、V. V. バルトリド、A. E. シュミットといった歴史学、民族誌学、文献学を専門とするロシア人学者、ならびに、サイイドラスール・サイイドアズィーゾフやイスラーム学に通じたV. クチャルバエフ、およびアブドゥッラフマーン・サアディー、ミールザー・タギーエフ、ミールザー・イブラーヒーム、バダル・カーリーエフといった現地人学者、さらに、M. S. アンドレーエフ、A. A. セミョーノフといった現地在住のロシア人東洋学者が、この大学においてさまざまなテーマのもとで研究報告をおこない、また具体的な研究活動に実践的に取り組んだ。

理由は定かではないが、1924年にトルキスタン東洋学大学は単独の学部として中央アジア国立大学に編入されることになる。1930年になると、この学部は教育学部に改組され、さらに翌31年には農芸大学に改編されたうえでドゥシャンベ市に移転された。現地の東洋学者たちは当局の監視のもとに置かれることになった。しかし、その後の短期間のうちに、この学府からはP. P. イヴァノーフ、M. E. マッソーン、V. A. シーシュキン、O. A. スーハレワといった学者、また、ムフタール・アヴェゾフ、ミールザーカラーン・イスマーイーリー、マクスード・シャイフザーダ、M. I. シェヴェルディンといった作家が輩出した。

この時期には、教育の分野のみならず、写本作品を収集し、これに解題を付してカタログ化するといった方面でも作業が開始された。ウズベキスタン国立国民図書館の東洋セクションにおけるこの種の作業を促進するために、タシュケント、サマルカンド、ブハラ、および共和国内のその他の諸都市から、写本を読む能力を十分に身につけた、かつてマドラサで教育を受けた人々が招集されるようになった。

1940年代には、ウズベキスタン東洋学のその後の発展を基礎づける布石が置かれた。すなわち1943年11月、ウズベキスタン科学アカデミーの構成下に東洋学研究所が創立され(当初これは東洋写本研究所と呼ばれた)、1944年には中央アジア国立大学に東洋学部が開設された。

この研究・教育機関においては、当時第二次世界大戦の戦火を避けるかたちでレニングラードやモスクワにおける東洋学研究の中心機関からタシュケントに疎開してきたE. E. ベルテリス、A. P. バラーンニコフ、V. I. ベリャーエフ、I. P. ペトルシェーフスキー、V. V. ストルーヴェ、A. N. コーノノフといった名だたる学者たちが活動を展開した。中央アジア国立大学東洋学部の学事には、東洋の諸言語や文学に精通したS. ミールザーエフ、M. バハードゥロフ、S. ガニーエフ、B. ハーリドフ、A. ムタリボフ、M. R. アンドレーエフ、A. A. セミョーノフといった現地の学者や専門家が招集された。

東洋学部の主要な課題が東洋学者、文献学者、歴史学者の養成であったとすれば、科学アカデミー東洋学研究所の活動は、写本作品を保存し、研究することからなっていた。というのも、東洋学研究所はウズベキスタン国立国民図書館(現在のアリーシール・ナヴァーイー名称国立図書館)の東洋セクションを基礎として創設され、そこに所蔵されていたすべての写本と石版本は東洋学研究所に移管されていたからである。このとき以来、研究所は共和国の東洋学研究の中心拠点となった。当初、この研究所における学問研究の主要な分野は東洋文献学であった。写本に学術的な解題を付し、カタログ編纂をおこなうこと、また、写本作品を翻訳し、これに学術的な注釈を加えることは、この分野における基本的な課題として認識されていた。

かくして1950年代以降、東洋学にかかわる研究活動は、大別すれば以下の4つの方向性にしたがって展開していくことになった。
  1. カタログの編纂
  2. 史料の出版
  3. 中央アジア史の研究
  4. 国外の東洋諸国の歴史と現在に関する諸問題の研究
この4ついずれの項目に関しておこなわれた研究も、多かれ少なかれ時代の要請からの影響をこうむっていた。とりわけソ連時代には、人文社会系の他の学問分野と同様に、東洋学研究もまたイデオロギーの介入を受け、そこでは階級論的アプローチが要求された。こうした理由から、中世の諸史料の宗教的なアスペクトはほとんど顧みられることはなかった。よしんば顧みられたとしても、そのような宗教的アスペクトについては無神論的立場から解釈が試みられるといったケースがまま見られたのである。

宗教的な活動家やスーフィー・タリーカの活動も否定的に評価された。ソ連国外の東洋諸国の情勢に関する研究は政治的な利益に立脚し、これらの国々においてさまざまな時代に起こった反乱や民族解放運動、または文化的な動向を対象とする研究に限られていた。

この時代に特徴的だったもう一つの状況は、共和国内の写本フォンド、アルヒーフ、図書館などが外国人研究者に対して閉ざされていたということである。ちょうどこれとおなじように、ウズベキスタン人研究者の側も外国に自由に出ていく機会をもっていなかった。つまり、ソ連国内外を結ぶような活発な学術交流は存在しなかった。しかし、そのような条件下においても、1950年代から90年代にかけての時期に一連の基礎的な研究が実施された。

1991年にウズベキスタンの独立が宣言されたのち、国内の状況は急激に変化した。ウズベク語に国家語の地位が与えられるとともに、宗教的な信仰の自由と、歴史的遺産の見直しの可能性が生まれたのである。このことはまず、東洋学の分野における研究に反映した。すなわち、ウズベク語での学術出版、および大衆向けの出版が増加し、それと同時にロシア語での研究業績、とりわけロシア語で書かれた学位請求論文の数が激減した。研究におけるウズベク語の地位の確立は、研究成果の利用者の範囲をウズベキスタンという国家の領域によって限定することにつながったのである。

独立以降、イスラーム学やスーフィズムのような研究の方向性が生まれたことは、ウズベキスタン東洋学にとって肯定的な状況として評価することができる。イスラームに対する態度が変化した結果として、1999年にはタシュケント・イスラーム大学が、また、1998年にはイマーム・アルブハーリー学術研究センターが創設された。同センターは2008年、その活動の拡大を目的としてイマーム・アルブハーリー国際財団に改組されたうえで、タシュケントからサマルカンドに移転した。タシュケント国立大学(前身は中央アジア国立大学)の東洋学部を基礎として1991年に創立されたタシュケント国立東洋学大学、ならびに、ウズベキスタン共和国科学アカデミー・ビールーニー名称東洋学研究所においては、イスラーム学の講座やセクションが開設された。しかし、イスラームとスーフィズムにかかわる諸々のテーマのもとで現在にいたるまでおこなわれてきた研究の学問的なレベルについて、これを一様に高いと言うことはできない。これには宗教的活動家やスーフィー・シャイフの生誕年と関連する数多くの記念行事の開催も、ある意味では影響を及ぼしている。なぜなら、記念行事のための出版物は、短期間での課題遂行が必須であるところの、国が発した注文の所産であるため、その多くは大衆向けの著作物によって構成されることになるからである。

近年における好ましい変化の一つが、国際的な学術交流の拡大である。外国人研究者にとっては、ウズベキスタン国内の研究機関や写本フォンドへのアクセスが可能となった。それとともに、ウズベキスタン人研究者もまた、世界中の東洋学の研究拠点や史料所蔵機関に赴いて研究をおこなう機会を利用するようになっている。国際的な研究プロジェクトや学会も実施されている。

概して、ウズベキスタン東洋学において今日までおこなわれてきた研究は、時間の経過とともに、時代の要請に応じながら量的にも質的にも変化を遂げてきたが、それらすべてを小論で網羅することは到底できそうもない。中世の最初期から20世紀初頭までの中央アジアの歴史および文化史にかかわるさまざまな物質史料や文献史料に依拠して公刊された研究業績は、膨大な数にのぼる。それらのうち1940年代から90年代にかけておこなわれた研究のいくつかについては、日本で刊行されたAsian Research Trends誌第6号(1996年)に発表されたR. ムクミノワ女史の「13世紀から19世紀のウズベキスタンに関する最近のウズベク歴史研究」と題された論文において論じられている。ここ数年のあいだに活字化された研究の数も少なくない。それゆえ、以下ではもっぱら写本のカタログ化および出版と関連するいくつかの業績についてのみ、簡単な情報を提供するにとどめたい。

I. カタログ編纂

この分野に関しては、出版されたカタログは以下のように5つのカテゴリーに分類することができるだろう。

I.1. ウズベキスタン科学アカデミー諸フォンドのカタログ

1998年まで、ウズベキスタン科学アカデミー所轄の写本フォンドは、ビールーニー名称東洋学研究所とハミード・スライマーノフ名称写本研究所という二つの研究所に所在していた。1998年9月に写本研究所が廃止され、そのフォンドに収蔵される7,586点の写本と約5,000点の石版本はビールーニー名称東洋学研究所に移管された。現在これらの写本と石版本は、東洋学研究所のハミード・スライマーノフ・フォンドを構成している。そこに収蔵される約1,000点のウズベク語写本、および約900点のペルシア語写本については、その解題を含む2巻本のカタログが1988年から89年にかけて刊行された。これら2巻に収録された解題の基本的部分は文学にかかわる作品によって構成されている。また、1999年にはイランにおいてハミード・スライマーノフ・フォンドの大部分の写本を収める簡約カタログ(リスト形式)がペルシア語で公刊されている

ビールーニー名称東洋学研究所には、上記のスライマーノフ・フォンドのほかに、13,319点の写本を収める基盤フォンド、ならびに、5,237点の写本からなる二次フォンドが存在し、また、約5,000点の文書と35,000点以上もの石版本やその他の刊本も所蔵されている。このうち基盤フォンドの収蔵写本の、7,574点の作品の解題が収録されたロシア語のカタログSobranie vostochnykh rukopisei (略称SVR) が、1952年から87年にかけて公刊され、これは全11巻を数えている。このSVRは構成上、全巻にわたってさまざまなテーマの写本作品を収めており、言語の点でも混成的なものとなっている。このカタログの編纂は当時の東洋学のいくつかの研究分野の発展にとっては重要であったが、一方で、こと写本研究に関していえば、のちに研究上の経験が蓄積されるにともない、SVRの刊行には不備があったこともまた明らかとなった。

とくに、学術的な解題を付すにあたっての写本の選定は、綿密に練り上げられた原則にしたがったものではなかった。よって、解題の記述はテーマの点でも、言語の点でも、また、写本の選択基準の点でも、一貫性を欠いたものとなった。ある作品の解題の記述にあたって、その作品を収めたすべての写本が集められたわけではなく、結果として、同一の作品がくりかえし解題を与えられ、その解題はカタログのそれぞれの巻に分散して収められることになった。いくつかの作品には誤ったアイデンティフィケーションがなされ、古文書学的な情報を提示するさいに誤謬が生じることもあった。

I.2. テーマ別カタログ

今述べたような状況をふまえて、東洋学研究所においては1980年代にテーマ別カタログの編纂が開始された。この作業の成果として、1998年から2000年にかけて、歴史、自然科学、医学に関する写本をそれぞれ対象とした3つのテーマ別カタログが刊行された。その出版にあたってはドイツのハレ・ヴィッテンベルク両市にまたがるマルティン・ルター大学のユルゲン・パウル教授から直接の支援をたまわった。

独立以降もカタログ化の作業は継続し、これにあたってはテーマ別カタログの編纂に重点が置かれた。なぜなら、その主な目的は、たとえ単一テーマの枠内ではあれ、フォンドに所在する写本に関して、できるだけ多くの新たな情報を研究利用に供することにあったからである。こうした作業の成果として、ナクシュバンディーヤ・タリーカの歴史に関する作品の写本カタログ(1993年、タシュケント)、18世紀から20世紀にかけて著されたスーフィズムに関する作品の写本カタログ(2000年、ベルリン;2002年、シュトゥットガルト)、アフマド・ヤサヴィーのいわゆる「ヒクマト」ものの写本カタログ(2006年、トルキスタン)、全3巻からなる東洋ミニアチュールのカタログ(2001、2003、2004年、タシュケント)が公刊された。

作品の言語ごとにもいくつかのカタログが編纂された。たとえば、アラビア語作品のカタログ(1995年、ドバイ)や、ペルシア語作品のカタログ(1997、1999、2006年、テヘラン)がすでに公刊されている。これらのカタログは東洋学研究所に所在し、かつ、その解題がすでにSVRの各巻に収められている写本を対象としており、アラビア語およびペルシア語の読者のために特別に編纂されたものである。したがって、これらのカタログは言語別とはいえ、全フォンドに所在する、当該言語の写本をすべて網羅しているわけではない。

ドイツの研究者との協力のもとで編纂され、ロシア語で出版された、18世紀から20世紀のスーフィズムに関する作品のカタログは、これまで解題を与えられていなかった写本をカバーしている点で注目に値する。このカタログのいま一つの重要な点は、東洋学研究所の基盤フォンドのみならず二次フォンド所在の写本も含めたうえで、当該テーマに関連する作品に解題が与えられていることである。

I.3. 著者別作品カタログ

SVR各巻の編纂・出版過程においては、アブドゥッラフマーン・ジャーミー(1965年)、アリーシール・ナヴァーイー(1970、1986年)、アミール・フスラウ・デフラヴィー(1975年)、アブーナスル・ファーラービー(1975年)、アブーアリー・イブン・スィーナー(1982年)といった思想家や学者によって著された、東洋学研究所のフォンドに所在する諸々の著作の写本のカタログも個別に公刊された。

I.4. 民間およびその他のフォンドのカタログ

ウズベキスタンの諸州における写本コレクションに関する情報は、シャフリサブズのラウナキー私立図書館の写本カタログ(Sh. ヴァーヒドフ、A. エルキノフ、1998年、ゴム)、ブハラ州立図書館の写本カタログ(G'. クルバーノフ、F. シュワルツ、1998年、ブハラ)、カラカルパク自治共和国ヌクスの写本カタログ(A. ムウミノフ、M. シュッペほか、2007年、ローマ)などに見いだすことができる。

しかし、ウズベキスタン共和国における最大のフォンドである東洋学研究所の写本フォンドに、今日にいたるまで依然、包括的な学術的解題が与えられていないことはあらためて指摘しておかねばならない。この問題をある程度解決するために、これまでもカタログ化の対象となってきた基盤フォンドの写本群に包括的に解題を与え、その電子カタログを英語で作成するという作業がこのほど開始された。このプロジェクトは5カ年での達成がめざされており、ドイツのゲルダ・ヘンケル財団の助成金によって実施されている。このカタログ編纂にあたっては、これまでに生じてきたような不備が繰り返されないよう、十分な注意が払われている。

I.5. 文書カタログ

現在のところ、文書はウズベキスタン共和国において公刊されてきた文献史料の蓄積のなかでも比較的薄い層を形成している。その一方で、こうした文書に含まれるオリジナルの情報は、中央アジアの中世史や近代史における社会、経済、宗教、その他の諸問題の研究において大きな意義を有している。このような観点からみるならば、共和国内のさまざまなフォンドや博物館に所蔵されている歴史文書のカタログは、この地域の歴史におけるいまだ開かれざる生面を検討するうえできわめて重要であろう。ビールーニー名称東洋学研究所のフォンドに収蔵される19世紀から20世紀のヒヴァのカーズィー文書のカタログ(A. ウルンバエフ、堀川徹ほか、2001年、タシュケント・京都)、中央アジアのヤルリクのカタログ(A. ウルンバエフ、G'. ジョラエワほか、2007年、ハレ)、ホラズムのイチャンカラ特別保護区博物館に所蔵される17世紀から20世紀のヒヴァのカーズィー文書とヤルリクのカタログ(E. カリーモフ、2007年、タシュケント)、また、17世紀から19世紀のクブラヴィーヤ教団のワクフ文書(E. カリーモフ、2008年、タシュケント)などは、そうした文書カタログの実例である。

19世紀から20世紀のヒヴァのカーズィー文書のカタログの公刊にあたって、日本人研究者のなした貢献には多大なものがある。彼らはウズベキスタンのヒヴァ市でおこなった研究調査にさいして件の文書群を民間から買い取り、東洋学研究所に寄贈するとともに、同研究所の文書研究の専門家であるA. ウルンバエフ、G'. ジョラエワ、T. ファイズィーエフの諸氏と共同しておよそ1,700点の文書に解題を付し、これをカタログ化してロシア語で公刊した。今現在もこれら日本人の共同研究者の諸氏は当該文書のファクシミリ版を包括的なかたちで出版すべく、作業に取り組んでいる。

『中央アジア・ヤルリク・カタログ』もまた、東洋学研究所の国際共同研究の所産である。そこには15世紀から20世紀初頭までの時期に属する122点の文書が収められており、それらはブハラ、ヒヴァ、コーカンドのいわゆる三ハン国にかかわるものである。このカタログには122点すべての文書の写真複製も添えられている。この出版はドイツとウズベキスタンの東洋学者の、古文書学の分野における継続的な共同研究の成果である。

古文書学に関しておこなわれる研究にとって、文書に捺された印章の研究も重要である。この点でG'. クルバーノフ氏の『中央アジア印章学に関する史料』と題されたカタログ(2006年、タシュケント)は、当該分野の専門家にとって有用であろう。このカタログは2部構成をとっており、第1部ではブハラ特別保護区博物館に所蔵される、19世紀から20世紀初頭の時期に属する印章についての個別的なデータ(補遺に印形も示されている)が提示され、つづく第2部では印章の捺されている個々の文書の解題が与えられている。

II. 史料の出版

ウズベキスタンにおいて現在まで出版されてきた史料は、便宜的に以下の4つに分類することができよう。
  1. 歴史史料
  2. 科学史に関する史料
  3. イスラームとスーフィズムに関する史料
  4. 言語と文学に関する史料
こうした出版物に共通しているのは、それらが基本的にロシア語もしくはウズベク語の訳注のかたちで公刊されてきたことである。それとともに、たとえば、もしテュルク語のものであれば、アラビア文字からキリル文字への転写のかたちがとられることもままあり、また、ごくまれにではあるが、もとのアラビア文字のままで刊行されるというケースもみられる。

II.1. 歴史史料

これまでに刊行された諸々の歴史著作は、年代的には中央アジアにおけるイスラームの浸透期、ティムールおよびティムール朝、また、シャイバーン朝とアシュタルハーン朝の時代に属している。その大部分を構成するのは翻訳である。そのなかでも、中央アジアとその近隣の東洋諸国の9世紀から11世紀までの時期に光を当てる著作としては、アブーバクル・ナルシャヒーの『ブハラ史』(A. ラスーロフ、1966年)、アブージャアファル・アッタバリーの『タバリー史』(V. I. ベリャーエフ、1987年)、アブーサイード・ガルディーズィーの『ザイヌルアフバール』(A. K. アレンツ、1991年)、アブルファイズ・バイハキーの『マスウード史』(A. K. アレンツ、1969年)、またこのほかにも、先行する時代にくわえてモンゴル時代(1231年にかけて起こった出来事まで)をも記述対象に収めたイッズッディーン・イブヌルアスィール・アルジャザリーの『アルカーミル・フィッタアリーフ』(P. G. ブルガーコフ、Sh. カマーリッディーン、2006年)などを挙げることができる。

アミール・ティムールおよびティムール朝の時代の史料に関しては、ソ連時代にもウズベキスタンの独立後にも、中央アジア史のほかの時代に比して、より多くの研究が積まれてきた。しかし、1990年代にいたるまで活字化されてきた研究においては、ティムールやティムール朝の政治的活動、また個々の人物(とりわけティムールやバーブルなど)を扱うさいにはイデオロジカルなアプローチがとられていた。

そうとはいえ、ソ連時代にはペルシア語およびテュルク語の史料のうち、アブドゥッラッザーク・サマルカンディーの『マトライ・サアダイン・ヴァ・マジュマイ・バフライン』(A. ウルンバエフ、1969年)、ファスィーフ・ハヴァーフィーの『マジュマリ・ファスィーヒー』(D. ユースポワ、1980年)、バーブルの『バーブル・ナーマ』(M. A. サリエ、1958年)、グルバダンベギムの『フマーユーン・ナーマ』(S. アズィームジャーノワ、1959年)といった著作が公刊された。これらとならんで、A. ウルンバエフ氏の編纂にかかる、シャラフッディーン・アリー・ヤズディーの『ザファル・ナーマ』のファクシミリ出版(1973年)、および『ナヴァーイー・アルバム』として有名な書簡集に収められた『ジャーミーの書簡集』の出版(1982年)は、この種の基礎的研究の成果のうちに数えられる。

中央アジア史の16世紀から18世紀の諸事件に関して情報を提供する史料としては、シャイバーン朝の歴史に関するファズルッラー・イブン・ルーズビハーンの『ミフマーンナーマイ・ブハーラー』(R. ジャリーロワ、1976年)、ハーフィズ・タニシュ・ブハーリーの『アブドゥッラー・ナーマ』(S. ミールザーエフ、B. アフメドフ、1966、1969年)、また、アシュタルハーン朝の歴史を取り扱うムハンマド・ユースフの『ムキーム・ハン史』(A. A. セミョーノフ、1956年)、年代的にその続編とみられるミール・ムハンマド・アミーン・ブハーリーの『ウバイドゥッラー・ナーマ』(A. A. セミョーノフ、1957年)、そして、アブドゥッラフマーン・ターリイの『アブルファイズ・ハン史』(A. A. セミョーノフ、1959年)といった著作の翻訳が公刊された。

ウズベキスタンの独立後には過去の解釈のあり方に変化が生じた。支配者たちの歴史的な役割にはそれまでとは異なる評価が与えられるようになり、そのことは東洋学に関する研究にも反映した。とりわけ、アミール・ティムールやティムール朝の王族、また、彼らと関係のあった宗教的活動家や政治家を対象とした翻訳出版が増加した。イブン・アラブシャーの『アミール・ティムールの歴史』(U. ウヴァトフ、1992年)、ミールザー・ムハンマド・ハイダルの『ターリーヒ・ラシーディー』(A. ウルンバエフほか、1996年)、シャラフッディーン・アリー・ヤズディーの『ザファル・ナーマ』(A. アフメドフ、1997年(ウズベク語)、2008年(ロシア語))、ニザームッディーン・シャーミーの『ザファル・ナーマ』(Yu. ハキームジャーノフ、A. ウルンバエフ、1996年)、アブドゥッラッザーク・サマルカンディーの『マトライ・サアダイン・ヴァ・マジュマイ・バフライン』(A. ウルンバエフ、2008年)といった著作は、そうした成果の実例であろう。

当該の時代にかかわる史料出版のなかで、ホージャ・ウバイドゥッラー・アフラールとその信奉者たちの往復書簡が原史料の英訳を付されて刊行されたこと(J. グロス、A. ウルンバエフ、2002年)は特筆に値する。この刊本は『マジュムーアイ・ムラーサラート』(通称『ナヴァーイー・アルバム』)と呼ばれる書簡集に収められている原書簡を収録しており、ホージャ・アフラールの筆に帰される128点の書簡、さらにその信奉者たちの123点の書簡がそこには含まれている。この刊本の重要性は、それがマー・ワラー・アンナフルとホラーサーンにおけるティムール朝後期の歴史に光を当てる作品であるという点のみならず、ナクシュバンディーヤ・タリーカや、その卓越した指導者であるホージャ・アフラールという人物とその活動を研究するうえでも信頼性の高い史料であるという点にある。

これまでに積み重ねられてきた研究業績とならんで、この分野においてはこれから遂行していくべき一連の諸課題も存在している。とくに指摘するとすれば、文献史料、わけても歴史史料を原テキストのかたちで出版することには、現在にいたるまで十分な関心が払われていない。じっさい、それら歴史史料の大多数は依然として未公刊のままである。とりわけ、中央アジア史の16世紀から20世紀初頭までの時代に光を当てる諸史料に関しては、先行する時代に比しても研究が不足している。この不足を補い満たす目的で、現在、ビールーニー名称東洋学研究所では当該の時代にかかわるいくつかのペルシア語およびテュルク語の著作について、そのテキストと翻訳を刊行するための準備が進められているところである。

II.2. 科学史に関する史料

ソヴィエト政権の時代には、ウズベキスタン東洋学において実施された基礎的研究の大部分は中世の碩学たちの世俗的な業績、より正確にいえば、精密科学や自然科学の分野における著作のロシア語およびウズベク語への翻訳がこれを構成している。その理由は、一つにはホラズミー、ファルガーニー、ビールーニー、イブン・スィーナー、ウルグベクのような学者たちが中央アジア地域の出身であり、なおかつ彼らの著作がその故郷、すなわち中央アジア本土においてほとんど研究されていなかったことにあった。またもう一つの理由は、まさにこの方法に訴えることにより、地域に古来存在してきた豊かな文化遺産を、共産主義イデオロギーの支配する時代にいながらにして階級論的アプローチからは自由なかたちで提示することにあった。じっさい、1950年代から90年代にわたって、ビールーニーの著作集の叢書がロシア語訳(全7巻)とウズベク語訳(全5巻)とで刊行されたし、イブン・スィーナーの名高い医学百科事典、『医学典範』はそのロシア語とウズベク語の完訳がそれぞれ二度刊行されている。また、ラーズィー、ファーラービー、ファルガーニー、ホラズミーの学問的遺産のなかからいくつかのアンソロジーが編まれ、ロシア語とウズベク語によって刊行された。そして、これらの出版物にもとづいて、科学史に関する一連の論文と著作が執筆された。こうした出版物があったからこそ、東洋学研究所はウズベキスタンにおける科学史研究の中心拠点となったのである。

独立以降、科学史に関して出版された史料はそれほど多くはない。その大部分はまた、碩学たちを顕彰する記念行事と関連して出版された。とくに1994年には、ウルグベクの生誕600周年を記念して、彼の『ズィージ・ジャディーディ・グーラカーニー』という天文学著作のロシア語訳注(A. アフメドフ)が刊行され、またアフマド・ファルガーニー(797年頃生)の生誕1,200周年が祝われたさいには、その天文学著作のロシア語訳とウズベク語訳(B. A. ローゼンフェルド、A. アフメドフ、1998年)が刊行された。2006年には地理学、天文学、占星術の諸問題を扱ったビールーニーの著作、『アッタフヒーム』のウズベク語訳が公刊された。さらに、ミールザー・ウルグベクの師であったカーズィーザーダ・ルーミーが、チャグミーニーの天文学論集に付した注釈のロシア語訳(P. G. ブルガーコフ、1993年)が公刊されたほか、バースィトハーン・シャーシー・タビーブが著した医学書のキリル文字転写版(M. ハサニー、2003、2004年)も出版された。

これまでに公刊されてきた科学史に関する研究を総括するならば、そこには以下の2点の特徴を見てとることができるだろう。

1. 出版された史料の多くは、中央アジアにおける科学の9世紀から11世紀までの時代、また、15〜16世紀の時代の業績にかかわるものであり、17世紀から20世紀までの時代はほとんどカバーされていないという点。
2. テーマとしては、相対的にみて数学、天文学、医学が大きな比重を占めているという点。

科学史といえば、精密科学や自然科学の歴史と理解されるのはもっともなことではあるが、哲学があらゆる学問の「母」とされるのを考慮に入れるならば、次の点を指摘することができる。すなわち、中世のあらゆる学問は哲学によって基礎づけられていたといえども、この時代の哲学に関する史料は、ウズベキスタンではまだごくわずかしか研究されていないのである。その理由は、中世の哲学がイスラーム教と結びついていたため、ソ連時代には哲学に関する史料を唯物論的解釈なしに公刊することが不可能であったことに求めることができる。

今日、こうした空隙を埋めることを目的として、東洋学研究所ではイブン・スィーナーの神学と哲学に関する諸著作の、新たなアプローチにもとづく研究が着手されるようになった。

しかし現在、科学史に関する史料の研究は落ち目にあり、それはいくつかの要因と結びついている。すなわち今日では、こうした研究を実行できるような専門家(東洋諸語を身につけた、科学の分野の専門家)の数がきわめて少なくなっているのである。独立後に歴史的・宗教的内容の著作を自由に研究することが可能となったおかげで、学術的関心がより多くはこの方面に向けられていることが、そのような落ち目を導いた主な原因ではないだろうか。

II.3. イスラームとスーフィズムに関する史料

ウズベキスタン東洋学において、イスラーム教とスーフィズムに関する諸史料の研究と出版は、独立後になってから本格的にはじまった。イスラームの研究への制約が取り払われたことは、一方ではクルアーン、宗教諸学、スーフィー・タリーカの歴史、およびその教義に関する諸々のテーマの研究を可能にしたが、しかしまた一方では、学術性からはほど遠い出版物をも増大させることになった。これはある意味では、宗教文献に対する一般庶民の関心の高さにも起因していた。その結果、現在イスラームにかかわるテーマのもとで出版されている書籍のなかで、大衆向けの著作の比重は学術的・基礎的な出版物のそれに比してはるかに大きなものとなっている。とはいえ、基礎的な研究としては、東洋学研究所においておこなわれた『聖クルアーン』のウズベク語による学術的な訳注(第1巻、M. ウスマーノフ、2004年)、ならびに、スーフィズムに関するいくつかの著作を挙げることができる。またそのような研究の一環として、『マナーキビ・ドゥークチ・イーシャーン』と題されたテュルク語作品の原文とロシア語訳注が、専門的な解説を付されたうえで2004年に公刊された(B. ババジャーノフほか)。この出版はカザフスタンおよびスイスの研究者との共同研究によって実現したものであり、この刊本においては1898年のアンディジャンにおけるドゥークチ・イーシャーンの反乱の歴史を解明するためにビールーニー名称東洋学研究所所蔵の諸写本がはじめて取り上げられ、かつ、ドゥークチ・イーシャーンのスーフィー教団の形成とそのロシア植民地当局に対する闘争の歴史がはじめて眺望されている。その解説においては、蜂起の主な要因は宗教的なものではなく、むしろ経済的なものであったようだと結論づけられている。

シャイフ・フダーイダードの『ブスターヌルムヒッビーン』という著作についても、東洋学研究所所蔵の2点の写本にもとづいてその校訂テキストが出版された(B. ババジャーノフ、2006年)。ヤサヴィーヤ・タリーカの歴史と教義について書き記されるこの著作において、著者はいくつかの儀式、それに関連する特殊な用語、タリーカの代表的人物たちの精神的・肉体的状態、ズィクルの形式と種類について考察を加えながら、それらを理論的に説明している。また同書においては、この地域のテュルク語話者のあいだでスーフィズムの影響下で生まれたいくつかの典型的な民族芸能について、その精神的な重要性が示されてもいる。

ナクシュバンディーヤというスーフィー・タリーカの秀でた指導者であるマフドゥーミ・アアザム(16世紀)の筆に帰される『リサーライ・タンビーフッサラーティーン』という著作については、そのロシア語訳(B. ババジャーノフ、2001年)が、サンクトペテルブルグで刊行された『スーフィーの英知』と題された論集において発表されている。この著作はシャイバーン朝君主のウバイドゥッラー・ハンに献呈されたものであるが、その執筆目的は為政者に対して、国政においてシャリーアの諸規定を厳格に遵守するように呼びかけることにあった。著者の理論的な見地や見解はホージャ・アフラールの経験に拠って立っていた。

ホージャ・アフラール(1404-90年)という人物とその活動への関心は、ウズベキスタンの独立後に高まりをみせた。それを如実に反映する例として、このテーマに関連する、多くの場合は大衆向けの大小の出版物が世に現れるようになった。学術的出版物の実例としては、前段でも言及したA. ウルンバエフ氏の『ホージャ・アフラールとその信奉者たちの書簡集』、また、シャイフの生涯とその子孫の歴史を扱ったM. カーディロワ女史による『ホージャ・アフラールの伝記』と題される専論(2007年)、さらに、ファフルッディーン・アリー・サフィー(1463-1503年)によって著された『ラシャハーティ・アイヌルハヤート』という作品の、19世紀の古ウズベク語訳のキリル文字転写版(M. ハサニー、B. ウムルザク、2003年)などを挙げることができる。

近年、19世紀末から20世紀にかけて中央アジア地域において生起した政治的変動の状況下におけるイスラームのあり方や、現地の知識人やウラマーが植民地時代やソヴィエト体制下において展開した改革主義的な活動に光を当てる史料もまた学術的に取り扱われるようになった。

とりわけ、コーカンド出身の詩人にしてカーズィーであったムハンマド・ユーヌスホージャ・ターイブ(1830-1903年)の『トゥフファイ・ターイブ』という著作のペルシア語テキスト(B. M. ババジャーノフ、Sh. ヴァーヒドフ、小松久男、2002年)、また啓蒙家にして詩人であったイスハークハーントラ・イブラト(1862-1937年)のウズベク語による『時代の秤』と題される著作(小松久男、B. ババジャーノフ、2001年)、さらに、ソ連時代の最初期と末期の中央アジアに出現した信仰厚いウラマーたちの手になる著作の原文とロシア語訳を収めた論集(B. ババジャーノフ、A. K. ムウミノフ、A. フォンキューゲルゲン、2007年)などは、そのような史料の好例といえよう。今述べた出版物のうち前者2つは、日本のイスラーム地域研究プロジェクトによって刊行されたものである。

II.4. 言語と文学に関する史料

この方面における出版物の占める比重はそれほど大きくない。90年代にいたるまで、東洋の言語と文学に関して公刊されてきた研究業績は、次の2つのグループ、すなわち、中世古典文学の諸史料と現代東洋文学にかかわる出版物とに大別することができる。中世東洋文学に関して論じようとするなら、ウズベク古典詩人の創作物も視野に収める必要があろう。もっとも、これはきわめて大きなテーマであり、別途論じるべき問題といえる。よって、ここではもっぱら東洋学と関連するいくつかの出版物についてのみ述べることにしたい。

公刊された史料のなかでは、数の点でいえばテュルク語史料が第一の地位を占めており、ペルシア語史料、さらにアラビア語史料がこれにつづく。アラビア語史料の古典文学の例としては、11世紀の文人、アブーマンスール・アッサアーリビーの『ヤティーマトゥッダフル』、および、『タティンマトゥルヤティーマ』という著作のウズベク語訳(I. アブドゥッラーエフ、1976年)、また、アブーアリー・イブン・スィーナーの筆に帰される『サラマーンとイブサール』や『ハイイ・イブン・ヤクザーン』といった哲学的な説話(A. イリーソフ、1980年)、ならびに、『医学におけるラジャズ体韻文(ティッビー・ウルジューザ)』と題される韻文作品(Sh. シャーイスラーモフ、1980年)などを挙げることができる。

1960年代には、マフムード・カーシュガリーの『テュルク諸語集成』という著作のウズベク語訳が3巻本で公刊された(S. ムタッリボフ)。この刊本は、これまでにさまざまな言語でおこなわれてきたこの著作の翻訳出版のなかでも、とりわけ注目に値するものとみなされている。このほか、アラビア語説話である『千夜一夜物語』のウズベク語訳も全8巻本で刊行されている。

ペルシア語史料の出版は、基本的には古典詩人(ウマル・ハイヤーム、アリーシール・ナヴァーイー、アブドゥッラフマーン・ジャーミー、ジャラールッディーン・ルーミーなど)の創作物のアンソロジーの翻訳がこれを構成している。テュルク語の諸史料は、いっそう多くのウズベク文献学者によって研究対象とされている。

ウズベキスタンの独立後の出版物のなかで、マフムード・アッザマフシャリー(1075-1144年)の『ムカッディマトゥルアダブ』という辞典のファクシミリ出版は注目に値する。タシュケントのアリーシール・ナヴァーイー名称国立文学博物館に所蔵されるこの著作の唯一写本は、日本学術振興会の出版助成によって2008年に東京で公刊されている。この著作は4言語(アラビア語、ペルシア語、テュルク語、モンゴル語)の辞典であり、単語は名詞と動詞に分類されている。テキストの出版にあたっては、モンゴル語語彙のラテン文字転写と索引が別冊のかたちで刊行されてもいる。この出版が文献学者、言語学者、東洋学者に裨益することは疑いない。

おなじく独立後には、ウズベク語で著されたタズキラのさきがけである、アリーシール・ナヴァーイーの『マジャーリスンナファーイス』という作品がナヴァーイーの著作の20巻本のシリーズのなかで復刻されている(S. ガニーエワ、1997年)。ウズベク語で著されたもう一つのタズキラとしては、20世紀の編者であるプラトジャーン・ダームッラー・カイユーモフの『タズキライ・カイユーミー』という作品が3巻本で1998年に刊行された(A. カユーモフ)。この作品の特徴は、中世から20世紀にかけての時代に生き、創作をおこなったウズベク文学のあまたの担い手たちについて、その生涯や創作に関する情報をまとめて収載している点にある。そこにはとりわけ18〜19世紀の文壇に関しての新たな知見を含む情報が数多く含まれている。

文献学のとくに文学にかかわる分野の研究を活性化するために、ビールーニー名称東洋学研究所ではアラビア語とペルシア語の文学史料の研究に重点が置かれつつある。目下、中央アジア史のさまざまな時代に編まれたペルシア語のタズキラを研究する取り組みも緒に就いたところである。

以上に述べてきたような大きな紙幅をもつ出版物とならんで、東洋学のさまざまなテーマに関する、分量的にはより規模の小さい個別の論文も、それぞれの出版物のなかで恒常的に発表されている。そうした出版物としては、たとえば、1990年以来、継続的に刊行されてきたビールーニー名称東洋学研究所の『東洋学』と題される研究論集、タシュケント国立東洋学大学の刊行になる、おなじく『東洋学』と題される雑誌と『シャルク・マシュアル』と題される研究論集、イマーム・アルブハーリー研究センターの『イマーム・アルブハーリーの教訓』と題される雑誌、さらには、タシュケント・イスラーム大学の『タシュケント・イスラーム大学紀要』などを挙げることができる。

日本語訳:木村暁(日本学術振興会)
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