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N. I. タシェフ氏特別講演会・講演全文
日本語訳:木村暁(日本学術振興会)

 概要

  • 2008年10月28日(火)於東京大学法文1号館113番教室
  • 講演者:N. I. タシェフ(ウズベキスタン共和国科学アカデミー東洋学研究所研究員)
  • 演題:「ウズベキスタン共和国科学アカデミー東洋学研究所所蔵コレクション:イスラーム文化の諸問題に関する研究にとってのその意義」

 報告

はじめに

ウズベキスタン共和国科学アカデミーのアブー・ライハーン・ビールーニー名称東洋学研究所は、1943年ウズベキスタン国立国民図書館(現在のアリーシール・ナヴァーイー名称国立図書館)の東洋セクションを基礎にして創立された。それは1950年までは東洋写本研究所と呼ばれていたが、そこで実施される研究が多岐の分野にわたっていることにかんがみ、同年、その名称は東洋学研究所と改められた。

東洋学研究所はウズベキスタン科学アカデミーに属する一機関である。科学アカデミーの構成下には50以上の研究所(うち3つは博物館)があり、それらは学術研究のあらゆる領域、すなわち、自然科学、精密科学、人文・社会科学の諸分野をカバーしている。これらの研究所は学術研究機関として位置づけられており、教育課程は設けられていない。しかし、大学など高等教育機関の学生は、関係分野の研究所において研究活動に取り組むことができる。また、科学アカデミーの諸々の研究所の研究員が高等教育機関において授業をおこなうケースもよく見られる。

東洋学研究所には100名近くの職員が勤務し、うち56名が研究員である。研究員の大部分は若手が占めている。ここ3〜4年にかけては、若者が研究の道に進むという動きが若干ながら活発化しているように見受けられる。

 東洋学研究所における学問研究は、基本的には次の4つの枠組みのもとでおこなわれている。
(1) 写本と文書のカタログ化、すなわち解題の編纂
(2) 史料のウズベク語およびロシア語への翻訳
(3) 歴史研究
(4) 現代的諸問題(おもに、東洋諸国の現在の変容プロセス、および中央アジアと東洋諸国の政治的・外交的・経済的・文化的関係)の解明

東洋学研究所の所蔵コレクション

まず、フォンドの形成の経緯とその構成について簡単に述べておこう。東洋学研究所の写本の収集・蓄積作業の端緒が開かれるのは19世紀の第4四半世紀のことであり、これ以降、当時再編を経ていたタシュケント公共図書館に東洋写本が搬入されるようになった。1944年1月、前述のウズベキスタン国立国民図書館の東洋セクションを基盤として東洋写本研究所が創設され、1950年、それは東洋学研究所と改称され、さらに1957年にはアブー・ライハーン・ビールーニーの名称を与えられた。

現在、東洋学研究所には以下のような文献遺産のフォンドが存在する。

@基盤フォンド(これは便宜的に付された仮称である)
当フォンドには13,319点の写本が収蔵されている。このフォンドの基礎をなすのは、その大部分がロシア革命期以前の学者や為政者、その他の愛書家であるところの個人の蔵書コレクションに収められていた写本である。これら個人の蔵書コレクションはそれぞれの時期にさまざまな経緯を経て、前述の公共図書館にもたらされた。そうしたコレクションのうち最大の意義を有するものとしては、ホージャ・ムハンマド・パールサーの文庫や、ブハラのアミール・ムザッファルの息子、ムハンマド・スィッディーク・ヒシュマトの蔵書、あるいは、ムハンマド・シャリーフ・サドリ・ズィヤー、ムハンマド・アリー・ドゥークチ・イーシャーン、ユーヌスジャーン・ホーカンディー、ベクジャーン・ラフマーノフ、アブドゥッラウーフ・フィトラトらの個人蔵書を挙げることができる。また、ヒヴァ・ハンの文庫の一部もこれに該当する。このほかにも、基本的には民間の個々人からの写本の購入を通じて、フォンドの拡充が進められてきている。

A二次フォンド
当フォンドには5,237点の文献が収蔵されている。ここに集められているのは主として諸々の著作の写本であるが、これらの写本の多くは、基盤フォンドの収蔵写本と重複しているか、あるいは甚だしい欠陥のある、いわば「見劣りのする」写本である。もっとも、欠陥本はこのフォンドにのみ存在するわけではない。これら欠陥本の修復は研究所の焦眉の課題の一つとなっている。このフォンドの名称に付された「二次的な」という、場合によっては不名誉ともいいうる形容辞はもちろん、このフォンドが注目にほとんど値しないということを意味するものではない。しかしながら今までのところ、研究所の全フォンドのうち、この「二次フォンド」は研究対象として最も未開拓のフォンドにとどまっている。

Bハミード・スライマーノフ名称フォンド
当フォンドには7,586点の写本が収蔵されている。これらの写本は1998年の写本研究所の閉鎖にともない、東洋学研究所に移管された。このフォンドの基礎を構成しているのは民間から買い取られた写本である。

C文書フォンド
当フォンドは私権や法律にかかわる証書やその他の、およそ5,000点の文書を収めている。その大部分は中央アジアの三ハン国の支配期に属するものである。

さらにまた、研究所は東洋諸語で書かれた石版本その他の刊行物のフォンド、ならびにマイクロフィルム・フォンドも有している。このほか、個々のミニアチュールやカリグラフィーの臨本が300点ほど存在することも指摘しておかねばならない。当然ながらミニアチュールはいくつかの著作の写本中にも存在するが、とくにフィルダウスィーの『シャー・ナーマ』、一連の著名な詩人の詩集である『ハムサ』、なかんずく『ユースフとズライハー』のなかに多くみられる。医学や天文学などに関するいくつかの創作物にも挿絵が付されている。

このように研究所の写本の総数は2万6千点を越え、個々の写本はさまざまな判型を与えられている。それぞれが一つから数十の作品をそのなかに含み、百以上もの著作を含む写本も知られている。作品の総数は写本の総数の3倍ほどである、との見方が受け入れられてはいるものの、この断定は一つの写本に三つの作品が含まれるという当て込みにもとづいており、そのような算定がきわめて概算的な性格をもつことは明らかである。さらに付言すれば、この場合、研究所の写本コレクションを取り扱う一連の出版物全般にみられがちの作品点数に関する議論はすべきでなく、今のところは、なかに含まれる作品の点数はまだ不明としつつ、写本の点数こそ話題にすべきなのである。

ほぼすべての写本をカバーするカード目録が存在し、それは所蔵番号、著者名、作品名、テーマごとに分類・配列されている。1952年に『ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国科学アカデミー東洋写本コレクション』という表題のもとでカタログの刊行がはじまり、それは以後数十年間にわたって、研究所の基盤フォンドの構成に関する、全世界の東洋学者にとっての唯一の情報源でありつづけた。このカタログの既刊の11巻には、7,500点以上の作品の解題が含まれている。テーマ別およびその他の一連のカタログも存在するが、おそらく、すでに目録化された写本の総数は全体の15〜20パーセントを越えはしないであろう。

研究所の写本の圧倒的多数はアラビア語、ペルシア・タジク語、およびテュルク語で書かれており、パシュトゥー語、ウルドゥー語、またヘブライ語で書かれている写本もわずかながら存在する。言語の点で混成的な特徴を有する、集成の体裁をとる写本も多い。ある研究文献には、基盤フォンドの写本の約40パーセントをアラビア語が、もう40パーセントをペルシア語が、残りの20パーセントをテュルク語が占めている、との見解が示されているが、これらの概数は信用よりはむしろ疑念を引き起こすものである。

確信をもって断言できるのは、今述べたような写本と言語の相関性は時代とともに変化する、という一点に尽きる。この点で研究所の写本フォンドはムスリム世界のいくつかの地域、たとえば中東で生起した諸現象を反映している。その一つがペルシア語によるアラビア語の駆逐であり、例を挙げるとすれば、それはとりわけ修史など広義の文学の分野において起こった。より後代になってから観察されるのがテュルク語の地位の高まりであり、そのさい、テュルク語はいくつかの特定の地域においてきわめて豊かな土壌を見いだすことになる。たとえば、ヒヴァ・ハン国とコーカンド・ハン国で作成された写本は、そのかなりの部分がテュルク語で書かれている。写本が何語で書かれるかは多くの場合、テーマにも依存していた。たとえば、19世紀にいたるまで、フィクフ(法学)やカラーム(神学)に関する著作の大部分はアラビア語で書かれており、これについては研究所の諸写本が証明している。

写本の地理的な出自もきわめて広範にわたっている。それは、中央アジア、東トルキスタン、インド、パキスタン、アフガニスタン、アラブ諸地域、トルコ、ザカフカース、ヴォルガ・ウラル地域を含んでいる。

コレクションがカバーする年代的な範囲は、10世紀から20世紀中葉にまで及んでいる(下限については20世紀初頭までという誤った指摘もしばしばなされている)。いくつかの情報によれば、クーフィー体で書き写されたクルアーンの写本は9世紀のものとされる。しかし、これは厳密な調査にもとづいて確証を得ているわけではないように思われる。アブー・ウバイドゥルカースィム・イブン・サッラーム・アルハラヴィーの『ガリーブルハディース』という著作の写本には、ヒジュラ暦344年(西暦955年に相当)という年が記されている。クルアーンの別の写本(13世紀頃)もまた非常に興味深いものであり、同書においてはアラビア語本文の各行の下にテュルク語とペルシア語の訳が付されている。研究所にはクルアーンのいわゆるカッタ・ランガル写本の一葉も保管されており、それは権威ある専門家たちの見解によれば、8世紀のものに比定されている。

イブン・ミスカワイフの『タジャーリブルウマム』(595/1199年の年号をもつ)、アブーハフス・ウマル・アンナサフィーの『マトゥラウンヌジューム・ワ・マジュマウルウルーム』、また、『カリーラとディムナ』(14世紀にバグダードで書写)、『マジュムーア・ワ・ムラーサラート』(通称『ナヴァーイー・アルバム』)などの著作の写本はきわめて貴重である。こうした貴重な写本としては、アブドゥッラフマーン・ジャーミー、ムハンマド・カースィム・フィリシュタ、アフマド・ダーニシュなど、歴史上の著名人の自筆本も存在する。研究所に所蔵される目立った特徴を有する写本は枚挙に暇がない。基盤フォンドひとつをとってみても、そこにおける315点の写本が、その古さ、希少さ、芸術的装飾の豊かさ、あるいは挿入されたミニアチュールにより、とくに貴重な写本として区別されている。

当然のことながら、いずれの写本コレクションであれ、その意義の大小は、そこに収められる写本が独自性をもつとか、希少であるとか、あるいは、きらびやかな装飾を施されているとかいう点によってのみ規定されるわけではない。何らかの創作物のたとえば第100番目の写本の場合であれ、芸術的な点においていかに平凡であろうとも、それが含みもつ読み手によって施された注釈は、周知のように、多くのことを物語る可能性があるという点で興味を惹起し、貴重なものとなりうるのである。

さらに、写本それ自体が過去の遺産として精緻な検討に値するものであり、この方面における研究の重要性については、ここでわざわざそれを証明するまでもなかろう。写本の所有者による注記や印章からも重要な情報を抽出することが可能である。たとえば、ラーズィー・アッディーン・サラフスィーの『アルムヒート』という著作の一写本(所蔵番号557)における書き込みと印章からは、同写本がもともとオスマン朝スルタンのものであったこと、またそれがトルコからブハラにもたらされ、そこで1843年にブハラ・アミールの命令によってガーウクシャーン・マドラサの文庫のワクフのために購入されたことがわかる。この写本がトルコとブハラのそれぞれにおいていくらで購入されたかが、そこには書き留められているのである。

16世紀以降の中央アジアと隣接諸地域の歴史研究にとって、研究所のコレクションは特別の意義を有している。この数世紀間に関してその価値は変わることがなく、むしろ高まりをみせてもいる。16世紀から20世紀にかけての諸々の著作のうち、研究所にのみ伝存するものも少なくなく、それらは唯一写本(しばしば自筆本)、もしくは、複数の写本のかたちで所蔵されている。当該時期の歴史に関しては、このほかにもドゥシャンベとサンクトペテルブルグの写本所蔵機関にそれぞれ重要なコレクションが存在する。

研究所のコレクションの特徴の一つは、混成的な内容をもつ写本が多いことである。そうした写本においてはそれほど分量のない著作─おそらくは諸々の著作からの断片─が多数書き写されており、なかには全編を通じて、雑多で無秩序な書き込みやさまざまな著作からの抜粋、祈祷文、詩などから構成されている写本もいくつか存在する。そのような写本のほぼすべてがここ最近の数世紀に属するものである。その意味において研究所のフォンドはおそらく、たとえばヨーロッパ諸国における東洋写本のフォンドとは趣を異にしている。ヨーロッパ諸国のフォンドには、基本的には専門家やその他の人々によって精選されたうえで集められた、いわば「見栄えのよい」写本がもたらされたからである。彼らは入手した写本のすべてを持ち出すことはかなわなかったのである。

まさにこの混成的な写本の数々は総体として、ある重要にして興味深い現象を明示しており、これを詳細に研究する可能性を与えている。ほぼ17世紀末以降、民間の口承文芸の遺産、すなわち宗教説話、詩、英雄叙事詩、伝説等の、文字による記録化がはじまる。なるほど宗教的な内容をもついくつかの創作物にはサイカリー、ハーリス、その他の詩人のような著者が存在するのではあるが、これらの著者の功績はおそらく、すでに存在した伝統の文学的な焼き直しをおこなったという点に帰するであろう。以上のようなプロセスはとりわけ18世紀から19世紀にかけて顕著になる。たとえば、アフマド・ヤサヴィーのいわゆる「ヒクマト」もの、あるいは、手工業にたずさわる職人の儀礼的慣行の次第書(いわゆる「リサーラ」)の現存するすべての写本は、18世紀から20世紀初頭にかけての時期に属している。もっとも、むろんのことながら、それらはそれ以前にも存在していたはずである。このような第一級史料の分厚い地層は全体として、ほとんど手つかずのままである。

総じて、東洋学研究所の写本はきわめて広範にわたる諸問題の検討にとって豊富にして貴重な史料をわれわれに提供しており、新たな研究者の到来を待ちかまえているのである。

東洋学研究所における研究活動の近況

さて、東洋学研究所において現在実施されている、ならびに、実施が予定されている最重要の研究課題について簡潔に述べておこう。

研究所のフォンドは、世界において最も研究と学術利用の進んでいないフォンドの一つであると言っても過言ではあるまい。これにはいくつかの理由がある。一例を挙げれば、ソ連邦の崩壊以前、研究所のフォンドは外国人研究者に対してはほとんどまったく公開されていなかった。要するに、こうした諸々の理由を考慮に入れて、研究所の今後の優先的な研究課題としては以下の三つの点が提起されている。
  1. 研究所に所蔵される写本と文書の包括的な目録化
  2. 未公刊史料の学術的校訂テキストを(原文に忠実なかたちで)出版する取り組みの推進
  3. 研究所で遂行される研究が取り扱うテーマの拡大。とりわけ、文学にかかわる史料が多数存在し、それがほとんど研究されていない現状にかんがみての、文学史研究への本格的着手
第1の研究課題に関していえば、本年、われわれにとって長らくの念願であった事業を実行に移すことが可能となった(この事業の最大の難点は多大の経費を要することであった)。ドイツのゲルダ・ヘンケル財団から基盤フォンドに収蔵される写本の電子カタログ化のための助成金を得ることができたのである。このプロジェクトは5カ年にわたって継続することになっている。専門的なIRBIS方式の検索プログラムに則って準備されるこの目録は、インターネット上に公開される予定である。

第2の研究課題に関しては、歴史とスーフィズムに関する諸著作の校訂テキストの編纂にかかわるプロジェクトが昨年から開始された。そのうち、17世紀から19世紀までの5つの歴史書のテキストの出版について、在サマルカンドのユネスコ国際中央アジア研究所とのあいだで契約書が調印された。この5作品は2009年から2011年にかけて、英語の序文を付して出版することが予定されている。

第3の研究課題の推進は人的資源の問題と結びついており、別の言い方をすれば、これはある程度の時間を必要としている。目下、この目的のために3〜4名の若手研究者が採用されたところである。

日本語訳:木村暁(日本学術振興会)
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