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第8回中央ユーラシア研究会報告
島田志津夫氏(フリーリサーチャー)

 概要

  • 開催日時:10月13日(土)14:00〜17:00
  • 会場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階、217教室
  • 報告者:木村 暁 (東京大学・院)
  • タイトル:「マンギト朝期ブハラにおけるシーア派─その政治的立場の再考」

 報告

マンギト朝ブハラにおいて、宮廷奴隷や軍人奴隷としてのシーア派イラン人が政治的に重要な役割を担っていたことは、これまでも広く指摘されてきたことである。今回の報告では、このテーマに関し、写本史料や文書史料を駆使しながらより深い視点からの考察がなされた。

シーア派イラン人は、おもに奴隷や捕虜として様々な時期にブハラに来住することとなったが、なかでもアミール・シャームラード(在位1785-1800)によるメルヴ遠征の際に大規模な強制移住が行われたことが確認された。ブハラでシーア派イラン人が求められた理由は、彼らが産業や軍事などの分野において高い技術と能力を持っていたことにある。さらに報告者は、奴隷解放交渉を目的としてイランから派遣された特使の記述などから、ブハラ・アミールがスンナ派ハナフィー法学派の理論をもとにシーア派イラン人奴隷の売買を正当化していたことを明らかにした。

ブハラ・アミールは、シーア派イラン人らから成る常備軍を創設し、さらに彼らを歴代の宰相として登用した。しかしながら、ブハラに居住する多くの一般のシーア派イラン人たちは、ブハラ市民から蔑みの目で見られることもあり、スンナ派世界で生きる術としてタキーヤを行っていたという。1860年代に始まる帝政ロシアの中央アジア侵攻以降、ブハラにおけるシーア派イラン人の社会的地位にも変化がみられ、アーシューラーの儀礼を公に行うなど、以前に比べればより自由にシーア派信仰を実践することができるようになり、ロシア臣籍の取得を願い出る者もいた。その一方で、スンナ派ブハラ人の開明的といわれるウラマーたちでさえもシーア派に対しては否定的な認識を持っており、このような認識がスンナ派住民とシーア派住民の間の宗派抗争による流血事件(1910年)の発生とも無関係でないことが指摘された。

以上、本報告の内容は多岐に亘りながらも手堅いものであったが、何よりもイランからブハラを訪れた使節や旅行者による記録を利用した点でユニークなものである。彼らが、自らの同胞であるブハラのシーア派イラン人の動向について少なからず関心を持って観察していたであろうことは、想像に難くない。

あえて評者からのコメントを付け加えるとすれば、本報告で言及された軍事や行政ばかりでなく、経済分野におけるシーア派イラン人の役割についても検討する必要があるであろう。帝政ロシアの中央アジア侵攻と時を同じくするように、ブハラでは宰相職ばかりでなく財政の面でもシーア派イラン人たちが要職を占めるようになっていった。帝政ロシアは、ブハラとの交渉において、行政と財政の両面で力を持っていたシーア派イラン人集団をとくに重要視していたきらいがある。その他、巡礼や通商によるイラン・イラク方面への人の往来の実態や、課税をはじめとするスンナ派政権によるシーア派住民統治の問題など明らかにすべき課題は多いが、報告者の今後の研究に期待したい。

なお、報告者は北海道大学スラブ研究センター2007年度冬期国際シンポジウム「アジア・ロシア:地域的・国際的文脈の中の帝国権力」にて同様のテーマで発表を行い、同シンポジウムの成果は論文集(英文)として出版される予定である。
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