ポール・リクールの哲学——人間の善き生と想像力——

櫻井 一成

 本論文は、二〇世紀フランスの哲学者ポール・リクール(Paul Ricœur 1913-2005)の思索を統合的に理解する試みである。諸々の著作からなる一つの体系としてリクール哲学を把握する視点を提示し、そのような視点から各著作の論述を詳しく読み解いていく。本論文にとってその視点を構成するのは〈人間の善き生と想像力〉という主題である。〈人間が善く生きるうえで想像力はどのような役割を果たすか〉という問いのかたちで言い表すこともできる。この問いに答えるためには、人間とはどのような存在であるのか、人間にとっての善き生とはどのような生であるのか、想像力はどのような能力で、何をなしうるのか、という問いにも答えを与えていく必要がある。本論文は問いに対する答えを求めて諸々の著作を横断的に参照し、リクールの思索を構造化された論証として再構成することを試みる。

 論文は二部にわかれる。第一部が扱うのは『意志の哲学』の思想圏であり、「身体的実存」としての人間の自由や善き生にかんするリクールの考察をとりあげる。『意志的なものと非意志的なもの』(『意志の哲学』第一巻、一九五〇年)、『有限性と罪責性』(『意志の哲学』第二巻、一九六〇年)、『フロイト試論』(一九六五年)など、リクール前期の著作を中心に読解の作業を進めていく。第二部が扱うのは解釈学的想像力の思想圏であり、詩的言語の解釈学や物語的アイデンティティ論をとりあげる。『生きた隠喩』(一九七五年)、『時間と物語』(一九八三−五年)、『他者のような自己自身』(一九九〇年)など、リクール中期の著作の読解を行い、隠喩やフィクションの解釈、また人生物語の構築がいかなる実存的意義を有しているのかを解明する。

 中期の解釈学が初期の実存論と連続していることは、リクール研究において共有された認識である。ただしリクールが表立った説明を与えていないため、両者のあいだの論理的な連関は未だ十分に解明されていない。そこで本論文は、著作の包括的かつ精緻な読解を通じ、解釈学的想像力の実存的意義をめぐるリクールの主張をテクスト内在的に補完することを試みる。〈リクールとともに、リクールよりもよく考える〉ことを指針とし、その豊かな思索を、曖昧さを排して可能なかぎり明晰判明な仕方で読者に提示することを目指す。この意味で本論文が行うのは批判的合理化の作業にほかならない。そして再構築されたリクール哲学を、フロネシス論の系譜、物語的アイデンティティ論の展開、近代美学の影響作用史という三つの文脈に定位することにより、リクール哲学の現代的意義と歴史的意義を開示することが本論文の最終的な目的である。

 第一章では、『意志的なものと非意志的なもの』を中心に、リクールが人間の自由や善き生をどのように理解していたのかを明らかにする。リクールの自由論の重要な特徴は、それが人間を「身体的実存」としてとらえている点に求められる。リクールにとって人間の自由とは「受肉した自由」であり、このことが意味するのは、身体を理解し、身体に「同意」することなしに人間の自由は不可能ということ、そして身体の不透明性と理性の有限性ゆえに人間の自由はつねに不完全なものにとどまるということである。人間とは行為する自己と反省する自己とのあいだの不調和に苦しむ存在者であり、その生の善さはこの不調和をいかに縮減するかにかかっている。

 第二章では、『有限性と罪責性』の第一部『過ちやすい人間』に焦点をあわせ、リクールの悪論の検討をおこなう。リクールにとって「悪」とは、自己自身が謎になるという不自由さの極致であるが、他方で「人は悪に至るのではない、人は悪から出発するのである」という言葉が示すように、悪の自覚は人間の自由と等根源的なものとしてとらえられている。悪論が眼差しを向けるのは、不調和(非合理性)に苦しみつつも、なお調和を希求せずにはいられない人間の姿である。本章ではまず、第一章に続いて、人間がつねに自由への途上にあることが示される。さらに、カントの情念論を経由することにより、人間がまさしく善き生を求めるがゆえに陥ることになる悪のかたちが浮き彫りにされる。すなわち、人間は欲望の多様性に頭を悩ませる存在であり、多様な欲望を汎通的に充足することを目論んで特定の善(金銭、名誉、権力)に全てを賭けるとき、人間は理性の誤った使い方によって善き生から離反することになる。

 補論では、第二章とは別の観点から人間の悪を考える。反省する自己が要求する合理性の基準が高ければ高いほど、人間はみずからを非合理的な存在として厳しく断罪することになるだろう。この断罪する自己は、しばしば「良心」という語によって名指されるが、良心の働きゆえに生が苦しいものになるのだとすれば、良心の声に耳を閉ざすという選択肢もありうるはずだ。補論では、現代の代表的な良心批判としてフロイトの超自我論の紹介を行う。超自我論を経由する第一の理由は、良心批判にかんするリクールの見解を浮かび上がらせるためである。リクールは、悪論のなかでは良心の相対化を通じた悪からの救済可能性に触れていない。だが、我々はフロイト論において、当該の論点をめぐるリクールの思索を再構築することができる。また続く第三章では、こうした論点を含みつつ、リクールのフロイト論が包括的にとりあげられることになるが、ここでフロイト思想を要約しておくことは、次章の議論全般を理解するうえで役に立つはずである。

 第三章では、リクールの精神分析論をとりあげる。人間の意志を非意志的なものとの関わりのなかでとらえようとすることは、人間の心とその外部とのかかわりを問題にするということである。このことにより、リクールの哲学的思索はおのずと「説明と理解」というディルタイ以来の哲学的主題に足を踏み入れることになる。リクールにとって精神分析論とは、なによりもまず、この主題(人間の自由と人間の行動についての因果的説明の両立可能性)にかんする思索を深める場であった。精神分析論を年代順にたどっていくことにより、説明と理解をめぐるリクールの考察に通時的変化が認められること、またその考察に決着がつくのが物語的アイデンティティ論においてであることを明らかにする。さらにこうした作業を通じてフロイトの超自我論に対するリクールの応答を拾いあげ、リクールが心的現実を変容させる「啓蒙」(良心批判)の方法として「フィクション」に注目していることを指摘する。

 以上の第一部の議論をふまえ、第二部では、自己と自己とのあいだの不調和を生きる人間にとって、解釈学的想像力はいかなる寄与をなしうるのかという観点から、詩的言語の解釈学や物語的アイデンティティ論の分析を行っていく。

 第四章では、『生きた隠喩』や『時間と物語』などの著作で展開されたリクールの詩的言語論をとりあげる。リクールは構造主義のテクスト理論に対抗しつつ、詩的言語(隠喩とフィクション)の解釈が現実理解や自己理解に変容をもたらしうることを主張する。では、詩的言語に固有の認識上の機能や実存的意義とはいかなるもので、その開示に解釈行為はどのように関わるのか。本章では、リクール解釈学の重要な思想的背景にカントの美的理念論があることを指摘しつつ、解釈行為のダイナミクスやメカニズムに関する議論の批判的再構成を試みる。読者をして読者自身が生きる現実について自由に考えさせることができるという点に、他にはない詩的言語の機能が認められ、それゆえにリクールが啓蒙の方法としてフィクションを選択していることが明らかにされるだろう。また、想像力の受動的かつ能動的な働きのなかで解釈の創造性は可能になるという、リクール解釈学の中核的着想が剔抉されることにもなる。

 第五章では、物語ることと自己理解との関係を考える。前半部では『時間と物語』に登場する「統合形象化」概念の分析を軸に、物語という固有の言説構造になしうることは何であるのかを検討する。他方、後半部では『時間と物語』の結論部で導入された「物語的アイデンティティ」概念をとりあげ、物語という視点がアイデンティティ論に何をもたらしたのかを検討する。この作業のなかで、リクールが人間の善き生は他者との共生のうちにのみ実現されると考えていることが浮かび上がってくる。それは身体に加え、新たに他者が非意志的なものとして議論に導入されたことを意味しており、あらためて人間とは行為する存在であると同時に被る存在でもあることが確認される。最終的に本章が明らかにするのは、非意志的なものの介入によって思いもよらぬ展開を見せる人間の生を、そもそも一人の人間の生として形象化することを可能にしているのは、説明と理解という二つの言語ゲームを内含した媒体としての物語にほかならないということである。

 第六章では、『他者のような自己自身』(一九九〇年)を軸に、物語的アイデンティティ概念の倫理的含意の闡明につとめる。物語的アイデンティティ論者であるハンナ・アーレントとアラスデア・マッキンタイアの議論を経由しつつ、生を物語ることと善く生きることの関わりを多角的に検討し、リクールに独自の着想のありかを探っていく。明らかにされるのは、人間の非合理性や善き生の困難さを考察の出発点とするリクールの哲学が、フロネシス論の系譜に新たな展開をもたらしていること、またリクールがアーレントとは別の仕方でカントの反省的判断力の潜在的な倫理的機能に注目し、それを欲望や義務の多様性に対処する能力としてとらえようとしていることである。フロネシス論と近代美学が合流する地点で、リクールの解釈学的倫理学が成立したと結論づけることができるだろう。

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