夢窓疎石の研究

余 新星

 本論文は室町時代における禅宗興隆の礎を築いた禅僧夢窓疎石(1275–1351)に対して、その思想形成の軌跡と思想内容について考察を試みた。

 夢窓疎石は日本の禅宗史、ないし文化史上において大きな足跡を残した。「七朝の帝師」と称される夢窓疎石に関しては、これまで種々の考察が行われてきたが、従来の研究は、(1)夢窓の生涯に関する歴史的考察に偏り、しかも、これらの研究は殆ど『夢窓国師年譜』を基本資料としており、夢窓高弟の春屋妙葩(1312–1388)によって編纂されたこの年譜自体に対する史料批判は十分になされていない。(2)夢窓に関する歴史的考察が比較的充実にしているのに対して、夢窓の思想についての解明は充分に行われていない。

 このような研究状況の中で、本研究では、(1)夢窓疎石の伝記史料に対して検証を行い、夢窓の思想形成の軌跡を辿る。そして、(2)夢窓の著述に対する思想的解明を通じて、その禅思想の全体像を究明する、という二点の考察を中心に、夢窓の思想形成と思想内容について検討することを研究の目的とした。

 具体的には、本論の第一章では、夢窓の伝記資料ついて再検証を行った。

 まず、現存する六点の夢窓の伝記史料に関して、その成立の経緯と相互間の影響関係について検証し、夢窓の伝記史料の系統図を作成した。それから「夢窓国師碑銘」をはじめとする各種史資料を用いて、春屋妙葩による『夢窓国師年譜』に対して検証を行った。その結果、この年譜には数箇所の誤伝が存することが明らかにされた。その中で特に取り上げるべき点としては、夢窓が東大寺戒壇院で受戒した際の戒師は、年譜において記された「慈観律師」ではなく、正しくは「示観律師」(凝然)であったことが明らかになった。この判明は夢窓の思想形成を探るための手掛かりとなった。年譜に対するそのような再検証を経て、筆者は夢窓の生涯における重要な節目(出家―受戒―禅宗への改宗―大覚派諸師に参じる―一山一寧に参じる―高峯顕日に参じる―開悟―出世)について検討し、それぞれ夢窓の思想形成においてどのような意義を有するかについて論述した。

 続いて、『夢窓国師年譜』に対する検証作業の中で浮かび上がる問題の一つとして、『夢窓国師年譜』において記される、高峯顕日から夢窓疎石への伝衣説をめぐる考証を第二章で行った。

 『仏国国師行録』や『仏国禅師語録』などにおいては、高峯顕日は夢窓疎石に無準相伝の法衣を授けたと記されている。従来の研究はその記事に基づいて、夢窓疎石を仏国国師高峯顕日の正嫡の継承者と見なしてきた。しかし、筆者は『仏国禅師語録』の版本の変遷を追いかけ、『仏国禅師語録』は最も流布している宝永六年版のような完備した形になるまでは、幾らかの手入れが加えられたことが明らかにされた。版本の時代が下るにつれて、仏国門下における夢窓疎石の存在が次第に目立つようになってくる。従って、『仏国国師行録』と一般に流布している『仏国禅師語録』だけを依拠として高峯顕日からの付法を論述するのは、事実上夢窓派の立場を踏襲したものになる。

 そこで筆者は、明治期に出土した夢窓疎石の先輩にあたる佛応禅師太平妙準の骨壺の銘文に着目した。夢窓疎石により書かれたその骨壺の銘文と、大喜法忻により書かれた「佛応禅師頂相賛」の内容に基づき、当初に高峯顕日から無準相伝の法衣を授かったのは太平妙準であったことが明らかになった。よって、当時仏光派の直系の系譜は「無学祖元―高峯顕日―太平妙準」であり、「無学祖元―高峯顕日―夢窓疎石」を直系とする説は、夢窓門下の作為によって形成されたことになろう。

 それから第三章では、夢窓の思想を知るための基礎作業として、『夢窓国師語録』の書誌学的研究を行い、その成書の経緯と版本の変遷について考証を行った。

 具体的には、まず資料を網羅的に整理した上で、『夢窓国師語録』の諸版本における体裁や内容の変遷を検証した。それに各時期に刊行された版本における刊記や跋文を精査する中で、『夢窓国師語録』が刊行された経緯や各版本の特徴なども明らかになってきた。現在、『国書総目録』や一部の図書館の書誌情報では、刊行年が不明とされる『夢窓国師語録』の版本は少なくない。今回の検討を通じて明らかになったことが、刊行年不明と記される版本の出版年を特定するのにも活用できるであろう。

 そして第四章では、夢窓に帰せられる『二十三問答』という仮名法語について考察し、これが果たして夢窓の真撰であるか否かを検証した。

 筆者は『二十三問答』の版本や思想内容について概観した上で、『二十三問答』と夢窓の真撰である『夢中問答集』・『谷響集』との相違について検証を行った。その考察を通じて『二十三問答』は、『夢中問答集』・『谷響集』とは全く異なる用語体系を使っているのみならず、基本的な思想内容から具体的な論題まで大きな相違が存することが検証された。よって、この著作を夢窓の真撰と考えることは困難であろうと推定した。

 本論の第五章では先行研究を参照しつつ、夢窓の思想体系について解明を試みた。

 「本分の田地」が夢窓の禅思想の核心をなす概念であり、本章ではまずその意味内容について検討した。夢窓においては、本分の田地は仏の内証の境地にひとしきところであり、それは凡と聖、迷と悟などといった、如何なる二元的分節もいまだ生じていない境地である。そしてこの完全な一なる無分節の境界に何も介さずに契合するのが禅修行の宗旨だと説かれている。

 そして、夢窓の思想には、本分の田地を悟る「根本智」(本分の大智)と人々を導く「後得智」(方便)という思想的構造が内在している。なお、後得智の範疇として、夢窓はその教化の中で、禅問答や棒喝などの指導手段(「機関」)よりは、経典の義理を説き示す方式(「理致」)を多く採用した。このような接化の仕方は、夢窓の在世時から異議や批判を受けてきた。しかし、夢窓にとっては、まず本分の田地(根本内証の境地)に至ってから、後得智として様々な方便手段を用いて現実世界にはたらき出て衆生救済に当たっていくのであるから、教化の手段は自ずから教・禅の分際を超越したものになると考えられている。

 かくして夢窓は、従来の顕密仏教から儒教・老荘、神祇信仰に至るまでの教説の存在意義を広汎に認め、衆生を「本分の田地」に引導するための有効な手段(方便)として、それらを自らの教化の中に縦横自在に取り込んだ。この包容力のある指導の根底には、彼が一切の衆生を救わんと欲する「無縁の慈悲」が流れている。夢窓においては、無縁の慈悲とは、根本の内証を得た後、人々が元より具えている本性の徳から現れた慈悲であり、衆生を済度しようと特別に作意しなくても、自ずから衆生を済度することになっているものである。つまるところ、人々が本来具えている本分の大智は、無縁の慈悲となって展開し、様々な方便手段に具現化して一切の衆生を救済していくのである。

 以上の論述を踏まえて、夢窓の思想は「本分の田地」を中核に据え、「根本智」(本分の大智)と「無縁の慈悲」と「後得智」(方便)が三本柱となって展開していたことが見出される。

 最後に、第六章では従来十分に研究されていなかった、坐禅・公案・魔障に関する夢窓の説を分析し、夢窓の修道論についても検討した。

 禅宗の歴史上において修行否定の風潮もあったが、夢窓は大慧宗杲と同じく、衆生はひとり一人みな本来的に仏と同じような円満なさとりを具えているという立場に立脚しつつも、妄想煩悩に惑われる衆生の現実態を鑑み、修行を通じて本来的に具わっている覚りに回帰することの重要性を強調している。

 そして、坐禅に関しては、夢窓は自身の修行経験に基づき、学解を手放し、一筋に坐禅に打ち込むことの重要性を強調した。大慧に比して夢窓は坐禅修行を重視したのは、夢窓が生きた日本の中世には、「無行無修」を主張した禅者の存在や、禅の語録を学問的に理解し習得しようとする風潮の存在などにより、本格的な修行と悟道が疎かにされる傾向があったことがその要因であろう。

 また、公案に関しては、夢窓は「鉄饅頭」の喩えを用いてそれを、完全に論理を遮断し、人間の分別意識では寄せ付けられないものだと説き示している。これは五祖法演や円悟克勤における「鉄酸餡」の説示を承けている可能性が高い。そして夢窓は修行者の機根に応じて公案の使用を区分けしている。利根の者には、公案を使用する必要がなく、直接に本分を会得すれば良い。対して鈍根の者にとっては、公案は妄念妄想を断ちきり精神を統一し、修行者を解脱の境地に引導するための有効的な手段であると説き示している。

 さらに、修行中に生じうる魔障の問題に関して、『夢中問答集』と『夢窓国師年譜』の記述に基づき、夢窓における魔障への対処の仕方について確認した。

 以上の考察を通して、夢窓の思想形成と思想体系の概要について解明を試みたのであるが、この論文で考察することのできなかったものとして、夢窓疎石における禅教関係という課題がある。夢窓は禅宗へ改宗する前に、真言密教の修学経験があった。それが夢窓の禅学の地色をなしている。『夢窓国師語録』・『夢中問答集』・『谷響集』においては、『大日経』・『大日経疏』などの文章が頻繁に引用され、密教の専門用語が多用されている。夢窓における禅と密教との会通は重要な検討課題になる。また夢窓が晩年に創建した天龍寺には、華厳的世界観が表れている。『夢窓国師語録』に収録されている天龍寺での上堂語や陞座・拈香の法語などを中心に、夢窓における華厳と禅の融合について分析することも課題になろう。

 これらの点はまだ明らかにできなかったので、今後の課題として引き続き考察を進めていきたい。

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