一世紀から六世紀における西南中国地域社会史の研究

新津 健一郎

 本論文は、歴史的中国の西南部に着目し、一世紀から六世紀におけるその歴史展開の特質及び意義を解明することを目的としたものである。歴史的中国の西南部とは、ここでは検討対象時期における中国の西南方面、すなわち現在の四川・重慶・雲南・貴州・広西の各地区及び北中部ベトナム一帯を指す。歴史上の地域を論ずるため、本論文においては、現在のベトナム領内にあたる空間も含めてこの範囲を西南中国と呼ぶ。

 西南中国は、秦・漢帝国の下で征服地として経営されたが、後漢時代に入ると現地出身の有力者(「大姓」)が地域社会の指導者として力を伸ばし、漢帝国滅亡後、隋・唐帝国による中国再統合に至るまで、各地に政権が分立・興亡するなかで独自の動向をみせた。しかし従来、この時期の中国を取り上げた歴史研究においては、諸政権の拠点が集中した華北・江南地域に主に焦点が当てられてきた。そこで本論文では、近年利用可能となった史料を用いて西南中国地域における歴史展開を考察し、その特質及び中国史・東アジア史に対する意義を明らかにすることを目指した。

 以上の目的に基づき、本論文には七つの章を設け、第一章から第三章を第I部、第四章以降を第II部とする二部構成をとった。各章の概要は以下のとおりである。

 第一章では、二世紀の蜀郡成都で制作された学校碑を取り上げ、地方志『華陽国志』と照合することにより、四川における大姓の成長について検討を行った。その結果、成都の郡学(官立学校)は、蜀郡内外に知識層の性格を持つ大姓を育成し、それらを相互に結びつける役割を果たしたことが明らかになった。中央集権支配のための施策であった地方統治制度や学術振興によって、かえって大姓の成長及び相互の接触が進み、国家が設定した行政区を跨ぐ接触・交流が生まれたと考えられる。

 第二章では、二世紀末から三世紀前半の益州に成立した地方政権の性格を検討した。後漢末、地方統治官として州牧が設けられ、益州では劉焉・劉璋父子が相次いでこれに就任した。劉焉らは州牧を長とする統治制度を利用し、さらに地方長官を君臣的関係に組み込んで政権を構築した。その際、後漢時代に成長した四川の大姓をも政権内に取り込んだ。地域社会の側からみれば、州内において現地出身者の地方官採用・転任が緊密化し、大姓相互の接触・交流が一層後押しされる形となった。地方政権の形成と並行して地域社会の統合が進んだといえる。

 第三章では、五世紀末の石刻を題材として、四世紀以後の四川における大姓の動向と地域社会・地域文化の変容を考察した。まず、大姓については、記録こそ少なくなるものの、隋帝国の形成期である六世紀後半まで存在が確認された。また、中央から派遣された統治官が大姓と接触する事例も散見した。一方、当時の四川地域においては道教が社会に根差す形で広く信仰され、新興とみられる者も含め、大姓にはこれへの傾斜がみられた。大姓は、地域社会の指導者としては道教のように地域固有性を帯びた文化、統治権力と接する場合には中央における標準的文化を使い分ける存在として、地域における指導性を維持したと考えられる。

 以上、第I部では、四川地域に注目して西南中国における歴史展開の大枠を明らかにした。秦・漢帝国の下、西南中国には中央集権的支配のために文化・制度が移入されたが、これらはむしろ大姓の成長と結節という状況を生み出した。さらに、広域統治官として新設された州牧が西南中国において軍閥政権を形成すると、その下で地域統合が進展した。地方志『華陽国志』は、このような歴史状況を反映して、大姓の分布・動向や現地出身者を中心とする地域史を記録したと考えられる。

 『華陽国志』の成立年代は四世紀半ば、成漢政権滅亡前後の時期とみられる。以後、西南中国は、隋・唐帝国の成立までほぼ一貫して華北または江南に拠点を置く政権の統治を受けた。しかし、この間においても大姓は姿を消したわけではなく、政権との一定の接触を持ちつつ、在地的文化に軸足を置いて地域社会の指導者としての地位を維持した。その下で、西南中国地域は、形式上遠隔統治に従いつつ、現実にはその内部に独自の社会統合を保持していたと考えられる。

 続く第II部では、ベトナム・雲南方面に視野を拡大して史料分析を行った。

 第四章では、二世紀から三世紀における嶺南・北中部ベトナム地域を対象として、行政区と地域社会の関係を検討した。漢帝国の下で、南越国の故地は交趾(交州)に編成されたが、二世紀末にかけて、その中には南北二つの地域統合が顕在化した。後漢末の交趾(交州)では現地出身の交趾太守・士燮が独自の政治勢力を形成したことが知られていたが、その勢力は交趾(交州)南部を中心とするものであった。同様に交趾(交州)南部を影響下に置く勢力が出現する状況は三国時代にかけて散見し、三国呉の末期に至ると、旧交州は、北半にあたる嶺南方面を広州、南半にあたる北中部ベトナムを交州とする形で二州に分割された。地域の結びつきを後追いする形で行政区が再編されたといえる。

 第五章では、近年発見された陶列侯碑の性格を考察し、それをもとに三・四世紀の交州(北中部ベトナム)における地域社会の動向を検討した。その結果、以下のことが示された。まず、陶列侯碑は広・交二州の分置が固定化する時期から約三〇年にわたり交州刺史を務めた人物・陶璜の顕彰碑であった。また、この碑は四世紀初頭、西晋全体が混乱に陥るなかで、現地出身の有力者が陶璜の子を擁立して交州地域の統合を図った際に制作したモニュメントでもあった。陶列侯碑の存在は、現地出身の有力者が、過去の良吏の権威及びそれを顕彰する漢風の碑を利用して地域統合を試みた痕跡であると考えられる。

 第六章では、雲南に現存する爨宝子碑の精読に基づき、五世紀以前の雲南(寧州)における大姓と地域社会の動向を考察した。この碑は五世紀初め、東晋末期の混乱の中で立碑されたもので、雲南の大姓爨氏に関する最初期の独自史料である。時代背景を検討すると、同碑建立の直前には建康政権が寧州への統治の強化を図った形跡が認められた。同様の事象は四世紀後半にも発生しており、その際には刺史が寧州に赴任し、現地社会に対して抑圧的統治を行っていた。これを踏まえて爨宝子碑の内容を精査すると、大姓が現地出身の漢風知識人の存在を喧伝し、大姓及びその指導下にある社会秩序の正統性を主張しようとする意図を持っていたことが読み取れる。爨宝子碑は、建康政権に対し、寧州地域社会の指導者が敢えて漢風文化を用いて対抗を図ったことを示すと考えられる。

 第七章では、雲南爨氏に関する最末期の史料と位置づけられる唐代爨公墓誌を手掛かりとして、五世紀以後の雲南地域について検討した。同墓誌は八世紀の史料であるが、父祖の系譜として過去に遡る情報を含む。そこで本章では、この墓誌をもとに、爨氏の大姓としての影響力は五世紀以後にも持続し、六世紀に入ると北朝から官職を受け、さらに唐代に入って郡王として封爵されたことを跡付けた。爨氏は数代にわたる爵位継承ののち、誌主の父の代に内紛を生じた。雲南西部地区を拠点に台頭した南詔はこれに乗じて爨氏を併合し、雲南一帯に新たな秩序を編成した。誌文によれば、唐帝国は、一度は旧来の秩序を復活させることを企てたようであるが、結局は南詔によって改変された現状を追認する結果となった。このように、雲南地域においては、有力者の指導の下で外部の権力に対して自立的な地域社会が持続したのであった。

 以上、第II部では、北部ベトナム・雲南に注目して地域社会の統合とその展開を検討した。この空間は、第I部で取り上げた四川よりも遅れて秦・漢帝国に統合され、ほとんどの部分で後漢末まで郡県制が維持された。二世紀末以降、その中から地域における指導者が漢風の官号を名乗り、あるいは石碑を制作・顕示する事例が現れた。さらに個々の史料を精査していくと、北部ベトナム・雲南にも地域社会の指導者が出現し、文化を媒介として地域統合や対外交渉を行ったことが確認された。

 第I部・第II部の検討結果は、次のようにまとめられる。西南中国においては、秦・漢帝国による統治を経たのち、一世紀から三世紀にかけて、地区ごとにいくらか前後しつつ有力者が成長した。各地の有力者は、漢風文化を媒介として統治権力との接触や対抗を図るとともに、地域内では現地に根差した有力者として指導性を示した。その下では、名目としては華北・江南などに拠点を置く政権の遠隔統治に従いつつ、現実には地域的に統合された社会が形成された。中国由来の文化に影響を受けながら、有力者の指導の下で自立的性格を帯びた地域社会が成立し、持続していたのである。一世紀から六世紀の西南中国における歴史展開とその特質はこのようなものであった。

 以上の結果は、歴史的中国の多元性を考える際に、西南中国を特徴ある一つの地域とみることの必要を示す。これは、歴史的中国の空間的拡大やその内部構造を把握する上で新たな視角といえるだろう。また、西南中国における地域社会史の展開には、中国に対する接近・離脱という動きも観察された。このことは、六世紀以降の中国及び東アジア地域において雲南の南詔や北部ベトナムの大越国などの政治主体が出現した現象を広域史的に見直す手掛かりとなろう。本論文で検討した西南中国における歴史展開はこのような意義をもつと考えられる。

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