近代日本の選挙―空間とその組織について―

塚原 浩太郎

 本論は近代日本における選挙の分析を通じて、空間が有権者との関係に及ぼす規定性の変化を論じた。静岡県における市町村、県、衆議院での選挙を扱うことで、それぞれの選挙区内の空間がどのように組織され、またどのように相互に関連したのかを明らかにした。

 第1章では、大正期における郡市支部および県会の議論と、昭和初期における選挙運動の状況を論じた。男子普通選挙期に選挙動向を左右した政党の郡と市の支部は、大正期に至るまで郡市(町)一体の存在だった。行論では浜松市と浜名郡を例に、浜松市会での勢力を伸長させていた非政友会系の議員が、元々の拠点である浜名郡でもしばらくの間勢力を保っていたことを指摘した。第一次世界大戦の好況を受けた浜松市の発展の中で、次第に浜名郡は農村代表を衆議院へ送り、自らの利害を主張するようになっていった。

 静岡県会の道路橋梁費の分配は、こうした郡市の勢力図が転換する最中に行われた。道路費は、登場し始めていた自動車の通行にとって重要な意味を持ったが、県会での予算配分は従前の政党政派の勢力分布に沿って行われた。県会の多数を握っていた政友会は、憲政会の勢力地とされた郡周縁に至る道路費を節減し、道路の全通を妨げた。この党派的な予算の分配は彼らの予想を超えて作用した。初期男子普通選挙での選挙運動は市域を中心に郡ごとに展開され、郡空間の規定を強く受ける形で展開することになった。その背景には郡周縁への自動車の不通が存在した。だが一方で、郡周縁は交通困難であるがゆえに票田としての価値を見出され、選挙に影響を与えるようになっていった。

 第2章では、志太郡を例に政友会、民政党双方の郡支部の展開を追った。民政党では、志太郡支部は憲政会時代の旧郡支部と少壮者の掛け合わせとして形成された。憲政会時代における少壮者の台頭は、支部の裾野を郡の中心的地域からその近郊にまで拡げる効果をもたらした。ただ郡周縁部にまで支部設置が進むことは民政党においてすらなく、民政党志太郡支部は代議士を中心とした少壮団時代の人脈に依存するように支部を構成していた。むしろ広範な支部組織の展開を見せたのは民政党以上に政友会の方だった。郡支部での内紛を契機として、組織改革の必要に迫られた政友会志太郡支部は、郡下全町村へと組織の根を拡げていった。これにより郡周縁を含む支部組織が形成された。とはいえ、その支部の構成においては支部員同士の対面での関係性が根本に存在していた。支部役員の住居が局所的な範囲に集中し、時に住居が向かい合せでもあったのはこの証左であるように思われる。

 以上の組織的な構成を背景として、県会議員選挙・衆議院議員選挙における公認方針には民政党と政友会で差が生じることになった。民政党は代議士の意向を尊重し、政友会は少なくとも表面上は本部―支部という系列を尊重するように公認を銓衡していた。その違いは志太郡では結果的に民政党の勢力を衰微させるよう作用した。代議士が調整の任を担わなくなるにつれ、県会議員選挙における公認銓衡は支部内の対立を顕在化させる場となっていった。この点、政友会は支部として安定的に公認候補を選出することに成功していた。他方で衆議院議員選挙においては、民政党の方針は台頭していた静岡市を根拠とする新人候補に恩恵をもたらした。候補者個人の意向が尊重され、また支援が個人へと集中することと相俟って、静岡市を背負った代議士を生み出したのは民政党の方だった。かくして民政党が市の代表者を生み出すと、選挙区内での志太郡そのものの価値は次第に失われていくことになった。郡の衰微の傾向は戦後にも維持され、志太郡域に誕生する自民党支部を下支えする要因となっていった。ただ戦後の自民党支部は、戦前の支部の単純な連続の上には成り立っていない。本章の展望として、町村合併等によって郡自体の編成が変化したことが影響していることを指摘した。

 第3章ではそこで、県東部の静岡2区における個人後援会の形成を、地域との関連から論じた。特に三島市を取り挙げて、市議会議員や市長の性格の変化を明らかにした。普通選挙下での新有権者の登場は、地区推薦の揺らぎとなって市議会議員や市長の性格に変化をもたらした。三島町の時代には町内の地区や、あるいは編入合併されることになる村部では部落が、それぞれ区域ごとの候補者を推薦して町会や村会に送り出していた。そのためもあってか議員はそれぞれの地区や部落では、有権者と顔を合わせるような対面の関係にあった。占領期における三島市議会は、こうした地区ごとの代表の集いという性格を色濃く残し、旧町と旧村との間の対立が絶えなかった。ところが新有権者の多数を前に、次第に市議会議員選挙では地区推薦に頼らない候補者も登場してきた。彼らは全市的な市議会議員選挙を展開して空前の得票数を記録し、その余勢を駆って三島市長に当選したあかつきには、自ら市民の代表と名乗った。こうした市民代表の誕生に伴い、市政界の対立軸はそれまでの旧町や旧村とのいがみ合いから転じていった。

 こうした市町村での変化の中で静岡2区に生じた個人後援会は、その地域特性とも相まって多様な形態を示していた。静岡2区には中核となるような大規模な市が存在せず、郡が広範にわたって残る地域だった。このため石橋湛山は、商工業者を中心として各地に点在する有力者を結合させて個人後援会を形成していった。また山田弥一は当初、郡部選出の県議会議員からの支援を受けて当選を飾っていたものの、次第に町村部の有権者を直接自らの後援会に取り込むことで有権者との関係の刷新を図った。とはいえ、石橋湛山の後援会は元々地域の有力者に依存している以上、従前の郡単位の支持関係の集合体に過ぎなかった。また山田弥一が目指した有権者との直接的な結合は、成就したとまでは言い切れないのが実情だった。この中で安定的な集票組織となったのは遠藤三郎による議員の系列化だった。遠藤三郎は当初は畜産業界の支援に乗じて当選したものの、のちには議員の系列化によって選挙区全域に支持者を獲得するに至る。議員系列に参じたのは市民代表となっていた市議会議員たちだった。市議会議員は、市域の代表者であるゆえに安定的に遠藤三郎の選挙を支援していった。

 市議会議員が市域の代表者となるにつれ、市町村における議員職は有権者の身の周りから遠ざかっていった。部落や町会ごとに設けられていた議員との対面的な関係は切除され、政治を志向する有権者との関係のみが残された。とはいえそこで生じた議員系列は、属人的な要素のいまだ残る結集のあり方でもあった。

 第4章では、さらにその系列が支部にとって代わる過程を、知事選挙が自民党静岡県連に与えた影響に着目しつつ論じた。1960年代の自民党静岡県連は、知事選挙を経るごとに党としてのありようを問われていった。公認候補の銓衡や、公認への選挙支援の中で人的な結合に頼らざるを得ない状況が自覚されると、県連はやがて「党の近代化」を掲げて支部組織の拡充に努めるようになった。この中で設置された市町村支部は、まさに知事選の中で求められた、人に依らざる支援のあり方を叶えるためのものだった。党改革の焦点は代議士系列が強く存在した静岡2区に向けられ、区内町村での支部設置へとつながった。こうした組織体としての運営を目指す傾向は、次第に県連会長にまで及び、やがて県連全体が支部を基礎とした運営へと転じていった。

 市町村支部が設置されたのと時を同じくして、社会的な状況も変化していた。初期の支部は、残存する地区推薦の効果を反映して市町村議会での党派としての統一が取れずにいた。公認銓衡では党としての利害よりも各人の思惑が先行し、そもそも議員中に党員が少ない中では党として下す除名などの処分も実効性を持たなかった。こうした状況は、先行的に静岡市で見られていたように、都市への人口流入が著しくなるに従って変化していった。新入居者が増え地区推薦の効果そのものが限定的になるに及んで、支部としての結束は次第に強まっていった。こうして社会的な状況も支部を基礎とした運営を支えていくことになる。

 終章では以上の議論を小括し、その空間的な含意を考察した。選挙、支部構成、議会、いずれにおいても対面的な関係性とそれに伴う空間的な規定性が強く存在していた時代から、それらが失われていったことを論じ、今後の課題を展望した。

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