文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。

楯岡 求美 教授(スラヴ語スラヴ文学研究室)

私が所属するスラヴ語スラヴ文学研究室ではスラヴ諸言語を主として使用しているロシア・東欧というかなり広い領域を扱っています。少しずつ違う言語や生活習慣をもつ人たちが地続きで混在していて、とても「激動」という言葉が似あう地域。紛争や弾圧などの暴力とそれへの精神的な抵抗のせめぎあいが繰り返されています。人間が抱える問題が濃縮されていて、悲劇的な事象に向き合わざるを得ないのは研究していてつらいですが、創作家たちがそれらをなんとかして乗り越えようとする不屈の精神や奇抜な発想に驚かされたり感銘を受けたりすることが尽きません。決してわかった気にさせてくれない緊張感がありますし、当たり前のように思いこんでいることがそうではないと気づかされることも多いです。

私自身はロシア・ソ連の文化、特に演劇と文学を中心に研究をしています。大学に入ってロシア語を勉強し始めたのがちょうどペレストロイカの最盛期で、次々とソ連から劇団が来日したり、ソ連映画祭が行われたり、ビデオもネットもない時代に早くから生のロシア語を聞く機会があったことは、今思うととても幸運だったのだと思います。なかでもレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)・マールイ・ドラマ劇場の『兄弟姉妹』という芝居に衝撃を受けました。2部構成で6時間にもわたる芝居の長さもさることながら、驚いたのは舞台装置。舞台の中央に吊り下げられた筏のような板1枚がすべてで、それを動かすだけでテーブルや壁、屋根や坂道が出現し、俳優さんたちが板の動きに合わせて本当にそこに家があるかのように演じます。それだけで第二次大戦直後のきわめて厳しい生活を強いられた農村の日常が眼前に出現し、時代も国も違う私たち観客も彼らの葛藤や報われない希望に感情的に引き込まれてしまうのです。バラ色に描かれてきたスターリン期の農村の悲惨な現実を描いたペレストロイカならではの問題作だという触れ込みでしたが、センセーショナルな暴露にとどまらず、生きていくうえで誰しもが抱える悩みがいかに普遍的であり、他者を理解し、支えあうことがいかに難しいかという切ない思いの強さに呆然としたのを今でもはっきりと覚えています。演劇という表現形態が、楽しませるだけではなく、観客に問いかけ、対話を求めるメディアとして機能していることを深く思い知らされました。

ロシアを研究していると、良くも悪くも驚かされるタネが付きません。日本で暮らしていて身につく常識や論理では理解できないことも多いです。20世紀初頭に展開されたロシア・アヴァンギャルド芸術でも、「絵画とは何か」、「どこまでそぎ落としたら絵画ではなくなるか」という問いを極端に突き詰めていった結果、画家マレーヴィチはカンバスに黒で四角く塗っただけの抽象画を生み出しました。合理性を追求しすぎ、逆に論理を飛ばして不条理になってしまうまで追求をやめない。ここにも極端から極端へとふり幅の大きな振り子のような思考方法が見られます。斬新な演劇を生み出したメイエルホリドという演出家も、幕をなくして開演前から舞台装置を丸見えにする、本物のオートバイを舞台上で走らせる、舞台装置に抽象的な現代アートを取り入れる、舞台に観客をいざなう、観客とコール&レスポンスを試みる、スクリーンを使って映画の要素を取り入れるなど、現代演劇の演出手法で彼が使っていないのは、当時はまだ技術がそれほど発達していなかった映像との組み合わせぐらいではないかと思われるほど、次から次へと新しいものを取り入れ、演劇という概念をこれまた極端に膨らませていきました。

京都の劇場にて(エレーナ・ゴルフンケルさんと)

京都の劇場にて(エレーナ・ゴルフンケルさんと)

 

ソ連が崩壊して30年以上がたち、ロシアも街の風景は欧米や日本とあまり変わりませんが、やはり見えないところの土台骨が違うように思います。ソ連はあまり留学を受け入れない国だったのですが、ちょうどロシアの演劇に興味を持ったころに政府間交換留学制度が発足し、留学の機会を得ました。1990年秋にソ連のレニングラードに留学し、1991年12月の新生ロシアの誕生を経て、1992年の晩夏にロシアのサンクト・ペテルブルグから帰国するという、貴重な、しかし大混乱の経験でした。

ソ連の生活はまったく想像を超えていました。都市計画上は、職住近接で近所に商店、郵便局、診療所、映画館などもワンセットとなっていて、意外にも極めて快適な生活が目指されているのに驚きましたが、インフラがことごとく機能不全となっていて、絵に描いた餅の状態にも驚きました。ひとびとは互いの愚痴を聞くことでうまく関係を築きながら、いろいろな方法で手に入れたアイテムを交換するなど協力し合いながら快適な生活を目指す。まるでリアルRPGです。日本では経済的な利潤や効率が求められますが、ソ連ではお金よりも時間、つまり金銭よりもどれだけ相手に時間をかけられるか、助け合いによってどこまでコミュニケーションを深め、信頼を得られるのかが重要でした。言葉は常に両義的であって、「隣人から最後のひとつを取ってはいけない」という言葉は、逆に言えば、「自分以外に困っている人がいれば、最後のひとつであっても与えなければならない」ことを含意します。善意の連鎖があれば、どこからか手が差し伸べられ、命は助けられる、というわけです。ところが、そのような麗しい関係も、敵と認定された人々には適応されないどころか、惜しみなく奪うことさえいとわないときもある。そしてその理不尽さに対し、徹底的に抵抗を試み続ける創作家たち…。

留学のおかげでロシア語のことばに生活が結びついたことで、読み書きできるようになっただけではなく、ロシア語で考えたり話したりするときにそれまでの自分とは少し違う人格が生まれました。分裂しているわけではないのですが、なにか問題にぶつかったとき、勝手に思い詰めている日本語の私に対し、ロシア語の私が、いやいや、別の見方もあるんじゃないの?と風刺や笑いを交えてツッコみを入れてくるのです。それで生きるのが楽になった、ということはありませんが、複眼的に考えようとするようになったと思います。

とはいえ、旅行することは比較的容易ですが、留学のような長期滞在は誰でも機会に恵まれるわけではないし、ましていろいろな土地や時代で生まれ育つという体験を繰り返すことはできません。そんな時、ほかの人の目を通したらどんなふうに世界が見えるのか、その世界に入り込む一番身近な入り口が文学や演劇、映画といった芸術作品なのではないかと思います。

ロシアの小説はとても長いものが多いのですが、主人公が「いつ・どこで・どうした」という一貫した筋立てを追いかけようとすると、かえって話を見失って挫折することが多いように思います。作家たちは、この世界がどうなっているのか、という巨大な謎に立ち向かいながら、いろいろな立場の人間の視点を組み合わせて解きほぐそうとしているので、“一筋縄”ではいかないのです。創作家は世の中に転がっているいろいろな人の体験(エピソード)をジグソーパズルのピースのようにたくさん集めて組み合わせ、世界全体を眺めようとする。読者/観客は、自分とは異なる体験をした人の物語を知り、その世界観との対話を通して自分なりに謎に近づこうとする。けれども、どんな作家でも、読者/観客でも、ピースを決して完全に拾い集めることはできない。実際、近現代社会に関わる物語だけでも世界中で無数に書かれているわけですが、いまだに小説というジャンルが終焉を迎える気配はありません。

その中でもロシアの文芸は、200年以上にもわたって世界の不条理にとことん悩みぬいている作家たちが表現し続ける世界。だから私たちが抱えている「ひどいこと」「つらいこと」の多くはロシア文学ですでに取り上げられていると思います。解決策を与えてはくれないので人生のマニュアルとしては無力ですが、一緒に悩んで支えてくれる、またはツッコみを入れてくれる。そんなところにロシアの芸術文化の魅力を感じます。

 

 

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