文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。

大宮 勘一郎 教授(ドイツ語ドイツ文学研究室)

お伝えします。説明ではありません。cum grano salisで聞いてください。

近現代のドイツ文学をめぐる様々な事象を、研究しています。

文学、とりわけ非母語の文学に関心を懐くとはどういうことなのか、折にふれ自問することがあります。自問とはいえ、考えるのは個人的な理由のことでもきっかけのことでもありません。また、社会的な要因のようなことでもありません。前者であれば「私の語り」に終始するでしょうし、後者であれば「因果関係の語り」となってしまいそうです。どちらも文学の語りとはいえません。すぐに行き止まってしまうからです。

文学研究の手前にあるさまざまな言葉のことをお話ししています。別の言い方をするなら、文学の語りは、そして文学をめぐる語りはどのように出現するか、ということです。文学は言葉の営みですから、ある作品(と言っておきます)が生み出されれば、その語りがさらに別の語りを生み出さずにはいません。識字層が限定されていた時代とは異なり、近代文学は広範な読者に開かれています。その端緒には、文学をめぐる語りによって様々な人々が結びつき、よき文学について、さらには文学の言葉に誘発されつつ、例えばよき共同体について言葉を交わし合うという、近代的な公共圏の形成と拡張がありました。ドイツ語圏では18世紀後半あたりの、文学が従来の価値の伝承から離脱し、来るべきものを開き示してくれていた時代です。遠い過去のように思えてしまうのには、時間の経過だけのせいではない事情がありますが、それは別の機会に。

研究滞在中のベルリン自由大学近くにて-8月

研究滞在中のベルリン自由大学近くにて-8月

 

もちろん、文学をめぐる語りは種々雑多な形や内容をもち、語りのそのまた語りとして、そもそも何についての語りであったのかすら忘れながら水平に広がってゆきます。制しようのないことですし、それはそれで構いません。近代文学自体が、雑多な語りの中から姿を現してきたものであり、また伝統的な規範に抗して自由に語ることをおのれの権利として発展したことを思えば、文学をめぐる語りを限定したり禁止したりすることは、あってはならないことです。誰が何を語ってもよい、という文学の語りの原則は、文学を生む語りにも、文学が生む語りにも等しく妥当します。とはいえこれは、誰が何を言おうと誰も止めることができない、という消極的な原則にとどまるもので、これだけにいくら縋ったところで語りは硬直と弛緩の間で荒廃するだけです。自由な語りがいくら盛んになっても、それだけでは容易に出現しないのが文学の語りなのです。では、文学をめぐるこうした自由な語りの輻輳の、そのまた一歩手前に戻ってみると、どうでしょうか。

どこかで垂直的な力の働きが生じ、そこでようやく文学の語りは生まれます。天啓や悟り、決断のような仰々しいことを想像する必要はありません。「聖」や「政」の語りは(ついでに言えば「性」の語りも)、それだけではすぐに行き止まりになってしまうので、やはり文学の語りではないのです。垂直の力とは、複数の語りが不意に出会い、それらの力が触れ合うところに、淡い衝撃として生じます。それが震源となり、語りに緊張と深度を、そしてまた節度を与えますが、これらは虚勢や陶酔とも思わせぶりな含蓄とも別のところにまず現れるのです。逡巡やうろたえ、言い淀み、心ならず発せられた吐息 —— 言葉の流れだけを追ったのでは目にも耳にも留まることのないこうした滞りとして文学の語りは、おそらくは語り手にも自覚されることなく生まれ、その多くはより声高な別の語りに取って代わられ、自らは埋もれてしまいます。いかに雄弁で滔々たる語りからなる長大な作品であっても、そのはじまりには語りの停滞があります。そこは、異質でさまざまな語りが触れ合うことで、語るべきことを一度見失う地点です。語りが裏返ってしまう、「臍」のような場所と言ってもいいかもしれません。というのも、来るべき語りが生み出されるこの見知らぬ場所は、慣れ親しんだ語りの奥底と通じているからです。「翻訳」が文学の語りたりえる所以です。

こうした滞りに自らも歩みを止めるところにはじまる、文学についての語りというものがあります。滞らぬように言葉を平たく均してしまうのではなく、滞る語りを、果てしなく流し去ってゆく力から護り育む語りです。それが遂には、語りを輝かせることになります。文学の語りという思いがけぬ贈与を迎え入れ、それに応える語りが始まります。こうしたはじまりが時空を超えて幾度となく繰り返されるのが、近代文学研究と呼ばれる語りです。その学知の語りの精緻さと密度は、一見迂遠な語学の修練と同様に、もたらされた贈与への愛惜に促されるものです。そこで語られる言葉は、単なる対象記述の手段ではありません。文学の語りに驚くことは、「わかる/わからない」という区別にも先立つ、言葉の・言葉という経験です。そこでは「母語/非母語」という区別も、とうに消え去っています。文学の語りに触れることは、いつしか語れるようになってしまった私たちに、語ることのはじまりの忘れられた驚きを密かに贈り戻してくれるでしょう。「私たちの言葉」という幻想が音もなく崩れます。「私」や「私たち」を形作っていたはずのものが、すでに別の姿で蠢き、別の語りを語りはじめるのです。

愉しみを超える経験です。

 

 

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