シュルツ祭レポート

2009年7月20日(月・祝)午後2時〜6時 法文2号館2階1番大教室
東京大学文学部現代文芸論研究室主催、ポーランド大使館後援、シアターΧ協力
企画:加藤 有子、沼野 充義
パネリスト:赤塚 若樹、加藤 有子、沼野 充義
「七月の夜—ブルーノ・シュルツ祭」詳細

2009年7月20日、「七月の夜―ブルーノ・シュルツ祭」Noc Lipcowa: Festiwal Schulzowski w Tokioが東京大学本郷キャンパスの法文二号館で開催された。20世紀ポーランド文学を代表する作家、ブルーノ・シュルツに関する映像作品と討論、朗読を中心に行われた。主催は現代文芸論研究室、後援はポーランド大使館、協力はシアターX。
 はじめにポーランド大使館から開会の辞と、シュルツ研究者の加藤有子さんによるイントロダクションがあった。加藤さんによれば、7月12日はシュルツ生誕の日、そしてシュルツ訳者として本国でも知られる工藤幸雄氏の一回忌が奇しくも7月5日であるという。彼の短編のタイトルでもある『七月の夜』に、東京でシュルツの世界を考えようという趣旨の企画であり、工藤氏の追悼も兼ねている。

最初に上映されたのは、野中剛監督の『ブルーノ・シュルツ 二度目の幼年期』(1994)である。
 「ぼくの理想は、幼年期に向けて成熟することです。それこそが真の成熟となるでしょう。」というシュルツ自身が述べているように、「幼年期」は彼の文学の中心的なテーマである。その幼年期に焦点を当てながら、シュルツの生涯と作品を辿った映画である。
 冒頭では、子供が無邪気に遊ぶ光景が、ゴルトベルク協奏曲が流れるなか映し出される。映画は、幼年期の創造性、無限性はどこにいってしまったのかと問いかける。幼年期を再生する試みとして、シュルツの小説と画業の双方に目を配りながら、彼の生涯を紹介していく。野中監督と俳優ヤン・ぺシェクのナレーションも耳に心地よく、つい引き込まれてしまう。短い映画だが、シュルツの世界への良い入り口だった。
 続いてスクリーンに登場したのはヴォイチェフ・イエジ・ハス監督の『砂時計サナトリウム』(1973)である。日本で上映されるのは15年ぶりということで、貴重な機会となった。
 シュルツ作品の読者なら、彼の小説を読みながらその作品世界を自分なりのイメージで頭の中に浮かべたことが、一度ならずあるのではないだろうか。ハス監督はシュルツの作品からどのような映像を生み出したのか、筆者は期待しながら映画を観た。
 一言でいえば、夢のような手触りをもった映画だろう。冒頭、主人公ユーゼフが列車に乗っているシーンでは、外の景色は水平に流れていかず、円を描いている。直線的な時空間の流れはゆがめられ、日常的な感覚は通用しないのだ。加藤さんの指摘によれば、ユーゼフがサナトリウムに着くシーンで、パラレルワールドが示唆されているという。ユーゼフはサナトリウムの窓から、先ほど到着した際の自分自身を見る。後から来たユーゼフは、最初のユーゼフが通ったサナトリウムの扉とは別の扉から、短編『春』の世界に入っていく。
 映画に直線的なストーリーはなく、飛躍や断絶といった夢の論理が支配している。画面全体も、見通しがききづらい。薄暗く濁った画面には壊れた物や異形の人々であふれ、そこを主人公がすり抜け、押し分け、這いながら通っていく。観ること自体がひとつの体験となり、終わったあとには目眩をするような感覚を観るものに残す映画だった。

休憩をはさんで、映像作品を中心にシュルツについての討論が行われた。パネリストは、赤塚若樹氏、加藤有子氏、沼野充義氏の三人である。

はじめに、映画と原作の関係について加藤さんによる解説が行われた。
 シュルツの作品といえばやはり短編が思い浮かぶ。ハス監督は、タイトルにもなっている『砂時計サナトリウム』や『春』といった比較的長めでプロットが明確なストーリーを中心に映画の枠組みを作り、そこに他の短編の要素を取り入れている。
 加藤さんによれば、他の短編を組み込む際に、シュルツの作品中に繰り返し現れるモチーフを、効果的に利用している。人形、鳥、鉄道といった頻出するモチーフを登場させることで、同時に、それらのモチーフが登場する他作品の要素を絡ませていく手法をとっている。
 そのため、ひとつのシーンの台詞にも多くの作品からの引用が含まれているため、台詞の出典を探すというマニアックな楽しみもあるという。筆者もあらかじめシュルツ作品を読んで予習して映画を観たのだが、はっきりわかったのは四分の一くらいだった。観賞しながら、それぞれのシーンにいろんな作品の要素が、高密度で凝縮している感じを受けた。
 原作よりも強く表現されている要素として、さらにアデラのような女性のエロスや、ユダヤ性、父と子に対する情愛がある。ユダヤ性に関しては、特に、映画終盤ではホロコーストを連想させるシーンが登場する。加藤さんは、ハス監督がインタビューで述べているように、ホロコーストで失われてしまったポーランドにおけるユダヤ文化を再生する意図がみてとれるのではないか、という。父と子の関係と聞いて、カフカが描く父と子を、筆者は思い浮かべた。同じユダヤ系の作家でもあり、比較すると面白いかもしれない。
 続いて、赤塚先生は、クエイ兄弟による『大鰐通り』のアニメ化作品の紹介しながら、シュルツ作品の映像化についてお話になった。赤塚先生によれば、このクエイ兄弟の人形アニメは、ハス監督作品から強い影響を受けている。陰鬱な色彩、暗く冷たい画面、廃墟や不完全な物たちといったネガティヴなイメージなど、シュルツ作品の映像化を決定付けるような要素が、クエイ兄弟の作品にも濃厚に表現されているという。
 また、シュルツの画業に頻出する「女性の足」についても、赤塚先生は言及された。女性の足への執着と、シュルツ作品に登場する奇妙な「創造論」との関係である。創造主の完璧さと対照的に、「第二の創世の計画」では粗悪品や不完全なものが肯定される。「第二の創世」のモットー「内容はより少なく、より多くの形を」の範例として、女性の足の綺麗な形は賛美されるのではないか、という。
 沼野先生は、工藤氏の追悼も兼ねた企画ということもあり、日本におけるポーランド文学研究についてお話になった。工藤氏の翻訳は、シュルツの癖のある文体を流麗な日本語に訳しており、日本文学の貴重な財産であると先生は高く評価した。ポーランド文学の「三銃士」(シュルツ、ゴンブローヴィチ、ヴィトキェヴィチ)を精力的に翻訳した工藤幸雄氏、関口時正氏、吉上昭三氏をポーランド文学研究の第一世代とすれば、西成彦氏や沼野先生は第二世代、加藤さんはより若い世代になるそうだ。「これからも魂のリレーをつなげていく」と先生は締めくくった。
 会場との質疑応答の時間では、シュルツの女性の足に対する執着が再び話題になった。シュルツの独特な女性のとらえ方、父・息子・女中をめぐる家庭劇のバフチン的カーニバル性など、来場者のシュルツへの強い興味を反映した活発な議論になった。映画では執着の対象が、女性の足から胸に変化しているのはなぜか、という面白い意見もあった。沼野先生は、まったくの推測と前置きした上で、当時の社会主義体制では、足よりも胸のほうが欲望としてよりノーマルと考えられて検閲を通りやすかったのでは、とおっしゃった。

最後にポーランドからの留学生のダヌータ・ウォンツカさんと、ドイツ連邦共和国におけるポ−ランド移民文学の研究者である井上暁子さんによる、短編『七月の夜』の朗読が行われた。この作品の中から、夜を讃えている一節を、ウォンツカさんのポーランド語、井上さんの日本語で交互に朗読していく。正面のスクリーンには、黒い背景に白字で二言語による文章が映し出された。短編の中で、通いつめた映画小屋を出た語り手は、夏の夜に紛れて家路につく。「七月の夜の地形図」を描こうと語り手が次々と比喩を繰り出し、闇への賛嘆がクレッシェンドしながら高揚していく一節である。ポーランド語と日本語、まったくリズムが異なる二つの言語が響きあい、次第に意味を離れて、純粋に音として耳に届いてくるような不思議な感覚だった。
 朗読終了後は、あえて挨拶抜きでシュルツ祭は解散した。余韻が残る中、本郷の映画小屋をあとにした人々を、ゆっくりと暮れていく東京の七月の夜が待っていた。

(津野将輝 現代文芸論大学院修士課程)