リービ英雄氏を囲んで 越境の声 —講演と座談— 聴講記

2009年6月29日(月)午後5時〜7時 法文2号館2階2番大教室
講演者:リービ英雄、コメンテーター:藤井省三、司会:沼野充義


2009年6月29日、東京大学photo04の大教室でリービ英雄氏の講演と座談会が行われた。高校生から年配の方まで約200名の聴衆で会場はいっぱいになり、日本文学におけるリービ氏の存在の大きさを再確認することになった。リービ氏は母語でない日本語で書くアメリカ出身の作家であるが、中国へも何度も訪れ、最近では中国滞在をもとに書いた著書『仮の水』で伊藤整賞を受賞されたばかりだ。座談会は東京大学の中国文学を専門にする藤井省三教授と現代文芸論の沼野充義教授を中心にすすめられた。
 講演では、2つの近著『仮の水』と『延安』というフィクションとノンフィクションの間に位置するような紀行文学について、作家自身が意図したことや読み手から指摘されたこと、また中国滞在の裏話など予定されていた時間を越えて興味深いエピソードが次々に展開した。
 リービ氏は中国の奥地でお腹をこわし薬も効かず途方にくれていたとき、中国語の「ジャーシウエイ」という言葉を知る。その音を日本語の漢字「仮水」へと翻訳したとき、「偽の水」という意味が浮かび上がり、同時に「かりそめ」という古い日本語が響いてきた。その瞬間からリービ氏の見る中国が変わったという。例えば「仮の水」の主人公は、「仮水」を飲んだときも、単に偽の水を騙されて飲まされたというだけではなく、「灰色の味」「道の水」「シルクロードを飲んでしまった」という小さな嬉しさまで感じることになる。photo02

 またこの作品には、境内に入れず門の前にいるしかない、ぼろを着た「仮道士」も登場する。偽の道士と本物の道士を「分別」するためには、本物の道士が道士を志すものに「道」とは何かを尋ねるだけでいい。答えられないものは仮道士となり境内に立ち入ることが許されない。この場面をリービ氏は一つの風景としてさりげなく書いたそうだが、ある作家が日本の文学者を描いていると言って感動したという。最終的に語れないもの、語っても、語っても足りないから答えることができないものに、仮の道士も日本の文学者も取り組んでいるという考えからだ。
 講演の終わりに「仮の水」の最後のいくつかの文章が朗読された。作家自身による朗読は私にとってもっとも興味深かった。リービ氏の作品に加えて対談やインタビューなども読んでいたので、リービ氏の声をいつのまにか勝手に自分で作り上げていたのだが、その声は私の日本語だった。この講演でリービ氏の固有の日本語を聴いたときから、その声に惹きつけられた。リービ氏の生きてきたアメリカや中国がその日本語の響きの中にあらわれていると感じたからだ。リービ氏にとっては、言と文は必ずしも一致せず、自分の書いた日本語を読んで間違えることもあるという話も面白かった。
 朗読がすすみ、主人公が車から離れ高速公路を歩いている。「両側に青いガードレールがまっすぐに続く道の先まで見渡せた。……」私の頭の中では講演の中で何度か聴いたリービ氏の「ミチ」がここでとうとう「未知」に変わってしまった。主人公が飲んだ水は「未知の水」で、仮の道士は「未知」が何かわからなかった。主人公はしかし「未知の先」まで見渡せた。未知の世界に踏み込んだ主人公はその先に何を見たのだろうと、朗読を聴きながら考えていた。
photo01 質疑応答は最初に藤井教授が、その後休憩をはさんで、現代文芸論院生、最後に沼野教授が会場からの質問のうちいくつかを選んで、リービ氏と対話する形になった。来年リービ氏の作品の英訳が出版されるそうだが、なぜ自身で翻訳しないのかという質問に、「医者が自分の体に手術するようなもので、痛い!」と答えていたのが印象的だった。またマイノリティ作家がマジョリティの書き方に影響を与えることができるのかということをめぐって話が様々な方向に広がった。日米の世界で行き詰っているなら、そのどちらでもない第三の国へ行ってみようというリービ氏の冒険心は、文学の領域を超えて、すでに多くの人たちに刺激を与えているのではないだろうか?

(齋藤由美子 現代文芸論大学院博士課程・RA)