留学院生歴難簿 煙花爆竹第三難    博士課程 上原 究一

 今年の春節(旧正月)は2月18日であった。2月の後半というのはかなり遅い部類に属する。しかし、12月になったばかりの頃から会う人会う人「春節には日本へ帰るの?」と聞いて来るようになっていた。その都度「日本では新暦の元旦に新年を祝うから春節はあまり重視していなくて、田舎では祝うところもあるけれど、東京では別に何もやらないから帰らずに中国の春節の様子を見るつもりです」と答えながら、1月初旬から冬休みだから、「冬休みは日本へ帰るの?」と聞かれるのなら分かるが、2ヶ月以上も前から「春節には」というのは気が早すぎるんじゃないの、と思っていたものだった。

 1月初旬に学期が終わっても、20日頃まではキャンパスはそれまで同様に人で賑わっていた。ところが、それから急激に人が減り始め、2月初めにはもう猫の子一匹見当たらないという表現がぴったりな閑散とした風景になってしまった。学食もどんどん営業規模を縮小し、メニューもみるみる減少を続け、2月10日頃にはついにカウンター一つのみの営業でメニューは5種類の蓋飯(中国式どんぶり飯というか、かけご飯というか)のみ、ということになった。更に、留学生寮内においても、7割以上を占める韓国人がやはり旧正月を祝いに国へ帰ってしまい、人気も無ければ、いつもはダイヤルアップ以下の速度しか出ないLANもブロードバンドの実力を発揮して快適そのものというおよそ非日常的な空間が現出したのである。ことここに至って私もようやく気が付いた。2ヶ月以上前から春節の話をするのも自然なことだったのだ。なにせ、1ヶ月前では話をしようにも既に人がいなくなり始めてしまうのだから!

 その一方、年の瀬真っ盛りな2月10日前後はいつもに増して交通渋滞がひどかった。ちょうどその頃タクシーに乗ったら、帰省の前にお歳暮を持って挨拶廻りを する人が多いからこんなに混むんだと運転手さんが教えてくれた。それも数日すると収まり、いよいよ街角にも人気が乏しくなった。そんな街角に現れ出したのが「煙花爆竹専売」と銘打った仮設店舗で、みるみる増殖してあちこちに見られるようになっていった。

 そんな中、翌日は除夕(大晦日)という2月16日、「北京市煙花辦」なる名義で携帯にショートメールが届いた。なんでも除夕と正月初一は一日中、初二から元宵節の十五日までは7時から24時まで花火と爆竹を解禁する、それ以前とそれ以後にはダメだ、ということだ。11月のアフリカ会議の後にも北京市政府から会議の成功を知らせ、交通規制への市民の協力に感謝する旨ショートメールが来たが、今回は事前通知である。流石に念の入ったことであるが、さてはてどうなることやら…。

 いよいよ除夕、手持ち無沙汰なよその大学の日本人留学生たちと一緒に北京の冬の風物詩こと[さんずい+刷]羊肉(羊のしゃぶしゃぶ)を食べていると(他の客も外国人ばかりだった)、18時を過ぎた頃からどんぱちどんぱちと始まった。爆竹は一度鳴りだすと何分も途切れずに鳴り響くし、花火はドカンドカンひっきりなしに上がる。日本では花火職人でなければ扱えないような何尺玉相当の大きさのものも、平然と素人さんが火を付けてあっちこっちで上がっているのだ。それが時間を追うごとにどんどんエスカレートしていく。空は光り、地は叫び、誰からともなく湾岸戦争の映像を思い出すねという声が上がった。不謹慎な喩えながら、銃声がしても分からないどころの騒ぎではなく、これに乗じてテロや空爆があっても誰もそうとは気付かぬうちにお陀仏であろう。春節の爆竹の記述は『荊楚歳時記』あたりにはもうあったはずだが、千年以上もよくこれを続けるものだとか、爆竹の音に鬼を追い払う効果があるというが、実はそうではなく、鬼はひたすら爆竹を鳴らし続ける人々の姿に呆れて去っていくのではないかとかなどと話しているうちに、いつの間にやら我々も一つ爆竹をやってみようではないかという話になっていた。

 店を出て、近くの公園方面に歩きながら、途中の煙花爆竹専売店で5000連発の爆竹を買った。210元。外人ということで足元を見られてふっかけられたであろう分を差し引いても相当な額である。花火の価格も聞いてみると、優に一抱えはある一番凄いのが1300なんぼだと言っていた。天安門広場でもこれを上げるのだとか何とか言っていたが、沢山置いてあったところを見ると買う人もいるのだろう。かと思うと尺玉級と思しきものでも260元などと言われるものもあり、今ひとつ相場が良く分からなかった。花火は時々暴発するのがあって怖いからやめておこう、と相談しているそばから近くで花火が暴発したと思しき重低音が鳴り響き、爆竹5000発だけを持って公園へ向かった。

 小さい公園であるが、既に先客が何組かいて、比較的小さめの打ち上げ花火に興じるグループあり、筒型花火を木に向かって連発する若者あり、子供連れで日本でも売っているようなおとなしい花火をしている家族あり、爆竹を木にかけて鳴らす人々あり、甚だしきは手に持って振り回している者までいるという具合であった。しかし、我々もそうであったが、誰一人として水を用意していない。乾燥しきった北京でひとたび火が付けば恐ろしいことになるような気がするが、そんなことはおかまいなしに若者は木を的に花火を発射するのである。その近くを我々が歩いていようとおかまいなしに打って来たのでなるべくさっさと通り過ぎ、いよいよ5000連発の爆竹君を地面に広げてみたのだが……。短い。思った以上に短い。暗かったこともあり何メートルくらいかはちょっと分かりかねるが、ともかく思ったよりも短かった。それでも火を付けると赤い紙のカスを撒き散らしつつ流石の爆音を発し、我々の中には耳を押さえる人もあった。しかし、その火花と爆音はちょうど1分ほどで終わってしまった。210元でたったの1分ぶん…。一体そこらで何分も鳴らし続けている人々はどれだけの散財をしているのだろうか。やはり鬼は呆れているに違いない。昨年も北京で過年した人は、今年の方が派手にやっていると言っていた。

 23時頃に三環路に面した10階の自室に帰ると、あちこちからちょうど同じくらいの高さに花火がひっきりなしに上がり続け、それはそれは壮観であった。やはり年をまたぐ23時半から0時半くらいが一番凄いようで、窓の外には常時10発以上の大輪が開いているといった有様なのだ。紅白よろしき年越しの歌番組を付けながら花火を見ていると年が明けた。テレビでは歌番組のエンドロールが終わると同時に年が明け、その瞬間始まったのはなんと単なるCMであった。花火の音は2時近くまで相当な規模であったが、それからだんだん静かになっていった。さてはて年明けての様子は如何あいなりますか、且聴下回分解。

2007年3月5日




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