留学院生歴難簿 中国上課第二難    博士課程 上原 究一

 中国の大学は年二学期制で、概ね9月初頭から1月初旬が一学期、3月初頭から7月初旬が二学期にあたる。なので、私もつい先日一学期が終わって冬休みに入ったところだ。そこで今回は留学初学期の授業の感想を大まかに述べてみよう。

 …と思うのだが、その前に前回書いたバスの乗り換えに関して補足を少々。先日書店巡りから帰る際、一本で帰れるバスが無かった。それならどこかで乗り換えようと案内板とにらめっこして、見覚えのある名前のバス停を通る路線を発見。これは大学から乗ったバスで通ったことのあるバス停だからそこで乗り換えればよかろう、と揚々とそれに乗り込んだ。ところが、さて乗り換えるかと降りてみると、これがなんと見たこともない場所。お目当ての路線も通っていない。案内板の名前は確かに降りようと思っていたバス停なのだが…。そこではたと気付いた。そういえば大学の近くにも同じ名前で数百メートル離れているバス停があったではないか。ここも同じ名前のバス停が離れた場所にあるのだろう…と思って道沿いに少し歩いてみたが、一向に見覚えのある景色にならない。仕方なく件の見知らぬバス停に戻って再度別のバス停行きのバスに乗り、そこで無事に大学へ帰る路線に乗り換えられたが、渋滞もひどく二時間近くロスしてしまった。本は重いわ、寒いわ、おまけに折悪しく冬至の前日でさっさと日は暮れてしまうわで、異国の地でのプチ迷子体験はなんとも心細かった。「同じ名前のバス停だからといって乗り換えられるとは限らない」。よく覚えておこう。

 前置きが長くなったが、本題に入ろう。来た当初は中国の授業の雰囲気はどんなものかと期待に胸を膨らませていたものだが、結論から言ってしまおう。こと古典文学の分野についてのみ言えば、中国の授業の雰囲気を味わいたいだけなら東大の中文にいれば十分である。敢えてもう一度言う。中国の授業の雰囲気を味わいたいだけなら東大の中文にいれば十分である。…というのも、東大の中文は北京大学の中文系から常時先生をお招きしており(原則的に二年交代)、講義に演習、更には語学の授業まで開講して頂いているのだ。当然全て中国語で行われている。特に講義など先生が喋るだけなのだから、東大にいながらにして本場の雰囲気は味わえていたのである。しかも超一流の先生たちの講義を本場では考えられないような少人数で独占しながら!更に、中国では先生がレジュメを配らず、ただひたすら一方的に喋るだけというケースも少なくない。そこへ行くと東大中文ではちゃんと資料を頂ける。素晴らしい。中にいるとなかなか気付かないものだが、実に贅沢な環境だったんだなあ、うんうん。…いかにもHP用の宣伝臭いようだが、これホント。

 まあ、流石に演習ともなると東大にいても同じということはない。何せ周りの学生が殆ど全員中国人なのだから、自ずと流儀も違って来るというものだ。日本の学生とは観点も違うし、そもそも討論すること自体に日本と違って非常に積極的な人が多い。東大の授業で北京大学の先生方が決まって「討論討論、随便討論」と促して下さる訳がやっと分かった気がした。ただ、こちらもやはりレジュメを配るという習慣があまり浸透しておらず、特にレジュメを切るように言う先生の授業以外でレジュメが貰えることはまずないというのは困りものであるが…。

 それに、それ以前の問題として、同じ「演習」でも、今学期私の出た中国の授業と東大中文の授業とでは決定的な違いがあった。東大中文での古典文学の演習と言えば、詩文にせよ小説にせよ戯曲にせよ、必ず何か作品の原文を読み進めながら、注釈に当たったり意見を出し合ったりしながら理解を深めていくものである(言語学や現代文学の演習は必ずしもこの限りではないようだが)。ところが、中国ではどうも原文というのは各自自分で読むものらしい。演習で取り扱うのは作品の概要や背景であったり、作者の問題であったり、先行研究の紹介であったりで、それについて皆で討論するというのが一般的なようなのだ。これにはかなりのカルチャーショックを受けた。恥ずかしながら、日本の院生は自分の研究している以外の分野については基礎知識すら乏しいし、研究状況などはっきり言って碌に知らない(研究の細分化が進みすぎてとても把握しきれないという事情もあるにはあるが、それにしてももう少し知っているべきだろうと我ながら思う)。そこへ行くと中国では授業に出れば自分の専門以外の作家やら作品やらについての基礎的な研究状況には曲がりなりにも触れられるようになっているようだ。それに、学部の授業として開講されている講義でも文学史に関するものが充実している。おそらく選択必修なのであろうが、教室から溢れんばかりの学生が受講していて、その気になれば一学期だけで上古から近現代まで、ジャンルも詩文・小説・戯曲・近現代文学と一通り揃った基礎的な文学史の知識を身に付けられるようになっている。流石は本場だ。

 若干話が逸れるが、東大にはこの「基礎的な文学史の授業」というものは原則的に無い。駒場3・4学期の持ち出し授業として開講される年もあるが、それも対象の時代は限られ、また毎年あるわけでもないため、授業で中国文学史の全貌に一通り触れることは出来ないのだ。そんなものは各自本を読んで勉強すればいいことだと言えばそれまでかもしれないが、駒場のうちに読んでおかないと本郷に来てから苦労する。しかし、駒場にいる間はそんなことは知る由も無い。ここは東大の良くない点だと感じる…ので、このHPで中文の魅力に触れて進学を決意した駒場の皆さんは今のうちに文学史の本を読んでおくのがオススメです。ちょっと古いし、教科書的な事項の羅列中心で個人的には肌に合わない本なのですが、前野直彬『中国文学史』(東大出版会、1975年)が中文の学生が院試前に必ず大慌てで読んでいる必読文献。但し、これを読むともしかすると中国文学が無味乾燥でつまらないもののように感じてしまうかもしれないので(私は感じかけました)、進振り届けの提出前には読まないように(笑)。中文の授業に出て実際に作品に触れてみれば無味乾燥なんてことは全く無いので、安心して中文をお選び下さいませ。

 閑話休題。ただ、中国流もよしあしで、作品の背景や研究状況は把握出来ても、肝心の原文に対する共通理解が深まらないという問題があろう。面識の出来た何人かの中国人学生に授業の印象を聞かれた際に上に書いたような話をすると、彼らもやはりそこには問題を感じているようだった。原文を扱う授業もないことはないようなのだが、少ないらしい。

 日本式が中国流に勝る点をもう一つ挙げると、教員と学生の距離の近さも挙げられる。日本では当たり前の学生がたむろする研究室というものは中国にはなく、それどころか教員各自の研究室すら原則的にない。従って外に住んでいる先生は授業の時しか学校に来ず、授業に出ない限り顔を知る機会すらない。それどころか、授業を持っていない先生というのもいるようだ。そうなると私のような腰掛けの留学生にはいることすら分からない。そこへ行くと東大中文は恵まれている。まず本やパソコンなど環境の充実した学生用の研究室があるし、中文所属の先生の研究室もすぐ近くであるから授業に出ていない先生ともちょくちょく顔を合わせる機会がある。おまけに、少なくとも年に3度は研究室全体のコンパも開かれていて交流が密だ。これもまた外に出てみて初めて分かる長所であった。

 最後にオチも付けておこう。私が来ているのは首都“師範”大学という、日本で言えば教育大学に当たる類のところである。従って、学生の中には将来先生になる人が多い。そのためであろう、今学期出たある先生の演習では、学生の発表後に先生が講評をする際に、「君の普通話はとてもきれいでたいへんよろしい」だとか、「お前はもうちょっとゆっくり喋った方がいいな」だとか、「レジュメはもっと詳しくすべきだね(この先生はレジュメを切らせる)」だとかいった、先生になるためのアドバイスを必ず加えていた。私も一度おっかなびっくり発表をしたのだが、その際の講評は「みんな見たか。上原は中国語は下手っぴだが、彼はこまめに板書をする。だからみんな彼の言いたいことは大体分かっただろう。君たちは板書をあまり好まないようだが、板書はこんなに効果的なんだよ」というものであった。うーん、早くマトモに喋れるようになりたい…。おあとがよろしいようで。且聴下回分解。


2007年1月20日




この頁閉じる