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総括班 研究活動報告<2001年度>


研究会・シンポジウム報告

f01.gif (930 バイト)2002年3月9日(土)〜10日(日) 公開セミナー「これからのイスラーム地域研究−イスラーム世界の統一性と多様性(2)」(東京大学本郷キャンパス)報告

報告1: 下山伴子

3月9日(土)午前の部
発表者:
桝屋友子(東京大学東洋文化研究所)
 「日本とイスラーム美術」
黒木英充「東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)
 「多元的都市社会の発展的研究に向けて−ポスト9.11世界における二元論の克服」

 報告の皮切りは桝屋氏により、プロジェクト初の試みとしてパワーポイントを使用し、実際に多数の美術品を鑑賞しつつ行われた。氏は簡単に「イスラーム美術」の定義付けを行った後、日本とイスラーム美術の関わりについて、平安時代の招来品に遡り、今世紀初頭の美術展・オークションに至るまでの歴史的な経緯を概観した。日本に招来、紹介された美術品は全体に陶器中心であることから、海外の陶器に対する伝統的な関心の高さが確認された。また日本におけるイスラーム美術史研究の現状として、海外での発掘調査、5班aの活動(中近東窯業史研究会、中東の都市空間と建築文化研究会、サライアルバム研究会)について紹介した後、今後の課題として、(1)個々の研究成果への海外への発信、(2)海外との研究協力、(3)日本出土の美術品に対する研究、(4)最新技術の駆使、(5)公共への知識の提供を提示した。

 二番目の報告者である黒木氏は、同時多発テロ以後憂慮される新たな二元論に対する反テーゼとして、19世紀のシリアを事例に、イスラーム世界内部における地域的な多様性と共存の実例を提示した。氏はまず共存への鍵として「資源を分け合うこと」「他者と交流すること」の二つの視点を提示し、前者を支える合意の基準や文化的規範、後者を支える基盤的関係を探る場としての都市研究の意義を確認した。具体的には、アレッポにおける(1)水道システムの維持、(2)ギリシア正教とギリシア・カトリックの対立、(3)通訳の普及、(4)ジズヤ徴収をめぐって生じる政治的・文化的様々な「資源」と「交流」を紹介した。例えば通訳職の場合、職業としての資源、言語という文化的資源を通じての交流の担い手、元々商人が担ったことから物資面での資源や交流も付随した例等である。また最後に、今日の欧米諸国における移民を認める姿勢としての"multi-culturalism"にも触れ、こうした日常性を帯びたレベルでの多元性の再確認の必要性を強調した。

3月9日(土)午後の部
発表者:
柳橋博之(東京大学大学院人文社会系研究科助教授)
 「ある思考様式としてのイスラーム法学」
近藤伸彰(東京都立大学人文学部史学科助手)
 「ウラマーとファトワー」
東長靖(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科助教授)
 「スーフィズム・聖者研究の現状と課題」
子島進(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科助手)
 「イスラーム的NGOの探求−現代イスマーイール派の展開を軸に−」

 午後のセッションではまず初めに、柳橋氏がイスラーム法学における理論構築の過程について論じた。氏は金銀や小麦等の等価交換に関するあるハディースを例に挙げ、古典法における理論の発展段階と権威の諸段階について以下のように概観した。すなわち、(1)元々それぞれ別個に生じた複数の規定がひとつのハディースにまとめられる段階、(2)権威を有する法源として、ハディースから個々の規定が演繹される段階、 (3)演繹を経て体系化された学説自体が権威を持つ段階、(4)学説の空白部分を埋める作業として、個々のファトワーが出される段階、(5)学説に匹敵する権威は持たないものの、必要に応じて参照する先例としてファトワー集がまとめられる段階である。また氏は現代に生き残るイスラーム法として、シリア家族法にも触れ、婚姻に関するシリア家族法の独自の視点を紹介した。このように、理論と現実それぞれの振り子に揺れつつ、法学者の様々な思考様式を背景として複合的なイスラーム法が構築されていく舞台裏が簡潔に紹介された。

 近藤氏は、1989年のホメイニー師によるサルマン・ラシュディーへの「死刑宣告」はファトワーなのかホクムなのかという疑問から出発し、従来明確な定義づけのない12イマーム派のファトワーに対する氏の研究の経緯を紹介した。氏は12イマーム派のファトワーに関してスンナ派との様々な形式上の違い、ホクムとの差が不明確な点を指摘した後、こうした独自性の背景として、近代イランにおけるウラマーの変容について言及した。すなわち、17世紀以降のモジュタヘドの台頭を背景とする19世紀のカーディー職の消滅やマルジャエ・タクリードの出現等、ウラマーの独特の発言権を背景に、ホクムと並ぶ拘束力を持つ12イマーム派のファトワーが出現した可能性が指摘された。また最後に氏は、長い遍歴を経てこのような考察に至るまでの視点として、12イマーム派の教義体系あるいはイラン史という一定の枠内で行う研究方法にとどまらない、比較の視点、歴史的視点の重要性を強調した。

 次に東長氏により、2班C(聖者信仰・スーフィズム・タリーカをめぐる研究会)の成果に基づき、スーフィズム・聖者研究の課題が整理された。氏はまず「聖者」「スーフィー」がともに分析概念であることに注意を促し、これに対する原語や対象の多様性に即して理解するための課題として、(1)通常スーフィーとみなされない人物が聖者として認識される場合の基準やロジック、(2)タリーカと聖者信仰の関係、(3)イルファーンとタサッボフとの境界線、(4)スーフィーをめぐる自称と他称の混在等への分析の必要を提示した。加えて、古典的研究において構築された「スーフィズム」像がオリエンタリズムによる表象を経ている点が指摘された。また最後に氏は、イスラーム復興に対して個人レベルの深化としてスーフィズムが果たす役割を指摘するとともに、民間信仰・道徳的・神秘主義の3層構造から成るスーフィズム理解を提示し、より複合的なスーフィズム・聖者研究の必要を強調した。

 最後に子島氏は、現代イスマーイール派のアーガー・ハーン財団においてNGOの活動と宗派組織が密接に結びついている状況を紹介した。通常イスラームはいわゆる「伝統墨守の原理主義」として新たな開発の担い手たるNGOと対立の図式でとらえられる。しかし、住民参加をうたい文句に高い評価を受けているアーガー・ハーン財団のNGO活動は、表向きはイスラーム的理念の提唱を抑えつつも、実際にはイマームの存在に裏づけられた凝集性や、宗教教育の充実、更にイスマーイール派の現状に対する再解釈の試み等、多くの宗教的要素が観察できる。氏は同財団の活動を、NGOというグローバル化に伴う一要素を自己の宗派組織の内部に有機的に取り入れ、その成果として更に高次のイスラーム化をもたらしている顕著な例と論じた。

3月10日(日)午前の部
発表者:山岸智子(明治大学政治経済学部助教授)
 「地域研究の素材と方法をめぐる悩み」
赤堀雅幸(上智大学アジア文化研究所助教授)
 「人類学と中東研究からイスラーム地域研究へ−民衆の聖者信仰を事例に」

 最初の報告者である山岸氏は、地域研究において文献中心の政治文化研究から文化論やカルチュラル・スタディーズへの注目が高まっている今日の状況の中で、「移民」というファクターを取り上げ、研究の新たな素材として彼らへのインタビューのビデオ化の試みを紹介した(3班b:イスラーム的イデオロギーの生産による摩擦に関する研究)。氏は実験的に、イランでの日本への出稼ぎの経験のあるイラン人へのインタビュー(計42本)、東京近郊のモスク訪問とモスクの世話役へのインタビュー(編集済み1本)を行い、それぞれ調査の経緯を紹介し、後者の一部を上映した。モスク訪問はゼミの学生主体で行われ、対話の形で行われている点、発話とともに表情や身振りなどの情報も提供される映像資料の特徴が改めて注目を引いた。しかしまだ途についたばかりの映像資料に対しては、(1)設備の高価さ、(2)編集に時間を要する点、(3)発表の場がない点、(4)編集の人為性、(5)学術的な評価が定まっていない点、(6)史料批判に相当する基準の必要、(7)映像による説得性を利用するという課題、(6)女性へのインタビューが困難な点等、多くの課題が指摘された。

 2番目の赤堀氏は、まず19世紀以降の中東を対象とする人類学の変容を俯瞰し、特に1980年代に中東へのフィールドとしての評価や人類学解体・細分化の議論とともに登場した実験的モノグラフに焦点を当て、そのうち主要なテーマになりうる聖者信仰の意義を概観した。すなわち、(1)調査しやすいテーマである点、(2) 思想研究や歴史研究との協力の可能性、(3)神道とも共通するアニミズムやマナイズム的要素が認められる点、(4)イスラーム内部における複合性・多様性を認知できる点が、様々な事例とともに指摘された。また氏は最後に地域研究における政策科学や、地域の固有性を求める本質主義の問題に触れ、伸縮自在な地域設定による「イスラーム地域研究」の意義に対する再評価を行った。

3月10日(日)午後の部
発表者:
帯谷知可(国立民族学博物館地域研究企画交流センター助手)
 「中央アジア地域研究の立場から」
新免康(中央大学文学部教授)
 「中国ムスリムとイスラーム地域研究」
酒井啓子(日本貿易振興会アジア経済研究所地域研究第二部副主任研究員)
 「国際政治の中のイスラーム社会」
飯塚正人(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教授)
 「現代イスラーム運動の統一性と多様性」
臼杵陽(国立民族学博物館地域研究企画交流センター助教授)
 「イスラームとユダヤ今日のはざまで−中東イスラーム世界のユダヤ人」

 帯谷氏の報告では、ウズベキスタン共和国ナヴァーイー記念国立図書館所蔵の『トルキスタン集成』(Turkestanskii Sbornik)コレクションのデジタル化の試みが、一部パワーポイントでのプレゼンテーションも交えつつ紹介された。これは1868年から1917年のロシア革命前夜までのトルキスタンに関する新聞・各種出版物・アルバム・地図等々の全591巻、及びテーマ別・地名・人名別のインデックスからなる網羅的な情報のコレクションであるが、ソ連解体後の図書館の予算削減、コンピューターの未導入、現物の利用と破損等の問題を抱えていた。プロジェクトでは帯谷氏の発案により、このうちインデックス及び第153,156巻が3班c(現代イスラーム資料の収集と研究)の活動として現地協力者による作業を経てCD-ROM化された。氏は現地での作業の模様を紹介しつつ、今後プロジェクトを離れても現地で同作業が継続していくことへの期待にも触れ、同プロジェクトの国際的な意義を確認した。

 新免氏の報告では、中国ムスリム研究の動向と課題、プロジェクト内の同研究の概要、今後の課題について、整理された展望が行われた。氏はまず中国ムスリムを構成する回族とウイグルの言語文化上の違いに触れつつ、各研究動向を示し、特に、漢語を使用する回族には漢文史料による近代史や民族政策研究が主流である一方、トルコ系言語を使用するウイグルには民族反乱史等の研究が主流である点を指摘した。また両者ともに、漢族と一定距離を保ちつつ独自の文化を保持してきた内的メカニズム、他民族との関係、国民国家との緊張関係等のテーマが研究課題として指摘された。次に氏は5班の「回儒の著作研究会」、3班の「中国ムスリム研究会」の活動を紹介し、それぞれについて、(1)イスラーム学・中国哲学・中国社会史等の共同研究、(2)イスラーム思想の土着化・中国思想のイスラーム化に対する文献学からのアプローチ、(1)19世紀以降の国家との関わり・アイデンティティ模索、(2)歴史学と人類学の共同研究という意義を確認した。また最後に、複数言語を必要とする点による人材の不足、現代的なテーマの研究の必要、各方面でのフィールドワークの必要という課題についても指摘が行われた。

 二日間にわたるこの講演会は、「イスラーム地域研究」プロジェクトを締めくくるにあたり、京都で先に行われた公開講演会に引き続き、東京での二回目の公開講演会として開催された。二日間で13名の発表者による講演が行われ、それぞれの視点から、5年間にわたるプロジェクトの成果への概観、今後の課題・展望が語られるという、総括にふさわしい密度の高い構成となった。なお2日目の最後のセッションは、9月11日の同時多発テロ事件後のイスラーム世界を現時点で振り返る意図で、酒井啓子氏、飯塚正人氏、臼杵陽氏により締めくくられ、会場には最後まで多数の参加者が見られた。一般の参加者も配慮し、簡明な内容であった点、広範で多様性に富むイスラーム地域像を提供できた点、各発表者の携わる研究が生き生きと紹介された点で、公開講演会のタイトルにふさわしい内容であったといえよう。しかし一般の参加者への報告の意味も兼ねて、これに加えて、プロジェクトのなんらかの網羅的な活動報告の場が設けられなかった点は残念だった。各報告に対する質疑応答を見ても、一般の参加者のイスラーム世界に対する関心の高さが窺われ、こうした機会における積極的な研究成果の還元の必要が改めて認識された。

(報告:下山伴子)

報告2:岩崎えり奈

 2002年3月9日・10日に、「イスラーム地域研究のフロンティア−イスラーム世界の統一性と多様性(2)」と題された公開講演会が実施された。本公開講演会は、同年2月に京都で開催された「イスラーム地域研究のフロンティア―イスラーム世界の統一性と多様性(1)」に続く、1997年4月から2002年3月までの5年間にわたる「イスラーム地域研究」プロジェクトの最終研究成果報告会を兼ねた二回目の全体集会である。
 その趣旨は、研究プロジェクトを終えるにあたり、これまでの研究成果をふまえて、イスラーム世界の過去・現在・未来を「統一性」と「多様性」をキーワードに展望することにあった。と同時に、イスラーム世界に関心をもつ人々に、昨年9月11日の同時多発テロ事件の後、ともすれば「過激な原理主義」のイメージで見られがちなイスラーム世界が実際には多様で豊穣な文化や社会を作り上げてきたか、をあらためて認識する機会を提供することも意図され、そのために公開セミナーという形がとられた。

 この趣旨から、本公開講演会は二日間に渡り、6つのセッション、13名の講演から構成された。以下では、出席した9日午後の部について、概観する。

 午後一番目の報告者であった柳橋博之氏は、「ある思考様式としてのイスラーム法学」と題されたその講演において、まず、リバーの禁止などの様々な例をあげつつ、ハディースの解釈に基づく法源論がいかに発展してきたかを明らかにした。そして、その歴史的過程で生じた理論と現実の乖離を克服するべく、各法学派の学祖の説を忠実に踏襲する動きと、現実に法を適用しようとする人々による新たな法創造を行おうとする動きの二つが生まれたこと、その結果として、重層的なイスラーム法体系が形成されたことを論じた。

 次の報告者であった近藤信彰氏は、「ウラマーとファトワー―12イマーム派のファトワーを求めて」と題されたその講演において、歴史研究で近年注目されるようになったファトワー文書研究の難しさと面白さを、ご自身の専門とするイラン近世・近代史にひきつけつつ語った。そして、ファトワーとフクムという二つの文書形式の史料から、ウラマーの変容とタグリード論の発展が映し出すイラン社会の変容を論じた。

 三番目の報告者であった東長靖氏は、「スーフィズム・聖者研究の現状と課題」について、「イスラーム地域研究」プロジェクトでご自身が関わってきたスーフィズム・聖者信仰・タリーカ研究会の研究成果を総括した。その成果は、聖者やスーフィズムを実体概念とする従来の考え方を覆し、それがオリエンタリズムの産物であることを明らかにしたことにある。したがって、スーフィズムをイスラームの内的ロジックでもってあらたに概念化することが求められるが、そのために、神秘主義・道徳・民間信仰の三層からなる複合体として捉える視点が披露された。

 最後の報告者であった子島進氏の講演「イスラーム的NGOの探求―現代イスマーイール派の展開を軸に」は、パキスタン北部におけるアーガー・ハーン財団の活動を事例に、「伝統墨守の原理主義」としてのみ捉えられがちなイスラームとその信徒の組織が、「新たな開発の担い手」であるNGOを支える理念・組織となりうることを論じるものであった。

 以上、それぞれの講演は、「イスラーム地域研究」プロジェクトにどう関わり、その中でご自身の研究をどう発展させてきたのか、それぞれの専門テーマを材料に、現代のイスラーム世界をどう理解するのか、を語るものであった。したがって、報告者の「地域研究」観、「イスラーム世界」観を窺い知れる内容になっていた。それぞれが描こうとするイスラーム世界の過去・現在・未来は、ステレオタイプの像を否定する点で共通しているが、現代の開発・NGO論と歴史研究、あるいは、スーフィズムを切り口にイスラーム学の知の伝統を再構築しようとする立場とイスラーム法学体系の中にイスラーム社会にみられる思考様式を読み取ろうとする立場では同じにはなりえない。それぞれの問題関心と専門テーマによって、見方が異なってくるであろうことが示唆された。

(文責:岩崎えり奈)

f01.gif (930 バイト)2002年2月2日−3日 公開講演会「イスラーム地域研究のフロンティア−イスラーム世界の統一性と多様性(1)」(龍谷大学、京都)会議報告

 「イスラーム地域研究のフロンティア−イスラーム世界の統一性と多様性(1)」と題された本公開講演会は、1997年4月から2002年3月までの5年間にわたる「イスラーム地域研究」プロジェクトの最終研究成果報告会を兼ねた全体集会として実施された。

 その趣旨は、研究プロジェクトを終えるにあたり、これまでの研究成果をふまえて今後の研究を展望するとともに、若い世代の学生・研究者に、ともすれば「過激な原理主義」のイメージで見られがちなイスラーム世界が実際には多様で豊穣な文化や社会を作り上げてきたか、をあらためて認識してもらう機会を提供することであった。

 この趣旨から、本公開講演会は「イスラーム地域研究」プロジェクトを組織してきた、佐藤次高プロジェクトリーダーを始めとした総括班メンバー9名(小松久男、羽田正、私市正年、清水学、林佳世子、三浦徹、加藤博、大塚和夫)と、中国史専攻にもかかわらず、「イスラーム地域研究」プロジェクトに積極的に参加してくださった岸本美緒氏を加えた10名の講演から構成された。

 それぞれの講演は、「イスラーム地域研究」プロジェクトにどう関わってきたかという個人的な体験から説き起こし、それぞれの専門テーマを材料に、自らの「地域」観、「地域研究」観、「イスラーム世界」観をストレートに披瀝するという内容からなっていた。

 その具体的内容は、プログラムの講演題目から推測していただき、ここで解説することはしないが、それぞれが、「地域研究」の定義の難しさと、「地域研究」を行うことの楽しさを熱っぽく語り掛けるものであった。

 そのなかでも、印象に残ったのは、ほとんどすべての講演者が、イスラーム世界の多様性を強調し、昨今のいわゆる「原理主義」的風潮のなかで、とりわけ2001年の9月11日の「多発テロ」以降、この多様性を押し殺し、イスラーム世界に不寛容の社会動向が観察されることを嘆いていたことであった。

 なお、来る3月9、10日には、今度は若手の「イスラーム地域研究」プロジェクト参加者によって、研究成果報告会を兼ねた、第二回目の公開講演会が実施される。今回の公開講演会の参加者数は、初日に120名、二日目に50名であったが、この第二回目の公開講演会には、それ以上の参加者が望まれる。

(文責:加藤博)

第2回公開講演会「これからのイスラーム地域研究:イスラーム世界の統一性と多様性(2)」について

f01.gif (930 バイト)2001年12月8日 日本中東学会公開講演会「21世紀のイスラームとイスラーム世界:日本とイスラーム世界とのかかわり」

主催:日本中東学会
後援:「イスラーム地域研究」プロジェクト

日時:2001年12月8日(土)13:30〜17:00(13:00開場)
場所:名古屋国際会議場1号館141-142室
講演:
 佐藤 次高(東京大学大学院人文社会系研究科)
  「日本人のイスラーム理解」
 小林 寧子(南山大学外国語部)
  「東南アジアのムスリムと日本人」
 山岸 智子(明治大学政治経済学部)
  「帰国イラン人の語る日本」

報告:
 公開講演会の大きな狙いは、タイトルの副題が示すように、今後ますます重要性を増すイスラーム世界と、私たちはどのように付きあっていくべきか、その基本的なあり方を考えよう、ということにあった。9月11日事件の後でもあり、時宜にもかなった適切なテーマ選択であったのではないかと考える。案内用に作った講演会の趣旨説明では、この点が以下のように解説されている。「グローバル化の進行とともに、イスラーム世界のなかで暮らす日本人や日本で生活するムスリムが増加し、日本人とムスリムの直接の接触が増えている。歴史と文明をもつイスラーム世界とをどのように付きあってゆくか、これは21世紀の日本とその社会が直面するもっとも大きな文明的課題といえる。」今回の講演会では、こうした趣旨にもとづいて、日本とイスラーム世界のかかわりをめぐって三人の講師の方々からお話をしていただいた。

1.佐藤次高「日本人のイスラーム研究」
 新井白石の著作に見られるように近代以前、江戸時代の日本には断片的ながら、すでにイスラーム世界に関する知識が伝えられていた。その後、明治以降になってヨーロッパ経由でイスラームやムハンマドに関する情報が入ってくるのにともない「日本人によるイスラーム理解の原点」となるいくつかの著作が出版された。ただし、これらの著作にはヨーロッパ人のイスラーム世界認識の偏向も映しだされていた。その後、日本人がムスリムとして初のメッカ巡礼を行なうなど、イスラーム世界を直接的な体験で認識しようという試みも生まれたが、一方で軍部の要求にもとづいて、戦争中にはアジアのムスリムに関する実態調査がなされた点も忘れてはならない。戦後、本格的なイスラーム研究が再開される。その後の歩みについて、講師は以下のように研究者の世代を区分して解説された。戦前のイスラーム研究を継承・発展した前嶋信次・井筒俊彦両氏から、嶋田襄平・本田実信・中村廣治郎各氏のように欧米の大学への留学経験者を主流とした世代、そして1960年代以降、中東諸国に留学し、現地調査と史料収集に従事した新世代の登場。

2.小林寧子「東南アジアのムスリムと日本人」
 佐藤氏の講演と同じく、日本人と東南アジア・イスラームとの最初の出会いについて、江戸時代の漂流漁民孫七による「あるがままの記憶」東南アジア見聞記の紹介から始める。その後、日本軍による東南アジア占領とも結びついて展開した戦略研究としてのイスラーム研究を概説し、とくにムハンマディヤやナフダトゥル・ウラマーに結集したインドネシアのムスリム知識人と日本の占領行政との関係について最近の研究の紹介を行なった(詳しくは小林寧子著「インドネシア・ムスリムの日本軍政への対応」倉沢愛子編『東南アジア史のなかの日本占領』早稲田大学出版部、1997年、223-258頁参照)。しかし、戦後の日本は、こうした戦時中の経験がほぼ忘れられた形で独立した東南アジア諸国と付きあってきたこと、そして戦後の日本人の東南アジア研究もまたアメリカの地域研究を手本にしたため、ナショナリズム研究が主体であり、研究対象としてのイスラームの重要性が認識されはじめたのは1970年代以降である点などを指摘し、東南アジアのムスリムと日本人の関係史を考える基本的な視点について問題提起した。

3.山岸智子「帰国イラン人の語る日本」
 出稼ぎなどで来日するイランの人たちは、私たちの身近でもっとも接する機会の多いムスリムである。講師は、イラン人の日本への出稼ぎにいたる背景(対イラク戦争の終結とバブル経済といったタイミングなど)や、日本での社会生活とその問題点(法的地位・居住地域・仕事・生活情報と娯楽・犯罪)について説明し、その後で帰国イラン人のインタビュー調査の記録を紹介した。この現地調査は、イスラーム地域研究プロジェクトの一環として昨年夏に行なわれた。調査に応じてくれた帰国イラン人の多くは、日本での「経験」を懐かしむ態度を示し、日本に対して好意的な印象をもっていた。その一方で労災の問題をはじめとする軋轢など、その経験談の内容は多様であった。また、秩序・安全重視の日本社会に好感をもつ一方で、自分たちの社会と比較して家族の絆が弱く人間的感情が乏しいといった消極的な印象も抱いていた。講師は、ふつうのイラン人が味わった異文化体験を、彼らの生き生きとした姿と肉声を伝える撮影ビデオの映像を紹介しながら熱心に語りかけた。

(文責:長沢栄治)

 

f01.gif (930 バイト)2001年11月12−13日 国際会議「再考・アラブと日本:地域研究・国益・友好」開催報告

 「再考:アラブと日本」研究会(イスラーム地域研究プロジェクト総括班内)は、2001年11月12日と13日の2日間、日本・アラブ関係を議題とした国際会議「再考・アラブと日本:地域研究・国益・友好」(イスラーム地域研究プロジェクト主催)を開催した。国際会議は、東京の国際協力事業団(JICA)国際協力総合研修所の協力を得て、同国際協力総合研修所を会場として行われた。

 この国際会議は、「再考:アラブと日本」研究会のメンバーを中心にして、企画・開催されたものである。「再考:アラブと日本」研究会は、日本とアラブ諸国との関係を再検討し、新しい日本アラブ関係の構築につなげていく目的で2000年春に開始された。当時、サウジアラビアでの日本のアラビア石油の利権延長交渉が不調に終わるなど、日本とアラブ諸国との関係が一つの転機にあった。そうした中で、研究者の間でも、研究者の視点で日本・アラブ関係について再検討し、新しい時代の日本・アラブ関係を築くための手掛りとしたい、とする考えが強まったことを踏まえて研究会は組織された。

 「再考:アラブと日本」研究会は発足後、国内では、何回か研究会を重ね、また、研究会と平行して、石油開発、技術交流、環境、外交、文化など様々な分野で日本アラブ関係にかかわってきた方々からのヒヤリングを実施した。2000年度には研究会メンバーをサウジアラビアとクウェートに派遣し、両国での現地調査を実施した。2001年7月にはアンマンのヨルダン大学で開催された「アラブ・アジア関係」をテーマとした国際会議に研究会から人を派遣し、「日本・アラブ関係」に関する1セッションを組織し、アラブやアジア諸国の研究者などと日本・アラブ関係についての議論を深めた。

 東京で2001年11月に開催された標記の国際会議は、こうした「再考・アラブと日本」研究会の2年間にわたる研究会活動の成果を踏まえて、企画・開催されたものである。会議には、多様な視角から日本・アラブ関係についての議論を深めることを目的として、アラブやアジア諸国など海外の研究者と、また様々な分野でアラブ・イスラーム世界と関わり合ってきた日本の専門家にも参加を仰いだ。研究会は最終年度に当たっており、本国際会議での研究会メンバーによる発表を通し研究会の成果の一部を公開したいと考えたことも、国際会議を企画した背景にあった。

 国際会議は2日間にわたり開催された。第一日目は、研究会代表の加藤博氏を基調報告者兼司会役としシンポジウム形式で、包括的な視点から日本・アラブ関係についての発表と討議を行った。第一日目の会議では、アラブ諸国からは、カイロ大学アジア研究所所長のサーリム教授、レバノン大学教授で著名な日本研究者であるダーヘル教授が参加し、また中東以外のアジアからは、中国中東学会会長のGuang氏(中国社会科学院)と韓国中東学会事務局長のHah氏(釜山外国語大学)の参加を得て、日本側参加者との間で日本アラブ関係についての熱心な議論が行われた。会場には、在東京のアラブ外交団からも、何名かの大使をはじめとし多数の外交団が来場し、日本アラブ関係についての議論に参加した。

 国際会議の2日目は、「文化交流」、「経済」、「政治」の3つのセッションを組織し、研究会メンバーと、地域研究、援助、外交、ジャーナリズム、ビジネスなど様々な分野の専門家の発表を中心にして、会議が進められた。

 各セッションでは、政治、経済、外交、文化などの日本アラブ関係の多様な分野について、その歴史と現状を踏まえて、問題点にも言及しつつ、発表と議論が行われた。また、我が国におけるアラブ・イスラーム地域研究の視点から、アラブ諸国との具体的なかかわり合いはどうあるべきなのか、アラブ・イスラーム世界についての情報の蓄積をどう生かすべきか、とする問題提起と議論も行われた。

 アメリカ合衆国での同時多発テロやパレスチナ・イスラエル紛争の激化などを受け、社会的な関心も高く、本国際会議は多数の参加者を得て盛況であった。

(文責:福田安志)

会議のプログラム等はこちら

f01.gif (930 バイト)2001年7月16-19日 ヨルダン大学主催「アラブ・アジア関係」シンポジウムに参加して

 筆者は、去る7月16日から19日にかけてアンマンで開催された国際シンポジウム「アラブ・アジア関係:輝かしい未来に向けて」に参加した。日本からは、筆者の他に団長の福田安志氏(アジア経済研究所)と臼杵陽氏(国立民族学博物館地域研究企画交流センター)が出席し、日本・アラブ関係に関するセッションを組んで報告を行なった。同セッションには、マスウード・ダーヘル氏(レバノン大学)とイサーム・ハムザ氏(カイロ大学)も加わった(同セッションへの参加者は、いずれも文部科学省科研費「イスラーム地域研究」プロジェクト〔研究代表者:東京大学大学院人文社会研究科佐藤次高教授〕の助成を得た)。

 同シンポジウムは、ヨルダン大学の主催によるものであり(実行委員長:サミー・ハサーウナ同大学副学長)、昨年は「アラブ・アメリカ関係」の会議を行ない、来年は「アラブ・アフリカ関係」のテーマの会議を予定しているという。さて、1950年代以来、アラブ世界の対アジア・アフリカ関係において中心的な役割を果たしてきたのは、言うまでもなくエジプトであった。その後も、ソ連解体後の中央アジア諸国の独立や東アジアの経済発展を背景にして、カイロ大学政治経済学部にアジア研究センターが設置されるなど、アラブの中心国としてのエジプトがアジアに対して寄せる関心の高さは変わらない。

 しかし、1970年代以降のアラブ世界の政治的な分極化が影響を及ぼしているのであろう、現在はエジプト以外のアラブ各国が、それぞれの利害や文化的な関心にもとづいた独自の対アジア関係の構築を目指しているという状況がある。たとえば、大学の日本語教育について見るなら、昨年25周年を迎えたカイロ大学部日本語学科に加えて、現在ではシリアのダマスクス大学、モロッコのムハンマド5世大学、サウジアラビアのキング・サウード大学などで日本語の講座がある。今回のヨルダン大学の試みも、厳しい国際関係の中を生き抜いてきたこの国独自の対外的な文化戦略の一面を示すものなのかもしれない。アンマンでは、ここに本部を置く「アラブ思想フォーラム」が、NIRAとの共同で1992年に「日本・アラブ関係」に関するシンポジウムを開催したこともある。

 今回のシンポジウムの開会式は、後援者であるエル・ハサン・ビン・タラール殿下のスピーチで始まった。それは、開式の辞の域を越えて、ほとんど講演といってよい格調の高い内容だった。加えて殿下の美声は、会同の参加者を魅惑した。その正則アラビア語の弁舌は、同じく大衆を魅了したと言われる実兄の故フセイン国王の演説を聴衆に想起させたのかもしれない。スピーチを聞き終えて、参加者の一人が筆者に、「これでもうシンポジウムが終わったようなものだ」と語ったが、このコメントには皮肉よりも賛嘆の意がより強く込められていたように思う。

 ハサン殿下の「開会の辞」を若干紹介してみよう。まず、殿下は冒頭で「21世紀はアジアの世紀」であると語り、ASEANと並んで「上海協力機構」(中国・ロシア・旧ソ連中央アジア諸国が結成)の可能性に言及する。続いて、これらの地域を横断する協力機構にとって開放性の原則が必要だと論じた後で、こうした動きと比べると中東では諸問題を解決する地域フォーラムが依然として欠如している点を憂慮する。そして、かつてトルコの故オザル大統領とともにイスタンブールに地域協力のセンターを設置する計画があったことや、1997年にテヘランで開かれたイスラーム諸国会議で「ザカート基金」が提案されたことに触れ、地域協力の将来を展望する。殿下の理想主義者としての議論は、続くグローバリゼーションの説明に顕著に表れていた。曰く、グローバリゼーションは、欧米がその他の地域に押しつけたものではなく、むしろ各地の伝統を、その根を保持しながら近代化・拡大させる手段として受け入れなければならない、と。さて、この調子で紹介していくと、このシンポジウムの紹介も終わってしまうので、最後に一点。殿下が結論に当たる部分で強調されたのは、「アラブ・システム(ニザーム・アラビー)がアジア的宇宙とアフリカ的宇宙のいずれにおいても影響をもつ一つの単位となること」であった。この期待には、アラブ世界がアラブ世界として成熟していった1950年代の地域連帯の理想が受け継がれているように思えた。

 会議期間三日間(10セッション)にわたるシンポジウムの参加者は、計43名であり、比較的規模の大きいものであったが、大半はアラブ人研究者であり、アラブ諸国以外からの参加者は、8名であった。アラブ人の報告者のうち、主催国ヨルダン以外ではイラクからの6名、イエメンからの4名といったところが目立っていて、同じく旧ACC加盟国のエジプトからは2名のみの出席だったのと対照的であった。さて、シンポジウムの報告の紹介に入ると、まず、第一セッションが「オスマン朝と湾岸諸国家との関係」という報告で始まったのは、少し意外な気がした。その他、「大シリア(ビラード・シャーム)地域の文学におけるトルコのイメージ」という報告もあり、アラブにとってトルコが「身近にあるアジア」であることを教えられた。同じく「ペルシア詩人に対するアラブ文学の影響」という報告もあり、当然のことだがイランもアジアの一部なのであった。さらに、意外だったのは、ロシアとの経済関係についての報告があったことである。極東シベリア地域に限定することなく、ロシアとの関係もアラブの対アジア関係に含めて考えている点が示唆的であった。また、アルメニアとの関係についての報告もあった。トルコ・イランといった身近な隣国から始まってロシアも含めて「アジア」と把えるアラブの考え方は、同じくアジアに属しながらも、アジアを東方から眺めている日本からは新鮮に見える。

 さて、とは言いながら、報告の多くは、東アジアに集中した。とくに日本に関しては直接の報告テーマとしたものが7本、アジア地域一般に関する報告で日本についても少なからぬ言及があるものが、数えてみると12本ほどあった。もちろん、日本に関する報告7本のうち5本は、前述の筆者たちによるセッションであり、手前味噌的ではある。とは言っても、対日本関係が対アジア関係の枠組みの中で重要な位置づけをもっていることは、それなりに認められることであろう。上記のセッションの内容を簡単に紹介すると、福田氏が日本とアラブの経済関係、筆者が戦後日本のアラブ研究、臼杵氏が戦前日本のイスラーム研究に関して報告し、アラブ側からの参加者であるダーヘル氏がアラブ人による日本の近代化研究、ハムザ氏がエジプトおよびアラブ世界における日本語教育について紹介した。

 まず、福田氏の報告は、ジェトロや各日本企業の現地での活動の展開など、貿易・投資関係の発展の歴史について時期別に分けて具体的に分析した内容であった。筆者の報告は、戦後日本の現代アラブ史研究について、エジプト革命に関する中岡三益・板垣雄三両氏の研究を事例に紹介した。臼杵氏の報告は、戦前日本のイスラーム研究・ムスリム居住地域の研究について、当時の日本の軍事的な戦略的関心との関係を中心に批判的に分析した。ダーヘル氏は、著書『アラブのナフダ(覚醒)と日本のナフダ』を踏まえて、明治維新とエジプトのムハンマド・アリーの改革との比較など、日本の近代化に関するアラブ人歴史研究者の視点を紹介したものであった。カイロ大学日本語学科長であるハムザ氏は、同学科を中心とする日本語教育の発展を具体的なデータにもとづいて分析し、直面してきた諸問題の概説を行なった。その他、別のセッションでは、外山茂樹名古屋大名誉教授が、長年携わってきた海水淡水化の技術移転に関する報告を行ない、理科系学生を含めた聴衆の関心を集めた。

 さて、日本と並んでアラブ側の関心が高かったのは、中国との関係であり、合計4本の報告がなされた。中国とオマーンとの交易関係の歴史や、イブン・バットゥータの『大旅行記』の中国に関する記述をめぐる報告があった。このシンポジウムに中国からの参加者はいなかったが、昨年、北京で中国・アラブ関係をめぐるシンポジウムが開かれ、これに参加したダーヘル氏によると、中国人報告者のアラビア語は見事なものであったという。その他、ハドラマウト大学に所属する報告者によるイエメン人の東南アジア移住に関する発表や、インド人のイラクへの移住(シーア派聖地への巡礼・留学を起点として、イギリス保護下で移住が増加した)の報告など、人間の移動をめぐるテーマは、興味深かった。ただし、南アジア・東南アジアからの参加者がないのは残念であったし、やはり現代のアラブ・アジア関係で重要な局面の一つは、南アジア・東南アジアからの移住・出稼ぎ労働者の問題だと思うのだが(一時期のブームは過ぎ去ったが)、このテーマに関する報告はなかった。

 その他、筆者の興味を引いた報告としては、アジア人学生に対するアラビア語教育の問題を扱ったもの、またパレスチナの社会科教育においてアジア地域がどのように扱われているか、教科書の内容を分析したものがあった。いずれも具体的な事例を扱い、あるいは実践的な体験に裏付けられたもので説得力があったからである。また、二名の韓国からの報告者もよく整理された情報に富んでいて有益だった。河炳周氏(釜山外国語大学校)は、韓国における中東アラブ研究の制度的な発展を紹介し、また李熙秀氏(漢陽大学校)イスラーム文化を媒介としたアラブ・東アジア関係の文化史を手際よく報告された。アラブ・イスラーム文化と東アジアとの関係が、中国・韓国・日本の間で偏差があり多様である点を教えられた。

紙面の関係上、その他の報告をここでこれ以上紹介することはできない。昨年のアラブ・アメリカ関係のシンポジウムの例にならえば、これらの報告はいずれ印刷に付されるはずである。さて、この会議は、毎朝8時のホテル玄関集合から毎晩遅くまでの晩餐会までというタイトなスケジュールがしっかり守られて実施された。運営に当たって献身的な努力をされたヨルダン大学スタッフにこの場を借りて感謝申し上げたい。

*追記:前述のイスラーム地域研究プロジェクトでは「再考 日本とアラブ」国際シンポジウムを11月12・13日に市ヶ谷の国際協力事業団総合研修所で開催します。詳しいプログラムは、こちらをご覧ください。関心のある方は奮ってご参加ください。

長沢 栄治(ながさわ えいじ)(東京大学東洋文化研究所)

f01.gif (930 バイト)2001年6月23日 総括班第7回「再考:アラブと日本」研究会

  日時:2001年6月23日(土)
  場所:東京大学文学部アネックス大会議室
  講師:佐々木花江(金沢大学)
  テーマ: 「考古学から見るアラブの文化財 −日本隊から見たアラブ首長国連邦の文化財行政−」

 アラブ首長国連邦では日本の文化財保護法にあたるものを作成中で、このほど原案ができ、各首長国においてそれぞれ検討をしている段階である。アラブ首長国連邦、7つの首長国のうち、既に文化財に効する法律を持っているのは、ラッセルカイマ首長国とシャルジャ首長国だけである。


 シャルジャ首長国では、SHARJAH ANTIQUITIES ACT,NUMBER 1が1992年に発効された。この法律は、1900年以前につくられたシャルジャ国内の文化財を対象に、遺跡、建物、記念物などを保護保存する目的でつくられた。さらに、シャルジャにおける不法な文化財の輸出入及びその販売をも禁じるものである。国内の全ての空港や港で見つけられた不法持ち込み品は文化財局長権限で認定確認され、没収、処罰される。多くはパキスタンやインド、イランの古物で、没収品はシャルジャ博物館に保管されている。しかし、規制する法律のない他の首長国の港を経て国内に持ち込まれた品々については、全てを取り締まれない状況である。このためにも、連邦全体に有効な文化財保護法が、早く施行されることが待たれる。


 考古学的発掘調査はそれ自体が破壊行為である。地中に眠っている遺物や遺構を掘り上げ展示し、崩壊してゆくものを修復保存して公開するのは、文化財活用の本来の目的とするところではない。しかし、石油の将来が見えてきたと言われる昨今、アラブ首長国連邦のみならず石油資源に頼っているアラブの国々では、観光資源としての文化財ビジネスに大きな期待を寄せている。遺跡を利用して公園や博物館を作る、古い建物や新たに建てた‘伝統的建造物’を利用しての商売などなど、既に成功している例は多い。一般教育の点でも意義は大きいが、多くの人が集まることによるデメリットも無視できない。文化財にとって、遺跡や遺構の上を多くの人が歩くこと自体、破壊であったり崩壊を早めたりすることになる。他文化の人が多く入ってくることによるモラルの変化、個々の文化の特徴が薄れることによる文化の均一化など。また、見栄えや保存し易さ作り易さといった営利目的の条件に合わない歴史の切り捨て、この一つの例として、庶民文化の保存の難しさがあげられる。宝探し的な興味による、文物の破壊行為も増加する可能性がある。


 独立して既に30年ほどになるといってもまだ、イギリスやヨーロッパの影響を強く受けているアラブ首長国連邦に、自国の文化を守るためのどのような文化財保護法が制定され施行されるのか、そして修復保存された文化財がどのように活用されていくのだろうか。観光資源として多大の資金力で最新技術を投入して作られる資源を、以後どのように自らメンテナンスを重ね運用することができるのだろうか。作られた当初のままではなく、成長する資源である必要がある。アラブにおける真の文化財行政の必要性や意義、さらに、アラブ独自の文化に対するアラブ人の自覚や資源活用の能力が問われはじめている。

佐々木花江 金沢大学埋蔵文化財調査センター

f01.gif (930 バイト)2001年5月26日 総括班第6回「再考:アラブと日本」研究会

       日時:2001年5月26日(土)15:00〜17:00
   場所:東京大学文学部アネックス
   講師:武藤 幸治(立命館アジア太平洋大学・アジア太平洋マネージメント学部教授)
   テーマ:「経済交流に見る日本と中東−現状と問題−」

<報告原稿>

日本の中東貿易の推移と現状要旨
時代区分 ・市場開拓時代(1950年代から第1次石油ショックまで)
     ・石油ショック時代(第1次石油ショックから1980年代半ば)
     ・低迷期(1980年代半ばから現在)


1.市場開拓時代:東南アジアでは支配の後遺症、先進国へは競争力なく入っていけなく、輸出先を南アジア(インド)、中東アフリカに向けていた。戦前の綿布、絹輸出と綿花、葉タバコ輸入の再開。因みに日本の主要輸出品は 繊維・衣類、玩具雑貨、一部鉄鋼品(ブリキ板、トタン板、鉄筋)であった。市場別にはイランが圧倒的だったが、やがてイラク、クエイト、サウジアラビア、アデン、レバノンが主要市場になってくる。この時代の最大の課題は、対日貿易アンバランスを理由にした輸入制限(イラン、イラク、トルコ)への対応であった。貿易管理令を改正して輸入促進にあたらせたが効果なく、経済協力で対応することになった。

2.石油ショック時代(中東詣での時代):政府要人の中東訪問、招聘で大型援助がコミットされ、「円クレ」依存の対中東ビジネスの原形が出来た。民間ではオイルダラー還流を狙う金融機関の中東進出も盛んになった。しかし、長引くイライラ戦争と石油価格下落で80年代半ばには撤退が始まり、年代後半の東アジアの好景気がこの動きに拍車。

3.石油価格の急落に加え湾岸戦争は日本の対中東ビジネスに決定的な影響及ぼす。莫大な金額の援助は日本の景気の足を引っ張り現在に至る不況の一因にもなった。中東和平がもたらすビジネスチャンスに期待する時期もあったが、画餅だったことに気付き、イスラエルに進出した企業は対パレスチナ援助ビジネスとイスラエルとの技術協力案件に終始。

結び
中東からは直接投資を求める声が次第に大きくなるも日本の関心低く、期待ギャップが生まれている。投資が向かわない最大の要因は人件費などコストが高いこと。競争力のあるジャンル(石油ガス、石化)には実績ある。投資は人間初め経営資源をトータルにかつ長期に亘ってコミットする必要あり、物理的な距離だけでなく歴史文化的な距離が遠いことも要因である。しかし、ドバイに見られるように受入先の対応(スポンサー不要、インフラ整備、出入り自由、宗教的社会的規制ない)によっては進出しているケースあるので日本側だけに帰せられる問題ではない。因みに欧米企業の中東進出も同じ理由で活発でない。

2001.5.26    武藤幸治

 

f01.gif (930 バイト)2001年4月21日 総括班第5回「再考:アラブと日本」研究会

   日時:4月21日(土)15:00〜17:00
   場所:東京大学文学部アネックス大会議室
   講師:牛木久雄氏(JICA国際協力総合研修所 国際協力専門員)
   テーマ:「日本とアラブの技術交流はありうるか?」

(報告要旨)
 オマーンでの技術協力体験に基づき考察する。人口200万人足らずの小国オマーンには、総数4, 000カ所におよぶ伝統的な水利・用水システム、ファラジFalajが存在し、厳しい乾燥気候下で独特な農業と地域社会を支えている。全ファラジの約4分の1は、古代イランが起源とされるカナートQanat(横井戸型地下水導水システム)である。しかし、オマーンでは既にカナート掘削の技術も技能も失われ、現存カナートの水源位置さえ不明なことが多い。カナート建設にまつわる記録も殆どなく、久しい昔に予言者ダビデの仕業という伝説になった。更にまた、カナートの所有・管理制度は、水利権の配分を中心に構成されていて、建設者や出資者の利権に基づくイラン式の制度とは全く異なっている。カナートは古代イランとアラビアの技術交流の所産と考えられるが、オマーン人とカナートの不可解な関係は、技術移転に失敗した技術交流事例であること示すように思われる。

 技術は知識体系のひとつとしてとらえることが出来るが、実践者(技能者)不在では、目的は達せられない。アラビア半島各地に見る技術協力の現状総括として、技術の分かる人材(技術者)はいるが、技能者の育成が進んでいないという指摘が多い。一方日本は、古来「匠(たくみ)」の国、すなわち技能者の国である。多くの日本人技術者は、技能と技術の自己分別が出来ぬほどに技能者である。日本とアラブの技術交流の最大の障碍は、技能に対する両者の意義づけの違いである、この点に両者独特の接点が存在する。こうした日本的伝統をアラブが如何に理解するかが、日本とアラブの技術交流の成否を決定すると思われる。

資料図:カナート掘削(PDF file 100KB)

 


海外派遣報告

f01.gif (930 バイト)エジプト出張報告

 期間:2001年8月15日〜25日
 渡航者:加藤博、佐藤宏(一橋大学、研究協力者)後藤寛(弘前大学、研究協力者)
 渡航先:エジプト共和国(カイロ、アレクサンドリア)
 日程:
(加藤、佐藤、後藤)
 8月15日〜18日 カイロ
   19日      アレクサンドリア
   20日〜21日 カイロ
(後藤)
 8月22日〜24日 カイロ

<カイロにおける活動>
1.カイロにある研究機関(カイロ・アメリカン大学、CEDEJフランス研究所)と援助・交流機関(JICAカイロ事務所、日本国際交流基金カイロ事務所)への訪問。GIS応用研究の実態と今後の共同研究の可能性を探るために、情報・意見交換を行った。

2.CAPMAS(エジプト統計局)への訪問。この訪問は(1)社会調査実現を打診すること、(2)エジプトにおけるGIS事情についての情報収集を行うこと、の2点を主たる目的とした。(1)については、Abu El-Fadl氏(CAPMAS本部長補佐)との間で、カイロの低所得層地区での社会調査を共同で行うことが基本的に合意された。(2)については、CAPMASでのプロジェクトマネージャー、システムアナリストエンジニアの Tarek Muhammad Ahmed Hassan氏との会見によって、詳しいエジプトでのGIS事情に関する情報を得て、エジプト全土の行政区地図を今後の研究のために購入した。

3.エジプト人研究者との意見交換。カイロ大学工学部建築学科のアリー・アブドゥルラウーフ教授、アリー・シャズリー助教授を中心に、幾人かのエジプト人研究者と会見し、GIS関係の意見交換をするとともに、今後における研究協力を要請した。

4.後藤を中心に、日本人留学生の協力も得て、調査対象候補地である、カイロ庶民街と近郊農村地区を訪問した。

<アレクサンドリアにおける活動>
 研究対象候補地であるアレクサンドリアに、日帰りの訪問を行い、カイロとは異なる雰囲気をもつ港町であるこの都会の町並みと建築物を観察した。

f01.gif (930 バイト)中国出張報告

 期間:2001年11月1日〜6日
 渡航者:加藤博、佐藤宏、後藤寛、岩崎えり奈(日本学術振興会特別研究員、研究協力者)
 渡航先:中華人民共和国(雲南省、上海)
 日程:
  11月1日 成田−上海−昆明
  11月2−3日 昆明
  11月4日 昆明−上海
  11月5日 上海
  11月6日 上海−成田

<雲南における活動>

1.GIS応用研究に関するワークショップ
日時:2001年11月2日 14:00〜18:00
場所:雲南省社会科学院特別会議室
出席者:(日本側)加藤博、佐藤宏、後藤寛、岩崎えり奈
 (中国側)納麒(雲南省社会科学院・院長)、何耀華(雲南省社会科学院・研究員・前院長)、左亜紗(雲南省社会科学院・副研究員・国際交流処・処長)、秦偉(雲南省社会科学院・信息交流中心)、周汝良(米国大自然保護協会昆明弁事所GIS実験室・主任)、王強(成都理工大学・教授)、甘淑(雲南大学国際河流研究中心)、藩玉君(雲南師範大学地理研究所・副所長)
議事:
(1)研究報告「日本におけるGISの社会科学への応用の現状と課題:イスラム地域
研究による研究成果の紹介」報告者:後藤寛
(2)雲南省におけるGIS応用研究の現状に関する紹介
報告者:周汝良、王強、甘淑、藩玉君の各氏
 山間地域の経済開発と環境保護の両立に関する研究、国際河川流域の経済開発に関する国際共同研究、少数民族文化の保護に関する研究について詳細な紹介があった。
(3)今後の共同研究の可能性に関する意見交換

2.昆明近郊農村視察
日時:2001年11月3日
概要:何耀華、左亜紗両氏の案内で、昆明盆地の典型的な農村地帯である澄江県を視察した。県政府において県の経済概況についてヒアリングを実施した後、定期市等の視察を行った。

<上海における活動>
日時:2001年11月5日
概要:上海社会科学院部門経済研究所の王振副研究員と上海近郊における人口集積と空間変容に関する共同研究の方向性について打ち合わせを行った。その後、近年急速に都市化が進み、工場地帯と新興住宅地の混在がみられる旧市街西部の地下鉄1号線沿線地域および松江区を視察した。

 


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