フランス近代思想史研究を行ってきました。特に18世紀のルソー、コンディヤック、20世紀のドゥルーズについて論文を書いてきました。以上の研究を続ける一方で今後は、文化資源学的研究も行いたいと考えております。
以下は、昨年度の「文化資源学の方法」の授業の際に考えたことの一部です。
西欧の「文化(culture)」は、耕作を原義にもつラテン語のculturaに由来し、非常に規範的な意味をもっていました。この意味の文化は、人の本性、つまりその自然を完成させるもの、或は、まさにその自然の目的です(カント、コント)。人は、個としては教養を持たなければならないし、集団としては野生、未開から文明へと至らなければならないのです。文化的ヒエラルキーを、勝義の文明を要請するこの自然-文化概念はことによると、コロニアリズムや全体主義とも無縁ではないかもしれません。その一方で、自然と文化の価値を逆転させる文化批判の系譜も傍流ながらありました。ルソーはその代表例です。もっともルソーの思想は自然回帰に還元できるほど単純ではありません。
後に文化という語は中立的な意味ももつに至ります。19世紀から20世紀にかけて社会学や人類学が確立してゆくなかで、文化相対主義が登場します(ボアズ)。人が経験的に獲得したものはすべて文化となります。文化の外延は飛躍的に広がります。秘境の「未開」民も既に文化をもっています。そしてどのような社会であれ文化は相互に対等です。AKBもベートーヴェンの音楽も文化的事象という点で違いはありません。
文化相対主義について言えば、それが自民族中心主義を免れているのは確かですが、人間中心主義にとどまっています。ところで経験を行うのは人だけではありません。生ある物はすべて過去の経験を利用して現在を生きています。ラ・メトリやディドロの生気論によれば、物質から独立して実存する人間固有の魂は存在しませんが、広く物質に内在する生命原理は存在します。ホワイトヘッドは、主体(実体)-述語(普遍)についての、西洋思想を根本的に規定してきた考えを一新するだけではなく、自然科学における新しい時空観も踏まえて、現代にも通用しうる生気論を構築しました。まず何よりもこのような一元論的観点から、一般化された文化を考察する必要があります。個であれ社会であれ組織化がもつ両義性(有効性と権力性)に気づくのは難しいことではありません。ホワイトヘッドは、プラトン的な魂観と結びついた古典的文明概念を再導入しますが、ドゥルーズはホワイトヘッド哲学を継承しつつもそこにある目的論的発想(人類、国家、民族、個人)を一掃しようとします。ただしこれは人間的価値の相対化という結果を伴います。
中立的な意味の文化がすべて文化資源になるわけではありません。文化資源はまさに、社会的価値を有する保存すべき文化、次なる活用に供されるべき文化です。我々の経験は文化ですが、そのままでは文化資源にはなりません。もちろん文化資源という概念を拡張して、我々の個人的経験や遺伝にまで適用することもできないわけではありません。根本的なところでは文化は変容されつつ継承されてゆくものであるように思われます。
文化資源学は文化資源についての学です。ただここ本郷の文化資源学は、基礎研究としての文化研究を重視しています。文化資源学は、既存の価値を括弧に入れて文化に向かうことができます。文化資源学は、価値あるものと価値中立的なものとの二つの文化を対象としていると言うことができます。文化という語がいくらインフレしようとも、実際には文化的事象は決して価値から中立的ではありません。生はまさに価値そのものです。価値の問題は本質的です。価値一般において文化資源を考察することもまた重要な課題です。
文化は方法的には価値中立的とすべきですが、文化研究は価値から完全に自由になることはできません。我々が何かを対象として考察する場合、或る観点からしか考察できません。言い換えれば、或るコンテクストを、つまり或る構造を選ぶわけです。或る物を見るということは、その物自体を単独で見るということではなく、その地平もともに見るということです。これは単に視覚体験だけに妥当することではありません。文化研究は既存の構造を括弧に入れて、常に新しい構造において物を考察しようとします。
この文化研究は恐らくコンテクストの置き換えだけをしているわけではありません。「資源(ressource)」には、素材、ポテンシャル、可能性という類義語があります。素材つまりアリストテレス的な質料です。通俗的アリストテレス主義にたつなら、世界は質料と形相からなるヒエラルキーであり、我々はヒエラルキーの頂点にたつ形相を、真善美を希求して生きていることになります。この文化研究は、このような形相ではなく質料に向かっているのではないでしょうか。書物を扱う場合、言葉を通してそこで語られている意味に向かうのが既存の学問だとすると、この文化研究は、むしろそれを支えているもの――書物の物質性、出版事情、流通事情、読書実践など――に向かいます。物をその質料性の方向で考察しようとしている点で、文化資源学は、文化的質料の学、或いは文化的唯物論と言えるかもしれません。