東京大学大学院助教授

高山 博(たかやま ひろし)


『歴史学 未来へのまなざし −中世シチリアからグローバル・ヒストリーへ−

1 中世シチリア王国

中世シチリア王国との出会い
 そのとき私は図書館の薄暗い一室にいた。目の前の英文の書物には、色鮮やかな花が咲きみだれ、めずらしい果物が実る南国の島で、イスラム教徒の侍女たちにかしずかれるキリスト教徒のノルマン王が描かれていた。図書館の静寂のなかで、私はその書物を一心に読みふけった。青空を背に白く輝く宮殿やモスク。私の頭のなかでは、いつしか、書物に記された王国のイメージがかつて読んだアラビアン・ナイトの世界と重なりあっていた。

Petrus1  この書物には美しい図版がいくつか挿入されており、そのうちの一つは、王冠をかぶったままベッドに横たわるキリスト教徒の王と、その周りをかこむターバンを巻いたイスラム教徒たちを描いたものであった。イスラム教徒の一人はガラスの瓶を高くかかげ、別の一人はアストロラーベ(天体観測儀)を手にぶらさげている。この二人は、医者と占星術師である。イスラム教徒たちにかこまれて最期のときを迎えようとしているキリスト教徒の王の姿は、私の目に強く焼きついた。そして、同時に、奇妙で不思議な感覚を残した。この感覚は、もう一つ別の図版によってさらに強められることになる。そこには、王宮の書記として、ターバンを巻いたイスラム教徒、ヒゲをのばしたギリシャ人、そしてラテン系の若者が二人ずつえがかれていたのである。

Petrus2  私の心をとらえたのは、異なる文化に属する人たちが一同に会したこれらの絵だけではない。別のページには美しいエキゾチックなモザイク画が挿入されていた。その一つには砂漠のオアシスを思わせるような南国の木々のあいだに豹と孔雀がえがかれ、別の一つには旧約聖書のノアの箱船の物語が描かれていた。さらに、別の一枚には、ビザンツ皇帝の衣装を身にまとった王がキリストから王冠を受ける場面が描かれていた。これらのモザイク画は、私の好奇心を強く刺激した。シチリアのノルマン人の王国でつくられていながら、イスラム文化とビザンツ文化の影響を色濃く漂わせていたからである。

 この美しいモザイク画を残した王国は、わずか五〇年ほどの繁栄ののち、消えていった。後世の人々に幻想的で美しいイメージを残して消えていったこの王国はいったいどのような王国だったのだろう。本を読みすすめるうちに、私の頭には、多くの疑問が浮かんでいた。なぜ、シチリアには、このような文化が生まれたのか。その文化を支えていたのはどのような人々だったのか。異なる文化的背景をもつ人々を、ノルマン人の王はどのようにして治めることができたのか。異文化集団はなぜ共存することができたのか。そして、王国はなぜわずか五〇年ほどで消えていったのか。

 私がこの書物に出会ったのは、まったくの偶然からではない。イスラム文化と西洋中世文化の両方に関心のあった私は、両文化の接触や交流にかかわる書物を探し求めていた。そして、しだいに、両文化が接触していた中世スペインと中世シチリアに魅かれるようになった。スペインは、八世紀初頭から十五世紀末までの八〇〇年近く、イスラム教徒の国々をかかえており、十五世紀末にグラナダ王国が滅亡するまで、イスラム教徒とキリスト教徒が接触する場であった。私が、スペインではなく、中世シチリアを選ぶことにしたのは、こちらのほうが研究者が少なく未知の部分が多いと感じたからである。

神秘の中世王国 それから二年後の一九八○年、私は、ある一枚の美しい絵と出会った。FM放送雑誌の表紙を飾ったレコード・ジャケットだが、その美しさに心を奪われると同時に、大きな衝撃を受けた。シチリア島で美しいイスラム教徒の女性たちに囲まれて生活していたノルマン人の王が目の前に現れたように思えたからだ。満天の星がきらめく青い夜空を背景に、美しい女性が一糸まとわぬ姿でひざまずき、その左手をまっすぐ前にさしのべている。その手の先には、頭にターバンを巻き、紋様の入った黒い長衣を羽織り、彫刻をほどこされた豪華な椅子に腰かけた君主がいる。女性を見下ろすその視線は伏し目がちで、目を開けているのか閉じているのか定かではない。女性のほうは自信に満ちた表情で、君主を見つめている。

 「物語を話すシェラザード」と名づけられたこの絵は、アール・デコ時代に一世を風靡したカイ・ニールセンというデンマーク出身の挿絵画家によって描かれたものである。私は、この絵に出会ったとき、将来シチリア王国に関する本を出版するときには、その表紙に使おうと心に決めた。そして、雑誌から切り抜いた絵を、机とデスク・マットのあいだに挟んでおくことにした。こうして、この絵との長いつきあいが始まった。勉強に疲れると、この絵を見て研究当初の情熱を思い返した。そして、アメリカに行くときにもイギリスに行くときにも、この絵は私といっしょに海を越えてついてきた。六年にわたる海外生活のあいだ、この絵はつねに私の机の一角を占め、私の研究を見守り続けてくれたのである。そして、この一五年ごしの思いは、一九九五年、『神秘の中世王国』(東京大学出版会)を出版したときにとげられた。


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