はしがき

 

 本書は,1997年度の東京大学文学部社会学研究室の調査実習の報告書である.受講者は,社会学科以外も含む文学部の学生と,社会学研究室の大学院生である.この授業はもともと,社会学研究室の稲上先生と私(武川)とで担当する予定だったが,稲上先生が公務の都合で担当が不可能となったため,急遽,社会科学研究所の佐藤博樹さんに応援を求めて,彼と私との二人三脚で担当した.

 本年度の調査実習は「社会的公正と公共政策」というテーマで実施した.公共政策上の諸問題に対して,人びとがどのような社会的公正感に基づいて,どのような判断を下しているかということを調べてみようというのが,実習の課題だった.このため東京都の文京区で郵送留置・訪問回収による質問紙調査を実施した.また,佐藤さんの助力によって,イギリスで実施されているBritish Social Attitudes Surveyという類似の問題意識に基づく調査のデータを入手し,その再分析も行なった.文京区の調査は,いくつかの点で,このデータと比較可能である.

 

 さて,私は,十年近く前,前任校の中央大学で,調査実習の授業を初めて主宰したとき,その報告書のはしがきに次のように書いたことがある.長くなるが,ここにその一部を引用したい.

 「わが国では, 社会学という学問が一般の人びとの間でそれほど市民権を得ているとは言えず, 世の人びとから『社会学とは一体何をやる学問ですか』という質問をよく受ける.こうした言葉の背後には, 社会学とは何をやるのだかわけのわからない胡散臭いものだという疑念があるように思われる.そして,こうした疑念が生まれてくるにあたっては, 社会学者にも一端の責任はあるだろう.実際, わたくしも社会学に固有の対象と方法とは何かということについて戸惑うことがある.

 しかし,いかに社会学の対象と方法が茫漠としたものに見えようとも, いやしくも社会学を学んだということが言えるためには, 最低限身につけておくべきものが少なくとも2つはある(と思う).

 1つは, 社会学的想像力(sociological imagination)とも言うべきもので,社会学に固有なものの見方あるいは考え方である.ここではその中身については入り込まないことにする(ギデンズはこれを歴史的感性, 人類学的感性, 批判的感性の三つに分節化した).わたくしはかねてから,法学部の教育の目的が学生にlegal mindを身につけさせることにあるように, 社会学の学生に対する教育の目的はsociological imaginationを身につけさせることではないかと考えている.

 他の1つは社会調査である.こちらの方は, sociological imaginationに比べれば具体的であり,それを身につけた否かは一目瞭然である.そして,大学の専門教育のなかで, 社会調査の訓練を積める場所は, おそらく社会学部ないし社会学科をおいてはほかにはないだろう.これらの一方あるいは両方とも欠いている『社会学者』もいないわけではないが,社会学という学問にとって, また,社会学の教育にとって社会学的想像力と社会調査は不可欠なものである(と思う).」

 ここで述べた考えは,十年後の今でも変わっていないが,調査実習のための技術的環境は大きく変わった.

 私が学部学生で調査実習の授業を受けたとき,コンピュータは大学院生しか利用可能ではなく,学部学生の仕事はインタビューのみであり,そのあとのことは大学院生にしか許されない特権だった.大学院生になってコンピュータを使うようになったとき,浅野地区にある大型計算機センターに朝早く出かけて,順番を取らなければならなかった.当時はまだパンチ・カードを使っていたが,何百枚にものぼるプログラムのカードを何かに躓いて床にばらまき,何日間かの労働の成果を台無しにしたという豪傑もいた(この人も今では有名な社会学者である).

 十年前に教師として調査実習を行なったとき,パンチカードは,素データの入力以外にはほとんど使われなくなっていたが,それでも大型計算機センターへ日参しなければならないという状況は変わらなかった.統計ソフトを使いこなすためのインストラクションは授業のなかで相当な時間を占めたし,プログラムを書くためにも相当な時間を費やさなければならなかった.半角の空白と全角の空白を間違えても,また,「,」と「.」を打ち間違えても−−文科系の人間であるわれわれは,よくこうした間違いを行なった−−,エラーとなってコンピュータは動かないため,そうした誤りの発見に何時間もディスプレイと睨めっこするというようなこともざらだった.当時は,学生にとっても教師にとっても,調査実習は重労働だったのだ.

 十年後の今日そうした苦労はなくなった.大型計算機センターへ行かなくても,机上のパソコンで簡単に集計はできるし,変数の定義やラベル貼りは簡単にできるし,場合によっては,入力業者が安くでそこまでの作業をやってくれる.今回の授業で取り寄せたBritish Social Attitudes Surveyのデータも,最初からSPSSの形式になっていて,CDを挿入すれば即座に利用可能だった.

 しかし逆に,調査が非常にやりにくくなったということもある.十数年前,東京の都心で行なわれた東大の社会学研究室の調査実習を手伝ったとき,農村調査に比べて低い低いと言われながらも,面接調査で5,6割の回収率を達成することができた.しかし,現在の東京では,それは絶望的である.また世の中が物騒となったため,調査員である学生のセキュリティにも相当気を遣わなければならなくなった.調査対象者のプライバシーへの配慮も一段と必要となった.

 また,集計や分析が容易になった分,それらの質が問われるようになった.かつては集計自体が大仕事だったから,クロス表を示すだけでも,それなりに評価された.多変量解析でも行なわれていれば,驚異の眼で見られた.しかし現在では,SPSSやSASで使える手法を用いても,これらのアプリケーションの操作自体がきわめて容易になっているから,誰も驚かない.それだけ分析者の問題設定へと眼が向くようになっている.

 十年前の引用文に引き寄せて考えれば,社会調査における社会学的想像力の持つ意味が大きくなりつつある,というのが現段階ではないだろうか.とは言ってみても,この報告書が,社会調査をめぐるこうした環境の変化を十分踏まえたものとなっている,と胸を張って言う自信は私にはない.しかし,志は高ければ高いほど良いと言える.そして,受講者の学生諸君の一年間の「労力」を評価し,その成果がここに結実したことを評価し,私は,これをもってよしとしたいのである.

 

 佐藤博樹氏には,まったくのボランティアとして社会学研究室の授業に協力していただけたことに対して深謝したい.

 大学院生の協力なしに,今年度の授業は不可能だった.その意味で,赤堀三郎君,宮本直美君,佐野嘉秀君,正田和子君,祐成保志君,細川修一君による貢献は大きい.これらの諸君に対して,この場を借りてお礼申し上げたい.また,単位取得とは無関係に参加し,無私の指導によって学部学生の人望を集めた千葉隆之君には,サンプリング設計や実務までお願いし,どうお礼の言葉を述べてよいかわからないほどである.ティーチング・アシスタントの神山英紀君は,調査票の作成から報告書の作成にいたる実習のマネージメントにおいて才能を発揮してくれた.今年度の授業は私が公務で欠席しがちだったにもかかわらず,どうにかここまでやってこれたのは,ひとえに神山君のおかげである.これらの諸君が将来,調査実習の授業を自分で担当するとき,今回の経験が役立つことを願ってやまない.

 最後になってしまったが,社会科学研究所の松井博氏には,サンプリングに関する出張講義や,総務庁統計局の見学でお手を煩わせた.深くお詫びするとともに,感謝申し上げる.医学部の山崎喜比古氏にはサンプリングの相談にのっていただいたし,同じく医学部の田村誠氏には調査表作成でご協力いただいた.また,文京区選挙管理委員会の事務局の方々にもたいへんお世話になった.その他多くの人びとから有形無形の援助を受けた.

 と,ここまで書いてきたときに,授業期間中はあまり意識しなかったが,この授業がいかに多くの人びとの善意によって成りたっていたか,ということに改めて気づかされた.

 

1998年3月7日

東京大学・文学部社会学研究室

武川 正吾