『カノン』,あるいは,ディスクルスの可能性について

 

 『カノン』は,その邦題から受ける印象を裏切る映画だ.パリ郊外で馬の肉を売る男が投獄される.自分の娘がレイプされたと信じ,その犯人だ思いこんだ浮浪者のことを惨殺して投獄される.物語は,この男が刑務所から出てくるところから始まる.男は,ある女のヒモとなるが,この女も惨殺してしまう.男は犯行現場から逃亡し,刑務所に入っているあいだ施設に預けられていた娘との再会に向かう.この筋書きから,パッヘルベルの『カノン』の曲想を思い浮かべることはほとんど不可能だ.

 プロットは単純だ.しかしそこで描かれるエピソードは単純でない.映画の全編をつうじて,醜と悪をめぐる場面が,これでもかこれでもかと描き出される.暴力,女に対するドメスティック・バイオレンス,胎児殺し,レイシズム,ホモフォビア,近親相姦,馬肉を切り裂くためのナイフ,馬肉との戯れ … .これらのイメージの積み重ねをつうじて,『カノン』は,通俗的な道徳観に挑戦する.

 台詞と音響も挑発的だ.男は,観客の神経を逆なでする言葉を,早口でまくしたてる.あまりの速さに,観客は男の発言に反論するどころか,催眠にかけられたかのごとく,ただ茫然として,男の言葉を受け入れざるをえない状況に追い込まれる.おまけに,不快な機械音が,男の言葉の要所要所で破裂し,観客の鼓膜を襲う.この映画を見てから,すでに2週間たつが,いまだにこの破裂音が耳について離れない.

 男が吐く言葉は,例えば,こうだ.「 … 愛情,友情,そんなものは全部作り話だ.そんなものは幻想だ.あらゆる人間関係がちょっとした取引でしかありえないことを隠すために人が抱く,青春時代の幻想だ.人間は友情と愛情について語ることに満足するが,それも計算だ.現実はもっとずっと平凡なものだ. … 」文字にしてしまうと,陳腐な印象をまぬがれないが,これが常人には真似のできない速さで語られる.このとき観客には,実際の内容以上のものが伝わってきてしまう.

 男の語る言葉は,世界に対する憎しみに満ちている.それが怒りであったなら,観客は,男に対する共感を抱くことができるかもしれない.しかし憎悪の感情を男と共有することはむずかしい.そこには監督の計算がはたらいているのかもしれない.この映画の原題は,じつは,Seul contre tous(全員が敵)なのだが,男の抱く憎しみの言葉を聞くとき,それがあまりにも原題とぴったりなので,『カノン』というのは誤訳なのではないかさえ思ってしまう.

 この映画はディスクルスの不可能性を論証しようとしているのではないかとも受け取れる.この馬の肉を売る男には何を言っても通用しないだろう.この男とのあいだのコミュニケーションはほとんど絶望的だ.このため映画館を途中で飛び出したくなることが度々あった.この映画のなかで,善と美は否認される.悪と醜の勝利だ.しかし,結局,最後に観客が連れて行かれるのは,愛なのだ.それは「禁じられた愛」ではあるのだが,「愛」であることにはまちがいない.このとき,Seul contre tousの方ではなく,『カノン』の旋律が意味をもってくる.

 きみが社会学者なら,『カノン』について語らなくてはならない.

[2000/10/18]

戻る