著作者人格権

 著作権には財産権と人格権がある.前者は印税や原稿料などに関する権利であり,後者は著作物の氏名表示や同一性保持などに関する権利である.学術出版物の印税や原稿料はゼロか限りなくゼロに近い−−場合によってはマイナスになることもある−−から,財産権に関するトラブルは今までのところ経験したことがない.しかし人格権に関しては嫌な思いをしたことが,これまでに三度ある.

 第一回目は,まだ二十代の若かりし頃,ある事典の項目の執筆を頼まれたときのことである.僕の書いた原稿が通説とは異なるからという理由で,知らないうちに誰かに書き換えられ,その校正用のゲラが出版社から送られてきた.これだけでも驚くべきことなのだが,さらに困ったことには,その書き換えられた原稿には,別の事典の無断引用ではないかと思われる箇所が含まれていたのである.ただちに出版社と編集委員会に抗議の手紙を書いた.この書き換え後の原稿を掲載するなら,執筆者名に僕の名前は使わないでほしいと要求した.すると,しばらくしてから,以前から知っていたある偉い先生から電話がかかってきて,編集方針上,無署名の項目は載せられないので,ゲラに朱を入れることで対処してくれないかと説得された.そして,書き直しをしたのは自分であると告げられた.今から考えると迂闊なのだが,そのときまでその先生が編集委員だったことを知らなかった.その先生に対して「わかりました」と答え,ただちに校正に取りかかった.しかし後味はあまりよくなかった.これだけ書くと,その先生のことを非難しているようにも受け取られかねないが,話はそう単純でもない.その先生は,ほぼ同じときに僕が応募していた研究費の審査委員会の委員をしておられ,そのときの生意気な抗議状にもかかわらず,僕のために骨を折っていてくれた,ということを後から知ったのである.

 第二回目は三十代の半ばの頃のことであるが,第一回目に比べると話はもっと単純である.某大学の学長をつとめる「有力者」の書評を,著者本人からの御指名で引き受けたことがあった.書評の最後に少し批判的なことを書いたところ,その人が僕の友人を介して,その部分を「訂正してもらえないか」と依頼してきた.その友人の顔も立てなければいけないと思い,校正時に,読者に誤解を与えないような表現に書き改めると約束した.ところが,これもゲラのコピーが送られてきて驚いた.問題の部分はすでに書き直されてあったのだ.元の原稿の末尾は「 … この部分の何よりの魅力は,それが非常に多くのアイデアを含んでいるということである.もちろん,これらのアイデアのすべてが有益であるとは限らないが」となっていたのだが,その結びの部分が,「もちろん,これらのアイデアのすべてが有益であるとは限らないが,福祉政策の研究を行う者にとって必読の文献といえよう」と変わっていたのである.そして,そのゲラはすでに印刷に回っていることが判明した.後の祭りだった.書評される当人が,書評を事前にチェックしていたということだけでも驚きなのだが,この書き換えには驚いた.怒るというよりは呆気にとられた.このひとは他人の批判など気にしない豪放磊落なひとだと以前から思っていたので,このような行動にでたことは意外だった.いや,こういうことをやってのけるという意味では,やはり豪放磊落だったのかもしれない.

 そして第三回目は最近のことである.ある本の分担執筆を依頼されて引き受けた.仲介に入ったひととの関係上断りにくかったのである.今回もまたゲラが送られてきて驚いた.提出した原稿のなかの節に当る部分が著者に何の断りもなしに削除されていたからである.理由は他の寄稿者と重複していると監修者が判断したからだという.しかし,その部分は出版社から当初に送られてきた執筆依頼のなかに含まれていた項目であり,また,削除するとバランスを失して提出した原稿全体の構成に大きな影響を与える部分だった.これにはさすがに腹が立った.深酒をして,翌日はほとんど仕事ができなかったほどだ.即座に行動を起こしては何を口走るかわからないと思ったので,数日の冷却期間を置いてから,仲介者に相談をし,そして出版社に連絡をとった.いちおう出版社の対応は,こちらの意向に沿うように,監修者と調整するというものだった.しかし腑に落ちなかったのは,担当編集者が,執筆依頼の仕方の落ち度を認めたものの,著者に無断で原稿を書き換えることが人格権の侵害になるという認識をまったく持っていなかったことだ.どうも,この出版社(の編集者)も監修者も,著作物も物品と同じで,納品後は発注者がいかようにも処分しうる,と考えているのではないかと思われた.彼らにとって,今回の事件は,発注の仕方の拙さの問題にすぎないのかもしれない.今回の事件がやりきれないのは,第一回目のような美談の要素も,第二回目のようなユーモアの要素もまったく含んでいないからである.[1999/2/6]

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