沈黙の宗教

 加地伸行『沈黙の宗教−−儒教』を読んで目から鱗の落ちる思いがした.儒教は宗教か宗教でないかという昔から頭を悩ませていた問題の一つが解けたからである.本書によると,日本・朝鮮・中国という東アジア人は,招魂再生というシャーマニズムを共有しており,『論語』などを通じて私たちが知っている儒教道徳は,この宗教性を論理的に表現したものにすぎない.したがって儒教はまぎれもなく宗教なのである.これは卓見だと思った.

 「人間は死ねばゴミになる」と言って死んだ検事総長がいたが,人間は死ぬと位牌と墓になるというのが,本書にいう儒教的な死生観である.位牌にも墓にも仏壇にも祖先祭祀にも関心を抱けぬ私は,加地氏によると「ゴミ人間」なのだそうだが,かく言う私も,臓器移植や死後解剖に対して何となく割り切れぬ感情を持っており,この点では,私も儒教的な死生観につながっていることに気づかされた.

 近代科学を準備することになる中世ヨーロッパの神学にあたるものが,東アジアには欠けていたのではないか,と本書を読むまで漠然と考えていたが,それが誤りであることも教えられた.中国では,経学が神学と同様の知的訓練を行なってきたのだ.それにしても私たち−−私だけかもしれない−−が,ヨーロッパ思想史に比べて東アジア思想史についていかに無知であるかということを思い知らされた.

 中世ヨーロッパがラテン語によって統一されていたように,中国も漢字によって統一されてきたが,ローマ帝国と神聖ローマ帝国が違うように,秦漢と唐宋や明清とは違うのだという和辻哲郎の考え(『孔子』)に親近感を抱いていた私は,東アジアは日本・朝鮮・中国とうい三国が安定的に存在してきたとする加地氏の指摘に若干の違和を感じた.しかし日本を東アジアの共通性のなかでとらえる姿勢には共感を覚える.

 当然,神社神道も相対化される.中国でも朝鮮半島でも日本でも宗廟や本殿に向かうときは,神の通るまんなかの道を避けるべきであるのに,なぜか日本の大臣たちは伊勢神宮や靖国神社を参拝するときに「ずかずかと道のまんなかを歩いている」のだそうだ.著者によると「不作法なことである」.

 著者は儒教を実証的=肯定的(positive)に扱っており,儒教の宗教性と道徳性が東アジア人の自然の感情に合致すると考えている.そして儒教の立場から,西欧に起源を持つ近代文明を批判する.とりわけ個人主義に対する批判は手厳しい.たしかに私たちは数千年の伝統をもつ儒教文化のなかにどっぷりとつかっており,そのことを真摯に受けとめなければならない.しかしデリダが西欧文明に対して採ったような立場を,私たちが儒教文明に対して採ることも可能なはずだ.

 最新流行の儒教型資本主義や儒教型福祉国家という概念のなかに,私はこれまで胡散臭さを感じていた.しかし単なる勤勉や長幼の序といった表層的な道徳だけでなく,本書で扱われているような深層のレベルにまで遡って儒教をとらえるならば,これらの概念も一考に値するのではないか,と本書を読んでから考えるようになった.[1998/10/08]

 戻る