マニュアル社会の到来

 ジェームズ三木脚本のテレビ・ドラマのなかで次のような小話がありました.ある会社で新入社員が上司から「君,上役に会ったら,相手が挨拶しなくても,自分の方から挨拶するものだよ」と注意されたところ,その新入社員の反応は「エッ?それってマニュアルに書いてありましたか?」というものだったというのです.これはOLたちが新入社員のうわさをしているときにに出てくる話で,「B4でコピーしてくれ」と頼まれた別の新入社員がエレベータに乗って地下4階まで降りた,といった類のアネクドートが続くなかでの一話です.「マニュアルに書いてなくったって知ってろよ」「今どきの新入社員はわけがわからん」というのが,ここでの落ちです.

 この話を聞いたとき,思わず僕も笑ってしまいました.それは僕がこのOLたちと同じ文化を共有しているからです.しかし一度笑ってはみたものの,しばらくしてから,この笑い,じつは残酷な笑いだったのではなかろうか,と反省するようになりました.

 私たちの社会は,マニュアル不信の社会です.その背後仮説は,本当に重要なことはマニュアルには書くことができない,という信念です.昔から,芸は盗め,と言われてきました.これは,受動的に教えられたのでは芸は身に付かないから,能動的に学びとらなければならない,という教訓だと考えることができます.しかし同時にそれは,最も大切なことは言葉に表現することことはできない,言葉を介して伝えることはできない,というペシミズムの表現でもあります.私たちのマニュアル不信は,こうしたペシミズムによって支えられてきました.

 また,私たちの社会は,マニュアルが不要な社会です.その背後仮説は,本当に重要なことはマニュアルには書いてない,マニュアルに書いてあることはマニュアルを読まなくても知っている,というものです.価値や規範を共有する度合いが高まれば,あえてマニュアルがなくても,ものごとはスムースに進みます.そこで大切なことは,不文律や暗黙の了解を体得することであって,マニュアルを読むことではない.ですから,以心伝心などという野蛮で反知性的なスローガンが幅を利かせる社会では,マニュアルは不要となります.マニュアルが必要となる場合でも,それは薄ければ薄いほどよい,ということになります.

 マニュアル不信,マニュアル不要というだけでなく,私たちの社会は,マニュアルを拒否する社会でもあります.マニュアルなしに成り立つ世界というのは,私たちにとって,たいへん居心地のよいエロス的共同体です.もちろんそこにも,いがみ合いはあるのですが,所詮それは「好きは嫌い.嫌いは好き」といった類のことにすぎません.この地上の楽園に,マニュアルを必要とする人間が入ってくるということは,何としても避けなければならない.先ほどの新入社員が笑いの対象となるのは,まさにこのゆえです.マニュアルを拒否する社会というのは,異物を嫌う社会だとも言うことができます.

 もちろん,いずれの社会でも,すべてのことがマニュアルに書かれるわけではありません.書けないこともあるし,書く必要のないこともある.その意味で,マニュアルにはつねに二重の限界があります.しかし限界があるということと,信ずるに足らない,あるいは,必要ない,ということとのあいだに必然的な関係はありません.また限界があるから放棄する,というのと同じ権利で,限界があるから限界を広げる,と言うこともできるはずです.

 私たちの社会は,ほんの十年前までは,マニュアルを拒否することによって成功してきました.日本モデルの時代です.しかしグローバル化の今日,いかにマニュアル化を拒否しようとも,もはやそれはかないません.異質で多様なものを束ねるためにはマニュアルの存在は不可欠でしょう.また,日本モデルの時代,ある集団のなかで身につけた行為様式が,別の集団のなかでは通用しないため,移動の自由は著しく妨げられてきました.しかし,マニュアルの存在は,人びとの移動の自由度を高めてくれます.現在,私たちはマニュアル社会の入り口に立っているのかもしれません.[1998/5/2]

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