アミスタッド

 

 高校生のとき,学校の帰りに友だち何人かと映画でも見に行こうかということになり,当時,映画少年を気取っていた僕の意見が通り,『激突』という映画を見に行ったことがある.この映画は,主人公の運転する乗用車が,行きずりの見ず知らずのトラックに,不条理にもハイウェイで追いかけられ続けるという作品だ.僕は,この映画の不気味さが気に入ったのだが,一緒に行った悪友たちからは「何でこんなにつまらない映画に連れてきた」と散々なじられ,映画に対する僕の鑑識眼は,以後,その信用を失墜した.

 この映画がじつはスピルバーグ監督の作品だということを知ったのは,数年後のことである.僕たちが『激突』を見に行った70年代初頭に,彼は,ほとんど無名の存在にすぎなかった.しかし,その後,『ジョーズ』をはじめとする数々のヒット作のおかげで,日本でもすっかり有名な人気監督となった.大学生になったあるとき,彼のフィルモグラフィーのなかに『激突』があるのを発見して,僕は,その数年前の出来事を思い出しながら,自分の「鑑識眼」の正しさ(!?)をひそかに悦んだものだった.

 そんなことがあったために,彼の映画に対しては特別の感情がある.全作品を見ているわけではないが,新作が封切られると何となく見に行きたくなるという関係は,いまだに続いている.今回,『アミスタッド』を見に行ったのも,理由の一端は,そんなところにあるかもしれない.

 この映画は,奴隷船アミスタッド号の船上で起きた反乱事件とその裁判経過を描いたものである.映画は,カリブ海の海上で,主人公のシンケが素手で鎖を放ち,仲間とともに自由を求めて蜂起するところから始まる.彼らの反乱は成功し,生まれ故郷のアフリカに戻ろうとする.しかし人質の白人に騙されて,船はアフリカ大陸とは反対のアメリカ大陸の方へ向かう.漂流中のアミスタッド号は,アメリカの沿岸警備艇に取り押さえられ,合衆国へ連行される.そして,海賊行為と謀殺の罪に問われる.

 裁判が始まり,シンケたちがじつはアフリカの地で奴隷狩りにあい,キューバに拉致されてきたことが明らかとなる.また,当時のイギリス領植民地ではすでに非合法化されていた奴隷貿易が依然として続けられていたこと,奴隷商人たちが黒人たちを家畜の一種として扱っていた奴隷船の惨状などが,数々の証拠や証言に基づいて,次々と明らかになっていく.

 僕はこれまで人間が人間を家畜として扱うということを,言葉としては理解することができたが,映像として想像することはできなかった.しかし,この映画はそれを実現する.積み荷を効率的に配置するというのとまったく同じ思想に基づいて,アフリカ人たちは船倉に押し込められる.飢えた家畜に餌を与えるのと同じ方法で,鎖で繋がれた人びとへの食糧提供が行なわれる.燃料が不足してきたら積み荷を減らすというのとまったく同じ考えに基づいて,残存食糧が少なくなったときに,人びとは生きたまま海中に投棄される.この映画を見た人びとは,これらの場面を一生忘れないだろう.

 裁判の過程で明らかとなった事実は疑いようもなく,したがって下級審は,無罪の判決を下す.ところが,彼らの裁判には,当時の国際政治・国内政治による圧力が加わり,その判決はすぐには確定しない.スペイン女王はアミスタッド号の船籍がスペインであることを理由に「積み荷」である奴隷たちの返還をアメリカ政府に要求する.奴隷制度の存続を求めていた南部諸州の政治家たちは,市民戦争の可能性をちらつかせながら,裁判に介入しようとする.

 そこで登場するのがアメリカの独立革命の精神を体現する元大統領,ジョン・クインシー・アダムズだ.彼が最高裁での弁護を引き受け,最終的にシンケたちの無罪判決を導き出す.

 アミスタッド号の事件が起きたのは1839年である.アメリカの歴史が,リンカーンによる奴隷解放宣言の方へとゆっくり流れていたときのことである.だから,この事件が奴隷解放の歴史のなかで,何か決定的な突破口を開いたということではなく,むしろそれは無数にあるエピソードのうちの一つにすぎないかもしれない.

 この映画は,独立革命の精神に基づく正義がこの事件を通じて実現された,ということを訴えているように見えるが,観客は,独立革命から半世紀以上経過しているにもかかわらず,いまだに奴隷制度が存続していたということの方を問題とすべきなのかもしれない.

 また,この映画には奴隷制度を否認するように見えて,奴隷制度を容認しているところがある.この映画における裁判の最大の争点は,シンケたちがどこで生まれたか,ということだ.彼らが奴隷の子としてキューバで生まれたのであれば,彼らは所有者に返却されなければならないし,彼らがアフリカで自由人として生まれたのであれば,不法に拉致された密貿易の被害者であって彼らの反乱は海賊行為には該当しない,というわけである.つまり,奴隷制度を前提としてシンケたちが有罪か無罪かが問われているのであって,奴隷制度そのものの合法性がこの映画のなかで問われることはない.

 裁判の過程では,紳士的なイギリス人武官が弁護側の証人として登場する.この映画に登場するスペイン女王,南部政治家,奴隷所有者などが歴史における反動を表象するのに対して,スピルバーグ監督は,この武官に,歴史の進歩を表象させている.この武官の証言によって,スペイン人やポルトガル人たちによる奴隷貿易の実態が暴き出される.彼の証言はシンケたちが無罪を獲得するうえで大いに役立つ.と同時に,これによって,奴隷制度を禁止する大英帝国の存在が暗に示される.

 しかし僕は,ここで少し複雑な気持ちにならざるをえない.というのはアミスタッド号の1839年が,アヘン戦争の1840年を思い出させるからだ.アミスタッド号事件の同時代に,イギリス議会は,国内には禁酒運動などというものを抱えながら,アヘンの密貿易にはそれほど気にも止めず,ついに中国への侵略を行ない,力ずくで香港を奪い取っている.こうしたイギリス議会のふるまいが,この映画の背景となっているアフリカ大陸における奴隷禁止とまったく無関係であるとは,僕にはとうてい思われない.おそらく両者の背後には,自由貿易帝国主義の怜悧な計算に基づく合理性が存在するのだろう.

 『アミスタッド』のなかでも,そうした自由貿易帝国主義の隆盛とは対照的な,スペイン・ポルトガル流の旧態依然の植民地主義の没落が描かれている.そして,この映画のなかでは,スペイン女王の幼児性がことさら強調されて描かれている.それは,ちょうどいま上映中の中国映画,『阿片戦争』のなかで描かれているイギリス女王の利発さとは,好対照である.

 僕は,この映画に対して,批判的なことを述べすぎたかもしれない.しかし僕がこの映画のなかに,希望を見出しているのも事実だ.このような主題の映画が商業的に成り立つということ自体,一つの驚きである.これこそまさにアメリカであろう.もちろんそこには,どんなものでも飼い慣らしてしまうアメリカのポップ文化の寛容と狡猾がある.しかし,それはまた多種多様なものを同時に存在させることを可能にする,というアメリカなるものの現れでもある.そして,これはアミスタッド号事件の,原理的というよりは便宜的な解決の仕方に,どこかで通底している.

 アメリカは,一つの国のなかに,豊かな中産階級と,第三世界並みの低賃金で働く下層階級を同時に抱え込んでおり,もはや先進国ではなく,世界の縮図そのものであると言われる.その意味で,現代に生きる人間にとって,アメリカなるものは,世界そのものである.僕たちは,この鎖に繋がれている.しかし,この鎖を解き放つ可能性も,この鎖のなかに埋め込まれているのだ.

 『アミスタッド』の後半部におけるもう一人の主人公は,元大統領のジョン・クインシー・アダムズである.そして,アンソニー・ホプキンズがこのアダムズを演じているというのも,僕がこの映画に惹かれる理由である.彼は,グロテスクと精神分析とミステリーとカニバリズムを調合した映画,『羊たちの沈黙』の主人公レクター博士を演じた俳優として一般には有名だが,僕にとっては,日系英国人作家イシグロ・カズオの同名の小説を映画化した『日の名残り』の主人公の執事役としての方が身近な存在だ.

 『日の名残り』は,戦間期の英国人のファシスト貴族に仕えた執事の物語だが,そこで語られる大人の恋もさることながら,そこに映し出された貴族の館(ハウス),その館のなかに存在する家具,絵画,装飾品の数々,さらに屋外に広がる,イギリス以外では見ることのできない田園風景が,アングロマニアックな僕の脳裡には刻まれている.また,こうした背景のなかで演じられるアンソニー・ホプキンズの重厚な姿も忘れられない.

 『アミスタッド』のなかのアダムズ元大統領は,僕にとっては理想的な老いの姿を表現しているように思われるのだが,この役を演じるアンソニー・ホプキンズは『日の名残り』の執事役と二重写しになり,どうしてもイギリスの田園と館(ハウス)の記憶を僕のなかに想起させてしまうのだ.

[1998/3/24]

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