雑草とweed,あるいは本質主義と構築主義のこと

 数年前,英国シェフィールドに住んでいたときのこと.滞英中に1ドル80円を切ったという円高の恩恵もあり,また,日本ではこんな家には一生住むことはできないだろうという諦念もあって,少し奮発して,庭付きの大きな家を賃借しました.当然,庭の手入れは借家人である僕の責任です.このとき困ったことの一つは,草むしりをするときに,雑草と雑草でないものをどう区別して引き抜くかということでした.

 そこで,あるとき大家さんに訊ねました.ワタシニハ雑草ト雑草デナイモノトノ区別ハムズカシイ.雑草ノ定義トハ何カ?.彼の答えはきわめて単純明快.雑草トハ,ソコニアルベキデナイモノデアル,と.

 この答えは僕にとって衝撃的でした.雑草に分類される植物と園芸用に分類される植物が本来存在していて,三島由紀夫と同じくらい植物に疎い僕には,その区別が難しいという意味で質問したのですが,彼から返ってきた答えというのは,庭園の設計から離れて雑草の定義はできないし,同じ植物が園芸用になったり,雑草になったりする,というものだったからです.つまり僕が雑草を本質主義的に考えていたのに対し,彼は構築主義的に考えていたわけです.

 「雑草という植物はない」という昭和天皇の言葉も,雑草というものの本質主義的理解を前提にしてはじめて意味を持つものでしょう.そして,この言葉が多くの日本人の心を打つとしたら,それは彼らが通常,雑草と雑草でないものは本質的に異なると考えているからではないでしょうか.「雑草とweedとは異なるものなのだな」とつくづく実感した文化衝撃の体験でした.[1998/3/22]

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