金融スキャンダルとオリンピック

 大蔵省と日銀の幹部が逮捕されました.日本の金融スキャンダルはとどまるところを知りません.かつてのイタリア政界のスキャンダルの規模に比べれば大したことはないかもしれない.また,国家権力による国家権力のチェックであって,国家装置そのものの崩壊ではないかもしれない.しかし,最高権力として長い間君臨してきた日銀・大蔵省をめぐる事件であるとともに,長期に及ぶリセッションのなかでの出来事であるという点で,この事件によって生じた日本の統治機構の正統性の損傷ははかりしれません.

 この事件の逮捕者がきわめて特異な例外であると思っている人は,おそらく誰もいないでしょう.逮捕者は突出していたかもしれないが,他の人と断絶していない,というのが大方の見方ではないでしょうか.ですから,この事件の真の意味は,これまで多くの人が黙認してきたことが,今日では,もはや国際標準としては通用しなくなっている,ということのうちにあります.

 この一連のスキャンダルは,ルールに対する反則行為の取り締まりというよりは,ルールそのものを変更するための手続きであると考えられるべきでしょう.そして,それを遂行しているのが立法権力ではなく,行政・司法権力だというところに,この事件の変則性があります.しかし,こうした異例な手続きを採らなければならないほど,この問題の解決は緊急性を有しているのかもしれません.

 それにしても国家理性は賢明です.こうした正統性が危機に瀕している時に,正統性の回復のための狡知を働かせます.オリンピックです.長野オリンピックで誕生した英雄は,いまや「日本国民統合の象徴」です.

 スケートの清水選手は,大会参加の旅費も捻出できないような貧しい母子世帯のなかで育ちながら,その人並みはずれた努力によって遂に金メダルを獲得するという,その生い立ちによって,戦後の廃墟のなかから出発しながら,勤勉によって世界第二位の経済大国を築き上げた,80年代までの日本人の国民的アイデンティティを象徴します.しかも彼の金メダルが,その小柄な体格にもかかわらず獲得されたということは,ある世代以上の日本人の心の琴線に触れないわけにはいきません.また,ポスト・バブル状況のなかでわれわれが忘れていたものがここにある,と感じた人も少ないはずです.

 原田選手の笑顔と涙は,連日の金融スキャンダル報道のなかでの清涼剤です.大失敗をしながら再起して大成功に至るという物語は,自分は成功者ではないと感じている多くの人びとに対して勇気と希望を与えてくれます.とくに自信喪失状態に陥っている90年代の日本人は,順風満帆の成功物語によってはけっして得ることのできない自信を,彼の物語から手に入れることができます.彼もまた日本人の国民的アイデンティティにとっての統合の象徴です.

 しかし,彼ら二人だけを登場させたのであったならば,国家理性も復古主義のそしりを免れません.国家理性の深慮は,清水選手と原田選手に加えて,船木選手を登場させたことのうちに表れています.船木選手のドライさとクールさは,清水選手や原田選手に同一化(identify)できないない日本人を惹きつけます.高度成長期や1980年代の日本人の国民的アイデンティティには回収されない,従来だったら,逸脱者と見なされかねないような新しいパーソナリティを,船木選手は統合しているように思われます.僕の周囲でも船木選手のファンが意外と多いことに気づきました.

 このように考えてくると,オリンピック,あるいはスポーツは,アルチュセール流に言うと,「国家のイデオロギー装置」であることが分かります.とくに従来型のイデオロギー装置である学校や家庭や会社の現状を見るとき,スポーツは,現代社会における最も効果的で機能的な「国家のイデオロギー装置」です.こうしたイデオロギー装置のおかげで,国家理性は,金融スキャンダルという費用を支払いながらも,社会解体にいたらず,社会統合を維持しながら,次の時代のために必要なルール変更の作業を推進することができているのです. (1998/3/11)

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