山田太一の弁証法

 NHKの土曜ドラマで山田太一作の「風になれ鳥になれ」の第一回を見ました.山田太一のドラマはずいぶん昔からよく見ています.「ふぞろいの林檎たち」は第一部から見ました.当時,僕はもう大学を卒業していましたが,そこで描かれていた学生風俗はまさに僕にとっての同時代でした.それ以前のテレビ・ドラマも学生時代に見ています.劇場に芝居を見に行ったこともあります.確か「砂の上のダンス」とかいう題だったかと思います.

 山田太一のドラマは,いつもどこか青臭いところがあり,高踏的な人は敬遠するかもしれません.僕も,そう感じないところがないわけではありません.しかしなぜ僕は彼のドラマに惹かれるのでしょう.それは彼のドラマがまさにドラマであるからだと思います.これはトートロジーのように聞こえますが,日本の社会では必ずしもトートロジーではありません.

 日本の芝居にはドラマトゥルギーがないと言ったのは確か三島由紀夫だったと思います.この考えに僕も同意します.それは西欧演劇を輸入した新劇の場合でも同様です.ですから,三島の『サド公爵夫人』や『わが友ヒットラー』は,彼が日本語の芝居のなかにドラマトゥルギーを確立しようとした試みです.このため劇中に交わされる科白のやりとりは緊張感に溢れています.

 山田太一の脚本にはいつも,青臭い科白を吐く人物とそれを揶揄する人物が登場します.彼らの科白の衝突が,いつも彼のドラマのクライマックスになります.今日は渡哲也と山田吾一がそうした役回りを引き受けていました.こうした文体の番組は,30分で終わりそうな話を,心理描写を欠いた俳優の動作と風景の美しさで延々2時間ドラマに仕立ててしまう日本のテレビ界では珍しい.ですから,山田太一のドラマにはドラマ−−あるいは弁証法と言い換えても良い−−があるということになるのです.この点が,僕が彼のドラマに惹かれる理由です.

 もっとも彼のドラマの弁証法には,図式主義がともないがちです.科白と科白の葛藤は調停困難なように見えて,実は,最後には視聴者が作者のメッセージに同意せざるをえなくなるように仕掛けられています.これによってドラマの統一性と形式美が保たれます.ですから見終わったあとに,視聴者はカタルシスを感じることができます.これはブレヒトの芝居との大きな違いです.

 このように山田太一の弁証法はいささか図式的です.しかし,弁証法の乏しい社会では,それもまた魅力の一つなのです.これからも僕は彼のドラマを見続けるでしょう.(1998/3/7) 

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