東アジア文化

 わが家が加入してるケーブル・テレビには中国語と韓国語の番組を放映するチャンネルがあります.言葉はまったく分からないのですが,なかなかおもしろくて,最近,よく見ます.ヒットチャートやトレンディ・ドラマ風の番組は,もし日本語の吹き替えが行なわれていれば,ほとんど日本の番組と見紛うほどです.このことを東アジアの専門家である駒場の瀬地山角君に話したところ,「向こうが真似しているのだから当たり前でしょ」と一蹴されてしまいました.しかし僕には,どうしてもポップ文化の分野での収斂が生じているように思えてなりません.

 昨年末のニューズウィークが,グローバル文化についての特集を組んでいたのもこうした考えに拍車をかけました.とはいえ,僕がケーブル・テレビで見ているのは,欧米も含むグローバル文化の一環かもしれないが,とりわけ「(国民国家を超えた)東アジア文化」ではないかと思われます.というのは,そこに登場するスターたちの容貌がどうも,日本のポップ文化のなかに登場する美男美女のパタンにおそろしく似通っているからです.

 じつは僕は昨年末に亡くなった中村眞一郎の愛読者なのですが,彼の書物から,平安朝の貴族や江戸の儒学者たちの文化が非常に普遍的で中国を中心とした東アジア文化の一環であることを教わりました.つまり『枕草子』は,当時,『義山雑纂』という中国の書物が念頭に置かれながら読まれたのであり,本居宣長などは江戸の知識人のあいだでは普遍性のない地方主義として嘲笑されていたとのことです.「もののあわれ」でさえ,大和心などではなく,当時の世界文化の一環だと言うことです.

 近代以前の日本の知識人のあいだには,漢字を媒介にして,普遍的な東アジア文化が成立していた−−そういえば漱石の頃までは漢詩が日本人の教養のバックボーンだった−−わけですが,そうした東アジア文化が現代のポップ文化のなかで甦っているのかもしれません.しかし,悲哉,知識人の世界では東アジア文化は成立していません.少なくとも僕が所属する社会学の世界では,そうした気配はまったくありません.今の僕にとっては,このことがとても気懸かりです.中国語と朝鮮語を学生時代に勉強しなかったことがとても悔やまれる今日この頃です.(1998/3/3)

戻る