作家という言葉と会議という言葉はあまり結びつかない。そもそも作家とは社会の歯車となって働くことを拒否し、書斎にこもって自分の世界を作り上げている人たちの集まりなのだから。
日露作家会議の企画書に謳われた趣旨は、「現代ロシア文壇の第一線で活躍する六名の文学者を日本に招いて、日本の文学者・文学研究者と共同でシンポジウム、セミナー、講演会などを催し、両国間に共通する現代の文学・文化上の問題について討論を行ない、相互理解を深め、文化交流を活性化すること」となっている。ところが当の作家たちときたら、現代における文学の問題についてみんなで真面目に討論しようなどとは端から思っていないようだった。アクーニンは「社会的な問題について自分が言えることはすべて作品の中にある」として批評家から作家となった自分の個人的な発見を述べるに終始し、トルスタヤは「インタビューで作家が語ることはみんなウソ」と言い放ち、ガンドレフスキーに至っては「作家に専門を超えて何かを語らせようとするのは間違っている」といった調子なのだ。そう言われてしまっては主催者側は立つ瀬がない。それなら何も苦労をしてロシアから作家たちを招いてこんな会を開かず、家で彼らの作品を読んでいればいいということになる。
しかし作品を読むのはいつでもできるが、今回は作家たち自身と近づきになれるまたとない機会である。文章を読むことでその人を知ることもできるが、生身の作家と話してみてその作品世界がより深く理解できることも多い。シンポジウムの第一部では、司会を務めた亀山郁夫氏の案で、それぞれの発言者は自分の好きな動物のことから話をはじめた。この一風変わった趣向に首を傾げる向きもあったようだが、もともと知り合った人を犬派と猫派の二つに分類する癖がある私としては、なかなか興味深かった。(ついでに作家たちの答を紹介しておけば、トルスタヤとペレーヴィンは猫派、ソローキンは犬派だということである。)シンポジウム第一部では、犬・猫の話の他に、昨年9月11日にアメリカで起きた事件についての意見や、亡命文学をめぐる状況、歴史に対する認識といったテーマで討論が行なわれたが、本来の議題である「現代世界と小説の可能性」についてはあまりつっこんだ議論にならず、「我々作家がここにこうして並んでいるということは、小説にはまだ可能性があるってことでしょう」というペレーヴィンの言葉ですべて片付いてしまったようだ。
かくして、「犬や猫の話」という文学とは直接に関係のない話題から始まったシンポジウムだが、ここに収録した第二部の記録を読んでいただけばわかるように、最後にはエリート文学という用語をめぐる議論から文学のあり方をめぐる根源的な問題に至った。この問題の背景には、クーリツィンが概観したようなここ数年のロシアにおける文学市場の変化があり、社会全般のめまぐるしい変化がある。「エリート文学」、あるいは「インテリのための文学」という定義は、氾濫する「大衆文学」と「本物の文学」を区別するために生まれた。圧倒的な部数で市場を制した大衆文学の本質は「質よりも量」というひとことに尽きるものだったが、その定義は「質と量」の両方を兼ね備えたアクーニンの誕生と共に崩れ去った。その新しい時代を切り拓いた当人は「エリート文学」の代わりに「純文学」という定義を用いる提案をしているが、「純文学」と「大衆文学」の境界もまた、それですべての問題が解決するほど明確ではない。月並みな結論ではあるけれど、結局のところ、求められているのは、ジャンルや文体の斬新さの程度に関係なく「良い文学」という、これまた曖昧にしか定義できないものだ。
良い文学とは何か。文学の良し悪しを決める基準について様々なことが言われてきた。しかし文学作品の魅力は科学的データで分析できるものではない。それは、細胞の集まりである人間という存在を、どんなに高度な科学をもってしても完全に理解することができないのと同じである。シンポジウム前日に開かれた文学セミナーのとき、どの程度計算して作品を書いているのかを訊ねられたペレーヴィンは「すばらしい人物がいたとして、その両親にどうやってこんな人間を作ったかと訊くようなもの」と答え、続けて「そりゃあ、しつこく頼めば目の前でそのプロセスを再現してくれるかもしれないけどね」と言ってにやっと笑った。ウィットに富んだ彼らしい受け答えだが、おそらく彼にとって、いや、彼に限らずすべての「本物の」文学者にとって、書くこととは性の営みと同じように本能的なことなのだ。そしてその営みの結晶として生まれる作品という新しい生命体は、子供が避けようもなく親に似るように作家その人の刻印をとどめながら、それでいて独立したひとつの個として存在する。優れた文学作品は人間自身と同じように多様で計り知れない。顕微鏡で調べたり切り刻むよりも、目をつぶって抱きしめ、その温もりを感じればよいのだ。
ガンドレフスキーが言っているように、文学とはそもそも「個人的な事業」である。今回の会議に招かれた一人一人の作家は決してロシアを代表しようなどと思ってはいまい。彼らの言葉を聞いてロシアがそっくりわかるわけもない。現代文学の問題について急に理解が深まるわけでもない。作家たちが残した極めて個人的な言葉の数々を辿ることによって得られるのは、やはり極めて個人的な印象にすぎない。だがそれでいいのだ。いつだって個人的なものほどかえって普遍につながるのだから。