パウロの〈信〉・〈義〉理解


これは、'98後期開講の「哲学思想概論II」の資料の一部である

ここではパウロの根本思想がどういうものであったかを分析する。その結果、私たちは、パウロのメッセージについてのキリスト教の伝統的な見解が、実はパウロに対して後から帰せられたものでしかないことを確認することになろう。
すなわち、ここで取り上げるのはその最も核心になる点の一つであって、次の点が結論される。
  1. パウロ自身はイエスを信仰の対象だとは考えておらず、その(真正)書簡においては「イエスを信じる」というようなことは告白も、勧告もされていない。
  2. 擬パウロ書簡、ことにより後世に書かれたと目されるものには、イエスを信仰の対象とするような表現が出てくる。また、『使徒行伝』は明白に、パウロが「イエスを信ぜよ」というメッセージを語ったとしている。

以下ではまず、通常パウロがイエス・キリストに対する信仰を語ったと解されている、パウロ書簡のなかでももっともよく知られている箇所のひとつについて、伝統的な解釈が誤りであることを示す。


テキスト:ロマ書3章21---26節

21 今や律法の外に[と切り離されて]、神の義が顕われた/律法と預言者によって証されて、

22 (S1)すなわち(それは)神の義(である)/(d1)イエス・キリストの信による/全ての信じる者達に及ぶ。

   (「全ての」というのは)そこには差別はないからだ。

23 というのは全ての者は罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっており、

24 (S2)義とされる(からだ)/価なしに神の恵みにより/(d2)キリスト・イエスにおける贖いにより。

25 (S3)彼を神は立てた[公に示した]/和らげるものとして/(d3)信により/その血(を流すこと)における、

 (E1)(それは)自らの義を現わす為に(である)/既に犯された罪の責を問わないことにより[orの故に]   

26 (E2)(つまり)自らの義を現わす為に(である)/この今の時期において、

   (E3)(すなわち)自ら義であり、かつイエスの信に依る者を義とする為に(である)。


1. イエスのピスティス

上の引用で「イエス・キリストの信」と訳したところは、現行訳では通常「イエス・キリストを信じる信仰により」となっている。つまりパウロは「人間の救済にとって肝心なのはイエス・キリストを信じることだ」と主張している、と解されている。それは確かにキリスト教の主張である。だが、このようなパウロ理解は誤解である、というのが以下の主張の要点である。

そこでまず、 〈イエスの信〉理解を軸とするロマ書(特に3.21--26)についての私の見解の要点をまとめておく。

ピスティス・イエースー

ピスティス・イエースー(イエスの信)を対象を示す属格としてではなく、主体を示す属格として読む。すなわち、これはイエスに対するピスティスのことではなく、イエス自身においてあったピスティスのことである。この主張の理由となる論点は次の通り。まず積極的な論点(イエスの信と読んだほうがいい理由)を挙げる。

 a.3.3では「神のピスティス」という表現があり、これは神を主体ととらざるをえない。

 b.3.26のホ・エク・ピステオース・イエースーは4.16のホ・エク・ピステオース・アブラハムと同じ型の表現である。後者は「アブラハムのピスティスに倣う者」などと読まざるを得ない以上、前者も「イエスを信じる者」というよりは「イエスのピスティスに倣う(拠る)者」と読むほうが自然である。

 c.ピスティスとヒュパコエー(聴従)は密接に関連している。

イ)10.16では「聴従する」と「信じる」が 同義的に言い換えられている。
ロ)冒頭1.5および終結部16.26(ただしこれはマルキオン系統の付加らしいのではあるが)では「信の聴従」がパウロの福音伝道の目的として、また福音が掲示されたこと自体の目的として提示される。
ハ)冒頭(1.8)では「あなた達のピスティスが全世界に伝えられているので・・・感謝する」といい、これに対応して終結部(16.19)では「あなた達のヒュパコエーが全ての人に聞えているので、私は喜ぶ」という。

ところで、5.19ではイエスについてそのヒュパコエーが指摘されている。しかも「一人のヒュパコエーにより、多くの人が義人とされる」とある。ヒュパコエーとピスティスとの以上の結び付きを考慮の上で、これを目下のS1 、S2と比較してみよ。「イエスのピスティスにより」と「イエスのヒュパコエーにより」がほとんど同じ事態への言及であるとみることのほうが自然な読み方ではないか。

 つぎに消極的論点(「イエスを信じるピスティス」と読む必要がない理由)は次の通り。

 d.我々の先入見を括弧に入れてみると驚くべきことに、ロマ書では3.22、26以外には「イエス・キリストを信じる信仰」を示すことが明らかな表現は一つもない。前後の文脈から内容的に「イエス・キリストを信じる」こととも解し得る発言は10.9−17のみ。
つまり「イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」という通常の理解は、3.22、26の解釈が動けば、くずれてしまう。

 e.新約全体でピスティスにイエスないしキリストないし明らかに彼を指示する語の属格が掛かる例は12例ある。これらについて検討してみると、いま問題にする箇所の属格を主体を示すものと解しきることができれば、これらはみなそれに準じて解釈しなおせる、つまり、対象を示す属格ととることを補強する例は一つもない。

解釈

[積み重ね表現を認めて読むこと]

パウロには、自己の主張を打ち出す際に、短い表現を少しづつ違った内容を加えながら、つぎつぎと積み重ねることによってそれを提示する傾向があり、ここのS1-S3、E1-E3はまさしく それにあたる。

本箇所の構文上の関係にかかわらず、またはそれに加えて、ここに我々は積み重ね表現を見て取ることができる。S1-S3 の積み重ねはd1-d3 という前置詞ディアdia を使った句により、E1-E3はエイスeis 句の繰り返しおよび「神の義を現わすため」の繰り返しにより示される。

d1,d3のピスティスは人間のイエスに対する信のことだという先入見を離れ、イエスのことと見るならば、d1-d3が同じ事柄に関する三重の表現の積み重ねとしてみえてくる。逆に積み重ねだと見ることにより、d1-d3を一つの事態を様々な角度から言い換えたものだとする解釈が出てくるといってもよい。

ではd1-d3 がことばの積み重ねであるのならば、そこで言われていることは何か。

[S1-S3 、(d1 〜d3)の解釈]

d1においてイエスのピスティスが神の義、それも全ての信じる者におよぶ神の義にとって決定的に重要なこととして提示される。では何をピスティスということによって指しているのか。またそれはかかる神の義と如何に関わるのか。d2,d3 がそれに答える。

 d2はそれをイエスにおいて成立した贖いによってだと言い換える。すなわちイエスのピスティスのゆえに贖いがなったということである。どのようにしてそれが成立したのかは、さらにd3が示す。すなわち十字架において血を流すことによってだと。つまりかかる受苦に至るまでイエスがピスティスというありかたにおいてあったことによって ---「その血におけるそのピスティスによって」だというのである(「その血における」をこうかけることは「ピスティス」をイエスのことと解することによって可能となる)。

こうしてみるとイエスのピスティスとくにその死におけるそれにパウロが注目していることが分り、我々はここでまたヒュパコエーとのかさなりに出会った。すなわちピリピ2.8「死に至るまで、十字架の死に至るまで従った」とこことが重なってくるではないか。

 結局、S1で[〈ディア〉イエスのピスティス---〈エイス〉信じる者達]という仕方で神の義が提示されたうちの〈ディア〉のほうはややはっきりしてきた。

[残された問題:E1-E3の解釈]

以上の限りでは、〈ディア〉はわかったとして、なお〈ディア〉から〈エイス〉への関 わり方が問題として残る。これについては、例えば次のように解することも可能である。

E1-E3 はS1-S3が語る事態の目的ないし理由・動機を記述するものであって、それは「神の義を顕わす」という点で3.21に対応している。E1ではこれに「神の忍耐において、これまで犯されてきた罪を罰することを猶予してきた為」という理由が付加される。罪に対して直ちに裁きを顕わにしないでき、従って、これまでの限りでは神の義が具体的に現われているとはいえない(いわば帳尻があっていない)。それ故「神の義を現わす」ことが求められるのである。・・・単に過去の罪を見逃して来たというだけで終っては、神は義だとはいえないからだ。
(例えばアルトハウス(NTD)はほぼこのよう な理解を示す。しかし大方が同様に解しているわけではないようで、本稿が辿り着 く理解に近い考えをとっているものもある。例えば、前田護郎訳は「人々の過去の罪 を神ならではの忍耐で見のがしてご自身の義を示すためであり」としている。)

こう考えるならば、帳尻を合せる仕方として「贖い」等を理解するのも当然のこととなろう。そうであれば、「神の義」ということそのものは3.20以前のそれと変らないことになる。犯した罪に対して神は報いずにはおかない、そういう裁きの神としての神の義は保存されている。ただ、その裁きを神は罪人を直接打つことによってではなく、罪人を神の左手でかばったうえで、その左手を右手で打つことによってなした。このかばう左手として、イエスの贖いが理解される。それによって、行為という道ではなく、信仰という道が、つまりかばう左手の保護下に入る道が福音として提示されたことになる。この場合打つ右手に変りはないのである。すなわちここに示された神の義は律法に本当に従っているものを義とする神の義と変らないのであって、ただ別の義とされる道(i.e イエスの贖い)が提示されたことにより、義なる神は「裁く神にして許す神」として提示されたことになる。

しかしながら、かかる解釈ないし図式には納得できないものを感じる。なにより、これでは神の義は律法を前提としていることになり、「神の義が〈律法なしに、または律法とは別に〉顕われた」ことにはならないではないか。

そこで、これを乗り越えてさらに考えるために、私は「義」ということを考え直さねばならない。「何が義であるか」をではなく、「義とは何か」を。


2. 信(ピスティス)による義(ディカイオシュネー)

パウロによる〈義〉の用例

アブラハムの事例

まず、パウロ自らが信による義について、アブラハムに言及しつつ解説している 部分(ロマ書4章)の分析が重要である。すなわち、 神からアブラハムへの〈約束〉という言語行為に対して、アブラハムが〈信じる〉と いう対応をし、その対応に対して、神がアブラハムを〈義しい〉と評価したという 故事に言及されている。 ここにあるのは、神からの命令に応じる行為を人が行った場合に、神はその 人を〈義しい〉と評価する、というのとは全く別のパターンにおいて使われる 〈義しさ〉である。約束にせよ、命令にせよ、一方から他方への言葉掛けに 対して、その言葉掛けを受ける側が〈信じる〉という応対をした場合に、 その〈信じる〉という言葉掛けの受容に対する、言葉を掛けた側のいわば〈よし〉 という是認のことばとして〈ディカイオス〉がある。

神もピスティスの故に義とされる

また、ロマ書3章(1--4) においては、神のピスティスと義が、神が人間に言葉を語 るという場面で言われている。 つまり語り掛ける側にも〈信=ピスティス〉がある。 この神の仕掛けた言語ゲームに「しかしユダヤ人はその信を もって語られたことばに不信をもって対応した」とパウロは続けて言う。 そしてその文脈で、次に旧約の引用とし  て、神は「そのことばにおいて義とされる」ということが提示されている。 こうして、ここに神に関して

[ピスティス---語ること---ディカイオス]

が組になって出てくる。すなわち、信をもって語ることに おいて神もディカイオスとされるということである。神がディカイオスであるのは、神 のピスティスによってであることは注目に価する。

ピスティス→ディカイオス

 このようにして、一般的にいえば、〈ディカイオス〉とは、人格的存在が相互に交流 する際(それは言語的交流に他ならない)に、ピスティスをもって誠実にことばのやり とりをする者について言われることに他ならない、と結論できよう。

SとRとの間に言葉のやり取りがある時、Sから語り掛けられたことばを〈よい2 〉とまともに受けとめるとき、つまり信じるとき、Sは  Rの対応を評価してRを〈ディカイオス〉とする。これはSとしては自分のことばが期待通りに受けとめられたこと に対する〈よい1〉に該当する。またRがSを〈よい2〉として信じるとは、Sを〈ディ カイオス〉とすることでもある。

そうであれば、〈ピスティスの人こそディカイオス〉であることは、いわば定義から明 らかなことである。従って、「ピスティスに由来するディカイオシュネー」とは、この ような文脈で〈ディカイオス〉を理解するときに話題にしていることだということにな る。つまりこれは、律法に応じたことに対してディカイオスといわれ得ないところをピ スティスの故にディカイオスと認めてもらうという話ではない。 両者は〈ディカイオス〉の用法の決まる文脈・ゲームが異っている。 つまり、「行為による義」と「信による義」とは義に至る手段の違いではなく、義その ものの違いであるということになる。 神の命令を果たせなかった人間を救済する手段として信という道があるので はない。そうであればこそ、端的に「律法と切り離された」(3.21) 神の義 といえるのである。

3.25b-26の解釈

E1:律法の下で 理解された神の義は罪を裁くという仕方で現われるものであったのに対し、今提示され る神の義はそれとは全く対照的であることがここで言われている。つまり、

 「既に犯された罪を不問にすることによって、(そのようなものとして)神の義を現わす」

という、律法主義者の神経を逆なでするような、逆説的表現による、先鋭な主張がここにある。この先鋭な主張は「不敬虔な者を義とする」神(4.5)の先鋭さに並ぶものであろう。この主張はさらにE2 、E3 によって次の ように説明される。

E2:それは、イエス・キリストが信による義の人として死に至るまであったということ を端初として、今や開か れている神のありかたであり、人に対して開かれた道である。

E3:神は人にかかる言葉の関係を持つべく向かうものとしてディカイオスであり、その 神にイエスのピスティスに倣うピスティスをもって応える人に「ディカイオス」と宣す るものである。

以上のように解してみると、E1 〜E3のおかれた文脈が明らかになる。すなわち、S1 で[神の義/イエス・キリストの信による/全ての信じる者達に及ぶ]と、基本的な枠組がまず登場する。すなわち、神のディカイオシュネーは前置詞ディアによる句「イエスのピスティスによる」(d1)と前置詞エイスによる句「全て信じる者達に及ぶ」という二項によってまずその大枠が規定される。この内主としてディア句の方は、d2、d3(S2 、S3 )がより 詳しく説明した。そしてつづくE1 〜E3 はエイス句の方を説明するものである。E1 、E3 がともにエイス句であ るという点からも、これらが[〈エイス〉全ての信じる者達]につながる積み重ね表現であることが裏付けられる。 すなわち神のディカイオシュネーは信じるという応対をする者に及び、或いはこれに向かうものであるが、この「信 じる者に及ぶ(向かう)」というのは、信じる者をディカイオスとすることを結果するという仕方においてであり、 言い換えれば、そのようにして信じる者をディカイオスとするという仕方で、「神のディカイオシュネーを現わす」 ことを結果することである。

このように理解した上で、我々はもう一度S1 を読み直すことができる。すなわち

[神の義/〈ディア〉イエス・キリストの信/〈エイス〉全ての信じる者達] とは、

[〈神の義〉は〈イエスのピスティス〉を通して〈信じる者達〉のところまで及ぶ]

ということでもある(そしてこれは、ロマ書五・一二〜二一の思想と符合する)。

すなわち、このディカイオシュネーは、神から出て、イエスを通して、 信じる者に至る。 神はことばをピスティスをもって語り出す者としてディカイオスであり、イエスはその ことばに死に至るまで聴従するという仕方でピスティスをもって応じた者としてディカ イオスであった。そして今や、神から出で、イエスを通して到来したことばにピス ティスをもって応じる者もディカイオスとされる。しかもこの到来したこ とばは、ピスティスをもって応えるものをディカイオスと認めようと語り掛けそのもの だったのである。


以上は「ピスティス・イェースー」についての論。パウロが「イエスを信じる」ということは言っていないことを立証するには、「イエスへの信仰」などと訳されている他の表現についても検討しなければならない。wwwにアップするのが先か、本が出るのが先か!