オッカムの言語哲学

(勁草書房 1990年刊行、1999年第2刷:改訂あり)


以下に掲載するのは、同書の概要である。

オッカム論理学の基礎をなす 〈項辞terminus〉 の働きである 〈表示significatio〉と 〈代表suppositio〉 の理論、および、オッカム認識論の基礎をなす 〈直覚知notitia intuitiva〉の理論に向かう。

  1. 第一部 人間に現前している事柄
  2. 我々に対して現前していないものの語り・認識

第1部 現 前 す る こ と へ

第1章 記 号

〈項辞〉 (=命題を構成する項)の 〈表示significatio〉 という働きについて考える。項辞は 〈記号signum〉 であり、従って、ここでは 〈言葉〉 と 〈もの〉 との関わりが問題になる。ただし、言葉とものとを見比べることが出来ないような 〈記号〉 関係を提示することが、眼目である。

1 〈表示機能を帯びた音声〉 から 〈概念把握された項辞〉 へ
オッカムは 〈書かれた項辞〉 、 〈発声された項辞(音声)〉 、 〈概念把握された項辞terminus conceptus(概念ないし志向)〉 という分類を提示する。前二者は規約による記号であるのに対し、後一者は自然的な記号であり、かつ規約による記号はこれに従属するという。こうしてオッカムは概念項辞を論理学の端初に置いたのに対し、先行する12〜13世紀諸論理学書の端初は 〈表示機能を帯びた音声vox significativa〉であった。この点の分析の結果、本論は次のように主張する:オッカムは、論理学が扱う 〈ことば〉 の最小単位を伝統的な 〈表示機能を帯びた音声〉 から 〈概念把握された項辞〉 へと置き換えた。それは〈心の言葉verba mentalia〉 こそ「言葉」の名に相応しいとのアウグスティヌスの把握を受け継いで、音声の場とは違う概念の場として論理学の場を切り拓こうとしたからであり、また、表示機能を帯びた音声である〈名詞と動詞〉 (これらは文法学用語でもある)を捨てて、「命題を構成する要素」である論理学用語 〈項辞〉 を一貫して言葉の最小単位とすることによって、文法学とは区別された論理学の体系を構築しようとしたからである。

2 文法構造から論理構造へ
オッカムは概念を音声から切り離して言語の中核に据えたとはいえ、概念項辞を単独で論じるのではなく、 〈音声的な〉 ものから出発して割り出すという仕方で論じる。ここから本論は、(イ) それは音声のかたち(文法構造)から表示のかたち(論理構造)を抽出することにほかならず、オッカムが実は音声言語の全体としてのかたちに完全な表示機能を認めていること、(ロ) 聞いて理解する私の現場で概念を理解する一方で、音声構造のかたちから概念次元の構造を割り出すことによって言語の公共性を確保しようとしていること、(ハ) 概念は表示する働きのみから成る記号にして理解する働きそのものであること、を論じる。

3 〈記号1〉から〈記号2〉へ / 規約による記号から自然的記号へ
音声と概念は規約によるか自然的かという記号の性格によって異なっている。しかし、次のような、より根本的な記号の性格に関しては同類である。このような分類とその理解にオッカム独自のものがある。

すなわち、オッカムの言及から次のような〈記号1〉と〈記号2〉を抽き出す---記号1 においては記号の把握と記号とは別の何か(=表示されるもの)の認識とが区別され得るが、記号2 についてはこの区別が成り立たない。つまり、次のようなことが言える:

  1. 記号1の場合、ある記号はその記号としての働きを括弧に入れてもなおそれ自体で何かとして把握され得る。
  2. 記号2 の場合はその記号としての働きを括弧に入れたとすると、「それ単独で、それ自体としては何か」を語ることは出来ない。
このような事情こそ、音声が規約によって記号であるのに対し、概念は表示する機能を「自然的に帯びている」ということにほかならない。

記号2である概念については、概念とその表示対象を等分に見比べる立場は成立しない。

ものと言葉を等分に見比べてその対応関係を記述するような立場は、記号2 において崩壊した。ここではものと言葉の区別は存続するが、両者は重ね合さったまま我々の前に現われている。ここに 〈記号〉理解の転回、さらには記号関係を記述する立場の転回が認められる。

ここで、オッカムの或る主張と、この主張の源泉であるアリストテレスのそれとの食い違いについて論じる。すなわち、オッカムは、

を、アリストテレス『命題論』第1章(ボエティウス訳)の、の真意であると言う。この点について本論はオッカムのこの主張が無理であることを認めつつも、N1 〜N3 が著者および訳者を離れてオッカムの前に置かれたときに、〈similitudo〉を記号2 関係と看做すことによって、結局それがS1 〜S3 として読まれ得る(著者アリストテレスの真意は別として)と論じる。

4 〈概念=虚像〉説から〈概念=理解の働き〉説へ
記号1--記号2 理解は、概念・普遍に関するオッカムの考えの発展の説明に有効である。
これについてオッカムが何らか肯定的に語る理論は次の3種ある:

(Q1とQ2とをまとめて、「理論Q」と呼ぶ)。

諸理論が見出されるテキストを検討すると、

  1. 理論F→理論Q1→理論Q2という発展がオッカムに見られることについては、先行する諸研究が既に指摘している。
  2. 理論Fを論じるところでは〈記号〉という考えは登場しないのに対し、理論Qの提示に際しては〈記号〉である概念ないし普遍という考えが明示的に出てくる。
  3. Q1においては概念が理解の働きと区別される以上、概念それ自体を観察・吟味する余地を残すことになるのに対し、Q2においては概念と理解の働きとが一致するという点で、両者の差異は記号1と記号2の差異に対応している。
    したがって、
  4. オッカムにおける概念・普遍理解の変遷は 〈記号〉 としての概念という考えの発見およびその〈記号2〉への深化を反映していると考えられる。


第2章 代 表

本章のテーマである 〈代表suppositio〉 は文脈に置かれた(つまり命題を構成する)項辞がその文脈に応じて何かを指し示す働きである。これについても、ものと項辞の表裏一体となったあり方が基礎的であることを見出しつつ、分析を行なう。さらに、オッカムの唯名論を、ものと言葉という枠組を崩しつつ提出されるものとして論じる。

 1 項辞とその代表するものとの重なり まず、代表とは何かに関するオッカムの基本的言明および、代表の基本的な分類−個体代表・単純代表・質料代表−を紹介、検討した上で、「人が走る」における「人」が個体代表するものを「これ」と指す際に、 〈これ〉 と 〈もの〉 とが記号U的に一つであることを指摘する。ここから次のように論じる:(イ) 「人が走る」の主語の代表について、我々は現実にすべての人間を指しながら「この人か、あの人か、・・・ 」のことだと理解しているわけではない。そうではなく我々が「誰か或る人間個体のことだな」と理解するそのことが、まさに「人」が個体を代表する働きである(我々の前には「人」とその代表する個体とが別々にあるのではない)。(ロ) ただし、「この人か、あの人か、 ・・・・・」という説明は命題の真偽を確認する手続きを示してはいるのであって、手続きを理解することが命題を理解することである。また、(ハ) 単純代表および質料的代表における項辞とその代表するものについて、オッカムは一項辞一個体という前提に立っており、その場合、項辞とものとの一体性が確認出来る。

 2 個体代表の分類と特徴 ここでは、オッカムの代表理論について、近年諸研究者間に交わされた論点に関して、それらの議論と対決的に本論の解釈を提出する。オッカムは或る命題中の問題となる項辞が特定の一個体を代表するのではない場合に、その命題と、その命題中の当該項辞を特定の一個体を代表する表現に置き換えて得られる命題との関係を枚挙する。例えば、

  「或る人間は白い」 homo est albus.                (1)

という特称命題は、主語が何を代表しているかに注目して、

  「この人間は白い」か「あの人間は白い」か・・・・である      (2)

と、単称命題の選言へと展開できる(これを 〈DD展開〉 と呼ぶ)。また、

  「この人間は白い」ならば「或る人間は白い」             

といえる(これを 〈A〉 と呼ぶ)。

 同様にして、特定一個体に言及する命題の連言への展開(DC展開) や特定一個体を代表する語の選言への展開(DDP展開)等が可能な場合もある。オッカムはこれらが可能であるかどうかによって、その項辞の個体代表の仕方を分類する。さて、かかるオッカムの主張に対して、その誤りを指摘し、部分的に修正し、あるいは主張を弱く解すことに よって困難を解消しようとする議論がなされて来た。本論は以上の点を検討した上で、 オッカムの主張を全面的に認める議論を展開し、特にDC、DDPの一般形式についての従来の解釈を訂正する提案をする。

 3 主=述構造説と無様相現在命題 諸研究者は結局オッカムにおける命題は 〈主語の代表する個体=述語の代表する個体〉 を表わすと解している(主=述構造説)。これに対して本論は、代表関係のオッカム的分析は「これは白い」といった述定( 〈基礎述定〉 と呼ぶ)に至るが、この基礎述定〈d est p〉 (ただし 〈d〉は指示代名詞)において、   〈est p〉 は一まとまりとなって述語であって、ここではもはや「d とp とは同じものを代表する」という説明は成り立たない、と主=述構造説に対決的に主張する。

 4  〈もの−言葉〉 の重なりと唯名論 ここで 〈項辞〉 の諸特性をめぐる考察の限りでのオッカム的唯名論のあり方について、(イ) 〈第一志向〉 (=それ自身記号ではないようなものの記号である概念)− 〈第二志向〉 (=第一志向を表示する記号である概念)の区別がオッカムの普遍理解の前提になり、普遍は 〈第二志向〉 とされることを指摘し、(ロ) その唯名論を差し当たり次のようにまとめる:ものの側に存在するのは個物のみであっ て、普遍という性格は言葉の側に、すなわち個物の自然的記号である概念に帰せられる。ただし、概念が記号であるのは記号Uとしてである。そうであれば、 〈ものと言葉〉 という普遍問題に向かう枠組を壊しつつオッカムに適用して初めて、その唯名論を理解できることになる。さらに、(ハ) その唯名論はむしろ反規約主義であって、オッカムは「概念こそは 〈生まれ付きex natura sua〉普遍である」とし、それを一切規約主義−「どの音を採用するか」に加えて「どれとどれを一まとまりのものとするか」も規約によるとする立場−に対立するものとしてしていること、ただし、これを直ちに固定かつ既定の分節の主張と受け取るべきではないこと、(ニ) アベラールの「『バラはない』の有意味性を如何に保証できるか」という問題提起は、理解の働きこそ記号Uだとしたオッカムに対して有効な問いであること、を論じる(オッカム的解答は第5、6章参照)。


第3章 直 覚 知

本章は、個体を認識するという場面でのオッカムの主張に向かい、 〈直覚知〉 の分析を通して、ここにおいても 〈ものと言葉〉 が差異化しつつも重なり合わさって現われてくることを提示する。

 1 ものの認識から語の知へ オッカムによれば 〈明証知〉 とは、 〈諸項辞の知〉 のみから十分に結果するようなものである。この点について、本論は、(イ) オッカムは或る命題とその命題によって指される事態とを対比するというような途をとらずに、その命題を構成する項辞についての知 (= notitia terminorum ) のあり方に話を持ち込んでいること、 (ロ) 〈項辞の知〉 は、結果としての判断から論理的に要請された原因という性格のものであり、従って、或る判断が明証的であるかどうかの判別に役立つとは限らないこと、を指摘する。

 次に、オッカムは偶然真理の明証知をもたらす諸項辞の知として 〈直覚知〉 を導入し、これを単独ではその明証知を結果しない抽象知と区別する。これについて本論は、実際に現にあるものを見て認識しているといった説明は、項辞の直覚知があること−言葉を或る仕方で把握していること−へと還元されことになると論じる。

 2 直覚知の直接性 上述の理解に伴い、オッカムは認識における媒介者としての感覚およびスペキエスの必要性を否定する。この点については多面から論じた上で、結局、明証知および直覚知の定義から論理的に言って何がそれが生起する条件=原因として必要かを問うというオッカムの考え方こそが、直覚知の直接性の主張の根拠であるとする。この考え方は、全能の神がその絶対的能力(potentia Dei absoluta) を発揮した場合には何が可能であるかと問い進む際に、また、「必然性なしに多くのものを立てるべきではない」とオッカムの剃刀を振るう際に、共通するものである。

 3 語を現に使う仕方としての直覚知と抽象知 ここではオッカムの 〈直覚知〉 〈抽象知〉 を我々自身の言葉によって言い開くことを試み、語を把握する際の間違い方、および目撃状況と伝聞状況における語の把握の差異を吟味することにより、 〈翻訳N〉 、 〈I使用〉 (直覚知に対応)と 〈A使用〉 (抽象知に対応)を提案する:

 翻訳N:ある人に「語『T』の(直覚的にせよ抽象的にせよ)知がある」とは「語   『T』をその用法に従って現に使用している」ことである。

 I使用とは、その使用が公共的になされる時には、その使用において語の用法自体が再 確認され、用法を成り立たせている事例が一つ付加される事になるようなものである。 A使用とは、その使用が公共的になされる時に、語の用法の理解は前提されている。す なわち用法自体は一般に問題とならず、たとえ問題となってもその使用の場で直ちにそ れを吟味・確認できないような使用である。

 ここから更に、次の諸点を論じる。(イ) 或る人が語を用法に従って適切に使用しているかどうかは、公共的に吟味・判別し得る。従って、その判断の明証性の吟味もまた、公共的に可能である。(ロ) 語の使い方が決まる場は、通常はものが十分近みに現前する場合であるが、「星」のように、近付き得ない遠方にものがあるという状況において用法が定められてきたものもある。この場合には、この地上から星を認識する場において、そのI用法も成立する。(ハ) 我々は常識的には「語が指している対象を知っている」と言うが、 オッカム的にはこのことは「語を知っている」と記述される。ものの認識即言語の使用であるということは、ものと言語の記号U関係と照応している。

 4 事実を記述する言明と意義を決める言明 ここではI使用に基づく明証知が成立する命題(=直接記述)と、それ以外の命題との関係を考察し、言明は@事実を記述しておらず、言明状況から独立にその真偽が決まるもの(自明な必然命題)、A事実を記述し、かつ文の意義を決めるもの(直接記述)、B事実を記述するが文の意義は決めないもの (遠隔記述、過去・未来記述)、の三種に分類され、かつ、第B種の言明の意義は(従って真偽も)対応する第A種の言明に依拠して決まることを主張する。


第2部 現 前 し な い こ と へ

第4章  時 間

 本章以下では場面を 〈いま・ここ〉 から、より広い場面へと移し、そこにおいてオッカム的なものがどのように展開されるかを見る。先ず、本章は 〈いま〉 から 〈かつて〉 および 〈いつか〉 を記述する場面の分析にあてる。考察を通して我々は、オッカム的解答の根底にあるものとして、時と永遠を巡る基本的洞察に行き着く。

 1 予定・予知をめぐる問題の所在 「予定論」の問題は、神の予定と人間の自由意志が両立し得ないのではないかという疑問にいかに答え得るかであった。オッカムはその問題に取り組み、従来のアプローチを踏まえた上でなおそれに満足せず、予定を現在ある何かと看做す限りは問題は解決しないと主張し、予定は形は現在形であるが内実は未来命題に等しいとし、未来偶然命題の真偽と神の全能・全知をどう調和的に提示するかに答えようとする。

 2 時制を伴う偶然命題の真偽 オッカムは、未来(偶然)命題の特徴を、過去命題と比べつつ提示するが、本論はこれを「事態の進行」と「命題間の論理的関係」とに分析することによって、整合的に理解する解釈を提出する。すなわち、オッカムの未来偶然命題に関する主張、

 「現在『Pであろう』が真である」 → 「現在『Pであろう』が偽である」は現在可能である & 「全ての時点において『Pであろう』は偽である」が現在可能である

は、命題間の関係についての、

 「未来の時点で『Pである』が真である」   「現在『Pであろう』が真である」

と、事態の進行に関する、

 「未来の時点で『Pである』が真である」 → 「未来の時点で『Pである』が真である」は現在偶然である

に由来しており、そのことは形式的にも確認出来る。

 3 現前する未来 以上の分析を踏まえて、本論は神の 〈予定〉 〈予知〉 ということに関する、オッカムにおいて起こった理解の変更がここに反映していると主張する。すなわちオッカムに先行する理解は、現在あるデータから未来の出来事を予測し、未来の出来事を予め決定するという我々の予測と計画を雛形にして、それを極限にまで正確かつ強力にし 〈神の予知・予定〉 を把握するものである。これに対し、オッカムの背景にある立場 は、我々が現在のことを明証的に知り、また現在の自らの行為に際して決断していることを雛形にし、それを未来のことについてまで拡張して 〈神の予知・予定〉 の仕方を把握するものである。この立場によれば或る事柄の予定・予知は、その事柄を実現させること・実現した事柄の認識と同時的なこととして把握される。すなわち神はすべての行為を現在形でなす、神に対しては未来も現前する、という考えにほかならない。

 4 永遠の論理と時間軸上の論理 ここから本論は更にオッカムの主張の根底にある理解を探る考察に進み、次の諸点を結論する。すなわち(イ) かかる理解の更に背景にアウグウティヌス的永遠理解− 〈永遠〉 においては 〈全てが同時に、かつ常にsimul et sem- piterna omnia〉に 〈現前しているpraesens〉 −がある。ただし、(ロ) アウグスティヌス的には、時間軸を持つ人間の言語から出発しつつも、その時間軸を消す方向で語られた永遠理解を、オッカムは永遠というあり方の永遠の言葉による記述を時間軸を持つ人間の言葉へと翻訳する手続きとして使い、(ハ) 「永遠の神に対しては、すべてが現前する」を、「時間の流れ全体を現在形で総覧する神によって、それぞれの時点における現在命題の真偽把握が成立する」という、時間軸を持つ論理空間上の話に翻訳した上で、人間の言葉による時制を帯びた記述の根拠としたのである。


第5章 様 相

本章では、 〈神の全能〉 という考えに基づく様相概念が如何なる役割を果たしているかに注目して、考察を進める。この考察は 〈単に存在可能な個体〉 を導入することに行き着く。そして、この導入はオッカム唯名論の基本的性格に関わっている。

 1 様相概念と被造世界 アリストテレスの様相概念は生成消滅の恒常性・永遠性を前提にするものであったが、オッカムはこれに対決的に、創造者である神の絶対的能力という視点から様相を理解したため、前者においては必然的と判定された多くの命題が、後者においては偶然命題とされることとなった点をまず指摘する。次に、「矛盾を含まない限りのあらゆる事態が可能である」という、神の絶対的能力に付けられた「矛盾を含まない限り」という限定について、(イ) これは言葉の網の目の張り方に由来する限定(人間である以上は動物でもあるといった)にほかならないこと、(ロ) したがって、この限定は事態の側に、従って、神の能力に何ら制限を付けるものではないこと、を論じる。

 2 我々の様相−オッカムの様相 次に、かかるオッカムの様相概念は我々の日常言語において如何なる位置を占め得るかを調べることによって、その理解をより明確にすることを試みる。その結果、ものを表示する語の使用規則を、論理記号の使用規則と並んで、論理を形成するものと認めたうえでは、オッカム的様相は論理的様相、しかも時間軸をもつ論理空間において展開された論理的様相であると理解出来ることを提示する。

 3 もの様相とこと様相 以上で考察したのは結局 〈こと様相〉 −事態を記述する命題全体に様相が掛かっているもの−である。そこで、ここでは 〈もの様相〉 −ものを指した上で、それについて様相が掛かった述定がされる場合−の構造についてのオッカムの処理を分析し、(イ) その構造にはIタイプ(あるsであるものはX様相でpである)とMタイプ(あるX様相でsであるものは、X様相でpである)とがあること、(ロ) T個体の存在が可能であることを含意する 〈もの様相〉 命題は、「或る個体がTである」ことに可能様相が掛かる 〈こと様相〉 命題に還元されることを提示する。ここから更に個体の掴み方に関して、どの時点における様相かを考慮に入れるならば、記述の束方式と個体指示方式とは両立すると論じる。

 4 可能個体を如何にして代表できるか ここではもの様相命題のIタイプとMタイプについて、項辞の代表の仕方を吟味し、(イ) 現時点で指示の働きをしない指示代名詞が 入ってくると、「この人、またはあの人」といった選言ないし連言による分析ができなくなること、従って、(ロ) 可能性の判定のほうが個体名に先行すること、(ハ) ここからも、主=述構造説は挫折し、基礎述定という理解の有効性が確認出来ること、を論じる。

 5 個体代表可能性による表示の拡張 ここでは「或る人間は白くあり得る」は、Mタイプであれば、人間が存在しない場合にも成り立つが、その場合に主語「人間」は一体何を表示ないし代表しているのかという問いに向かい、オッカムのテキストの分析から、 (イ) 表示する個体の範囲の様相的拡張−項辞Tの表示対象はTが表われる現実ないし可能なあらゆる文脈におけるTの個体代表の範囲の総和として決まる−を抽き出し、(ロ) 「ペガサス」が表示するのは存在可能な個体−存在していない現実においては「このペガサス、あのペガサス」と指示する事は出来ないが、存在するとすれば「これ」「あれ」と指示し得るような仕方で存在し得る個体−であることを論じ、ここから(ハ) オッカム唯名論においては言語はものに先立つと主張する。


第6章 非 存 在

本章では、現前していないということを、ものの非存在の話、また否定命題の話として扱う。考察を通して、 〈あり得るもの〉 を越えた 〈あり得ないもの〉 の領域の排除が結果する。

 1 非実在個体の直覚知の主張 考察は、オッカムが神の全能の能力をもってすれば、我々が存在するものについてのみならず、「存在しないものについての直覚知」(以下NInEと略記)を持つことも可能であるとし、その場合「Tはない」との明証知が結果するとしたことに向かう。まず、これが非存在についての明証知が成り立つために、その原因として論理的に割り出されたことにほかならないこと、従って、この主張は神学的主張というよりはむしろく哲学的主張であることを指摘する。

 2 非存在言明の有意味性 次に、「Tはない」の有意味性を如何に保証するかを考察することを通し、(イ) 「T」は個体代表可能である以上「Tはない」においても「T」には表示の働きがあり、従って、この命題は有意味であり得ること、ただし、(ロ) 存在不可能な「T」には表示の働きがないとされる以上、表示に関して、存在可能なものと不可能なものとの間に線が引かれており、従って、「Tはない」の構造も「Tはあり得る」か 「Tはあり得ない」かによって差異化すること、(ハ) 表示に関するこの線引きとNInEの成立・不成立の線引きとが対応すること、を論じる。

 3 明証知の説明根拠としての直覚知 ここではNInEに、直覚知が明証知をもたらすに十分な原因として定義されるということから接近し、(イ) 何かがないことを、別の存在するものを媒介にすれば明証的に知り得るとしても、何もない時にはそのような途がなく、従って、その場合にも明証知が成立すると言うならば、NInEが要請されざるをえないこ と、(ロ) 直覚知・表示の範囲を 〈ある〉 から 〈あり得る〉 へと拡張したときに、 〈言葉〉 が 〈世界〉 にピン留めされているという図式が登ったらはずすべき梯子として外され、その結果、世界という項はピン付きの言葉へと還元されることを論じる。

 4 基礎述定と否定命題の構造 ここでは否定命題の構造を探り、(イ) 基礎述定の原初性を非存在と否定の構造に関して論じ、(ロ) Tの存在否定を「或るTについて何らかの基礎述定がされる」の否定として表記する仕方を導入し、(ハ) これによって解釈した否定命題の構造は、過去・未来命題および様相命題の構造とパラレルに理解出来ること、また、(ニ) このような基礎述定および否定の理解が、ものに先立つ言葉(言葉による世界創造)というオッカム的世界把握に相応しいこと、を主張する。

 5  〈あり得る〉 領域の永遠性と 〈あり得ない〉 領域の非存在 最後に、オッカム的  〈存在〉 理解の核心を探り、次の諸点を結論する。(イ) NInE の導入において 〈項辞の直覚知が成立する〉 と 〈ものがある〉 とが切り離され、後者は前者の一つの場合へと限定され、 〈存在〉 は後者から切り離されて、前者に結び付けられる、という操作がなされる。(ロ) それは存在( 〈現にある〉 〈あった〉 〈あるだろう〉 )に 〈あり得る・ない〉 を加えることによって、 〈あり得ない・ない〉 を 〈存在〉 から最終的に、かつ徹底的に排除することである。そうであれば、(ハ) 時間を越えた不動の領域としてある 〈あり得る〉 の外に 〈あり得ない〉 ものの領域があるのではなく、(ニ) 永遠の 〈あり得る〉 ものの世界(=ロゴスの世界)によって限られ、支えられつつ、その内で 〈ある〉 と 〈ない〉 とが差異化 し、 〈ある〉 ものが生成消滅する、時が流れる世界が成立していることになる。