(91年中世哲学会大会シンポジウム提題)

オッカムとルター

---- あるいは論理学者と十字架のことば学者


本提題は中世後期の「ことば」理解の一断面を提示しようとするものである。すなわち、(1) オッカム主義ないし中世後期の唯名論に代表される論理学的言語理解はいかなるものであったか、(2)マルティン・ルターはそれを <十字架の神学>の立場からどのように批判したか、(3)そこから振り返ってみると、中世の言語理解について何がいえるか、を考えてみる。--レジュメにはこう書いたが、結局(1)について論じ出すと「いつも同じような話をするな」というお叱りを受けるおそれもあり、これは簡単にまとめることにして、今回は(2)の話を中心にしたい。そのうえで締めくくりとして、(3)に言及するということになろう。

 1 中世後期の論理学的言語理解

  中世後期唯名論のことば理解については、さしあたりオッカムがこれを代表しているとみなしておく。 レジュメには 「オッカムは言語の音声面と概念面を区別しつつも、うんぬん」と書いておい点については、数年前のシンポで長々と話したということもあり、今日のところは、最小限のことを申し上げるにとどめたい。私が言いたいのは次のことである。すなわち、第一にオッカムは音声言語と概念言語とを区別して、後者のほうが核心をなすと言っているけれども、ある人が言うように、それは両者を切り離して別々のものとするとか、音声言語を軽視したとかいうことではなく、むしろ音声言語がある意味で言語として自立していることを帰結する。というのも、音声言語上のかたちないしパターンの違いの内には、概念言語に対応する要素を持たないものもあるが、概念言語上のかたちの違いは必ず音声言語に反映しているとオッカムはいうのだが、これは音声言語を調べることによって概念言語に付いての情報が得られることを保証したことになる。 第二に概念言語について語るときには、「聞いてわかる」という場でものが考えられており、このかぎりでは私がわかるかどうか、をさしあたってあなたと私で共同で確認できない(但し書きを要す)。これにたいし、音声言語について語るときには、「この音声はこれの記号だ」と私とあなたの間で確認しあえるような場でものが語られている。オッカムはこの両面から話しをしている。これが「概念言語の私秘的傾向を、音声言語の公共性によって補完した」といったことである。以下で表示とか代表という、語の意味の問題に触れるが、それもこの両面を考慮しながら読み解くべきであろう。 最後に、すでにオッカムにおいて音声言語と概念言語、いうならば外的言語と内的言語の差異化がなされているとはいえ、両者は以上述べたように表裏一体なのであって、食い違ったり、相反したりするものではない。このてんは2で述べるルターとの対比のために、一言指摘しておく。

 次に、レジュメに書かなかった、次の論点を取り上げる: 中世の言葉理解は(文法学と)論理学において基礎づけられる。そこでは結局言葉は「世界を記述する」という働きをするものとして理解されていたーーむしろこれが今日の私の話の1の核となるポイントである。

 論理学は議論を構成する命題を、またその命題を構成する項辞を扱う。命題は真偽値を持つという仕方で世界に関わる。またことばを項辞として把握するterministたちは、項辞の諸性質を分析するが、たとえばそれはオッカムによれば表示と代表という働きないし機能をもつのであった。suppositio は個々の命題を構成する際の主語・述語項の性質である。これは少なくとも真なる命題においては、世界の側にある何かを指すという仕方で世界にかかわっている。 つまり主語が指すものを、述語も指しているという場合に命題は真となる。

「小山先生は色白だ」と言うとき、「小山」が指すものを「いろじろのもの」も指しているならば、この命題は真なのである。また「小山は固有名詞だ」というときにも、「小山」は世界のなかにある「こやま」という音声言語を指していて、これについて「固有名詞」だといっているのである。  こうして命題が真あるいは偽という仕方で世界に関わるのはそれを構成する諸項辞のうち主たるものが、世界内の存在者を指す(代表する)という仕方で世界に関わることと表裏一体なのである。そしてまた項辞の表示significatioという働きは、個々の命題から独立に項辞が帯びている機能であるが、これは結局このような代表作用の内、項辞が項辞自身を指すのではなく、項辞がそれの記号であるものを指すような場合に指し得る対象の総和が「表示」の対象だということと理解できる。

 ただし、いまいった「世界内存在者を指す、ないし表示する」という点については、次のように但し書きをつけなければならない。但し書きの要点は代表ないし表示の対象が世界内に存在するとは限らない、それにもかかわらず、オッカムは「ものを表示する、代表する」というわけで、そこにかれの唯名論特徴があるということである。

 さて「熊が出た」と誰かが言うのを聞いて、分かる。それが真である時、「熊」は実在の熊個体を代表している。しかし我々はどの熊個体だと分かるわけではない。ただある熊のことを指しているのだと了解している。それが個体代表をしているとうことなのだ。 次に様相命題について考えると、「吸血鬼は存在しえる」は命題であって真か偽かである。つまりこの命題は世界について語っている。命題が世界と関わる以上、その構成要素である項辞「吸血鬼」も世界と関わっていることになる。それが「代表」という働きである。しかしここで非現実の可能世界を考えて、そこには吸血鬼個体が存在すると考えられているのではない。(ここでは「「吸血鬼」という音声はこれこれを指す」といった説明ができないーしようとすると、単に可能な存在者を個体領域に認めるという存在論にコミットすることになる。そしてそれはたとえばFreddosoがそういうコミット無しの解釈を提出し、アダムズがそれを半分認めたとはいえ、いまでも研究者の間で「きみはどうする?」といった原のさぐり合いの材料となっている。 私は単に可能な存在者を認める存在論にコミットすべきでないと言う立場でいま話している。)では世界内にはいかなるかたちでも吸血鬼個体の存在領域をおかないとするとどうなるかというと:「吸血鬼は存在し得る」と言うのを聞いて、「吸血鬼が存在する」という命題が真となることがあり得、そのときには世界内のある個体を指して、「これは吸血鬼だ」と言えることになると理解する。これがこの可能命題において「吸血鬼」が個体を指している(注意せよ「し得る」ではなく「している」なのだ)ことにほかならない。つまり代表を「聞いてわかる」という場で理解するということである。

 次に表示についてふれておこう。このように個々の命題の構成要素としての独義語の個体代表を理解したうえで、同じ語を個々の命題を構成するものとしてではなく、単独で考えた場合に語の「表示」という働きに付いて考えていることになる。 項辞が何かを表示する働きについては、ある文脈では terminusの表示するものは そのterminusが個体代表し得るものの総和であるとされる。しかし私たちは「この項辞はこれとこれを代表し得るから、これとこれを表示している」などといちいち枚挙することはできない。むしろ「聞いてわかる」場で「ひと」といわれればわかること、つまり私たちの内に理解の働きをもたらすことがその記号としての機能であり(オッカムはそういっている)、ここで「表示」作用も考えられるべきであろう。では「ひと」と言われて、あるいは言って、何がわかっているのだろう。すくなくとも私たちはそれは何等か個体的存在者であるとわかっている。それが個体を表示するということなのだ。

 また「吸血鬼は黒いことがあり得る」という可能命題は真であり、この命題において「吸血鬼」は個体代表している。つまりこの命題は世界にかかわり、これを記述している。そこで「吸血鬼」は単独でもなにかを表示している。私たちは聞いてわかっているのである。もしそれが存在するとしたら、それは人や猫や犬と同じような個体的存在者として存在するであろうことを。それが単なる可能存在者である吸血鬼が個体を表示するということである。だから、このことと世界の側のどこにも対応する吸血鬼個体は見いだされないということは、両立する。 要するに代表とか表示とかいっても、項辞と世界の側にある諸個体との間になんらかの対応関係をつけるという仕方でこれを理解するのでは不十分なのである。  別の例:オッカムは存在不可能なものの事例である「キマエラ」について、これにも表示の働きがある、ただし「キマエラ」は、決して個体代表しない、という*3。つまり「キマエラはキマエラである」という命題すらも、「キマエラ」が「キマエラ」という記号 \footnote{「キマエラ」が「キマエラ」という音声記号を指している場合が「質料代表」、「キマエラ」という概念記号を指している場合が「単純代表」である。}以外のある個体を指していると解するならば偽である(OP I,88.124-)。 では「キマエラ」は何を表示しているのだろうか。存在するものないし存在可能なものの名前が表示するのは、それが個体代表し得るものであるとの、さきに述べた「表示」の説明から言えば、「キマエラ」には個体代表し得るものがない以上、何も表示しないということになるが、オッカムはそうは結論しない。

 ここで、私たちはオッカムが「キマエラには表示作用がある」というときに、個体代表し得るものを表示するという仕方の表示とは別の表示を考えていることを理解すべきである。それは、「もっとも広義の『表示』」すなわち第4の意味での「表示」と言われるものであって、オッカムはアンセルムスを援用しつつこれを提示する(OPI,96.27-35., OT IX,543.40-47)。 [訳] 286-288: 否定的ないし除去的項辞が表示するのは、肯定的項辞が表示するものにほかならない----ただし、肯定的項辞によって積極的に構成しながらないし肯定的に表示されるのと同じものが、否定的ないし除去的項辞によっては構成しながらではなく、破壊ないし否定しながら表示されるのである (これはアンセルムス流の言い方であるが)。ちょうどこれと同様に、仮想された項辞、例えば「キマエラ」「山羊鹿」「真空」「無限」等が表示するのは、他の項辞によっても表示されるものにほかならない。この点はそれら(仮想された諸項辞)の名称の何たるかを明らかにする定義から明らかである。ただし、それらの項辞による場合と、他の項辞による場合とでは、諸事物は同様の仕方で表示されるのではない。他の項辞の場合には、それらの項辞がその諸事物を代表できるようになっているのに対し、それら仮想された項辞の場合にはそれらを代表できはしないのである(OP I,286.9-20)。

 否定的ないし除去的名称(termini negativi et privativi)の例は、「無」や「非存在者」であり、これらは「存在者」という肯定的名称が表示するものと同じもの(=存在者)を、ただし、肯定的にではなく否定的に、表示する。これに倣ってオッカムは「キマエラ」の場合を説明する。キマエラの名目的定義を「山羊と牛から成る動物」とすると、 「キマエラ」は「山羊」および「牛」が表示するものと同じもの ---山羊と牛---を表示する。しかしその仕方は「山羊」や「牛」が山羊個体や牛個体を表示する仕方とは異なる。この際の表示の仕方の違いは「代表できない」という点に求められる。「非存在者」は存在者を表示するとはいえ、どの様な文脈におかれても、存在者を指すように使われることはできない。同様に「キマエラ」は山羊や牛を表示するとはいえ、いかなる文脈においても、山羊や牛を指すようには使われ得ない。これは結局次のようなことだろう。「非存在者」という語を、私たちは「存在者」を思い浮かべ、次に「存在者ではない」とそれを打ち消すという仕方、いわば <打ち消しつつ思い浮かべる> という仕方で理解している。そこで「非存在者」が存在者を指すことになるような文脈はありえないことになる。同様に「キマエラ」という語で「山羊」と「牛」を思い浮かべ、次に「山羊であり(つまり牛ではなく)、かつ牛である(つまり山羊ではない)」と山羊と牛のそれぞれをいわば <立てては打ち消しつつ> 思い浮かべる。そこで「キマエラ」が山羊ないしは牛を指すような文脈はあり得ないことになる。要するに「存在者からなる一つの世界があるように、存在不可能者からなる一つの世界があるかのよう(OP I)」に想って、「キマエラ」は存在するもの、存在可能なものとは別の存在不可能なものを表示すると想ってはならないのである。 footnote{「キマエラ」については直覚知が成立しない(OT IX,607.63)、また、「私たちはキマエラを一挙に理解し得る。・・・ただし決して(キマエラに)固有の単純な認識によって(理解するの)ではない (OT IX,387.156-158)」と言われるのも、このような表示のあり方と連関したことであろう。}

 以上をまとめるならば、言葉の記号としての働きについてはもっとも一般的には「なにかを認識にもたらすaliquid facit in cognitionem venire」ことといえよう。つまりこれが表示するということである。言い替えれば「聞いて分かる」という場面を離れて、「これはこれを表示する」と、ただ言葉と世界内現実存在者との間に成り立つ関係として語ることはできない。

 このような但し書きを伴いつつも、中世論理学のなかで、言葉は世界を記述するものとして了解される。そして、もう一言付け加えたい。つまり世界を言葉で記述した上では、そのことばの場において、世界についての他の記述の是非が吟味され得、また発見され得るとオッカムは考えている。私はこれを論理学的方法と呼びたい。オッカムは「記述に矛盾を含まない限り、あらゆることを神はできる」という観点からさまざまなことを分析する。そこでしていることは基本的な記述を決めたうえではこの矛盾を含むかどうかという基準で、関連するさまざまな記述を吟味するという作業にほかならない。 つまり、矛盾律が記述されたことば間に成り立つ原理として、基本的となるのである。このころ以降中世論理学のなかで insolubilaと呼ばれる命題(「今わたしは嘘をついている」など)をいかに解くかがトピックになったのも、ことばの場に怪しげな要素が混入するのを防ぎたいという志向からではなかっただろうか。 

  2 ルターの十字架のことば学

ルターのことば理解はその十字架の神学の文脈のなかで語られる。それは結局以上のような、言葉を世界を記述するものとして単純に理解することへの批判であったーーこれが私の第2のポイントである。

 [intro] 2-1 Disputatio contra scholasticam theologiam.1517 において、中世論理学とその手法に対する拒否の姿勢が各所に見られる。彼は modal logicにおける sensus divisus とsensus compositusという区別を予定論に適用しても無駄だといい、「Theologicos non logicus est monstrosus haereticus, Estmonstrosa et haeretica oratio 」と一般に反撃し、代表理論や三段論法を三位一体に適用することに反対し、普遍を携えたポリュフィリオスなどいなかった方が良かったとする。しかし、私はかれがこういって、ただやみくもに論理学を排斥しているのではないと思う。

 [1] ルターの十字架の神学がもっともきれいに語られる DisputatioHeidelbergae habita.1518 は、theologica paradoxa と称されるが、paradoxaという形式で世界を語らざるを得ないところに、ルターの世界認識が論理学と衝突する基本的な点があるのである。

3. Opera hominum ut semper sint speciosa bonaque videantur, probabile tamen est ea esse peccata mortalia.
4. Opera Dei, ut semper sint deformia malaque videantur, vere tamensunt merita immortalia.

ここには「Aと見えるが、実はBである」という世界把握のあり方がある。「Aと見」ているのは 人間の知性がである。 「実はBである」と把握できるのは、見えている事柄の下ないし背後に隠れた真実を見る立場である。 <逆説 paradoxa>と称するその記述形式は、 「Aでありかつ非Aであることはあり得ない」 という記述の原則に対して、 「Aであると見えるが、実は非Aである」 が現実なのだとする。

前者のような原則をもって、見えるところに定位するのはだといわれる。これに対し、後者の逆説的記述をもって、見えるところとともにその背後を認識するのは として特徴づけられる。 神が人の行為の見かけだけではなく、そのこころを見抜くというときの、その神の眼差しは であった。また人が自己の罪を認識する際の認識も、隠れた神 の認識も、まさにこの と呼ばれる。という用語はラテン語聖書から採用されたものだが、例えば隠れた神の認識に際しては、ロマ1:20を援用しつつ、次のような仕方で を、< intellectus>と対比させている。

19. Non ille digne Theologus dicitur, qui invisibilia Dei per ea, quaefacta sunt, intellecta conspicit,
20. Sed qui visibilia et posteriora Dei per passiones et crucemconspecta intelligit.
(神学者と呼ばれるのに値するのは次のような人ではない。すなわち、神の見えないところ --造られたものを通して理解された-- を見る者ではない。 そうではなく、神の見えるところと背後 --受苦と十字架を通して見られた--を理解する者こそそう呼ばれるに値する。)

19が描くのは「栄光の神学」と呼ばれるみちである。それは人間の認識を越えた(見えない)神を理解した上で、直視しようとする。その際の道は「造られたものを通して」と特徴づけられる。それはまず被造物を認識し、それとの対比において神を理解しようとすることを指すと共に、自らの行為によって神にまみえる位置に到ろうとする道を指している。 これに対して20において語られる、「十字架の神学者」が理解するのは「神の見えるところとその背後とを conspicere する」という神認識のあり方である。それはひとつには、十字架のキリストをみ、そこに現れている醜さ、弱さを見つつ、それと共にそこに隠れた神、人を救うわざを今やなしつつある神を見るみちである。またそれはひとつには、自己の罪の認識において、自己が滅びに値する者であることを思い知らされるという受苦において、今や私を裁こうと私に迫ってくる義の神という現れの背後に、隠れた神、すなわち実は私を裁いて滅びにいたらしめるのではなく、私を慈しみ、私を救済しようとしている神を見るというみちである。

 以上の限りでは、言葉を世界を記述するものとして使うこと自体を拒否しているわけではない。そうではなく、世界は単純には記述できるものではないと、つまり「Aである」が世界についての真なる記述であるとするならば、世界は決して「Aでない」とは記述されないというものではないという、論理学の矛盾律の単純な記述への適用に反対しているのである。もちろん、アリストテレス「詭弁論駁論」(5-2)に由来して、中世論理学は「secundum quid et simpliciter(ある観点のもとにかくかくであることと、端的にかくかくであること)」という区別を知っていた。したがって、「Aと見えるが、実は非Aである」という命題自体が真である可能性を語ることもできた。問題はしたがって、目下のテーマとなっている事柄に関して、世界は単純ではなく、複層的な構造をしていることである。あるいは、人間の現行の語彙によっては、世界を逆説的な仕方でしか語れないということである。

 以上、現れと隠れないし背後という複層構造で世界を記述しようとするルターの基本姿勢について述べた。 ついでに一言触れると、後年ルターが固執したために評判の悪い、祭壇上のパンについての理論「パンのうちに、パンとともにキリストのからだがある」もこの見えるところと隠れてあるところという世界の複層構造理解を基礎としている。

  [2] 善悪の逆転と混在

 2-1 「善いと思われているが、悪である」

21. Theologus gloriae dicit malum bonum et bonum malum, Theologuscrucis dicit id quod res est.
(栄光の神学者は悪を善と、善を悪と言う。十字架の神学者はあるがままの事態を語る)
 このように指摘するときに、ルターは事態をいかに、どのような用語を使って記述するか、を問題にしている。 21はルターの少なくとも初期の奴隷意志論と密接な関係にある。 栄光の神学者が「善を悪と、また悪を善と」するとはどういうことか。これは3とも関係している。ルターは「善く見えるが、実は罪である」というときに、決して通常我々が理解する偽善を指しているのではない。そうではなく、むしろ我々が本当に立派だと敬服するような、例えば愛の行為を指している。修道士が心から熱心に人々に奉仕する、神に奉仕するというときの彼の行為について「立派でよいと見えるが、じつは死に到る罪だ」というのである。なぜか?それはそのときその修道士は、そのような行為を通して神に受け入れられるものとなること、いわば天国にはいること、神を享受することを目指しているからである。神を見るに到ることを求め、神を何物にも勝って愛する行為をしようとして、何が悪いーーそれこそよいことではないか、と栄光の神学者はいうであろう。ルターは答える:それは結局は自分の幸福、自分のものを追求することではないか、だから悪だ、と。自分の幸福を追求するという方向でしか、生まれながらの意志は働かない、ということを、奴隷意志とルターは言う。

 このような奴隷意志論に基づいて、さきに述べたparadoxaをみなおすならば、こういえる: 人間が自分の「よい・わるい」の基準に従って判断した「善い・悪い」と、その基準がそもそも誤っていることにより、判断が逆転してしまうことによる逆説。これは現れと隠れという複層構造の由来である。栄光の神学の目の付け所と、十字架の神学の目の付け所との複層性といってもよい。

 2-2 「善く、かつ善くない」 奴隷意志論はもう一つの仕方で、ハイデルベルグ討論の paradoxa につながっている。 それは十字架の神学の道を歩んで生きるキリスト者においてなお、voluntas と noluntas (意志と反意志とでも訳しておこう)が共在(混在)していることから、「Aであり、かつAでない」という事態が成立する、という仕方である。 真のキリスト者といえども、地上にある限り悪へ向かう意志(自己のものを追求する意志)からまったくフリーになることはない。このことをかれは 「non est iustus in terra, qui facit bene et non peccet.善を行って罪を犯さないような義しい人は地上にはいない」(伝道の書7:20) の解釈として提出する。このことばは、ハイデルベルグ討論を支える主要な典拠であり、討論に先立つ準備草稿の主題でもあった。ルターはこれを,「義しい人といえども、善のみを行うわけではなく、時には罪を犯す」という意味ではなく、 「義しい人は善を行っているまさにその際に、罪を犯してもいる iustus etiam inter bene operandum peccet (I,367,2)」 という意味だと主張する。「義しい人」はまさに十字架の神学の道によって、fides という仕方で隠れた神を認識した人である。自己の善を追求するという奴隷意志が徹底的に砕かれた後に、それとは逆方向に働く意志としてfidesが芽生えている。それにもかかわらず、なお自己のものを追求する意志は残っていて、なにか善いことをしたと思うまさにその際に働いている。そういうわけで、義しい人の善い行為に際しても、 voluntas と noluntas、自己のものではなくキリストのものを追求する意志と、自己のものを追求する意志とが混在している(367,24)。そこで、次のような paradoxa が結果する。

 7. iustorum opera essent mortalia, nisi pio Dei timore ab ipsismetiustus ut mortalia timerentur.
(義しい人の行為も、神への敬虔な畏れによって、その義しい人自らによって死に到るものとして畏れられるのでなければ、死に到る罪である。)

 さて、ここにあるのは、「Aと見えるが、実はAではない」ではなく、「Aであり、同時にAではない」という逆説である。ルターはこの点を意識して次のように論じる。
 論理学者はいう:「同一の行為が神によって受け入れられかつ受け入れ拒否されるものであるということは有り得ない。なぜならもしそうなると、同一の行為が善くかつ善くないということになってしまうから。」
 十字架の神学者はこう答える:「では君の説に従えば、人は裁きを畏れ、かつ同時に、あわれみを期待するということができないことになってしまうが、それでいいのかね? だからわたしはこういう:すべての善い行為は受け入れられ、つまり受け入れ拒否されないとともに、反対に、受け入れられず、受け入れ拒否されるものである」。

 行為が神に受け入れられるのは、「受け入れるに値しないものを憐れみによって無視することによってだ」。神は「端的に受け入れ」たり、受け入れなかったりするわけではない。そもそも「神が端的に受け入れる行為」という言葉が、人間が創り出したものであって、現実にはあり得ないものである。そういう用語をつかって、「受け入れられるか受け入れられないかのいずれかだ」とするのは適当でない。 ここには神の判断の仕方は「端的によいかわるいか」を判断するものではなく、積極的な働きかけつまりある部分を無視したり、善いと見なしたりするものであるという考えがある。これは言葉をめぐるルターの論点の3として次に改めて指摘しよう。

[3] 語り手の働きかけとしてのことば

 3-1 記述ではなく、見なし、創り出すことば

  28 Amor Dei non invenit sed creat suum diligibile, Amor hominis fit asuo diligibili.
(神の愛はその愛の対象を見いだすのではなく、創り出す(Diaputatio Heidelbergae habita, 28)
との主張のうちにも、ことばの働きについてのルターの理解がある。
Ideo enim peccatores sunt pulchri, quia diliguntur, non ideo diliguntur, quia sunt pulchri (罪人は美しいが故に愛されるのではなく、愛されるが故に美しい)。 
「あなたは美しい」という語り掛けは、事実の記述ではなく、美しいとみなす行為であり、さらには相手を美しく造り上げる行為なのである。 このような神の働きかけ、創り出す愛と対比させて、人の愛は intellectus を伴うもの、対象があってその対象を受け取るという仕方でなりたつものとされる。
objectum intellectus naturaliter esse non possit, id quod nihil est,id est, pauper vel egenum, sed entis, veri, boni. Ideo iudicat secundumfaciem et accipit personam hominum et iudicat secundum ea quae patent etc.
 さきに述べた、人の善悪の混在する行為をみて、悪い面を無視し、「よい」と見なす神の判断も、このような文脈でよむべきであろう。

  3-2 語り手から聞き手への働きかけとしてのことば

「AはBである」と語ることが、事実の記述ではなく、事実を創り出す行為であるという場面は、書かれた言葉を読む際に、読む私はその言葉から世界についての情報を得るのではなく、語り手の私への語り掛け、働きかけを受けているのだという理解に通じる。実際ルターはそのようなものとして書かれた神の言葉を読むべきことを主張する。 すなわち、「キリスト者の自由」において、ルターは、聖書あるいはキリストの福音のみが内なる人にとって必要だという。その聖書は「戒めと約束」praecepta et promissa (8)とからなる。ことばを戒めと約束として受け取るということが、世界を記述し、情報を伝えるという言葉の機能とは異なる機能を言葉の核心にあることとして見ることである。 このことは、次の点からも裏付けられる。同書においてルターは、ピリピ書2章の「キリストは神の形であったが、神と等しくあることに固執せず、かえっておのれを虚しくして僕の形をとり、人の姿となった」を引きつつ、ある人々はこのこと場を理解せず、神性と人性の話にしてしまった、と非難する(26)。パウロはこのように語って、聞き手に対して勧めをしているのであって、キリストの神性と人性に関する理論を展開しているのではない、ということだろう。これは神学者たちがことばをもっぱら事態を記述するものとして受け取り、神学的議論の材料として使っていることへの批判である。 聖書のことばは何が正しい教理であるかを記述するものというよりは、むしろ読み手に対する神の語り掛け(働きかけ)である。いわば現れとしての書かれた言葉のうちに、語り手が隠れているのである。

 振り返ってみると、conspectus がそもそもそのような神の働き掛けによって、結果するものであった。神は聖書を読む人に対して罪を指摘し、罪の認識に到らせるという仕方で働きかける。それは、自己が無であることを知ることによって無とされた人のうちに働きかけて、その人を救済するためであった。人はその際、言葉を読むことにおいて語る神、はじめは怒りの神、裁きの神を認める。そして次にそのうちに隠れたあわれみ深い神を信じるのである。ルターが神の言葉を「戒めと約束」として提示するときに、彼が考えていたのはまさにこのことであった。前者は人を自己に絶望することへとみちびき、後者はかく己の無力を認識したものに働きかけ、信fidesへともたらすものなのである。

 このようにしてルターの言葉理解は彼の十字架の神学に伴い、これと表裏一体のものである。本提題の題に、十字架の言葉学( Philologia crucis)としたのは、このような言葉理解を指すためである。ただし、Philologia crucis という用語自体はルターのものではなく、ハーマンのものであるが、ここではハーマンの主張に関係ない、用い方をしていることを一言お断りしておく。

 3 おわりに

 ルターのことば観はスコラ学者のそれを根本的に否定しているような口調で語られはするが、実は、記述という現場で形成された中世論理学の言語観を土台として、その上で言われていることだと評価すべきであろう。 それは丁度、彼の奴隷意志論や十字架の神学が、中世(後期)の思想の枠組みを土台にした上で、それを根本的に批判するものとして提出されていることと平行的である。

「概念言語と音声言語(およびそれによる私秘性の解消と公共性の導入)の区別は、記述の場面でこそ語られ得る。それが語りかける行為としての言語という理解においてどう展開ないし変容するかについてもなお考えてみたい」とレジュメに書いてしまったが、考えてもいまのところ興味深い話にはならなかったので、取り消したい。